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レトロなレーシングカーを語るコミュのフォードGT40 ?1075

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いま"Racing in the Rain:My Years with Brilliant Drivers,Legendary Sports Cars,and a Dedicated Team" by John Horsman, David Bull Publishing,2006.
と言う本を読んでいます。大変面白い。
ジョン・ホースマンと言う名に馴染みがなくとも、ジョン・ワイアーの部下で、ワイアーの下で1960年代から70年代にずっと技術面の責任者を務めてきたと言えば、レースの歴史の中でどのような役割を果たして来た人か分かるだろうと思います。
それこそ1ページ1ページに貴重な情報が詰まっているのですが、特に目を引かれたと言うか、これまでずっと疑問に思って来たことに明確な回答が示されている箇所がありました。
それはフォードGT40のナンバー1075の来歴について述べた箇所です。

フォードGTのファン、スポーツカー/プロトタイプのレースに興味のある人、あるいはルマン24時間レースに詳しい人ならば、この車のことはご存知でしょう。
ライト・ブルーにオレンジのストライプのガルフ・カラーのフォードGT40 シャシー・ナンバー1075は、1968年のルマン24時間にP・ロドリゲスとL・ビアンキのコンビで優勝し、翌1969年の同レースでもJ・イクスとJ・オリヴァーのコンビで優勝しています。
同一シャシーが二連勝したのはルマンの歴史でもこれが初めてでした。

1075は1968年と1969年の2シーズンにわたって、ルマン以外のレースでも輝かしい戦績を示しているのですが、実はこの車に関してはフォードGTの研究家達から重大な疑問が投げかけられて来たのです。
それは1075がミラージュM1から再生された車だったのではないかと言う疑問です。
ミラージュM1に付いては、フォードGTに詳しい人なら説明は不要でしょうが、ここではフォードGTをベースにして空力を洗練させた改良版とでも言っておきましょうか。
ミラージュM1は、ジョン・ワイアーのチームJWRが開発して、1967年のスポーツカー国際耐久シリーズにプロトタイプ・クラスで参戦させましたが、レギュレーションの変更によって1968年には出番を失いました。
ミラージュM1のシャシーはフォードGT40のそれを改良して、軽合金で軽量化したものであったので、再改造でGT40仕様に戻すことが出来ました。

ここまでは分かっているのですが、問題はJWRが3台製作したミラージュM1のどれをGT40に再生したのか、別の言い方をすれば1968年と1969年にJWRが参戦させた3台のGT40のうち、どれが元ミラージュM1で、どれはもともとGT40であったのか?と言うことです。

コメント(25)

ミラージュM1とJWRのフォードGTの関係に関しては、二つの説が長くお互いに譲らない状態でした。
ミラージュM1の2号車(M1/2)が1967年5月のニュルブルクリンク1000kmレースの予選で大クラッシュし、修理不能として当時廃車処分になったことに関しては、二つの説は一致しています。また現在ミラージュM1の姿で残されている車が、1号車であることも一致してます。
問題はミラージュM1の3号車のその後と、GT40の?1075の生まれです。
(a)説
ミラージュM1/1→保存
ミラージュM1/2→事故で廃車処分
ミラージュM1/3→GT40 ?1074
(b)説
ミラージュM1/1→保存
ミラージュM1/2→廃車→GT40 ?1074
ミラージュM1/3→GT40 ?1075
(a)説は従来の説で、これに従えば?1075はGT40として新造されたことになります。
一方(b)はGT40研究の第一人者ロニー・スペインが唱えた新説です。この説に従えば、いったんは廃車とされたミラージュM1の2号車が後に再生されて?1074となり、3号車が?1075に改造されたことになります。レースの世界では、事故などで修理不能と見做されたシャシーが、後に大修理して現役復帰したり、部品取りに利用されたりすることは決して稀ではありません。
新説とは言っても、スペインが最初に(b)を唱えれたのも1980年代の半ばのことです。言い換えればそれ以来二十年以上を経ても、この二つの説のどちらが正しいのか、決着が付いていなかったわけです。

さて、この二つの説の決着は付いたのでしょうか?
気を持たせるようですが、この続きは明日以降に。
結構な解説ありがとうございます。
ガルフカラー大好き人間としては、嬉しい限りです。
前置きばかりでまだ本題に入ってもいませんが。
なんで月末の一番忙しい時期にこんなややこしい話を書き始めてしまったのか?(逃避??)。
おまけに飛行機は落ちるし・・・

ガルフカラーのGT40はいいですよね。
当時3台しかなかったはずなのに、いまGT40のオーナー大会なんか開くとやたら多くのガルフGT40が集合したりするようですけど。
いつも詳細な解説ありがとうございます。
私もガルフカラーは大好きで最近手に入れたロータスエランもこのブルーに塗ってあります。
前のオーナーが別に所有するポルシェ911を発注するときスペシャルカラーで頼んだこのブルーが大変気に入り当時赤かったエランを同じ色に塗ったという曰くつきの色です。
英国産のロータスとアメリカ産フォードやドイツ産ポルシェ同じカラーというのもなんですがJ.W.Rがイギリスのチームということで共通点はあるのではと思っています。
これからも貴重な話お聞かせ下さい。
こんなレプリカが売られてました( ̄▽ ̄)p浪漫はアリマスヽ(・ω・)人(・ω・)ノ
 http://www.enthuno-mori.at-server.com/ford/20040213ford_sendai/
Mirage M1は一台残っているということです。アメリカのBlackhawk Museumにあるということです。今度アメリカに行く機会があったら是非見てこようと思っています。

http://www.blackhawkmuseum.org/exhibit_auto.html
ジョン・ホースマンの回想記"Racing in the Rain:My Years with Brilliant Drivers,Legendary Sports Cars,and a Dedicated Team"で明らかにされた事実は次のようなものでした。
同書の118ページから120ページに掛けて、次のように書かれています(カッコ内も原文どおり)。

ミラージュM1/10003は、時間と金の節約のためセンター・セクションとボディ・シェイプがGT40に戻されて、GT40P/1074とナンバーが替えられた。ミラージュM1/10002はニュルブルクリンクで廃車となり、M1/10001は南アフリカのキャラミ9時間レースに送られていて同レースに優勝するので、新しいシャシーのGT40P/1075がFAVのオリジナルの部品(いまやJWAEの所有物)から製作されて、レン・ベイリーとアンガス・マクフェイルに引き渡された。前年(1967年)初めに3台が製作されたミラージュのシャシーについては、ベイリーがラジエーターからの気流の通りを良くするために、スペア・ホイール周りに単純化した板金構造を設計していて、アクセスを容易にするようにいろいろなコンポーネントを配置替えしてもいた。GT40P/1075は同じ改良を受けたが、どこかに書かれているような元ミラージュではない。それはいま言った改良をされたオリジナルのGT40シャシーなのだ。

これを要約すると、先に述べた二つの説のうち
(a)説
ミラージュM1/1→保存
ミラージュM1/2→事故で廃車処分
ミラージュM1/3→GT40 ?1074
のとおりで、?1075は新造されたことになります。ロニー・スペインの新説は当事者の証言によって否定されました。
私は、このホースマンの証言は全面的に信頼出来るものであり、これで二十余年にわたってフォードGTの研究家やファンを悩ませて来た?1075問題は最終解決を見たと言えると信じています。
理由は以下の通りです。
・ホースマンはジョン・ワイアーの下で技術面の最高責任者を当時務めており、彼以上にこの問題に詳しい者は考えられない。
・この部分に限らず彼の回想は非常に詳細かつ具体的で、内容には信頼が置ける。
・彼自身?1075問題を知っており、自分の証言で問題に決着を付けるとの明確な意思を示している。

長年の疑問が解けたことは喜ばしいのですが、?1075がまったくの新造と分かって、ちょっと残念な気もしています。
その理由はまた次回に。
このGT40 ?1075問題に関しては、日本では例えば檜垣和夫氏が
フォードGT 二玄社

で取り上げています。120ページにこの問題についての的確な解説がありますが、同氏にとっても残念であろうことには、同書のまとめの時点でホースマンの回想記の出版を知っていながら入手が間に合わず、上記の記述は反映されてはいません。
こうやって並べて見ると、車体上半分を改造しただけで、ミラージュM1からGT40へと戻すのは簡単だったろうと思えますね。
それにしても1968年の優勝車と1969年の優勝車は、
シャシーそのものが同一なだけでなく、塗装も同じ。
カー・ナンバーは違うけど、それもステッカーを逆に貼っただけじゃないのか?とか言いたくなります。
フォードGT40のシャシー・ナンバー1075は、二回のルマン24時間レース優勝を筆頭に、素晴らしい戦績を残して来ています。
?1075の戦績についてもまとめて見たいと思っていますが、
もしこの車がミラージュM1の改造車だったとしたら、フォードGT(スポーツカー)としての戦績とは別に、ミラージュM1(スポーツ・プロトタイプ)としての戦績まで有していることになります。
なんと言うか、現世で偉大な業績を上げた人の前世も偉人だったと判明した、と言ったところでしょうか。
しかし実際には?1075は新造車で、前世はありませんでした。
私がホースマンの本を読んで、ちょっとだけ残念に思ったのはそんなわけです。

写真はなんの関係もなく、JWA/ガルフのGT40 ?1074の余生。
スティーヴ・マックイーンの「栄光のルマン」のカメラカーを勤めています。
ルーフを取り去ってしまっていますが、後にまた原型に戻されました。
さてナンバー1075がGT40としての生涯しか送っていないと分かっても、
このシャシーが2年間にわたって国際耐久レースのチャンピオンシップに参戦し、素晴らしい戦績を記録したことだけでも十分に賞賛に値します。
そこでここからはGT40P/1075の誕生から引退までを追って見ましょう。
名付けて「1075ストーリー」
また番外編!G( ・`ω・) こんな素敵なガルフカラーも!Σ( ̄□ ̄;)
ユニパワーGT・・・美しいなぁ(´・ω;`)筑波でのヒストリックカー耐久では
クラスではなく、何と総合優勝すらもしたことあるそうな・・一昨日もオースチン
ヒーレーと死闘を演じたミタイですヽ(・ω・)人(・ω・)ノ
ROCKYさん、いつもながら興味深いコメントを読ませて頂きありがとうございます。
久し振りにコメントさせて頂きます。

藤 Bー88さんへ

このGULF COLOR ユニパワーGT、筑波で見た事あります。
3週間ほど前の筑波での走行会に、オールド・イングリッシュ・ホワイトのユニパワー来ていました。
ヒルマン・インプなどもそうですが、最近この手(?)が増えて来たのが嬉しいです。
GT40以外でGULFブルー+オレンジラインが似合う車輌、なかなかないかも知れませんね!
数年前の海外出張で憧れの[GULF SEA]に浸かってきました。
しかしながら、GT40のそれとは全然違っていました。
これも、地球環境が変わってしまったから?

この国へは二度と来る事ないだろーなー?と思った次第。
1075ストーリー<1>

さてフォードGT40P/1075がゼロから製作されたとして、製作された時期はいつ頃なのだろうか?
ホースマンの回想記には製作の時期や期間に関して書かれてはいないが、先に引用した文章の中に「M1/10001は南アフリカのキャラミ9時間レースに送られていて」との記述がある。
南アフリカのランド・デイリーメイル9時間レースは1967年の11月4日に開催されて、ミラージュM1の1号車が優勝している。
11月の上旬にはミラージュM1の1号車が南アフリカにあったために、これをフォードGT40に再改造するのは不可能だったと、ホースマンは述べているわけだ。
逆に言えば1968年シーズンに備えたGT40の製作は、1967年の11月頃には始まっていたことになろう。

ホースマンの回想記を呼んでちょっと意外だったのは、「新しいシャシーのGT40P/1075がFAVのオリジナルの部品(いまやJWAEの所有物)から製作されて、レン・ベイリーとアンガス・マクフェイルに引き渡された。」とある個所だ。
私はなんとなくフォードGTからミラージュM1への改造はすべてジョン・ワイアーのJWAE(John Wyer Automotive Engineering)のショップで行なわれていたと思っていたが、これを読む限りJWAEでフォードGTとしての基本の構造を製作した後は、軽量化等の改造はベイリーの下で行なわれたことになる。ちなみにマクフェイルはJWAのメカニックである。
1967年シーズン初めのミラージュM1に関する部分を読んでみたが、やはりミラージュM1への改造作業はベイリーの監督下で行なわれたことに間違いないようだ。
スペインの本(Ronnie Spain "GT40 An Individual History and Race Record)によれば、
2台のGT40(ミラージュM1を再改造した1074と新造の1075)は、1968年の1月23日に完成している。

さて1968年の国際スポーツカー・チャンピオンシップ・シリーズの第1戦は、2月の3〜4日にアメリカのデイトナ・スピードウェイで開催される。
1968年のJWAのドライバー陣容は、
前年際立った成績を示した若手のジャッキー・イクス
同じく新進のブライアン・レッドマン
その二人に比べればやや腕は劣るが熱血漢のポール・ホーキンズ
堅実でメカにも強いデイヴィッド・ホッブズ
の4人である。
もちろんイクスとレッドマンのペアがエース格、ホーキンズ/ホッブズ組が二番手と言うことになろう。
前シーズンには、エースのイクスを除けば、JWAのドライバーの顔触れは固定していなかったが、1968年にはドライバーのこのペアリングは動かされなかった。特段の事情がない限りは。
1075ストーリー<2>

 1968年の耐久シリーズ第1戦、デイトナ24時間(デイトナ・コンティネンタル)は、2月の3日から4日に掛けて、デイトナ・スピードウェイで開催された。2台のGT40はおなじみのガルフ・カラーで、ガーニー・ウェスレイクのヘッドを載せた4.7リッター・エンジンを搭載していた。
 JWAのフォードGT40は、?1075がイクス/レッドマン、?1074がホッブズ/ホーキンズの組み合わせで、1075が予選でポールポジションを獲得した。ポール・タイムは1分54秒6で、前年のこのレースで7リッターのフォードMkII(D・ガーニー)が記録した1分55秒10をアンダーカットした好タイムだった。なお1074も1分56秒6で予選2位であった。
(予選タイムはホースマンの本による)
 本戦のローリング・スタートではホーキンズが速かったものの、2周目でイクスの1075が首位に立ち、2時間目までポルシェ907勢を押さえてリードを保った。しかし50周目にレッドマンに交替した後、77周目にZFギアボックスの2速ギアの歯が舐めてしまいリタイアする。1074が4時間目から首位を奪うが、こちらもブレーキトラブルで後退、4日の朝になって2速ギア破損と燃料漏れでリタイアする。
 車の準備には定評があるジョン・ワイアーのチームらしからぬ不首尾だった。レース結果はポルシェ勢が1-2-3位を占めた。
 ホースマンの本によると、前年まで問題も無かったZFの5速トランスミッションが二つともに故障した理由は、新しいエンジンの増大したトルクと新しいタイアのグリップ向上のせいだったようだ。また前年ミラージュM1に搭載されてトラブルを起こさなかったのも、ウェット・レースや高地のレースなど、ギアに過大な負担が掛からない条件があったからのようだ。もちろんこれは後になって言えることである。

写真は前が1074、後ろが1075
http://www.gt40.org.uk/Gallery/Gulf.htm
1075ストーリー<3>

1968年のシリーズ第2戦は例年通りアメリカのシーブリング・インターナショナル・スピードウェイの12時間レース。3月23日に開催される。
JWAは2台のGT40を本国に戻さず(ホースマンによれば「大西洋往復の航空貨物代を節約するため」)、ピッツバーグ近郊のガルフ石油の研究所を借りて整備した。レースまでの間にワイアーとホースマンは西ドイツにわたり、ZF社と話し合った。ZFはプライドに掛けて補強した2速ギアを作り上げた。
予選ではポルシェ907がポールを獲得したが、イクス/レッドマンの1075(カー?28)も1秒落ちの2分50秒4で2位に着けた。しかしホーキンズ/ホッブズの1074(?29)も2分51秒6を出したが、間に4台が挟まった7位になってしまった。
シーブリング12時間のスタートはルマン方式で、2台のGT40はスタート直後は車込みに飲み込まれた。しかしイクスは遅い車を掻き分けて首位に立ち、30周目にレッドマンに1075を引き渡した。
しかしレッドマンが交替してわずか5ラップ目にスピンをしてクラッチをいため、1075はスタートから2時間でリタイアとなる。
一方ホーキンズ/ホッブズ組は1時間目には17位まで落ち込んでいたが、徐々に順位を上げて、5時間目には首位に立った。しかしホーキンズがドライブ中に遅い周回遅れと衝突、修理のためピットを出たり入ったりすることになる。最終的に8時間過ぎに、衝突の後遺症からフロント・サスペンションが壊れてリタイアする。
こうしてアメリカ合衆国二連戦は、「ガルフがスポンサー継続の決定が正しかったか疑問に思う」(R・スペイン)ような結果に終わったのである。
GT40 ?1075の優勝物語が始まるのはこの後だった。
1075ストーリー<4>

1968年の開幕2戦を不本意な結果で終えたJWAではあったが、2戦共に序盤はトップを独走し、ワークス・ポルシェを向こうに回しても、勝てるポテンシャルは十分に示した。後は信頼性の確保だけである。
1968年のシリーズ第3戦の舞台はブランズハッチ・サーキット。BOAC(英国海外航空)が冠スポンサーで、BOAC500マイルの名があるが、実際には6時間レースとして開催される。
しかし4月7日のBOAC500マイル参戦には大きな問題があった。同じ週末にルマンのテスト・デイが開催されるのだ。ルマン優勝を狙うJWAとしては、こちらも欠席するわけには行かない。
JWAではそこで1075(?4)1台のみをBOAC500マイルにエントリーし、1074はサルテ・サーキットに送った。そしてエースのイクスは両者を掛け持ちする過酷なスケジュールを組んだ。
なおホーキンズ/ホッブズ組はJWAからはどちらにも出場せず、ホーキンズ個人の所有車のGT40/AMR2(アラン・マン・レーシングが66年シーズンに走らせた車)で参戦した。
金曜のブランズハッチでイクスは1分36秒8を出して、結果的に予選5位に付けた。イクスとホースマンはすぐに飛行機で英仏海峡を渡り、土曜のルマン・テストデイ1日目に44周して、最速タイムの3分35秒4を記録した。イクスらは再び英仏海峡を渡ってレッドマンと合流した。
日曜のレースでは、イクスの1075は序盤ポルシェ907勢に続いて4位を走っていたが、上位陣に相次いでトラブルが発生、乗り継いだレッドマンは労せずしてトップに立った。イクスに交替後も1075は首位を保ち、最終的にはポルシェ907に22秒のリードを保ったままゴールした。
JWAによるGT40の初勝利、ホーム・ウィンである。
もともとワイアーやホースマンらJWAの首脳陣は、ツイスティーなブランズハッチではGT40は勝ち目が薄いと考えていただけに、「チームは狂喜した」(ホースマン)。しかし同日ホッケンハイムのF2レースでのジム・クラークの事故死が伝えられ、サーキットは悲しみに包まれた。


本業が洒落にならないくらい忙しくなったので、連載はしばらくお休みします。
1075ストーリー<5>

1968年のチャンピオンシップ第4戦は、4月25日にイタリアのウトドローモ・ナツィオナーレ・モンツァで開催される1000kmレースだった。
当時スポーツカーのレースで使用されていたコースは、現在F1GPが行なわれているコースとはまるで違う。モンツァにはヨーロッパでは珍しい深いバンク付きのオーバル・コースがあって、スポーツカーのレースではこのオーバル・コースと平地のコース(現在のGPコースの原型)を結んだ、変則的な形の全長10.1kmのコースが使われていた。
どこが変則的かといえば、平地のコースはバンクの下を潜っているし、メイン・ストレートは左右に分けられ、バンク付きコースを回る車と平地コースを回る車が並行して走ると言った具合だった。平地コースにもいまのようなシケインなどは一切無く、相当な高速のコースであったので、バンク付きのコースと合わせればヨーロッパ屈指の高速コースである。

同じくバンク付きコースと平地コースの複合のデイトナ・スピードウェイで、GT40はトップを快走するするだけのスピードを示した。だからモンツァでも十分に優勝を狙えると考えられ、実際JWAはかなりの自信と共にモンツァに乗り込んで来た。
JWAのGT40のライバルは相変わらずポルシェだが、今回シュトゥットガルトのチームは3リッター水平対向8気筒の908を持ち込んで来た。908のデビューは4月上旬のルマン・テスト・デイだったが、実戦を走るのはモンツァ100kmが初めてになる。

予選ではイクス/レッドマンの1075が2分57秒0でポール・ポジションを獲得、ホーキンズ/ホッブズの1074も2分59秒7で3位を占めた。しかしポルシェ908も2位と4位で、白熱した勝負が予想された。なお5位はデイヴィッド・パイパーとマイク・サーモンのGT40(シャシー?1078)、6位もウィリー・メレスとビュルリ(ジャン・ブラトン)のGT40(?1079)と、高速コースだけにプライベートのフォードGT勢が予選では健闘した。
ちなみに前年のミラージュM1の最速タイムは3分1秒1で、GT40の方が前面投影面積が大きく、なおかつエンジンは5リッターから4.7リッターにダウンサイズしているのに、タイムが更新された理由として、ホースマンはすべてファイアストーンのタイアのお陰だろうとしている。

決勝では予想通りに2台のGT40と2台のポルシェ908が上位グループを形成し、イクスと908のジョー・シフェールがトップを争った。GT40の直線スピードは速く、908をストレイトで追い抜くことが出来た。間もなく908は信頼性不足を露呈し、2台とも相次いでメカニカル・トラブルで脱落した。
27周半したところで、イクスの1075が排気管が破れてピットに飛び込んで来た(サーキット・レイアウト上周回の途中でピットに入ることが出来た)。排気管の組み付けは、エンジン単体でも手間の掛かる作業で、ピットで加熱した排気管を交換するなど出来る相談ではない。しかたなしに23分掛けて破損箇所にアスベストを巻き付けて応急修理しただけで、レッドマンに交替してレースに復帰した。
ところがレッドマンはあせったのか57周目にスピン、車体後部をぶつけて、再び排気管を損傷してしまった。もはや応急修理も不可能で、そのまま走らせれば火災の危険があるとのオフィシャルの勧告もあり、1075はリタイアすることになる。

一方イクスのピットインで28周目に首位に立ったホーキンズとホッブズの1074は、そのまま100周を走り終えて、5時間18分23秒4のタイムで優勝した。終盤油圧が低下する問題が生じたが、2位のポルシェ907を周回遅れにするほどのリードがあり、ペースを緩めても大差で勝つことが出来た。
結果的にはJWAのGT40シャシー?1074の優勝はこれ一度限りに終わった。
1075ストーリー<6>

1968年のシリーズ第5戦はタルガ・フローリオだったが、このシシリー島の山道を駆ける半分以上ラリーのようなレースはまったくGT40向きではない。そこでJWAはこのレースを欠場して、5月19日の第6戦ニュルブルクリンク1000kmレース(ADAC1000kmレンネン)に備えた。もっともこの全長22km以上もある屈曲したコースもまたGT40に向いているわけではない。
万全の準備と共に乗り込んで来たJWAではあったが、名将ワイアーらしからぬ采配の誤りで、1968年のニュルブルクリンクを落としている。ワイアーは後々までこのレースの作戦を悔やんだ。
齟齬の始まりはレッドマンの提案だった。彼はまだこのコースを走ったことが無く、決勝までにコースをマスターする自信が無いことから、イクスとのパートナーを改称したいと自ら申し出たのだ。レッドマンはこの年シーブリング、モンツァと2戦、自らのスピンで車を痛めレースを落としており、多少自信を喪失していたのかもしれない。
ちなみにイクスは1967年のドイツGPにF2マトラで参戦して、並み居るF1ドライバー勢を尻目になんと予選3位のタイムを出している。ニュルブルクリンクに強いと言うイクスの評判はすでに確立していた。
ワイアーらJWAの首脳は、そこでこのコースの経験のあるホーキンズをイクスと組ませて1075(カー?65)に乗せ、レッドマンはホッブズと1074(?66)で走らせることにした。
予選ではイクスが8分37秒4を出して2位に付けたが、ポール・ポジションの907は5秒近く速かった。ホッブズ/レッドマン組は10位に沈んだ。
決勝当日は肌寒く、雨が振ったり止んだりする天候だった。決勝のスタートは所謂ルマン式で、JWAではドライバーがシート・ベルトをしっかり締めるまではスタートしないよう指示していた。その結果イクスもホッブズも大きく出遅れ、下位の車を掻き分けながらの上位進出となった。その間にワークス・ポルシェがトップを快走したが、イクスは数ラップのうちに2位にまで順位を上げた。
ところが13周目イクスと交替したホーキンズは、雨を苦手としているせいもあって、イクスよりも1周25秒も遅いタイムでしか周回できなかった。イクスと交替するまでにホーキンズは5分も後退、順位を4位まで落とした。
ワイアーらを驚かせたことには、1074に乗り組んだレッドマンは、ホッブズと遜色ないタイムを出して見せ、順位を着実に上げていた。
再び1075に乗り込んだイクスは、予選よりも速い8分34秒のラップを出して追い上げたものの、3位まで順位を回復したところでレースは終わった。ホッブズ/レッドマンは6位となった。
もし通常通りイクスとレッドマンが組んでいれば、計算上2位は確実であった。
レース後にワイアーはレッドマンに言った。
「レッドマン、君の忠告を聞くのはこれを最後にする。もし君がジャッキーと組んでいたら、君達は優勝していたところだったぞ」
だいぶ間が開いてしまったが連載は続いている。JWオートモティヴのフォードGT40、シャシー・ナンバー1075の輝かしい勝利の歴史はまだ始まったばかりのところなのだ。


1075ストーリー<7>
さて1968年シーズン第7戦は5月26日のスパ・フランコルシャン1000kmである。
スパ・フランコルシャンはジャッキー・イクスのホームグラウンドで、実際彼の生家はこのサーキットのすぐ近くにあった。彼はここで開催された前年のF1ベルギーGPで初入賞している。また1967年の1000kmレースでは、JWAのミラージュM1を雨の中初優勝に導いた。”レイン・マスター”イクスの名が一躍広まったのはこの1967年のスパ・フランコルシャンのレースだった。もっともイクス自身は雨は嫌いだと公言している。
JWAの首脳部がイクスと?1075に前年の再現を期待したのも当然だろう。相棒は今回もブライアン・レッドマンである。
5月19日のニュルブルクリンクのレースからスパ・フランコルシャン1000kmまで一週間の間隔しかなく、予選を考えれば準備と移動に当てられる期間は実質4日しかない。JWAの規模では二つのレースにそれぞれ専用の車を用意することは出来ず、チームはイクス/レッドマン組の?1075をニュルブルクリンクからスパ・フランコルシャンに直行させた。
1074のエンジンは、ニュルブルクリンクのレース(予選も)を走り切ったままで、チームではバルブ・クリアランスを再調整し、オイルとフィルターを交換しただけで、スパ・フランコルシャンのレースに臨んだ。
JWAでは6月に開催される予定のルマン24時間に最重点を置いていたので、?1074はルマンに向けて整備を進めることにした。その代わりとしてスパ・フランコルシャンには初めてチーム三台目のGT40を参戦させた。
三台目のGT40は、1965年に製作された生産仕様5号車の?1004を改修して最新仕様に合わせた車で、新たに1084のシャシー・ナンバーが与えられた。こちらに乗るのはポール・ホーキンズとデイヴィッド・ホッブズの組である。

さてスパ・フランコルシャンはいきなり激しい雨が降り出す天候不順で良く知られているが、プラクティスは意外なことには晴天に恵まれた。ポール・ポジションを押さえたのはアラン・マンのフォードF3L(P68)で、イクス/レッドマンのGT40/1075はきっかり4秒遅れで予選2位に付けた。ホーキンズ/ホッブズ組のGT40/1084(1004)は、ポールから14.6秒遅れの予選8位である。
なお予選3位には地元出身コンビのウィリー・メレスと”ビュルリ”のGT40が付けている。レース名”ビュルリ”の正体は裕福な実業家ジャン・ブラトンで、後に彼の娘カトリーヌがイクスと結婚することになる。つまりDTMで活躍するヴァニーニャ・イクスの祖父である。
1075ストーリー<8>

日曜の決勝はいつものスパ・フランコルシャンの天気だった。つまりイクスのために用意されたような雨天である。
イクスは前年と同じく午前中に前座のツーリングカー・レースにフォード・マスタングで出走して、あっさり勝利(前々年から三連勝)していた。このレースはイクスにとっては、コース状態の予習にもなった。
スポーツカー・レースの決勝では、スタート直後こそフランク・ガードナーのF3Lが飛び出したが、半周ほどで電気系統に雨が入ってエンジンが停止、イクスが当然のようにリードを奪った。1周目イクスのGT40がピット前を通り過ぎ、マスタ・ストレイトを走ってゆくエグゾースト・ノートが聞こえなくなってから、初めて2位のメレスのGT40がやって来るのが聞こえた。1周目から39秒のリードである。
もっともホースマンはイクスのドライビング・テクニックに驚嘆しながらも、ファイアストーンのウェット・タイアの性能を指摘することも忘れてはいない。
降りしきる雨の中イクスはリードを広げ、21周目には全車を周回遅れにしてしまった。25周目で交替したレッドマンもリードを守った。ちなみにイクスの平均タイム4分12秒5に対して、レッドマンの平均タイムは4分22秒6だが、これはレッドマンが遅いのではなく、イクスが速過ぎるのである。実際ホーキンズ/ホッブズ組の平均タイムは4分28秒だった。
雨のお陰で他の有力な車はコースを外れるか、どこかをおかしくしてピットインした。メレスと交替した”ビュルリ”(ブラトン)のGT40はコースアウトしたし、ホーキンズのGT40/1084もワイパー・ブレード交換のため3周目を終えてピットに入った。JWAのクルーはわずか30秒で作業を終えてホーキンズをコースに戻した。ホッブズのスティントを挟んで再び1084のスティアリングを握ったホーキンズは、あと6周目というところで今度はブレーキ不調を訴えてピットインして来た。しかし修理のしようはなく、チームはそのままホーキンズを送り出し、彼は残りの周回を雨の中車を騙し騙し走ることになる。
イクス/レッドマン組の1075は、1周目からいちどもリードを奪われることなく、5時間5分19.3秒でスパ・フランコルシャン1000kmレースを走り切った。ホーキンズ/ホッブズ組もそれでも4位に入賞した。
しかし例え雨でエンジンへの負担が少なかったとは言え、ニュルブルクリンクとスパ・フランコルシャンの二つの1000kmレースを走り切ったとは、フォードのV8エンジンのタフネスも大したものだ。

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