ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

連帯オール沖縄・東北北海道コミュの田 中利幸書き下ろし論文: 核兵器と原子力発電の犯罪性 1

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
====以下、全文転載=====

Tuesday, July 31, 2012


田 中利幸書き下ろし論文: 核兵器と原子力発電の犯罪性
広島市立大学平和研究所(HPI)教授、田中利幸氏 による書き下ろし論文です。広島、長崎原爆記念日が近づくこの時期、このサイトでも田中氏等が繰り返し論じてきた核兵器と原発の一体性について歴 史的背景 や現在の政治的状況とともに再度確認し、片方の廃絶は双方の廃絶ならずして成り立たないということを強調したいと思います。下方に関連記事リスト もつけて あります。リンク歓迎。転載ご希望の場合はinfo@peacephilosophy へご連絡ください。@PeacePhilosophy 人権

また、田中氏等が企画する

8.6ヒロシマ平和へのつどい2012
「核・ 原子力と "生きもの"は共存できない ― ヒロシマから反被曝の思想を! ―」

は8月5日、広島市袋町交流プラザで午後5−8時開催です。くわしくはこちらのリンクをどうぞ。


「核兵器と原子力発電の犯罪性」




田中利幸
広島平和研究所


一 原子力平和利用と核兵器製造能力維持の歴史的経過


二 核抑止力 ならびに拡大核抑止力の犯罪性


三 原子力発 電の犯罪性


四  結論



一 原子力平和利用と核兵器製造能力維 持の歴史的経過

南 太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、米国が行った水爆実験により焼津のマグロ漁船第5福竜丸が被災したその翌日、すなわち1954 年3月2日、原子炉建 造のため、2億3千5百万円の科学技術振興追加予算が、突然、自由党、分派自由党ならびに改進党の保守3党の共同提案として衆議院に 出された。この提案 は、ほとんどなんの議論も行われず可決された。このとき、衆議院本会議で小山倉之助(改進党)が行った提案主旨には、次のような説明 が含まれている。


「この新兵器[= 核兵器]の使用にあたっては、りっぱな訓練を積まなくてはならぬと 信ずるのでありますが、政府の態度はこの点においてもはなはだ明白を欠いておるのは、まことに遺憾とするところであります。……新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またはこ れを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります。」(強調ならびに[]追加:田中)


1953年末にアメリカが打ち出した「Atoms for Peace」、 すなわち「原子力平和利用」の方針に沿って、核兵器開発は一切行わず、電力エネルギー開発だけのための原子力利用を政策として掲 げた日本。その日本最初の 原子力関連予算の提案趣旨説明で、核兵器製造能力開発と保有の重要性が明確に唱われ、しかもほとんど何の審議も行われずに成立し ていることは、実に驚くべ きことである。


この原 子力予算成立を受けて、同年4月23日には、日本学術会議総会において激烈な論議の結果、平和目的の原子力研究においては、「情 報の公開、民主的且つ自主 的な運営」を行うという3原則の実行を政府に要求することを、科学者たちは決定した。この3原則の採用を政府も最終的には受け入 れ、我が国の原子力開発の 基本方針として、1955年12月16日に成立した原子力基本法の中に取り入れられた。ところが、その後の日本の実際の原子力開 発は、周知のごとく、「情 報秘匿、非民主的で米国従属」という全く逆の3原則の下で推進されてきた。


1955 年12月26日、日米原子力協定が調印された。翌56年3月1日には日本原子力産業会が発足し、同年6月には特殊法人・日本原子 力研究所が茨城県東海村に 設置され、8月から試験炉の建設が始められた。日本原子力産業会には電力,ガス、石油、鉄鋼,金属、化学、建設、貿易など様々な 分野の企業600社余りが 参加した。しかし、中心となった企業は、戦後の連合軍占領期に解体されたはずの旧三井財閥系37社、旧三菱財閥系32社、旧住友 系財閥14社の3グループ であった。57年11月1日には、9電力会社ならびに電源開発社の共同出資により、日本原子力発電株式会社が設立され、かくして 原子力発電商業化へ向けて の基礎が作られたのである。その後、上記の旧財閥系企業と電力会社が密接に協力しあい、日本の原発建設をこれまで長年にわたり推 進してきた。


1957 年5月14日、岸信介首相(外務大臣兼任)は、外務省記者クラブにおいて、潜水艦航行や兵器発射のための動力源としての原子力利 用、さらには自衛目的のた めの核兵器保有は、憲法に抵触しないという意見を明らかにした。その後、このいわゆる「核兵器合憲論」は歴代首相によって継承さ れ、ほぼ日本政府の統一見 解となってしまっている。岸信介は、さらに、1958年1月16日に東海村原子力研究所を訪問した際の印象として、「平和利用に せよその技術が進歩するに つれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる」のであり、「日本は核兵器は持たないが、潜在的可能性を高めることによっ て、軍縮や核実験問題などに ついて、国際の場における発言力を強めることが出来る」と日記に記している。その後の日本の原子力エネルギー開発は、まさに岸が 望んだような道程を歩み、 「核兵器製造能力」を開発、維持しながら、現在に至っているのである。


日 本が自国の核兵器生産の可能性について本格的な研究を始めたのは、岸信介の実弟、佐藤栄作が首相の座についていた1960年代後 半から70年代初期にかけ ての時期であった。この時期、佐藤首相の指示で、日本の核兵器生産ならびに核兵器運搬手段(=ロケット技術)に関する技術的評価 や政治的評価に関する複数 の研究・検討が、内閣、外務省、防衛庁、海上自衛隊幹部などによって、半ば公式に、半ば私的形式で精力的に行われた。かくして、 佐藤政権は、核保有問題 を、岸政権以来の法律論・抽象的議論から、実際の製造可能プロセスの研究というレベルへと押し進めた。ちなみに、アメリカ政府はCIAの調査報告で、日本がこうした研究を進めている情報をはっきりと把握してい た。


こ の核兵器製造潜在能力に関する本格的な研究は、アメリカとの沖縄返還交渉が進められる中で、同時並行的に行われた。沖縄返還にあ たっては、当時の国民の圧 倒的な反核意識の故に「核抜き本土並み」を基本方針とせざるをえず、したがって、沖縄返還問題との関連で、佐藤政権は、非核三原 則(核兵器は作らない、持 たない、持ち込まない)、日米安保条約の下での米国核抑止力依存、核軍縮政策の推進、核エネルギー平和利用、という「核政策4本 柱」を公的政策として表明 した。


「非 核三原則」は単に日本国民感情に配慮して導入されただけではなく、核兵器製造潜在能力は十分持っていながらも、当分は核武装を行 わないことをアメリカ政府 に対して保証してみせ、それと引き換えに沖縄の「核抜き返還」を承諾させるための「外交カード」としての役割も担わされていたの である。さらに、佐藤政権 の核武装化断念には、それとの引き換えに、日本に対する米国の核の傘=拡大核抑止力を保証させるという意図も含まれていた。とこ ろが、アメリカ側は、日本 の核武装化は絶対に許さず、沖縄返還の条件として、あくまでも「有事核持込み」を要求したため、「非核三原則」という公約上、佐 藤政権側はこのアメリカの 要求を「裏取引」というかたちで飲み込んだのであった。そのため「非核三原則」は最初から実体のない虚偽の公約となり、その結 果、「核軍縮政策の推進」と いうもう一つの「核政策の柱」が、これまた形骸化してしまったのも当然であった。


日 本の核兵器製造能力開発研究は、単なる「机上の計画」ではなかった。日本政府は、1967年3月、最終的に核兵器用の高純度プル トニウム製造を目的とする プロジェクトとして動力炉・核燃料開発事業団(動燃)を科学技術庁傘下に設置した。このプロジェクトは、原発における使用済み核 燃料からプルトニウムを取 り出し再び燃料として利用することで、無限のエネルギー源が得られるという「夢のプロジェクト」として国民には説明された。一方 で、このように再処理工場 と高速増殖炉の技術開発を目指しながら、同時に、通信衛星や監視衛星を打ち上げ、さらには核兵器運搬手段ともなるロケットの技術 開発を国家戦略の下に統合 するため、1969年6月には、宇宙開発事業団を同じく科学技術庁傘下に設置した。


1973 年10月、第4次中東戦争が勃発し、その影響で石油価格が急騰するという、いわゆる「オイルショック」による打撃を日本経済は 被った。これが日本のエネル ギー政策に大きな転換をもたらし、原子力エネルギーの拡大を急激に押し進めた。1974年6月には、田中角栄内閣の下で、日本全 国で急速な原発増設を図る ため、いわゆる電源三法(電源開発促進税法、電源開 発促進対策特別会計法、発電 用施設周辺施設整備法)を成立させた。こ の新しい法令によって、発電量 に応じて発電事業者に課税し、その課税徴収分を、発電所 を受け入れた自治体への地方交 付金として配付するという制度が導入された。原発立地促進のため、原子力発電の交付金 は火力・水力発 電より2倍以上の交付金 が支給されるというシステムとされた。その結果、これ以降、原発建設は急速に拡大し、1975年には、日本の原子力発電量は一挙に 10基530万kWにまで拡大され、米英露に次ぐ原発大国となった。 1985年には原発の数は33基、90年には40基にまで増加した。


こ の原発建設増加は、同時に、電源三法交付金の配付と使途をめぐる政治腐敗と汚職を全国規模で蔓延させた。とりわけ原発立地となっ た町村では伝統的な共同社 会が崩壊し、漁業や農業などの健全な地場産業が立ち行かなくなり、経済生活は原発に全面的に依拠しなければならないという、甚だ しく歪んだ社会構造を産み 出す結果となった。


1979 年のスリーマイル島原発事故や1986年のチェルノブイリ原発事故の後も、日本の原子力安全委員会や電力会社をはじめとする原発 産業界は、高度で安全な原 子力技術を持つ我国では、このような事故は起こりえないと主張し、多額の資金を使い、様々なメディアを利用して「安全神話」を国 民に信じ込ませた。国内で も、1995年12月の高速増殖炉「もんじゅ」ナトリウム漏洩 事故や99年 9月のJCO核 燃料加工施設臨界事故、2007年7月新潟県中越沖地震による柏崎刈羽原発事故といった重大な事故の上に、多くの事故を各地で起 こしてきたが、しばしば事 故を報告しなかったり、情報を開示しないというごまかしを続けてきた。政府関係省庁、電力会社、原子力産業界のこうした自己過信 と自己欺瞞が、最終的には 2011年3月の福島第1原発における大事故を引きおこす大きな要因の一つとなったことは、あらためて詳しく説明する必要はない であろう。


一 方、核兵器製造能力の開発と維持の面でも、日本政府は「日本経済の存続にとっての原子力エネルギー利用の絶対的な必要性」を声高 く唱えることで、その意図 を隠蔽し、国民を欺く政策を取り続けてきたし、現在も取り続けている。茨城県大洗の「常陽」や福井県敦賀に建てられた「もん じゅ」、さらに青森県六ヶ所の 再処理工場は、核兵器に使われる高純度プルトニウムを抽出する特殊再処理工場であり、これらの施設は、すでに述べたように、「無 限のエネルギー源開拓プロ ジェクト」という夢を駆り立てることで推進されてきた。かくして、日本の「プルトニウム開発」は核兵器製造目的のものではなく、 あくまでも「エネルギー政 策の一環」であることを、自国民のみならず、海外に向けても日本政府は広く宣伝してきたのである。


す でに説明したように、アメリカは1970年代末までは、日本の核武装化を許すような政策は取らなかった。ところが、日本が高純度 プルトニウムを生産する増 殖炉技術をアメリカから入手する機会は、レーガン政権下の1980年代末とブッシュ政権下の90年代初期の間にやってきた。発電 をしながら使用済み核燃料 を高純度のプルトニウムに転換するという増殖炉計画は、当時、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスが試みたが、どの国もその技 術を実験段階から商業用に まで高めることはできなかった。アメリカはこの計画が資金的にも技術的にも頓挫したとき、それまでほぼ30年にわたって核兵器用 プルトニウムを生産してき た自国の軍事技術を日本に移転することで、この計画の継続をはかったのである。もちろん、アメリカは、そうした技術移転で、日本 が大量の核兵器用プルトニ ウムを蓄積するであろうことは十分に承知していた。事実、現在、日本のプルトニウム保有量は45トンという大量なものとなってい る。NPT加盟の非核兵器保有国の中で、高純度プルトニウム製造施設とこ れほどまでのプルトニウム保有量を持っている国は日本だけである。


そ れを承知の上で、レーガン・ブッシュ政権は、なぜゆえにそのような技術移転を、1978年にカーター政権が核物質拡散防止目的で 設置した原子力エネルギー 法に違反してまで行ったのであろうか。いくつかの政治的・軍事戦略的な理由が推測できるが、最も説得的と思われるのが、当時の米 ソ関係悪化と中国の核戦力 の急速な強化という要因であろう。とくに中国の核戦力増強が問題であり、日本が中国の核攻撃を受け、アメリカが安保条約に基づき 核兵器で日本を防衛する軍 事行動に出れば、アメリカ本土が核攻撃の目標となってしまうであろう。こうした最も危険な核戦争の状況を避けるためには、日本が いつでも核武装できるよう な状態にしておくことがアメリカにとっては有利である、とアメリカ政府は考えたのではなかろうか。しかも、この政策が、その後も 現在のオバマ政権まで継承 されてきていると思われる。


しか し、周知の通り、「もんじゅ」は1995年12月にナトリウム漏れ事故を起こし、「常陽」は2007年に燃料交換機能に障害が発生して、 両方とも運転中止に追い込まれた。さらに、1993年から建設が進められてきた六ヶ所再処理工場も、2011年2月までに約2兆 2千億円という膨大な費用 を投入したにもかかわらず、試運転の段階で次々と問題を起こし、現在も全く見通しがたたない状態で、「夢のプロジェクト」は全て 頓挫してしまった。「もん じゅ」には2011年11月までに、1兆810億円以上が投入され、「核燃料サイクル」事業全体では、日本はこれまでにほぼ10 兆円という膨大な予算を 使ってきた。その上、福島第1原発事故では、ウランとプルトニウムを混合したMOX燃 料を使う3号機が爆破し、大量の高レベル放射能を放出したにもかかわらず、日本政府はそれでも「核燃料サイクル事業」を根本的に 見直そうとはしていない。


日本政府が今後も引き続き核兵器製造能力を高め維持する政策を取り続 けるつもりであることは、今年6 月20日に成立した「原子力規制委員会設置法」、ならびに、それに伴う原子力基本法改定の内容から明らかである。この「原子 力規制委員会設置法」の法案 は、政府が国会に提出していた「原子力規制庁設置関連法案」に対立して自民・公明両党が提出していたものである。とろが、6 月15日に突然、政府案が取り 下げられて、自民・公明両党に民主党も参加した3党案として、衆議院に提出された。新聞報道によれば、265ページに及ぶこ の法案を、みんなの党が受け 取ったのは、当日の午前10時であり、質問を考える時間も与えられなかったといわれている。法案は即日可決され、直ちに参議 院に送られて、この日のうちに 趣旨説明が行われ、20日には原案通り可決された。これによって、原子力を平和目的に限定するとしてきた原子力基本法に、 「わが国の安全保障に資する」と いう条文が加えられた。「安全保障」とは言うまでもなく、「軍事利用」を指す。これは、日本が核兵器製造能力の開発・維持ひ いては保有の可能性と意図を、 これまでは暗示的に国内外に示してきたが、これによって明示するという、大きな政策転換を行ったことを意味している。


かくして、平和憲法がこの66年でなし崩し的に空洞化されてきたと同 様に、史上初の原爆被害国の日本の「核軍縮」政策も、「原子力平和利用」政策導入以来、なし崩し的に形骸化されてきたことは、こ れまでの経緯を見てみれば明らかである。


こ のように、アメリカやその他の核兵器保有国と同様に、日本でも、原子力エネルギー開発、すなわち、いわゆる「核の平和利用」と、 核兵器製造能力開発は、決 して分離したものとしてではなく、最初から一体化したものとして開始され推進されてきたのである。ところが、これとは対照的に、 市民の側では、反核兵器運 動と反原発運動は最初から分裂した市民運動として別個に進められ、統一した国民的運動として展開されないままの状態が続いてき た。権力側からすれば、きわ めて都合の良い状況が保たれてきたわけである。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

連帯オール沖縄・東北北海道 更新情報

連帯オール沖縄・東北北海道のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング