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有名人の死から「死」を考えるコミュの原民喜/有島武郎/火野葦平

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原民喜(1905年11月15日 生)

小説家、詩人


 11歳で父を亡くしたショックから極端な無口となり、兄・守夫と家庭内同人誌「ポギー」を発刊して詩作を始めた。

 またその頃死の床にあった姉ツルから聖書の話を聞き、生まれ変わるような衝撃を受けた。

 ロシア文学を愛読し、宇野浩二に傾倒。室生犀星、ヴェルレーヌの詩を耽読。同人雑誌『少年詩人』に参加する。

 1924年、慶應義塾大学文学部予科に進学。1925年、辻潤、スティルネルに惹かれ、ダダイズムを経て、一時左翼運動へ関心を高めるが、次第に離れていった。

 相当の身代金を出し、本牧の女性を自由にしてやり、一ヶ月間同棲をするも、裏切られカルモチン自殺を図るが失敗する。

 1933年、評論家佐々木基一の姉、永井貞恵と結婚。1935年、小品集『焔』を自費出版。
 1936年から1941年にかけて『三田文学』などに短編小説を多数発表するが、1939年の妻の発病により次第に作品発表数は減少した。

 1944年妻が糖尿病と肺結核の為死去。妻との思い出は後に「忘れがたみ」などの作品を生んだ。

 1945年1月、郷里の広島に疎開、8月6日に広島市に原爆が投下され、生家で被爆、幸い便所にいたため一命はとりとめるが家は倒壊し、二晩野宿する。

 原爆投下の惨状をメモした手帳を基に描いた「夏の花」は、1948年、第一回水上滝太郎賞を受賞する。

 徹底して人間の苦しみに連帯し、死者の嘆きに貫かれて祈り描いた「鎮魂歌」など一連の作品を残した。

 1948年6月、『近代文学』の同人となる。1950年、朝鮮戦争の勃発を見て詩「家なき子のクリスマス」を発表した。

 1951年3月13日午後11時31分、慢性的な体調不良や厭世観を苦に、国鉄中央線の吉祥寺駅‐西荻窪駅間で鉄道自殺する。

 遺稿に「心願の国」「永遠のみどり」。親しかった丸岡明は、原の自殺前後のことを小説「贋きりすと」に描いた。


1951年3月13日逝去(享年45)
 

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有島武郎(1878年3月4日生)

小説家


 学習院中等科卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。農業学校卒業後に軍隊生活を送り、その後1903年に渡米する。

 ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。

 さらにヨーロッパにも渡り、1907年帰国。このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。

 帰国後はふたたび予備見習士官や大学の英語講師として過ごしていたが、弟の生馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い同人誌『白樺』に参加。『かんかん虫』『お末の死』などを発表し、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍した。

 1916年に妻と父を亡くすと、本格的に作家生活に入り、『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『迷路』を書き、1919年には『或る女』を発表した。

 しかし創作力に衰えが見え始め、『星座』を途中で筆を絶つ。1922年、『宣言一つ』を発表し、北海道狩太村の有島農場を開放。

 1923年、婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱く(当時有島は既に妻に先立たれていた)。

 しかし秋子の夫・春房に知られるところとなり、脅迫を受けて苦しむことになる。

 そして6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で首吊り心中を遂げた。

 7月7日に発見されるが、梅雨の時期に一ヶ月以上遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。

 遺体が発見されたとき、二人の遺体は蛆虫の巣と化しており、天井から床まで滝のように蛆虫が湧き、別荘の屋外まで溢れかえっていたとされる。

 複数残されていた遺書の一つには、『愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた』と残されていた。


1923年6月9日逝去(享年45)
 
 
火野葦平(1907年1月25日生)

昭和期の小説家


 小倉中学校時代から文学に関心をよせ活発に活動。第一高等学院入学後、童話集を自費出版する。

 1926年、早稲田大学英文科に入学し、寺崎浩や田畑修一郎らと同人誌「街」を創刊、小説や詩を発表していたが、1928年、兵役で福岡第24連隊に入営。

 除隊後は大学に戻らず、家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いで、若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組むが、検挙されて転向し、地元の同人詩誌「とらんしつと」に参加して再び文学活動を開始する。

 1930年8月に日野徳七の養女で芸者の徳弥こと日野ヨシノと結婚、9月には長男闘志が生まれる。

 1934年、筆名を火野葦助から火野葦平にあらためる。
 1937年、日中戦争に応召し、出征前に書いた『糞尿譚』の第6回芥川賞受賞を陣中で知る。戦地で行なわれた授賞式には日本から小林秀雄がおもむいた。

 その後報道部へ転属となり、軍部との連携を深めた。戦闘渦中の兵隊の生々しい人間性を描き、戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が評判を得て人気作家となり、帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。

 太平洋戦争中も各戦線におもむき、従軍作家として活躍した。攻略直後の南京に入り、それに至る進撃路において捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。

 戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を厳しく追及され、1948年から1950年まで公職追放を受けるが、九州男児の苛烈な生き方を描いた自伝的長編『花と竜』や自らの戦争責任に言及した『革命前後』など数多くの作品によって文学的力量を発揮し、再び流行作家となった。

 1960年1月24日、自宅の書斎で死去。享年53。

 最初は心臓発作と言われたが、死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、「HEALTH MEMO」というノートが発見された。

 そこには、「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。

 その結果、睡眠薬自殺と判明した。このことは13回忌の際に遺族によりマスコミを通じて公表され、社会に衝撃を与えた。

 この自殺は、60年安保に向けて騒然としていた世情と関係があるともいわれている。


1960年1月24日逝去(享年53)
 

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