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名作を読みませんかコミュの「道標」  宮本 百合子  38

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 伸子が夜となく昼となく自分の悲しみをかみくだき、水気の多い歎きの底から次第に渋い永続的な苦しさをかみだしている間に、パンシオン・ソモロフの朝夕はエレーナ・ニコライエヴナが来てから変りはじめた奇妙な調子で進行していた。

 食卓でトルストイの家出の話が、何かひっかかる言葉の綾をひそめて話題になってから程ない或る午後のことだった。
 ヴェルデル博士、伸子、素子の三人で、二マイルばかりはなれた野原の中にたっている古い教会の壁画を見に行った。
 附近の村からはなれて、灌木のしげみにかこまれた小さい空地にある淋しい廃寺で、ビザンチン風のモザイクの壁画が有名だった。
 そこを出てぶらぶら来たら、思いがけず正面の茂みの間をエレーナ・ニコライエヴナと技師とがつれ立って歩いているのにぶつかった。

 双方ともにかわしようのない一本の道の上にヴェルデル博士と伸子たちとを見て、エレーナと技師は組んでいた互の腕をはなしたところらしかった。
 そのままの距離で二人は二三歩あるいて来ると、派手な水色で胸あきのひろい服をつけたエレーナ・ニコライエヴナがわざとらしくはしゃいだ調子で、
 「まあ思いがけないですこと!」
 と、明らかにヴェルデル博士だけを眼中において近づいて来た。
 「お邪魔いたしましたわね」

 ヴェルデル博士は、黒いソフトのふちへちょっと手をふれて、技師へ目礼し、いつものおだやかで真面目な口調に苦笑しながら云った。
 「誰が誰の邪魔をしたのか、私にはわかりかねますな」
 伸子たち三人はそのまま帰り道へ出てしまった。
 その間技師は少し顔をあからめたまま、ひとことも口をきかなかった。
 「男の方があわてたのさ。
  エレーナなんか、どうせ出張さきのひと稼ぎの気でいやがるんだ」
 二人きりになると、素子は憤慨して云った。
 「あんまり人を馬鹿にしているじゃないか、あんな感じのいいちゃんとした細君を、
  わきへおいときながら、その鼻っさきで。
  甘助技師奴」

 夜のお茶にパンシオン・ソモロフの人々がみんなテーブルについたとき、素子がとなりのリザ・フョードロヴナに、誰でもする会話の調子で、
 「きょう散歩なさいましたか」
 ときいた。
 「いいえ」
 暗色のロシア風な顔の上ですこし眉をあげるようにして、リザ・フョードロヴナは若くない女のふっくりした声で答えた。
 「わたしは部屋に居ました――本をよんで」
 「それは残念でしたこと。
  わたしたちは、あなたの旦那様とエレーナ・ニコライエヴナが、
  散歩していらっしゃるのにお会いしましたよ、あの原っぱの古いお寺で。」

 わきできいていて、伸子はきまりわるい心持がした。
 素子は、リザ・フョードロヴナに感じている好意から技師とエレーナに反撥してそんな風に話しはじめたにちがいないのだ。
 でも、それはおせっかいで、誰にいい感じを与えることでもなかった。
 伸子は、そっと素子をつついた。
 すると素子は、伸子のその合図を無視する証拠のように、こんどはエレーナ・ニコライエヴナに向ってテーブルごしに話しかけた。

 「エレーナ・ニコライエヴナ、散歩はいかがでした?
  あなたが、古い壁画にそれほど興味をおもちなさるとは思いがけませんでしたよ」
 エレーナ・ニコライエヴナは素子がリザ・フョードロヴナに話しかけたときから、歴史教授のリジンスキーといやに熱中して、デーツコエ・セローでは有名なその寺の由緒について喋りはじめていた。
 自分に話しかけられると、彼女は軽蔑しきった視線をちらりと素子になげて、技師の細君に向って云った。
 「ほんとにきょうは偶然御一緒に散歩できて愉快でしたわ。
  ねえリザ・フョードロヴナ、ぜひ近いうちに皆さんともう一度、
  あの寺を見に参りましょうよ、リジンスキー教授に説明して頂きながら……」

 素子は、そんなことがあってから益々エレーナと技師の行動にかんを立てた。
 ゆうべ、廊下で二人が接吻してるのを見かけた、ということもあった。
 伸子は苦しそうな顔つきになって、
 「いいじゃないの。
  放っておおきなさいよ。
  おこるなら奥さんが怒ればいいんだもの」
 と云った。
 「エレーナはおもしろがっていてよ。
  あの日本女《ヤポンカ》、やっかんでいると思って――」
 「チェッ! だれが!」

 素子は顔をよこに向けてタバコの煙をふっとはいた。
 「あんまり細君をなめてるから癪にさわるんじゃないか」
 正義感から神経質になっている自分を理解していない。
 そう云って素子は伸子をにらんだ。
 耳にきこえ、目にも見える夏のパンシオンらしい些細な醜聞に、伸子は半分も心にとめていなかった。

 保が死んで日がたつにつれ、動坂の家というものが、いよいよ伸子にとって遠くのものになって行った。
 自分もそのなかで育ったという事実をこめて。
 保の死は、動坂の家がどんなに変質してい、また崩壊しつつあるかという現実を伸子につきつけて思いしらした。

 ひとりでじっとしていると、伸子の心にはくずれてゆく動坂の家の思いが執拗に湧いた。
 パンシオン・ソモロフのヴェランダの手摺に両方の腕をさしかわしてのせ、その上へ顎をのせ、伸子が目をやっているデーツコエ・セローの大公園の森はもうほとんど暗かった。
 黒い森の上に青エナメルでもかけたような光沢をもってくれのこった夕空が憂鬱に美しく輝いている。

 伸子の心の中に奇妙なあらそいがあった。
 心の中で、又しても動坂の家がそのなかへ佐々伸子の半生をこめて、あっちへ、あっちへと遠ざかって行っていた。
 動坂の家といっしょに伸子の体からはなれて漂い去っていく伸子は、佐々伸子からひきちぎられたうしろ半分であった。
 目鼻のついた顔ののこり半面は前を向いて、今いるここのところにしがみついて決してそこから離れまいとしている。

 動坂の家というものが遠くになればなるほど、伸子が自分の片身で固執している今この場所の感覚がつよまって、伸子はいつの間にか素子がわきに来たのにも気がつかなかった。
 エレーナの室からこそこそと技師が出て来たところを見たと素子は云っている。
 それがどうだというのだろう。
 自分がどうなっているからというのでなく、やがて自分がどうなるだろうからというためでなく、死んだ保につきやられて遠のくこれまでの家と自分の半生に対して、伸子は自分の顔が向っている今の、ここに、力のかぎりしがみついているのだった。
 いまは全く伸子の生のなかにうけいれられている保を心の底に抱きながら。





    第二部

    第一章

        一

 その年の夏の終り近くなってから伸子と素子とはニージュニ・ノヴゴロドからスターリングラードまでヴォルガ河を下った。
 ドン・バスの炭坑を見学したり、アゾフ海に面したタガンローグの町でチェホフがそこで生れて育ったつましい家などを見物して、二人がモスクワへ帰って来たのは十月であった。

 モスクワには秋の雨が降りはじめていて、並木道の上に落ち散った黄色い葉を、日に幾度も時雨《しぐれ》がぬらしてすぎた。
 淋しく明るい真珠色の空が雨あがりの水たまりへ映っていて、濃い煤色の雨雲がちぎれ走って行くのもそのなかに見えた。
 雨を黄色さで明るくしている秋の樹木と柔らかな灰色のとりまぜは、せわしいモスクワの街の隅々に思いがけない余情をたたえさせた。

 旅行からかえった伸子たちは一時またパッサージ・ホテルに部屋をとって暮していた。
 日本から左団次が歌舞伎をつれてモスクワとレーニングラードへ来るという話が確定した。
 シーズンのはじめに日本の歌舞伎がロシアへ来て、二つの都で忠臣蔵と所作ごととを組合わせたプログラムで公演するという評判は、モスクワにいる日本人のすべてにとって一つのできごとであった。

 ヴ・オ・ク・スと日本大使館とがこの歌舞伎招待の直接の世話役であったから、伸子と素子とは何かの用事でどっちへ行っても、必ず一度はモスクワへ来る歌舞伎の話題にであった。
 浮世絵などをとおして、日本のカブキに異国情緒の興味を抱いているヴ・オ・ク・スの人々の単純な期待にくらべると、日本の人たちがモスクワへ来る歌舞伎について話すときは、深い期待といくらかの不安がつきまとった。

 歌舞伎が日本特有の演劇だとは云っても、モスクワへ来ている人たちのなかで、ほんとに歌舞伎についていくらかつっこんで知っているのはほんのわずかの男女であった。
 日本にいたときだって、歌舞伎などをたびたび見ることもなく暮していた人々が、うろ覚えの印象をたぐりながら、モスクワへ来るからには歌舞伎はどうしてもソヴェトの市民たちに感銘を与えるだけ美しくて立派でなくては困るような感情で噂するのだった。

 芝居ずきで、歌舞伎のこともわりあいよく知っている素子は、
 「歌舞伎の花道のつかいかた一つだって、ソヴェトの連中は、無駄に観やしませんよ。
  舞台を観客のなかへのばす、ということについて、
  メイエルホリドにしろ随分工夫してはいますけれどね、
  歌舞伎の花道の大胆な単純さには、きっとびっくりするから」
 社会主義の国の雰囲気の中で古風な日本の歌舞伎を見るということに新しい刺戟を期待して、素子は熱心だった。
 「ただ解説が問題だよ、よっぽど親切な解説がなけりゃ、
  組合の人たちなんかにわかりっこありゃしない」

 モスクワの主な劇場は、シーズンをとおして一定数の入場券をいろいろな労働組合へ無料でわりあてるのだった。
 歌舞伎が来れば、どうせまたレーニングラードへも行くのだからと、旅のつづきのようにホテル住居している気分のなかで、伸子は言葉すくなに人々の話をきき、話している人々の顔を眺めた。
 八月のはじめデーツコエ・セローのパンシオン・ソモロフで、保が死んだ知らせをうけとってから、伸子はすこし変った。
 いくらか女らしい軽薄さも加っている生れつきの明るさ。
 疑りっぽくなさ。
 美味いものを食べることもすきだし知識欲もさかんだという気質のままにソヴェトの九ヵ月を生活して来ていた伸子は、自分が新しいものにふれて生きている感覚で楽天的になっていた。

 どこかでひどくちがったものだった。
 ソヴェトの社会の動きの真面目さから自分の空虚さがぴしりと思いしらされる時でも、その痛さはそんなに容赦ない痛さを自分に感じさせるという点でやっぱり爽快であった。
 保が死に、その打撃から一応快復したとき、伸子と伸子がそこに暮しているソヴェトとの関係は伸子の感じでこれまでとちがったものになっていた。

 保は死んでしまった。
 伸子はこれまでのきずなの一切からはたき出されたと自分で感じた。
 はたきだされた伸子は、小さい堅いくさびがとび出した勢で壁につきささりでもするようにいや応ない力で自分という存在をソヴェト社会へうちつけられ、そこにつきささったと感じるのだった。
 こんな伸子の生活感情の変化はそとめにはどこにもわからなかったが外界に対して伸子を内気にした。

 ソヴェト社会につきささった自分という感じは、しきりにモスクワへ来る歌舞伎の噂でもちきっている人々の感情とは、どこかでひどくちがったものだった。
 伸子はそのちがいを自分一人のものとしてつよく感じた。
 保の死んだ知らせが来たとき、伸子は失神しかけながらしつこく、よくて? わたしは帰ったりしないことよ、よくて? とくりかえした。
 ソヴェト社会につきささった自分という感じは、この、よくて? 帰ったりはしないことよ、と云った瞬間の伸子の心に通じるものであった。

 同時に、パンシオン・ソモロフの古びた露台の手摺へふさって、すべての過去が自分の体ぐるみ、うしろへうしろへと遠のいてゆくようなせつな、絶壁にとりついてのこっている顔の前面だけは、どんなことがあってもしがみついているその場所からはがれないと感じた、あの異様な夏の夕暮の実感に通じるものでもあった。

 伸子は素子と自分との間に生れた新しいこころもちの距離を発見した。
 保の死から伸子のうけた衝撃の大きいのを見て、ヴォルガ下りの遊覧やドン・バスの炭坑でシキへ入るような見学を計画したのは素子であった。
 それはみんな伸子を生活の興味へひき戻そうとする素子の心づかいだった。
 そうして生活へ戻ったとき、伸子はソヴェト社会と自分との関係が、心の中でこれまでとちがったものになったのを自覚した。

 素子は、もとのままの位置づけでのこった。
 この間までの伸子がそうであったように、素子は自分をソヴェト社会の時々刻々の生活に絡めあわせながらも、一定の距離をおいていて、必要な場合にはどちらも傷つかずにはなれられる関係のままにのこっていた。
 自分と素子とのこのちがいは切実に伸子にわかった。
 そして、伸子はその変化を議論の余地ない事実として素直にうけいれた。
 弟の保に死なれたのは素子ではなくて伸子であった。
 その衝撃が深く大きくて、そのためにこれまでの自分の半生がぽっきり折り落されたと感じているのは、伸子であって素子ではなかった。

 その結果伸子は、ソヴェト社会につきささった自分という不器用で動きのとれないような感じにとらわれ、そのことにむしろきょうの心の手がかりを見出している。

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