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湘南型山車と鎌倉囃子コミュの山車の歴史

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シーズンオフなので、当地の山車の歴史を振り返りたいと思います。

文献資料がほとんどなく、推定で書かざるをえませんがご了承ください。

取り上げる地区は、複数の山車を所有している(していた)ところといたします。
具体的には、鎌倉市腰越、藤沢市片瀬、藤沢市本町、藤沢市辻堂、藤沢市鵠沼、茅ヶ崎市南湖です。


まずは当地に影響を与えているだろうと思われる、江戸の山車の状況について、江戸祭礼研究家の山瀬一男氏がまとめた年表からみてみます。

正徳三年(キリスト暦1713年)頃:吹貫型山車が全盛期
享保年間:葛西囃子始まる
宝暦十二年(キリスト暦1763年):山王祭で葛西囃子が山車に乗る
安永年間(キリスト暦1772〜1781):一本柱万灯山車が出現する
寛政四年(キリスト暦1792年):吹貫型山車に代わり、一本柱万灯山車、岩組山車が主流となる
文化年間(キリスト暦1804〜1818):一本柱万灯山車が全盛
天保年間(キリスト暦1830〜1843):一本柱高欄型山車が出始める
安政四年(キリスト暦1857年):三層せり出し型山車が出始める(注、おだまきにより人形を上下する)
文久二年(キリスト暦1862年):唐破風屋根付山車出現
明治三年(キリスト暦1870年):神田祭 山車9本、山王祭 山車5本出る
明治四年(キリスト暦1871年):神田祭 山車14本出る
明治五年(キリスト暦1872年):神田祭 山車35本出る
明治十三年(キリスト暦1880年):神田祭 山車18本出る
明治十五年(キリスト暦1882年):神田祭 山車32本出る
明治十七年(キリスト暦1884年):神田祭 山車45本出る
明治二十年(キリスト暦1887年):神田祭 山車33本出る
明治二十二年(キリスト暦1889年):明治憲法発布奉祝で東京中から計100本の山車が出る
明治三十八年(キリスト暦1905年):日露戦争凱旋奉祝で、神田 13本、山王 4本の山車展示
大正三年(キリスト暦1914年):東京大正博覧会で21本の山車展示、うち18本が神田
大正四年(キリスト暦1915年):大正天皇即位の御大典で山車展示(注、本数記載なし)
大正十二年(キリスト暦1923年):関東大震災に伴う火災で山車の大半を焼失

注は、私が書きました。

コメント(8)

江戸山車の歴史を書きました。

では、当地にどのような経路で山車、お囃子が伝わって来たのでしょうか。

江戸時代、江戸城御膳御用付浦というものがあり、海路で色々と伝わっていたようです。
以下にその浦(港)を列記します。

延宝二年(キリスト暦1674年)指定 十七ヶ所
本牧(現横浜市中区本牧)
小柴(現横浜市金沢区柴町)
野島(現横浜市金沢区野島町)
室ノ木(現横浜市金沢区六浦町室ノ木)
横須賀(現横須賀市本町)
大津(現横須賀市大津町)
馬堀(現横須賀市馬堀町)
走水(現横須賀市走水)
鴨居(現横須賀市鴨居)
東浦賀(現横須賀市東浦賀)
西浦賀(現横須賀市西浦賀)
久里浜(現横須賀市久里浜)
松輪(現三浦市南下浦町松輪)
三崎町(現三浦市三崎町)
城ヶ島(現三浦市城ヶ島)
城村(現三浦市三崎町)
小坪(現逗子市小坪)

延宝五年(キリスト暦1677年)指定 八ヶ所
材木座(現鎌倉市材木座)
坂之下(現鎌倉市坂ノ下)
江之島(現藤沢市江の島)
片瀬(現藤沢市片瀬)
腰越(現鎌倉市腰越)
鵠沼(現藤沢市鵠沼)
須賀(現平塚市須賀)
平塚宿(現平塚市馬入)

天和元年(キリスト暦1681年)指定 六ヶ所
大磯宿(現大磯町大磯)
小磯(現大磯町西小磯)
国府本郷(現大磯町国府本郷)
国府新宿(現大磯町国府新宿)
梅沢(現二宮町山西)
塩海(現二宮町二宮下町)

どちらも、古くからお祭をやっているところです。江戸の祭り情報をもとに祭礼を始めたのかもしれません。

横浜市金沢区野島、横須賀市走水には、彫刻師後藤義光の弟子、後藤忠蔵彫刻の山車が現存しています。因みに後藤忠蔵は藤沢市高谷の生まれです。
腰越の山車の歴史

濱上町(人形:源義経と弁慶)昭和37年山車焼失
神戸町(人形:源義家と鎌倉権五郎影政)
土橋町(人形:源頼朝と御所五郎丸)昭和37年焼失
下町(人形:神功皇后と武内宿禰と応神天皇)
中原町(人形:スサノオ命)昭和37年焼失

祭礼がいつ頃から行われているのかわかりませんが、鎌倉市史によれば、明治11年7月の横浜毎日新聞に5台の山車が出て祭礼を行ったとの記事があるそうです。
江戸時代に遡れそうです。

腰越の山車は、3台が一本柱万灯山車、2台が一本柱高欄型山車です。山瀬氏の資料のとおり、一本柱万灯山車の方が一本柱高欄型山車より古い形態です。

いにしえの腰越は3町(濱上町、神戸町、川向町)だったそうで、万灯山車が3台だったというのはそれを暗示しているようです。

現在全てが残っていれば、関東随一の山車祭だったろうと思います。残念でなりません。
片瀬の山車の歴史

新屋敷町 先代山車の人形は源頼朝
西方町 先代山車の人形は楠木正成
東り町 先代山車の人形は加藤清正
下之谷町 先代山車の人形は武田信玄
西浜区 昭和50年代に藤沢本町東坂戸町の山車(人形:天照大神)を譲り受け

現在の4町の山車は、大正末から昭和初期に作られたものですが、先代は江戸時代に作られた人形山車であったそうです。
形態も腰越同様一本柱万灯山車だったそうです。

片瀬も古い資料はないので推定しか出来ませんが、大正二年発行の「鎌倉郡川口村郷土史」に諏訪神社と祭について記述があります。

『諏訪神社 神輿:文久二年七月再造 太鼓:寛保二年寄付
祭礼 七月二十七日
七日前に御旅所構、各部落に幟立て
夜宮 徹夜で日待宿
未明に、各町毎に囃子を以って海岸に至り、海草を携へ社前に供す。
神輿渡御。
余興として部落毎に山車を曳き出し、景気を添うる。』

当時も既に浜降祭を行って、ホンダワラを取ってきていたのです。又、幟は各部落に立てていたようです。

本町の山車の歴史

諏訪神社氏子
東坂戸町(人形:天照大神) 昭和50年代に片瀬西浜区に譲渡
栄町 昭和50年代に鵠沼橘町に譲渡
仲久保町(人形:神武天皇) 解体、人形は現存
西富町 現存、かつては神功皇后の人形が乗っていた
大鋸町(人形:桃太郎) 解体
船久保町 現存
蔵前町(人形:徳川家康) 昭和50年代に大和市某所に譲渡、現存せず
庚申堂 解体

白籏神社氏子
加藤横町 昭和50年代に立石立石町に譲渡
西坂戸町(人形:弁慶→仁徳天皇) 昭和50年代に横須賀市西浦賀濱町に譲渡
臺町 現存、かつては牛若丸の人形が乗っていた
白籏横町 現存

本町は遊行寺の門前町として発展した東海道の宿場町です。江戸時代の絵図に屋台を曳いているものがあります。江戸時代に既に大きな祭礼を行っていたようですが、屋台の形状は湘南型ではないようです。
本町は、たびたび火災に遭っており、
明治11年11月17日の伊勢茂火事で230軒焼失
明治13年11月26日の大川屋火事で400軒焼失
特に大川屋火事では、遊行寺が中雀門を残し全山焼失してしまうほどの大火災でした。こうした火災のため、江戸時代製の山車は残りませんでした。
現存する元西坂戸町の山車は明治15年製で、大川屋火事の後に作られています。

白籏神社の祭礼では、車田町が榊の曳山を出し、祭礼行列の先頭を務めていたそうですが、現在はその伝統もなくなっています。
辻堂の山車の歴史

北町(人形:神功皇后) 明治10年に腰越神戸町の山車を譲り受け
西町(人形:奈須与一→源義家)
南町(人形:武内宿禰)
東町(人形:加藤清正→源頼朝) 明治40年頃に鵠沼堀川町の山車を譲り受け

辻堂の祭礼に山車が出るようになったのは、明治になってからです。それ以前は、いわゆる底抜け屋台でお囃子が演奏されていたようです。
まず北町が明治10年に、腰越神戸町の山車を譲り受けました。
次に西町が明治11年に、伊豆から大工を呼んで山車を作りました。
その次は南町が山車を作り、最後は東町が鵠沼堀川町の山車を譲り受け、4台が揃います。

現在では住宅地ですが、明治時代は一寒村であった辻堂では、金銭面の問題で山車を新調することが難しかったようで、4台中2台がよそから譲り受けです。
鵠沼の山車の歴史

宮之前町(人形:奈須与一)
上村(人形:源頼朝)
清水町(人形:神武天皇)
宿庭町(人形:牛若丸と鞍馬天狗→源義経)
苅田町(人形:徳川家康)
大東町(人形:楠木正成)
仲東町(人形:乙姫様→浦島太郎)
原町(人形:日本武尊)
堀川町(人形:仁徳天皇)

鵠沼の祭礼に山車が出るようになったのは、明治になってからです。明治17年に上村の山車が作られ、その後8町が順次山車を製作し、9台が揃いました。
鵠沼も辻堂と同様に山車を作る前は、底抜け屋台でお囃子を演奏していたようです。

現在の鵠沼の祭礼は、8月17日午後に山車宮入だけのいわゆる、「ひとっきり祭」になってしまいましたが、昭和41年までは、
8月16日宵宮 各町山車、町内曳き回し
8月17日朝 各町山車、神社に向け出発
8月17日午後 各町山車、宮入
という祭らしい形態でした。

人形については、民俗研究家の永田衛吉先生が、著書で「東京人形町より購求」と書かれていましたが、私は長らく疑問視しておりました。
ところが平成23年の関東山車祭研究会勉強会における、山瀬一男氏の講演で、人形町あたりに山車、人形のプロデューサーがいて、千葉県佐倉はその人物を通じて天下祭の山車と人形を譲り受けたとの事でした。
鵠沼の人形調達もこのプロデューサーが引き受けたのかもしれません。そうすると人形は、天下祭の人形ということになります。
南湖の山車の歴史

茶屋町 昭和30年に横須賀市池田町に譲渡
鳥井戸 ?
上町 ?
中町 大正時代まで舟山車があったそうです
下町 ?

南湖は、中町にある八雲神社(江戸時代は牛頭天王)の天王祭に山車が出ていたそうです。毎年7月15日に行われていたそうですが、現在では浜降祭に取って代わられてしまい、残念ながら山車祭の由緒はわかりません。
最後まで残った茶屋町の山車は、金剛院の境内に山車小屋があったそうです。
江戸型山車に関する講演会について

平成25年3月2日 土曜日 13時30分から15時30分
佐倉市立美術館4階
入場無料
演題:江戸型山車の歴史と復元
講師:七代目宮本 卯之助師(?宮本卯之助商店 代表)

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