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連帯オール沖縄・東北北海道コミュの【ふくしま便り】 牛のためにも負けない 原発訴訟原告「今も夢に出る」

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東京新聞転載
【ふくしま便り】

牛のためにも負けない 原発訴訟原告「今も夢に出る」

2016年1月19日


「今でも牛の夢を見る」と話す佐藤貞利さん(右)=福島県浪江町で
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 東京電力福島第一原発事故の被災者らで作る「『生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!』福島原発訴訟原告団」が、国と東電に慰謝料などを求めた福島地裁の裁判で、金沢秀樹裁判長が三月十七日、被害実態を把握するため帰還困難区域を含む双葉地方で検証を行う。原告側弁護団によると、原発事故の被害救済関連訴訟で検証が行われるのは初めて。下見のために一時帰宅した原告らに同行し、被災から間もなく五年を迎える“十キロ圏内”を歩いた。
 原発から約十キロの福島県浪江町立野で畜産業を営んできた佐藤貞利さん(68)は、荒れ果てた牛舎、自宅を前にため息をつきながら話した。
 「今でも牛が夢に出てくるんだ。食わせてくれよ、水を飲ませてくれよ、とすり寄ってくる。何もできないのが情けなくて、泣きながら目を覚ますよ」
 代々続く養蚕農家だったが、約四十年前に牛飼いを始めた。子牛を預かって一年近く育てて種牛にするのが仕事で、約二百三十頭を飼っていた。
 二〇一一年三月十二日。地震におびえた近隣の親戚が集まってきて、身を寄せ合って震えていた。電気も通じず、食糧もない。午後三時半ごろ、「ドーン」という音が聞こえて南の空にきのこのような雲が上がった。
 「毎年、夏になると原発で花火を上げた。それと同じ方向だったから、原発がぶん抜けたとすぐにわかったさ。それからは家族や親戚をせき立てて逃げるのが精いっぱいだ」
 大渋滞を起こした国道をたどって半日もかけて川俣町の小学校にたどり着いた。その日から各地を転々とする長い避難生活が始まった。猪苗代町のリゾートホテルに身を寄せていた四月下旬、被災地を取材しているというカメラマンから「牛が生きているぞ」と連絡があった。
 体が震えた。会いに行きたかった。だが二十キロ圏内の警戒区域(当時)には入れない。
 一時帰宅がかなったのは九月だった。防護服に身を固めて入った牛舎は地獄のようだった。骨と皮にやせ細った牛たちが折り重なって死んでいた。エサを求めたのか、ビニールのひもを歯にからませた牛もいた。水を求めて狭い水路に入り込み、動けないまま息絶えた牛もいた。
 生き残っていた牛が十八頭いたが、保健所員が殺処分にした。死骸は穴を掘って埋めた。
ブロック塀が倒れたままの福田祐司さん宅=福島県双葉町で
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 両親と夫婦、五人の子どもでにぎやかに暮らした大きな家にはイノシシが入り込んでいた。周辺の水田は雑草が生い茂り、キジのすみかとなっている。
 今は福島市内の四畳半二間の仮設住宅で妻と暮らす。子どもたちとは離れ離れになった。たまに三男が様子を見に来ると、狭い部屋に折り重なって眠る。
 「あれほど原発は安全だといったでねえか。うそこいて、人をだまして、事故が起きたら、今度は賠償金から税金を取るっていってんだ。ばかにするなや。裁判の原告になって、国から圧力を受けるかもしれないが、かまわねえ。牛たちは腹を減らして死んでいった。その分まで悔しさをはらす。おれは負けねえ」。佐藤さんは唇をかんだ。
 もう一人の原告、福田祐司さん(67)は、第一原発が立地する双葉町のJR常磐線双葉駅に近い市街地に自宅があった。建築請負業で全国を飛び回り、二〇一〇年六月に引退。庭木の手入れが唯一の楽しみになった。
 「庭仕事をしていると、近所の幼稚園から子どもの声が聞こえてくる。それがいいんだなあ。うちの子どもたちもここで育った。のどかな町だった」
 避難した今も庭に除草剤をまきに来るが、町は静まり返っている。地震で崩れた塀はそのままだ。雨どいの下を測ると、毎時四〇マイクロシーベルトまで測れる線量計が振り切れた。原発まで五キロのこの付近は特に汚染が深刻だ。
 「生きているうちに帰還は無理でしょう。国と東電はどれほどの人の大切な人生を踏みにじったか。きちんと責任を感じなきゃいけませんよ」
 裁判官は、この声をどう聞くか。 (福島特別支局長・坂本充孝)

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