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連帯オール沖縄・東北北海道コミュの 【あの人に迫るー中日新聞】本田徹 福島第一原発30キロ圏内・高野病院の常勤医

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2019年7月12日
◆医療の平等実現 社会を見てこそ
写真・松崎浩一

 東京電力福島第一原発から三十キロ圏内にある福島県広野町の高野病院。発展途上国などで医療支援に取り組んできた内科医の本田徹さん(72)が、二月から三人目の常勤医として働き始めた。東京にも通いながら、路上生活者など生活困窮者とも向き合い続ける根底には、「誰一人取り残さない医療」への思いがあった。

 −青年海外協力隊の医師隊員として一九七七年から約二年、アフリカのチュニジアに派遣されました。

 大学卒業後、北海道・小樽の病院で研修をしているときに医師派遣の要請があることを知りました。チュニジアは未知の世界で興味がわき、試験を受けたんです。現地でははしかが大流行し、子どもたちの命が次々と奪われました。ワクチン接種などで住民が自ら予防しなければ、同じ病で命を落とす人がまた出てしまう。住民の生活環境や栄養状態を知り、アプローチする必要がありました。

 −七八年九月には、当時のソビエト連邦カザフ共和国での国際会議でアルマ・アタ宣言が出ます。

 「全ての人に健康を」という目的から宣言に盛り込まれたのは、プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)の理念です。上から目線にならず、医療が住民の問題意識に誠実に向き合うこと。経済力などに関係なく、誰もが必要な医療にアクセスできる環境を整える責任が社会にあるという考え方です。医療の民主主義とも言えるのかもしれない。

 チュニジアで母子保健に関わる最中に宣言と出合い、自分の仕事の意味を理解できました。人々は貧しい生活を送り、栄養失調の子もいました。狭い空間で大勢が暮らし、食べ物も良くなかった。医療者が努力し、住民の生活環境や栄養問題にアプローチする必要を感じ、誰もが平等に医療を受ける権利を持つこと、生活に根差した予防の大切さを学びました。

 七九年に帰国後は、宣言の前から長野県でPHCの理念を実践していた佐久総合病院の若月俊一医師の下で働きました。農村の人が健康を犠牲にしてまで働き、農薬中毒や脳卒中も多かった中、自分や家族の健康に注意してほしいと、意識を高める住民教育に力を入れていました。当時は先進的だった健診や、予防活動を学びました。

 −国際医療を担う非政府組織(NGO)「シェア=国際保健協力市民の会」を立ち上げ、さらにホームレスなど生活に困窮した人への診療も始めます。

 海外で検査器具などがなくても医療を施せるよう、東京で東洋医学を学ぶ傍ら、途上国での医療支援を続けようと、八三年に仲間とシェアを立ち上げました。同じころ、日雇い労働者が多く暮らす東京・山谷地区で、NPO法人「山友会」がホームレスらを受け入れる無料クリニックを開設します。ボランティア医師の派遣を依頼され、関わり始めました。

 生活保護も不十分な時代で、山谷の路上では凍死者や餓死者もいました。途上国に行かずとも、支援が必要な人が身近にいたのです。当時は山谷に医療関係者が少なく、必要な人ほど医療を受けられない矛盾がありました。

 −二〇〇八年からは山谷から近い浅草病院に勤めます。

 訪問医療では多くて月百人ほどを回り、尊敬できる人々とも出会いました。例えばゲイを隠さず俳句を続けていた労働者は、人を差別しない人でした。外国人など誰にも優しかった。

 家族を捨てて生きている人も多く、みなさびしがりやで、人とのつながりを求めていました。私自身も多くを教えられながら信頼関係を積み上げ、患者が抱える社会的な背景や思いを聞きました。どんなに医療技術が進んでも機械には担えない仕事だと思います。

 山谷の無料クリニックには今も週一日通っています。一緒にやってきた仲間がいるこの街の行く末を、見守りたいんです。

 −高野病院は原発三十キロ圏内の病院で、唯一事故後も患者を受け入れ続け、現在も地域医療を担っています。なぜ、働き始めたのですか。

 一二年から週一日、福島県いわき市の病院に勤務しました。宿舎で毎日酒やカップラーメンを飲み食いし、糖尿病になる原発作業員や、「もう故郷には帰れない」と嘆き、うつ病を患う避難者がいました。

 七十歳を過ぎてどこで医師を終えるかを考えたとき、地域で暮らしたいと願う福島の人たちの助けになるなら、これまでの経験を生かせる農村医療をしたいと思いました。高野病院に昨年一月、訪問看護ステーションができたことも大きいです。福島県楢葉(ならは)町にある宝鏡寺の早川篤雄住職に引かれ、そばで働きたいと思ったことも理由です。早川住職は科学的な知見から原発問題を勉強し、長年その在り方を問うていました。

 −病院周辺の地域の実情を、どのように受け止めていますか。

 やっとの思いで避難生活から戻った住民たちが、安心して暮らせるようにはなっていません。広野町を含む双葉郡で現在病床があるのは、高野病院を含め二カ所だけ。間違いなく医師不足です。外来や病棟診療、当直のほか、訪問診療をしていますが、看護師や介護士、ヘルパー、通所施設も足りない。特に人手のない週末は、患者の過ごし方が分からず心配です。

 多世代で同居していた家族がバラバラになってしまったことも問題です。仕事がなく子育て世代の戻りは鈍い。お年寄りだけの所帯も多く、コミュニティーが世代で分断されています。

 事故前には山菜採りや畑仕事、漁業など、自然とともに生活していた人たちが、震災で突然そうした暮らしを失うと、することがなく認知症などになっています。人間らしい働き方や家族、暮らし、環境を突然奪われ、深い傷を負っています。同じ境遇なら誰もが、そうなるとも思います。

 −これからの地域医療に必要なこととは。

 医師の世界ではより精密で、専門的で、高度な医療技術を身に付けることが一番のモチベーションでしょう。命を救う使命感が背景にあると思いますが、病気を予防し、住民の生活を助ける発想が不足していると思います。

 医師以外の目で社会を見る訓練や経験がないと、そうした問題意識は生まれないでしょう。日本では成績がよく、経済的に恵まれなければ、医師になるのが難しい。社会人経験を積んでから医学部に入るような人が増えてもいいのではないでしょうか。医師には患者の悩みをくみ取る姿勢が必要です。

 PHCを学ぶため、一九九一年にタイに留学しました。若い医師が一〜二年間、貧しい農村に派遣され、人々の生活に立ち会っていました。日本でもある期間、地方の病院への研修医の派遣を義務化した方がいいと思います。現状では国も医師会も大学も、地方の医療の質や量を支える施策を提案できていません。福島は特に深刻です。

 医療の最先端は、先端医療だけではありません。医療が提供されていない人の所へ出掛け、医療の光を当てる姿勢、こちらから出掛けていく試みもそうです。国連は、「全ての人に健康と福祉を」とする持続可能な開発目標(SDGs)を掲げています。PHCのリバイバルを期待したいです。

 <ほんだ・とおる> 1947年、愛知県生まれ。内科医。北海道大医学部卒業後、77年に青年海外協力隊の医師隊員として、チュニジアに派遣される。帰国後は長野県厚生連佐久総合病院や東京都の日産厚生会玉川病院、浅草病院などを経て、今年2月から福島県広野町の高野病院で常勤医として働く。83年には非政府組織(NGO)「シェア=国際保健協力市民の会」を仲間と設立。エチオピアや東ティモール、カンボジアなどのほか、東日本大震災被災地でも医療支援を行った。現在は代表理事。84年から東京都の山谷地区で、生活困窮者への無料診療も続ける。著書に「世界の医療の現場から−プライマリ・ヘルス・ケアとSDGsの社会を−」(連合出版)などがある。

◆あなたに伝えたい
 医療の最先端は、先端医療だけではありません。医療が提供されていない人の所へ出掛け、医療の光を当てる姿勢、こちらから出掛けていく試みもそうです。

◆インタビューを終えて
 東京・山谷の無料クリニックで、本田さんが路上生活経験のある高齢男性を診察する様子を見せてもらった。血圧を測り、傷口に薬を塗りながら、「食欲はありますか?」「生まれはどちら?」と話しかけていく。和やかな雰囲気の中、しばらく黙っていた男性は、半生を少しずつ語り始めた。

 「ライフヒストリーを知ることは、治療のために重要ですから」と本田さん。健康を損ないつつも、医療を受けられない人には何か理由がある。安心しきった男性の様子に、一人一人の思いに耳を澄ませ、孤立や貧困、原発災害といった背景を見つめていく医療は、誰にも優しいと感じた。

 (中村真暁)

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