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聖者の生涯&言葉&聖者についてコミュの今日の聖者の言葉

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 身体による悪い行ないを捨て、ことばによる悪い行ないを捨て、そのほか汚れのつきまとうことを捨てて、
 身体によって善いことせよ。ことばによって大いに善いことをせよ。心によって善いことをせよ。――汚れのさまたげのない、無量の善いことを。

 ――仏陀釈迦牟尼

コメント(189)

 麗しいメロディで、神は雨を降らす。わが庵は屋根を葺かれ、風を防ぎ、快適である。そうして、わが心はよく安定している。さあ神よ。もしも欲するならば、雨を降らせ。

 ――ゴーディカ


 人望とか、学問とかいうものに忙しがっているから、神を見ることができないのさ。
 子供がおもちゃで遊んでいる間は、母親は放っておく。赤くてかわいい、子供の好きそうなおもちゃがあるからね。
 子供がおもちゃに飽きて投げ捨てて、『おかあさーん!』と言って泣き出すと、母親は料理中の鍋まで火から下ろして、子供のところへ飛んでくるさ。



ラーマクリシュナ・パラマハンサ


未来において、人々があなた方や私を認めて言うことや、あるいは反対して言うことに対して、耳を傾けてはならない。
 働き続けなさい。ライオンでありなさい。そうすれば、主はあなたを祝福してくださるだろう。
 私は死ぬまで、絶え間なく働き続けよう。そして、死んだ後も、世界の幸福のために働き続けよう!


ヴィヴェーカーナンダ
過去の過ちを振り返るな。
 さあ、あなたは今日の自分の姿を信じるのか? 今まで同じような過ちを犯してこなかったのか?
 己の過ちを祝福しなさい。そうすれば、それらは知らないうちに、天使になってしまっているだろう。
 理想にしがみつけ。
 前進し続けよ!

ヴィヴェーカーナンダ
心において耐えよ、わが子供たちよ。意気地なしと弱い者のみが、罪を犯し、嘘をつく。勇者は常に道義に基づいている。
 気高くあろうとせよ。勇敢であろうとせよ。そして協調的であるようにせよ。


ヴィヴェーカーナンダ
最高の思想で脳をいっぱいにしなさい。それらを昼夜、自分の前に置いておきなさい。そこから偉大なる使命が成し遂げられるのだ。


ヴィヴェーカーナンダ
 我々は皆いろいろな困難を抱えていますが、神はどんな言い訳もお聞 きにはなりません。神は、我々がどんな困難な環境にあっても、心を片時も神から離さないことを望んでおられるのです。  

――ヨーガーナンダ
聖典に定められる行為を、その結果に執着せずに、主に捧げるようにそれらをおこなったなら、その人は究極の成就、つまり行為とその結果からの解放を得ることができるのです。(バーガヴァタム)
>>[153]

>「己の過ちを祝福しなさい。そうすれば、それらは知らないうちに、天使になってしまっているだろう。」


素晴らしいお言葉ですね。
決して「駄目だ」などと言ってはならない。「できない」などと決して言うな。  あなたは無限なのだ。あなたは何でもできる。あなたは全能だ。(ヴィヴェーカーナンダ)

 今わたしは、人生の真の目標に到達できるように、  この人間界で、真理の実践に励みます。  わたしが、悟りへの道を全力で行くことによって、  この架空の世界から、限りなき衆生を解放することができますように。(ロンチェンパ)

心が神以外の何かを追うようになったら必ず、それがはかないものであることを考え、心を主の聖なる御足のもとにお捧げなさい。(サーラダーデーヴィー)
師を仏陀として見るようになったとき初めて、師の智慧の心からあなたへと仏陀の教えが伝わってくるのだ。師を仏陀として見ることができず、一人の人間として見ている限り、完全な加護が訪れることはない。いかに偉大な教えであっても、どこか閉ざされたままのあなたをどうすることもできないのである−ソギャル・リンポチェ

 そう、グルを生けるブッダとして見ることによってのみ、あなた自身が生けるブッダとなる変容のプロセスが真に始まり、真に完結するのだ。悟りの生きた姿がグルの中に存在するという神秘に対して、あなたの精神と心が喜びと驚きと認知と感謝のうちにすっかり開ききったとき、そのときから、ゆっくりと何年もかけて、グルの智慧の心からあなたの心へと伝播が起こるのである。宇宙それ自体の至上の輝きを伴って、あなた自身の仏性の輝きをあますところなく解き放ちながら。

 この弟子とグルの極めて密接な関係は、生と世界に対する弟子の姿勢を映し出す鏡、その生きたアナロジーとなる。
 グルは【清浄な目】をたゆまず実践していく上での中心人物となるのである。つまり、あらゆる疑念を超えて一切の介在を排し、弟子がグルを生けるブッダとみなしたときに、【清浄な目】は頂点に達するのである。
 グルの言葉の一つ一つを仏陀の言葉として聞き、その心を仏陀の智慧の心と思いなし、その一挙手一投足を仏陀の行為のあらわれと見、その住処をほかならぬ仏国土と感じ、その周囲の人々をもグルの智慧の光輝く顕現と見るようになったとき、それは頂点に達するのである。
 このような感覚がより安定した現実のものとなってくると、弟子たちがいくつもの生に渡って心から望んできた内なる奇跡が一つまた一つと起こり始める。弟子たちはごく自然に自己を、宇宙を、すべての存在を、例外なく本来清浄で完璧なものと見るようになる。ついにリアリティを自分の目で見るようになるのである。つまり、グルが道なのだ。グルは弟子の知覚の一切を変容させる神秘の石なのである。


 ――ソギャル・リンポチェ

 パトゥル・リンポチェのグルはジクメ・ギャルウェ・ニュグといった。ジクメ・ギャルウェは何年ものあいだ山中の洞窟で一人リトリートの生活を送っていた。ある日のことだった。穴から出てくると、さんさんと降り注ぐ明るい日差しに誘われて、彼は思わず空を見上げた。雲が一つ、彼の師ジクメ・リンパの住んでいる方向に向かってゆっくりと動いていた。「あそこにグルがいるんだなあ」という思いが彼の心に浮かんだ。すると、その思いと共に、グルへのあこがれと敬信の感覚が津波のように彼を襲った。それがあまりに強烈で圧倒的だったために、彼は気を失った。意識を取り戻したとき、師の智慧の心の加護があますところなく彼に伝わっていたのである。彼は最高の悟りに、私たちが【現象的現実の消滅】と呼ぶ境地に達していたのである。

(「チベットの生と死の書」より)

「私は母なる神に、ただ純粋な愛だけをお願いしました。花を手に持ってマーの御足に花を捧げて、こう申しあげたものだよ。
『母よ、さあ、あなたの罪を取り上げ、あなたの徳を取り上げて、私に純粋な愛をください。あなたの明智を取り上げ、あなたの無明を取り上げて、私に純粋な愛をください。あなたの清浄を取り上げ、あなたの不浄を取り上げて、私に純粋な愛をください。あなたのダルマを取り上げ、あなたのアダルマを取り上げて、私に純粋な愛をください』
と。」

(ブラフモー信者たちに)
「どれ、一つプラサードの歌を聞きなさい。」


 カーリー カンタパルの根本に
 さあ、散歩に行こう、来なさい、心よ
 行って、人生の四つの果実を集めよう。
 欲望と離欲の二人の妻のうち、
 樹まで行くには、離欲の妻を連れて行き
 そして
 ヴィヴェーカ(識別智)という名の彼女の息子に
 真理のことを尋ねるがよい。

 清浄と汚濁を侍らせて、いつの日にか神の部屋に寝るがいい、
 彼のこの二人の妻が仲良くするそのときに、
 黒き母シャーマーのお姿を得る。

 お前の我執と無智という父と母を追放せよ、
 迷妄が暗い穴に引きずり込もうとするなら、
 忍耐の柱をつかんでいよ。

 善と悪の二匹の羊は、無頓着の杭に結びつけ
 それでもメーメー騒ぐなら
 智慧の剣で殺すがよい。

 お前の最初の妻(欲望)の息子には、離れているように説得せよ、
 そしてもし彼らが納得しないなら、
 完全なる神の叡智の海に溺れさせるがよい。

 プラサードは言う、ことが運べば、死神に報告書を提出しよう、
 それでこそ愛しき息子、
 愛するお方に選ばれて
 真実そのものになるだろう。


(ラーマクリシュナの福音)
このような希有な出生を得て、私に必要なのは、神の蓮華の御足への愛を育てることである。(ラーマクリシュナ)
人は、この世界という仕組みの中の唯一の行為者は神である、自分たちは神の御手の中の道具に過ぎない、ということを感じるようになれば、これこそジーヴァーンムクタだ。私がしている、私がやっていると思っている限り、悩みは続くし、不安は尽きない。(ラーマクリシュナ)

 ドゥジョム・リンポチェはよく、インドの豪胆な盗賊の話をした。数知れぬ掠奪の限りを尽くした果てに、その盗賊は自分のしてきたことを悔いるようになった。何とかして悪事を償いたいと思い悩んだ末に、ある有名な師を訪ねた。盗賊は言った。『私は罪人です。ひどく苦しんでいます。ここから抜け出す道はあるでしょうか。私はどうすればよいのでしょうか。』

 師は言った。『お前の知覚やら感覚やらを、ごっそり盗み出すがいい。空に浮かぶ月を、星を、一つ残らず盗み取って、空の腹の中に、心の本質のすべてを包み込む空間の中に、放り込んでしまうがいい!』

 21日経って、その盗賊は、自らの本質を悟った。そしてついにはインドの偉大なる聖者の一人に数えられるようになった。

 そう、古い時代には、並外れた師のもと、この盗賊のように無心で一途な弟子がいて、揺るぎない信頼をもってただ一つの教えに専念し、解脱に至るということがあったのだ。だが今でも、力に満ちた智慧の手法をただ一つ心にとどめ、それをもって直に働きかけていったなら、私たちにも悟りに至る可能性はあるのだ。

 しかし、私たちの心は疑いに満ちて混乱している。私は、疑いこそが人間の成長を妨げる、欲望や執着よりも大きな障害なのではないかと思うことがある。私たちの社会は智慧よりも狡猾さを奨励し、知性の極めて表面的で、粗雑で、最も無益な面ばかりを褒め称える。私たちは間違って「洗練」され、神経症を病み、その結果、疑いそのものを真理だと思うようになってしまった。エゴが懸命に智慧から我が身を守ろうとする、その必死の試みに過ぎない「疑い」を、最終目標として、真の知識の結実として、神聖視するようになってしまった。この卑劣でさもしい疑いは、下劣な輪廻の帝王である。その周りには多くの「専門家」たちが仕えている。


 ――ソギャル・リンポチェ


 エゴの屈折した専制に終わりをもたらすために、私たちは精神と霊性の道を歩むのである。だが、自我の術策は数限りなく、あらゆる局面で、それから逃れようとする私たちの思いをくじき、ねじ曲げる。真理は単純であり、教えは極めて明快である。にもかかわらず、人が真理と教えに触れて動き始めるや否や、自我は自分の存在が脅かされたことを知って、真理と教えを複雑でわかりにくいものに変えてしまう。そういう例を私は何度も深い悲しみをもって見てきた。

 はじめ、人が精神と霊性の道とその可能性に魅せられると、自我はその人を励ます。「本当に素晴らしい。これこそ君にぴったりだ! この教えは全く道理にかなっているよ!」

 やがて、瞑想修行をしてみたい、リトリートをしてみたいと人が望むようになると、自我は耳元で囁く。「素晴らしいアイデアだ! 私もご一緒しよう。共に学ぶところがあるかもしれないからね。」
 精神的成長の蜜月期間、自我は励まし続ける。「これはすてきだ。本当にすごい。感官の息吹を浴びるようだ……」

 だが、教えがその人の深いところに触れるようになると、どうしても人は自己の真実に直面しなければならなくなる。自我が暴かれ、触れられたくないところに触れられるようになる。するとさまざまな問題が起こってくる。目を背けることのできない鏡を目の前に突きつけられたようなものだ。透明な鏡。しかしそこには醜くゆがんだ顔があって、こちらをにらんでいる。自分の顔だ。それを見たくないために、人は反発し始める。怒りにかられ、鏡を粉々に打ち砕く。だが、同じ醜い顔が無数に散らばるだけ。その一つ一つがこちらをにらみ返している。

 まさに人が激昂し、苦り切って不平を鳴らし始めるときだ。だが、そのとき自我はどこにいるのか? 忠義顔で脇に立ち、煽り立てているのである。「君の言うとおりだ。これはひどいよ。あんまりだ。もう我慢することはない!」
 人が思わず耳を傾けると、自我はありとあらゆる疑いや不穏な感情を吹き込む。火に油を注ぐ。「これが君にふさわしい教えではないことがわかったかい? だから言っただろう。彼は君の師なんかではないんだよ。やっぱり君は知的な、現代的な、洗練された西洋人なんだ。エキゾチックな禅や、スーフィズム、瞑想、チベット仏教などというものは異質なもの、東洋の文化に過ぎない。千年も昔にヒマーラヤの山奥で生まれた哲学が、なんで君の役に立つだろう?」

 人がますますその蜘蛛の糸にからめとられていくのを、エゴは上機嫌で眺めている。そして、教えに従って自己を知るために人がくぐってゆかねばならないあらゆる苦痛、孤独、様々な困難を、自我は非難し始める。
 さらには師を非難する。「君がどんな目にあおうと、このグルは気にしちゃいないんだよ。ただ君を食い物にしているだけだ。”慈悲”だとか”敬信”だとかいった言葉を並べて、君を自分のもとにつなぎとめておこうとしているだけなんだ……」

 自我はとても利口だ。教えを自分の都合のいいようにねじ曲げる。「悪魔は自分の都合のいいように聖書を引用できる」のである。
 
 自我の最後の武器は、師とその門人たちを偽善者ぶって糾弾することだ。自我は言う。「ここには教えの真実にしたがって生きている者など一人もいないじゃないか!」
 こうして自我は正義の審判官を演じ始める。抜け目なく、あらゆるものに目を光らせる。そうすることによって人の信念をなえさせ、精神的変容への意志と努力をむしばむのである。

 だが、自我がどんなに精神と霊性の道を阻もうとしても、断固その道を歩み続け、瞑想行に深く入っていったなら、あなたは自分が今まで自我の約束に騙されていたことに、偽の希望と偽の恐怖に騙されていたことに気付くようになる。希望と恐怖がともに心の平安の敵であったことを、あなたは少しずつ理解し始める。希望に裏切られてむなしさと失意のうちに置き去りにされてきたことを、恐怖におびえて偽りの自己という独房に閉じこもってきたことを、理解し始める。さらには、エゴの不安定な揺らぎがいかに自分の心を左右してきたか、といったこともわかってくる。そして、瞑想によって開かれた自由な空間の中で、執着から一時解放されたとき、あなたは自らの心の本質の奮い立つような広大さを垣間見るのである。自我が、あくどいペテン師のように、内なる破綻をもたらすだけの非現実的な予定と計画と約束で、何年もの間あなたを騙していたことにあなたは気づく。瞑想の静けさの中でそれに気づいたとき、その事実から目をそらすことで自らを慰めようとせず、それを直視したとき、あらゆる予定と計画は空疎なものとなり、崩れていく。


 ――ソギャル・リンポチェ


 人間は「宇宙」と呼ばれる全体の一部なのです。時間と空間の中に限定された一部なのです。人間は自己を、自己の施行や感覚を、他から分離したものとして経験します。――それは意識の視覚的錯覚とでもいうべきものです。この錯覚は、私たちを個人的な欲望と、ごく身近な幾人かの人間への愛情に縛り付けている、一種の牢獄なのです。
 私たちの課題は、すべての生きとし生けるものを、自然のすべてを、その美しさのままに包み込むまでに慈しみの輪を広げ、私たち自身をこの牢獄から解放することにこそあります。


 ――アルバート・アインシュタイン

信者「マハラージ、どういうことですか?
 そのような超人的な努力の後に、シャーンティを得られないならば、気がめいるだけです。
 希望がすべて消えてしまいました。がっかりですよ!
 希望が心の中に膨らむ前に、それらは全部 消えてしまいました。」


ラトゥ「まあ、この一つのことを覚えておいておくれ。
 満足は、霊性の実践の道における大いなる障害だ。
 それを得てしまうと、それ以上の進歩の妨げとなるのだ。
 無限の境地に限界があり得るだろうか?」


もう一人の信者「それはそうかもしれませんが、マハラージ、すべての厳しい苦行の実践がシャーンティを獲得するためにあるということは事実ではないのですか?
 それにあなたは、シャーンティはさらなる進歩の障害になることはないと仰いました!」


ラトゥ「そうだよ、すべての修行はシャーンティを得るためにある。
(少し黙ってから、また話し始められた)
 でも、シャーンティとは、すべての欲求が消え去ったときに現れる満足感なのだ。――欲求がなかったら、どんな衝動が、われわれをさらなる境地へと導いてくれるのだ?」


信者「つまり、シャーンティを超えた境地があるのですね?」


ラトゥ「その通り。シャーンティを超えた境地は無数にある。
 しかしそれらを得るためには、まず最初にシャーンティを得なければならない。
 君たちはこのシャーンティの性質を知っているのか?
 それは充実した感覚、それ自体で満ち足りているのだ。
 悩み、苦難、不安は心に影響を与えない――この境地をシャーンティという。
 しかし、より高い霊性の境地への扉が開くと、また別の種の不満が心を満たすのだ。
 この不満は、全く違った種類のものだ。それは説明できるようなものではない。
 そこにおいては、修行者はぼんやりとしていることができなくなる。そのうえ、個人的な努力が無益だということに完全に気づいてしまうのだ。」


ある信者「それは全く謎めいた言葉でございます、マハラージ。われわれの理解では追いつきません。
 どうか、われわれの言葉で説明してください。」


ラトゥ「なあ、それを理解するには、少しばかりの修行が必要なんだよ。
 苦行や深い思索をしないでは、これらの事柄は謎めいたままなのだ。
 君はちょっとしか実践していない。――それだと、私が何千回説明しても、それらはずっと謎のままだ。」


 上記の会話から、このジャダ・サマーディは個人の努力によるものではなく、そのうえ、その努力なしでもそれは得られない、ということがはっきりとわかる。――その言葉は謎めいているが、その内容は明快である。



(「私が見たアドブターナンダ」より)



 ある日、バララーム・バーブの家で、ビハーリ・バーブがラトゥにこう尋ねた。

「サーダナーには終わりがない、神の御力や光輝にも終わりがないし、境地にも終わりがない、また真我にも限りがない――とあなたは繰り返し仰いますが、聖典にはムクティ(解脱)のことが説かれています。
 ならば、それは何なのですか?」


 これに関してラトゥ・マハラージが答えたことを、以下に大々的に引用しよう。

「君にとって、ムクティとは、束縛からの自由ということだろう。
 しかしサーダナーにおいては、それは融合を意味する。
 ちょうど川の水が海の水に溶け込むように、個々のアートマンはパラマートマンの海に溶け込む。
 あるいは言い換えれば、修行者(サーダカ)は完全にパラマートマンの中で自己を忘れる。
 しかし君は、そのことに終わりがあると思っているのだね?」

 ラトゥ・マハラージは続けた。

「主のお遊びは、忘我の境地の中でさえ解放してくださらない程、非常に驚くべきものなのだ。
 忘我の後、再び探究が始まる――それは内も周りも、完全な力と甘美、そして完全な光輝と美に満ちた広々とした空間での新たな探究だ。
 河の水を例にとってみよう。
 そのサイクルは、海に合流したら終わるだろうか?
 それらは、太陽の熱によって蒸気に変わり、再び空に昇って、また地上に降ってくるのではないか?
 修行(サーダナー)の美もそのようなものだ。
 ひとたび修行者が主の中で自己を失うと、主は――もし彼がお望みならば――彼を見つけて、再び変革した自己を探す旅に彼を置く――この、失い、また見つけるというゲームは――たぶん――永遠に終わることはない。
 それは決しておもしろくなくなるということはないし、修行者を飽きさせることもない。そう、絶対にない――さらなる甘美で壮大な境地が、彼を次へ次へと駆り立てる。
 修行(サーダナー)はこのように、終わることはない。人を駆り立てる力は無限なのだ。
 でも、それは誰のサーダナーだというのだろう!
 誰の力だと言うのか!
 もちろん真我のだ。われわれが想像するよりも遥かに多様な意味で無限の真我のだ。」


 全神経を集中させて聞いていたビハーリ・バーブは、彼にこう尋ねた。

「マハラージ、これがサーダナーの神秘ならば、自己を失う、そしてまた自己を探すということに何の意味があるのですか?」


ラトゥ「それが神のお遊びなんだよ。それはそんな感じで続いていく。
 そこに『なぜ』というような論理はないのだ。
 遊び好きの主は、彼のお遊びをする。
 隠れんぼでは、鬼が子のために一回のゲームを終わらせる。
 しかし、鬼が彼にウインクすると、子はまた再び遊ぶことができる。
 このサーダナーというゲームの独特のものは、子になっているのも、鬼になっているのも、主ご自身だということだ。
 彼ご自身がそれらの役を演じられるのだ――彼が霊性のサーダナーに耐え、彼が束縛からの解放を味わい、そして再び彼が束縛を受け入れる。
 そして、それらの自らに課した束縛において、彼は他者に自由への道を示す。
 まったく、彼のお遊びは想像を超えている!
 彼ご自身が望まない限り、誰もこれを微塵も理解できない。
 ほら、最初から最後まで、彼の恩寵がすべてのすべてなんだよ。」


(「私が見たアドブターナンダ」より)

◎シュリー・シュリー・ラーマクリシュナの到来


 自然主義者であったドクター・ラームチャンドラダッタは、1879年にシュリー・ラーマクリシュナのところへやって来て、彼の生命を蝕んでいた疑問を吐露した。
 そして、そのリシの微笑みは、一瞬でその難題を解決してしまった。
 この医者の人生を知っている者ならば誰でも、彼がシュリー・ラーマクリシュナを見たその時から、神の信者に変わってしまったのだと証言できるだろう――そこに議論の余地はない。
 聖典には、リシはその存在によって、彼と接触しに来た者たちすべての中に神への信念を植え付ける、と説かれている。

 ドクター・ラームチャンドラの心の砂漠に撒かれた神への信の種は枯れることなく、少しずつ芳しい花々とみずみずしい果実をつけた美しい樹へと――神聖なる愛、不変の平安へと――成長していった。
 それは普通の変化ではなく、人格の完全なる変革、心と見解の完全な変化であり、それによって、干からびた知性が取り除かれ、永遠に広がり続け、永遠に深まり続ける無限者への求道の扉が開かれたのだった。
 個性の中の美が開かれるというのは、常に圧倒的なことである。
 シュリー・ラーマクリシュナとの束の間の交わりによって、ラームチャンドラダッタは彼に魅了され、人間をグルとして受け入れることに断固反対であったはずの彼の中に、あらゆる事物に関してシュリー・ラーマクリシュナを導き手として持ちたいという溢れんばかりの欲求が生じた。
 彼はその望みを叶えるために、シュリー・ラーマクリシュナに懇願し続けた。

 霊性の修行への彼の熱意は急速に増大し、彼の家族全員にもその火が付けられた。
 少年召使のラクトゥラームも、その火から逃れることはできなかった。
 とはいえ、読み書きができず、(現代教育的な意味で)無学であったその少年は、ブラフマン、真理の複雑微妙なる概念を理解することはできなかった。
 しかし彼は、この問題から抜け出す道を見出した。
 彼は、最愛の理想神(イシュタ)であるシュリー・ラーマをそのブラフマンとして受け入れ、その彼の御足に、強烈でけがれなきハートの愛を注いだのだった。


 ラームダッタの家でのある祝い事の時に、その少年は(ラーマクリシュナの教えである)以下のことを耳にした。

「主はそのバクタの心の中をごらんになる。その人が何者か、どこにいるのかは気にしない。
 主を見ることに夢中になっている人、主以外の何ものも求めない人、そのような人に主は自らを現わされる。
 誠実に、夢中になって主を求めなければならない。自分の中から策略や陰険さを追い出さなければならない。単純な子供のようにならなければならない。そういう人に、主は自らをお現わしになる。
 人は一人になって憧れを持って主に呼びかけ、主を思って泣かなければならない。
 そうして初めて、主はお恵みを与えてくださるのだ。」

 これらの言葉を主人であるラームダッタの口から聞き、少年ラトゥの心は深い感銘を受けた。
 晩年になってからも、アドブターナンダ(ラトゥ)はよく、これらの言葉を、彼が一番最初に聞いたときと同じようなイントネーション、アクセント、句読で、信者に繰り返していた。
 彼は数えきれないほど、これらをわれわれに繰り返し説いてくださった。それは毎回、われわれにとって非常に新鮮で魅力的だったので、毎回、まるでそれを初めて聞いたように感じるのだった。

 そして彼は非常に真面目に、それを実践していたようだった。

 ラトゥが少年時代から、これらの教えをサーダナーの種子であると見なしていたことは間違いないだろう。

 ラームダッタの次女は、後にこう証言している。

「私たちはよく、ラトゥが応接間の隅に横たわって、頭から足まで毛布に包まっているのを見かけました。
 彼の眼は赤く、しばしば涙で溢れていました――彼はそれを左手でよく拭っていたのでした。
 最初、私たちは、彼はホームシックにかかり、叔父さんのことを考えているのだろうと思っていたので、お母さんはよく彼を慰めていました。
 しかし彼は黙ったままで、何も言いませんでした。」


 この涙の理由が、誰に理解できようか!




(「私が見たアドブターナンダ」より)

 無執着とは、我々が縛り付けられているものから、我々自身を解放することである。
 無執着による自由とは、執着からの自由である。
 地上のつまらないことや、人生の喧騒や混乱などから自分を引き上げて、常に神のことを考えなさい。


(サーダナーの指針の花輪)

「赤ん坊は、内に泥棒を持っていないから、外に泥棒を見ません。
 すべての知がそうです。
 世界の悪とそれのすべての罪のことを話しなさるな。
 自分がまだ悪を見なければならないことを、お泣きなさい。」


ヴィヴェーカーナンダ

 最期が近づくにつれ、ホーリーマザーは長く座っていることができなくなっていかれた。しかし寝ておられるときも、彼女がジャパを続けておられることに私は気づいた。
 ジャイラームヴァティで、何かの用事で夜中の一時か二時に彼女を起こさなければならないことがあったとき、彼女はいつもすぐにお返事をなさった。私が、お眠りになっていなかったのですかとお聞きすると、彼女は、

「仕方ないでしょう。私の子供たちは必死の思いでやって来て、私からイニシエーションを受けたのです。でもある者は規則正しくジャパをしていないし、全くやっていない人もいます。私は彼らの荷物を引き受けたのだから、彼らの世話をしなくてはならないでしょう? だから彼らのためにジャパをしているのです。私は彼らのために、
『おお主よ、彼らの霊的な意識を目覚めさせてください。彼らに解脱をお与えください。この世は悲しみとみじめさの泉です。彼らがそこへ戻ることのないよう、お見守りください』
と、師にお祈りしているのです。」

とおっしゃった。そう言いつつ彼女はゆっくりと起き上がってお座りになった。
 彼女はお続けになった。

「彼らは熱烈な気持ちでイニシエーションを受けました。それなのにどうして修行をしないのでしょう? そんなに難しいことなのかしら。少しの修行で大きな喜びを得ることができるというのに。ああ、ヨギン・マーと私は、なんという至福を味わいながらヴリンダ―ヴァンで長い時間ジャパをして過ごしたことでしょう! 蚊にたかられて顔がはれても、気づきませんでした。」

 
 ある日、ホーリーマザーはおっしゃった。
 
「どんなにジャパをしても、どんなに働いても、すべては何にもなりません。マハーマーヤーが道を開けてくださらない限り、人には何もできないのです。ああ、束縛された魂たち! 帰依しなさい、帰依しなさい。そうして初めてあなた方を憐れんで、彼女が道を開けてくださるのです。」

 こう言って彼女は、師の生涯におけるカーマールプクルでの出来事の話をなさった。

「ジェシュタ月のある日の夕方に大雨が降りました。いたるところがあふれた水に覆われました。師は水につかってドンパダ近くの大通りを歩いておられました。そこにはたくさんの魚の群れが集まっていて、人々が棒でたたいて魚を殺していました。
 一匹の魚が師のもとに来て、足元をグルグルとまわりました。師はそれに気づいて、
『おい、この魚を殺すなよ。これは私の足元にまとわりついている。私に帰依しているのだ。できるならだれかこの魚を池まで運んで放してやっておくれ』
とおっしゃいました。それから師はご自分で魚を放してやり、家に帰ってから、
『おお、この魚のように帰依してはじめて、人は神の庇護を得ることができるのだ』
とおっしゃいました。」



(『ホーリーマザーの福音』より)


 
悪しき観念を放棄しなさい。そうすればグルはあなたにサマーディとムクティを授けてくださる。
 精進し、純粋になり、瞑想し、そして悟りなさい。


 ――シヴァーナンダ

「菩薩は、素晴らしき師にその身を任せることで、悪趣に落ちることはなくなる。
 素晴らしき師の導きによって、菩薩の戒にそむくことはなくなる。
 素晴らしき師の導きによって、現世から解放される。
 素晴らしき師に親しみ近づくことによって、真理から心が離れることがなくなる。素晴らしき師によって、菩薩の一切の稀有なる行を授けられるが故に。
 素晴らしき師によって正覚道に導かれることによって、カルマの障害を取り除き、生死を越えて、清浄の境地に至る。

 それゆえに、素晴らしき師に親しみ近づき帰依する者は、次のように考えるべし。
 心は大地の如くあれ。一切の重荷を背負っても疲労なき大地のように。
 心はダイヤモンドの如くあれ。決して壊すことのできない、ダイヤモンドのような志を持て。
 心はしもべの如くあれ。師から与えられたもろもろの使命を嫌がることなく全力で行なうしもべのように。
 心は巨大な車の如くあれ。重荷を運んで遠くに達し、決して動揺することがない巨大な車のように。
 心は良馬の如くあれ。暴悪ならざる良馬のように。
 心は渡し船のようであれ。衆生のために、輪廻とニルヴァーナの往復を、飽きることなく行なえ。
 心は孝行息子のようであれ。母なるすべての衆生のために尽くす孝行息子のようであれ。
 
 また、自己は病人であると考え、素晴らしき師は医者の王であると考え、師の教えは良薬であると考え、修行の実践は病を癒すことであると考えるべし。」




 ――ガンダヴューハ・スートラ

朝と夕に三回ずつ、三つの集まり(罪悪の懺悔、功徳の随喜【ずいき】、菩提回向【えこう】)を転現せよ。これと、菩提心ならびに勝者(仏陀)をよりどころとすることによって、気づかずに犯した罪が消される。



入菩提行論
天空のように無数に存在する敵を、私はすべて殺すことができるだろうか。
ただ私の怒りの心が殺されれば、すべての敵(という概念)は殺される。


入菩提行論

大地をすべて覆うことのできる皮が、どこにあるだろうか。それはどこにもありえない。
ただ皮の靴を履くことによってのみ、大地はすべて覆われる。

これと同様に、私は外界の存在物を制することはできない。私は自分の心を制しよう。どうして他を制する必要があるだろうか。


入菩提行論

「慈愛、慈悲、そして菩提心の中で心を訓練するならば、三悪趣に転生することはないであろう。
 そしてその思いを持ったまさにその瞬間から、決して堕落することはないだろう。
 これは私の最高の口頭の教えである。
 どこに行こうとも、心に菩提心を保ち、菩提心から絶対に離れてはならない。
 あなたが行なうすべての行為は、衆生のために行なうのだということを修習しなさい。
 自己より重要なものとして他者を見なすことを修習しなさい。
 あなたはこの修行の結果として、多くの特質を手に入れるだろう。
 もし菩提心を養わなければ、たとえマントラの達成を得て、非常に力強くなろうとも、悟りには到達しないだろう。
 すべての一般と最上の成就は、あなたの中に生じる菩提心に起因するであろう。
 これは私の最高の口頭の教えである。」


グル・リンポチェ
心を訓練する八つの詩

 如意宝珠にもまさるすべての衆生の最高の幸福を実現しようとの決意をもって、いつも彼女たち(母なる衆生)を慈しむことを学べますように。

 いつであれ、他者と交流するときは、自分自身を最も劣った者と見なし、自らの心の奥底から、他者を優れた者として慈しむことを学べますように。

 あらゆる行為をするときに、心の中でよく吟味することを学べますように。
 自分と他者を危機に陥れる思いが起こったならば、すみやかに断固としてそれに立ち向かい、退散させることができますように。

 性根の悪い人たち、悪行や苦しみによって強くさいなまれている人たちを大事にすることを学べますように。
 あたかも貴重な宝を見いだしたかのように。

 他者が妬みから悪口、中傷などをもって私を不当に扱うときも、損失はすべて私が引き受け、勝利は他者に与えることを学べますように。

 自分が大きな期待をもって尽くした人が理由もなく私をひどく傷つけるときも、すばらしい心の導き手として、その人を見なすことを学べますように。

 要するに、直接的にも、間接的にもあらゆる手助けと幸福を、我が母なるすべての人々に例外なく与えることと、我が母なる人々のあらゆる危害と苦しみを謹んで私が引き受けることを学べますように。

 これらすべての心の訓練が、八つの世間的な関心物の垢によっては汚されないことを学べますように。
 また、あらゆる現象は幻のようであると理解することによって、執着の束縛から解放されますように。

 菩薩が布施によってすべての衆生を摂め取るとはいかなることか。菩薩が財施と法施の二種の布施をもって衆生を摂め取ることである。これは菩薩がなしうる稀有で及び難い行為である。

 菩薩が愛語によってすべての衆生を摂め取るとはいかなることか。菩薩が六つのパーラミターをもって衆生のために法を説き、次のように言うことである。――「あなた方が六つのパーラミターの行を修めるならば、そこにはすべての善が含まれる」と。

 菩薩が利行、すなわち衆生に利益を与える行為をもってすべての衆生を摂め取るとはいかなることか。菩薩が常に衆生に六つのパーラミターの行を修めさせることである。

 菩薩が同事、すなわち行動や苦楽を共にすることをもって、すべての衆生を摂め取るとはいかなることか。菩薩が五種の神通力をもって種々に変化して、輪廻の世界に身を投じ、それぞれの境涯にある衆生と、その生活を共にすることである。


(二万五千頌般若経)
私を誹謗し、その他損害を加え、また嘲笑する人々――これらすべての人々は、覚醒にあずかる者たれ。

よるべなき者のよるべ、旅行者の隊長と私はなりたい。彼岸にわたろうと願う人々の船、堤防、橋となりたい。

すべての生類に対して、灯火を求める者のためには灯火となり、寝台を求める者のためには寝台となり、召使を求める者のためには召使となりたい。

衆生のために、如意珠、幸福の水瓶、成就のマントラ、大いなる医薬、如意樹、如意牛と私はなりたい。

あたかも全空間に住する無量の衆生に、地・水・火・風の元素が、様々に役立つように、――一切が(輪廻の苦から解放されて)静安とならない間は、空間に住するすべての衆生が私を享受しうるようになりたい。

往昔のスガタが菩提心を受持したように、そして菩薩の実践規律を定めの通りに遵守したように、そのように、世界の善福のために、私は菩提心を起こそう。そしてそのように、順序に従って、実践規律を実践しよう。

かように賢者は、清らかな喜びに満ちた心で菩提心を発して、さらに後に続く心を養い育てるために、次のように喜びの心を起こすべきである。

――「今日、私の生は実を結び、人間としての存在は、得られがいのあるものとなった。今日、私はブッダの家に生まれ、今や私はブッダの子である」と。
そこで今や、己の家柄にふさわしい行いをなす人たちのなす業を、私はしなければならぬ。汚れのないこの家に、汚点が生じないように。

(入菩提行論)

たとえ一切の神々と人間とが私の敵であったとしても、私を無間地獄の火の中に引き入れることはできない(しかし私の煩悩はそれを可能とする)。

(入菩提行論)
 魂の宝物
 
 ――スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集――


 第一部

  ベンガル語から翻訳された手紙


 
                                ベルル・マトにて

 親愛なるハリモハンへ

 わたしはあなたからの久しぶりの手紙を受け取ったところです。
 病気の状態はどうですか? またあの胸の痛みが出ているのですか? いつも体には気をつけてください。
 注意深い人は、悲しみに左右されないものです。そのことをけっして忘れてはいけません。プララブダ・カルマ(今生経験しなければいけないカルマ)も、常に注意を怠らない人を苦しめることはできません。
 最近は何を学んでいるのですか? 聖書の勉強をやめてはいけませんし、そして同時に習慣として着実に瞑想を行なってください。
 純粋な人生は、本当に貴重なものです。だから、常に心の純粋さに気をつけてください。自分は安全だなどとけっして考えてはいけませんし、常に神に避難してください……。

                                あなたのやすらぎを願う者
                               トゥリヤーナンダ






                              ベルル・マトにて

 親愛なるハリモハンへ

 あなたからの別の手紙を受け取ったところです。
 あなたが元気でやっていると聞いて、嬉しく思います。
 どうか健康には気をつけてください。
 繰り返される病気に関してあなたのエネルギーを消耗するよりも、神を思い出すことに使うほうがよいのです。
 K・ババジの振る舞いに怒ってはいけません。あの教派ではほとんどわずかな教育しか行なわれておらず、結果的に彼らは狭量で迷信的なのです。
 あなたは人生を自分の方法で送り、他者の幸福のために祈ればいいのです。
 どんな相手であっても、口論したり、言い争ったりすることは意味のないことです。
 あなたがギーターを学んできたことは、とても素晴らしいことです。ギーターはあらゆる聖典の真髄です。アルジュナはギーターを聞いたあと、疑いや迷妄から解放されました。そしてギーターをじっくりと思索する者は、だれでも確実に同じ結果を得るでしょう。けっしてギーターを学ぶことをやめてはいけません。
 わたしの愛と祝福を受け取ってください。

                                あなたのやすらぎを願う者
                                トゥリヤーナンダ




                                1898年11月14日
                                べルル・マトにて
                                
 親愛なるハリモハンへ

 おそらくあなたは、わたしがヴィジャヤの最終日にアルモラからここ[ベルル・マト]に着いたことをご存知でしょう。アルモラを離れているあいだにあなたからの手紙を受け取りましたが、お返事することができませんでした。どうかわたしからのヴィジャヤの挨拶をお受け取りください。
 精神的な生活おいて、常に注意深くあってください。どんな事柄に対しても、無鉄砲すぎてはいけません。自信過剰は、思いがけない大きな苦しみの元になります。「恐れがあるところに、勝利はある」ということをよく理解してください。
 わたしはあなたがマニラトナマーラ、または真珠の花輪[シャンカラによって質疑応答の形式で書かれたヴェーダンタの経典]を思い出してほしいと思っています。あなたが教えを身につけ、人生に適用できなければ、経典を学ぶことは無駄であり、あなたと聖なるものとの交わりは無益なものになります。
 なぜわたしがこのようなことをあなたに言っているのかをじっくりと考え、その後で、正しいと思ったことを実行することをけっしてためらってはいけません。

                                あなたのやすらぎを願う者、
                                トゥリヤーナンダ 

追伸:“良いことはすぐに悪いことに変わります。牛乳は簡単に凝乳になり、そしてけっして再び牛乳に戻らないように、人がいったん悪くなると、再び良くなることはありません。”[トゥルシーダース] 




                                1908年2月4日
                                U.P、メーラット ガダムクテーシュワルにて
                              

 親愛なるヴィシュッダーナンダへ


 昨日、あなたの詳細を知らせる手紙を受け取りました。このあいだ、Xからあなたについて聞きました。わたしはあなたがヴァーラーナシーで霊性の修行を行ない、神の恩寵のよって元気にしていると聞いて、嬉しく思います。あなたはホリーマザー[シュリー・サーラダーデーヴィー]からイニシエーションを受けたのですから、なにも恐れることはありません。さあ、喜んで自身を神に明け渡し、心配なく過ごしてください。

 束縛は外側にはありません。それは内側にあるのです。束縛は人の心の内側にあるのですが、間違って外側にあるように見えるのです。良いカルマと神の恩寵を通じて心が純粋になると、人はこのことをはっきりと理解できるのです。しかし知的な理解だけでは、束縛を取り除くのに十分ではありません。人が束縛から自由になるには、グルの恩寵と、激しい自己の努力が必要です。

 言うまでもなく、あなたは幸運です。あなたは世界の無常性を理解し、永遠の宝物を求めてそれを放棄しました――このことは、あなたが本当に幸運である証拠です。さらにあなたはホーリーマザーの祝福を受け取りました。あなたは巡礼に出かけ、一人になれる場所で霊性の修行を行なおうとしています――それはすばらしい解決法です。しかも、あなたはホーリーマザーからの許しを受けたのです。
 健康には気をつけるようにという彼女のアドバイスをけっして忘れてはいけません。心に師を抱いていれば、どこに行っても恐れることはありません。一切の場所が彼なのです。彼がいない場所がどこにあるでしょうか? だから心配しないでください。自由に聖地を旅し、一人になって霊性の修行を行ない、あなたの願望を叶えてください。誰もこれに異議を唱える者はいないでしょう。

 あなたは仕事に巻き込まれることについて書いていましたが、そのような心配は、私には根拠のないもののように思えます。働くことは悪いことではありません。それ以外に、人はどうやって心を浄化できるでしょうか? 人は働くときに試されるのです。自分が行動の結果に対してどれだけとらわれているか? どれだけ自己中心性がなくなり、そしてまだ残っているか? それらはすべて行為の遂行を通じてのみ知ることができるのです。神の愛が心に目覚め始めると、人はもはや仕事を単なる仕事とは見なしません。――それは礼拝に変わるのです。それが本当の献身なのです。

 修行生活の始めにおいて、人は理想に心を向けながら、仕事と礼拝の両方を行なうべきです。のちに、神の恩寵によって、瞑想と行ないの違いがなくなるときが来るでしょう。すべてのことが礼拝に変わるでしょう。なぜなら神は一切に遍在しておられるのですから。
 しかし、心に主を抱きながら、あなたが最善と思うことを行なってください。僧院の中で非利己的な行ないをすることも、または、人から離れた聖地で霊性の修行を行なうことも、どちらも等しくすばらしいのです。

 自分が弱いと考えてはいけません。あなたは弱いかもしれませんが、あなたが帰依する御方は全能なのです。したがって、彼の強さの中にあるあなた自身を強いと見なしてください。一切のものになっておられるのは神であると強く確信するとき、人は心に最高の強さが湧き上がるのを感じるのです。

 あなたの神への献身、信、渇仰が、絶えず増大しますように。あなたが神を思うことに夢中になり、今生で成就を得られますように。――これが私の祈りです。他に書くべきことがあるでしょうか?

                                あなたのもの、
                                トゥリヤーナンダより
「直接、生命力をコントロールすることにより心をコントロールするクリヤ・ヨガは、科学的にも合理的であり、神と合一するのに最も容易で効率的な方法だ。
神学によって神に近づこうとする方法は、いつ目的地に着くか全く見当もつかない牛車の旅のようなものだ。これに比べたらクリヤ・ヨガはまさに飛行機による旅だと言えよう。」

(パラマハンサ・ヨガナンダ)

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