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フィギュアスケート報道コミュの鈴木明子

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鈴木 明子(すずき あきこ)

1985年3月28日生まれ

日本のフィギュアスケート選手(女子シングル)

2010年バンクーバーオリンピック8位

2012年世界選手権3位。

愛知県豊橋市出身。
東北福祉大学卒業。
愛称はアッコ、アッコちゃん。
邦和スポーツランド(東邦ガス・東邦不動産運営のスポーツクラブ)に所属。
趣味は読書、ヨガ。
特技は書道、料理。

6歳のころスケートを始めた。
名古屋の荻野正子の指導のもと、ノービス時代から頭角を現し、
1997年の第1回全日本ノービス選手権Aクラスで3位に入った。

2000-2001シーズンでは全日本Jr.選手権で2位。
全日本選手権で4位。

2001-2002シーズンはジュニア特別強化選手に指定され、
JGPSBC杯で優勝、JGPファイナルでは3位となった。
全日本選手権で前年に続いて4位。
四大陸選手権にも出場。

コメント(199)

2014年 ソチ・オリンピック FS
2014年 ソチ・オリンピック FS
2014年 ソチ・オリンピック FS
2014年 ソチ・オリンピック FS
鈴木明子「決して簡単な道ではなかった」
2度目の五輪、自身のスケート人生を語る
(スポーツナビ 2014年2月23日 18:30)

自身2度目の五輪挑戦を終えた鈴木明子。五輪について、そして自身のスケート人生を穏やかな口調で語ってくれた。

 鈴木明子(邦和スポーツランド)にとって2度目の五輪挑戦は、4年前のバンクーバー大会と同じ8位に終わった。昨年末の全日本選手権で初優勝。そのときに披露したほぼ完璧な演技を、五輪の舞台でも再現しようとしたが、足の負傷もあり、本来の出来とは程遠い内容となってしまった。しかし、鈴木は「悔しい部分もありますが、決してベストな状態ではない中でも、自分のスケートはできたと思うので、私らしかったかな」と、穏やかな口調で語る。

 決して歩みは早くなかった。全日本選手権の表彰台に乗ったのは24歳のときが初。それでもそこから2度の五輪出場を果たし、28歳の現在まで第一線で活躍し続けた。「人間やっぱり伸びしろはそれぞれ違うと思うので、どこでその花が開くか分からない。そういう良い例になってくれればいいと思いました」。そう笑顔を見せる鈴木に、五輪について、自身のスケート人生について、話を聞いた。


■「自分のスケートはできた」
――2回目の五輪出場で結果は前回大会と同じ8位でした

 結果は正直、悔しい部分もあります。転倒もありましたし、決してベストな出来ではなかった。ソチに入ってからの練習もそうですし、ずっと良い状態ではなかったんです。ただ、そんな中でも自分のスケートはできたと思うので、私らしかったかなというのは思います。

――調子が上がらなかったというのは、全日本選手権のときにピークが来てしまったということなのでしょうか?

 全日本のあとに足の状態が悪くなってしまって、思うように練習ができなかったんです。団体戦のときはまだマシだったんですけど、その後アルメニアに行ってからは、練習が予定の半分くらいしかできない状態で……。私の選手生活で、試合前に練習できなかったということがほとんどなかったので、本当にどうなるか分からなかった。私はもともと練習を重ねて良い状態に持っていって、そのまま「できる」という気持ちも作るタイプなんです。でも最後の五輪でこういう状態になり、なかなかどうなってしまうかが自分にも分からなかったですし、とにかくできることを精いっぱいやるしか自分にはできなかった。だからベストではなかったけれども、やることはできたかなと。スケートはジャンプだけではないので、自分が伝えたいことを最後までやろうと決めていました。悔いがあるとすれば、練習からきちんとできなかったことですね。

――全日本王者として臨み、「自身が求めていたものが高くなっていて難しかった」とおっしゃっていました。具体的にどこを目指し、どういう部分が難しかったのでしょうか?

 全日本ではショートプログラム(SP)とフリースケーティングでほぼ完璧な演技ができました。あれだけ評価ももらえて、じゃあ「これを五輪でもやりたい」と思いましたし、もっともっと完成度を高めたくて練習してきました。でも、そこから気持ちでは「よし、また頑張るぞ」と前向きだったのに、体がついていかなかった。体と気持ちの状態が合わなくなって、焦りにもつながりました。全日本の前は調子が悪い中でもしっかりと練習を積んで、あそこまで持っていけたのに、今回は練習ができないという不安が大きかった。そういうところが難しかったなと思います(苦笑)。

――競技が終わったあと、長久保(裕)先生とは話をしましたか?

 先生からは、結果が出てから「もともとの演技の構成上、基礎点はトップの選手たちよりも低いし、パーフェクトの演技ができなかった中で、バンクーバー五輪と同じ成績で8位だったけど、ここにいるというのはすごいことだね」と。「年齢もそうだし、若い選手がどんどん出てきて、難度が高いことをたくさんやっている中で、ここまでできたことは偉かったと思うよ」と言われました。

――高橋(大輔)選手とは乾杯したんですか?

 はい、しました(笑)。「お互いよく頑張ったね」と。

<下文へつづく>
<上文のつづき>

鈴木明子「決して簡単な道ではなかった」
2度目の五輪、自身のスケート人生を語る
(スポーツナビ 2014年2月23日 18:30)

■「この1年はかけがえのない時間だった」

ソチ五輪を目指すことを決めてからの1年間は決して簡単な道ではなかった。それでも滑り切ることができて幸せだなと感じることができたと話す

――この1年は鈴木選手にとってどういうものでしたか?

 本当に覚悟を決めて臨みましたけど、すごい大変でした(笑)。決して簡単な道ではなかったし、昨年12月の全日本の前からこの2月まで、「人間ってこれだけ泣けるんだな」というくらいすごいたくさん泣きました。もちろん悔し涙もありましたし、うれし涙もありました。痛みで泣いたり、練習ができなくて泣いたり、とにかくたくさん泣いて、それでも滑り切ることができて幸せだなと感じることができたので、この1年はすごくかけがえのない時間だったと思います。

――バンクーバー五輪からの4年間で考えるとどうですか?

 長かったです(笑)。正直ここまでやるとは思っていなかったですし、本当に1年1年という考え方で4年間やってきて、再び五輪の舞台に立つことができた。私自身はたいして才能もなく、ただコツコツとやっていくことしかできなくて。今回の試合を見ていても、若い世代の、新しい技術的にも優れた選手が出てきていて、「世代が変わるときなんだな」というのを私は感じましたね。

――20代後半までこうして第一線で活躍し続けてこれた理由は?

 私は、休んでいた1年間のブランクがなければここまでやっていなかったと思います(編注:鈴木は摂食障害で2003年から04年にかけて1年間休養している)。あのときに一度、体自体も痩せ細ったんですが、そこからまた戻して作り上げたので、その頃に酷使した選手に比べれば、体自体は休息していたという言い方もおかしいんですけど、そういう部分はあったと思います。

 あと私は小さい頃から、すごくいろいろなことを習得するまでに時間がかかるんですよ。スケートを始めたときから、シングルアクセルを跳ぶのも時間がかかったタイプなんですね。だからいろいろなことに時間がかかるんだということを自分でも分かって、やっぱりコツコツと続ければなんとかなるんだというのがありました。今だと10代から出ていかないと世界のトップにはいけないみたいな感じがありますけど、そうではなくて、人間やっぱり伸びしろはそれぞれ違うと思うので、どこでその花が開くか分からない。そういう良い例になってくれればいいと思いました。

――サポートしてくれる環境も良かったのではないですか?

 そうですね。スケートを続けられる環境を企業が作ってくれたことも大きかったです。そういうのは今まであまりなかったと思います。本当にトップの選手だったら、スポンサーがついてくれるかもしれないですけど、いち企業に就職して、社会人としてスケートをするという環境がなければできないことだと思うので、そういうのが今後も続いていってくれることが私の願いでもあります。

――1年間ブランクがあって、復帰するのは相当大変だったのではないですか?

 あの頃はただがむしゃらでした。でも、まさか五輪を狙うなんて思いもしなかったですし、自分はもう一度スケートがしたいという気持ちだけだったんです。それでもここまで来られた。10年前の自分では今の自分を想像できませんでした。

■「人や環境に恵まれたスケート人生だった」
――SP「愛の賛歌」ではご自身のスケート人生を表現されていますが、言葉で表現するとどういうスケート人生でしたか?

 すごく歩みは遅かったですけど、自分1人ではなく、本当にたくさんの人に支えてもらいました。本当に私自身では1人で立っていられない中で、みんなが「頑張れ、頑張れ」と支えてくれて、背中を押してくれてここまでやってこられた。本当にいろいろな人や環境に恵まれたスケート人生だと思いますね。

――スケート人生できついこと、うれしいことはたくさんあったと思いますが、どういうことが一番印象に残っていますか?

 この日本チームのみんな、かけがえのない仲間たちと、この時代を一緒に頑張れたことが一番ですね。

――3月の世界選手権が現時点では最後の舞台になると思います。どういう演技を見せたいですか?

 正直、全然考えられていないのと、足がどれだけ良くなるかだと思うんですけど、最後の舞台、日本で開催される世界選手権でこれまで応援してくれていた、たくさんの人たちに感謝の気持ちを込めて、この時代にこのスケートを見られて良かったなと思ってもらえる演技を見せたいと思います。
(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)
鈴木明子さん、さっぽろ雪まつりでスケート教室
(スポーツ報知 2015年2月6日(金)7時4分配信)

 第66回さっぽろ雪まつりが5日、開幕した。大通会場1丁目「J:COMひろば」の特設スケートリンクではソチ五輪フィギュアスケート女子8位・鈴木明子さん(29)が4〜6歳の子供を対象にスケート教室を行った。

 「オペラ座の怪人」の音楽に合わせて登場した鈴木さんは鮮やかな滑りを披露。会場からは拍手が起こった。その後はスケート初心者の子供に指導。「細かく細かく刻んで」と手を携えながら約30分、触れあった。鈴木さんは「(屋外は)開放感があって気持ち良い」と笑顔を見せた。

 札幌市は昨年11月、2026年の冬季五輪・パラリンピック招致を表明。バンクーバー、ソチ代表だった鈴木さんは「(五輪には)出場したけど、ぜひ間近で見たい」と熱望した。特設リンクは11日まで開設され、料金は貸し靴料込みで中学生以上500円、小学生以下300円。
鈴木明子「真央が選んだ道を見守りたい」
特別な絆で結ばれた仲間たちへの思い <3−1>
(スポーツナビ 2015年2月27日 12:13)

鈴木明子がスケーター仲間や恩師の長久保コーチへの思いなどを語った

 ソチ五輪が行われた昨シーズンは、これまで日本のフィギュアスケート界を支えてきた選手にとって1つの区切りとなった。2013年12月の全日本選手権終了後に織田信成、安藤美姫が引退。浅田真央(中京大)は今季を休養に充て、来季以降の去就は未定のままだ。高橋大輔も昨年10月に競技生活に別れを告げた。

 フィギュアスケートの選手たちは、男女問わず非常に仲が良い。五輪や世界選手権などの出場権が懸かっていてもライバルを応援し、演技について共に喜び、悔しがる。そこには幼いころから切磋琢磨し、お互いを高めてきたからこそ生まれた特別な絆が存在するのだろう。「『一緒にこの時代にスケートができて良かったな。こんなに良い仲間たちとスケートができてなんて幸せなんだろう』といつも思います」。14年3月の世界選手権を最後に現役を退いた鈴木明子もそう言って仲間への感謝を隠そうとしない。自身も新たな道を進んでいる鈴木に、戦友たち、そして長年指導を受けた長久保裕コーチへの思いなどを語ってもらった。


「織田くんの対応力はハンパない」


ともに戦った織田(右から2番目)、高橋らとスケートができたことを幸せに感じている

――共に戦ってきた高橋さん、織田さんが引退し、浅田選手は現在休養中と皆さんそれぞれ新しい道に進んでいますね。彼らにはどのような思いを持っていますか?

「一緒にこの時代にスケートができて良かったな。こんなに良い仲間たちとスケートができてなんて幸せなんだろう」といつも思います。これからもずっと、みんながおじいちゃんやおばあちゃんになっても「昔のね、あのときの試合がさ」という話ができたらいいなというような仲間ですね。

――テレビに一緒に出たりして気恥ずかしかったりしませんか?

 それはもうないですね。あらためて「お手紙を書いて読んでください」などは恥ずかしいんですけど、せっかくこうやって自分たちが頑張って、スケートが注目を集める時代になったので、それをお仕事にできるなんてそんな素晴らしいことはないなと私は思っています。みんながみんなスケートが好きで、後輩たちがまた活躍できるようにと、そういう思いを持っていますしね。

――今まで彼らと共演したテレビ番組で印象に残っているものはありますか?

 一緒に出ているのは織田くんくらいなので(笑)。あとは本田(武史)先生や宮本(賢二)先生ですし。ただ何に出てても、織田くんはすごいなと思いますね。「この人の対応力はハンパないな」と思いながらやっています(笑)。そういえば真央と(村上)佳菜子(中京大)と一緒にテレビの企画でご飯を食べたときは、あんまり普段話さないことを番組から振られました。今後どうしていくかというような話はなかなかしないので、すごい面白かったですね。

<下文へつづく>
<上文のつづき>

鈴木明子「真央が選んだ道を見守りたい」
特別な絆で結ばれた仲間たちへの思い <3−2>
(スポーツナビ 2015年2月27日 12:13)


――普段は3人で何の話をしているのですか?

 だいたい食べ物の話をしています(笑)。「ここがおいしかったから今度行こう」とか。佳菜子が現役なのでシーズン中は行けないですけど、終わったらお疲れさま会をしようねと話しています。ずっとみんなで連絡は取り合っています。LINEのグループがあるので。

――村上選手が試合に出るときも試合の朝などに連絡をしていますよね。

 そうですね。空気は読んで、今は言わない方がいいかなというときは状況を見ていますけどね。


佳菜子にとって今が変わるとき


後輩の浅田(右端)や村上(左端)のことは静かに見守っていきたいという

後輩の浅田(右端)や村上(左端)のことは静かに見守っていきたいという【坂本清】
――その村上選手は女子フィギュア界のけん引役を期待されて、精神的に大変そうですが?

 全日本選手権(村上は5位)のときからちょっと私も不安だったんですけど、今はもう前向きにやっています。ただ、ちょっと無理をしているんじゃないかなと思うときもあるんですよね。

――自分が引っ張っていかなければいけないと?

 そうなんです。オフに会ったとき「自分が」ってすごく奮い立たせている感じがして、「無理しないといいけどな、背負わないでやってくれたらいいな」と思っていました。あれだけ下の世代から突き上げが来たらつらいですよ。誰しもそういう状況になったらつらいと思うので、ちょっとでも和らいでもらえたらと思っています。

――今までは鈴木さんや浅田選手らお姉さんのような存在がいましたからね。

 佳菜子自身も末っ子気質というか、誰かに付いて行くという感じが大きかったんですね。でも前々から私はずっと佳菜子に「人間って絶対にいつかは上の立場になっていく。それはスケートだけじゃなくてどの社会にいてもそうなっていくから、佳菜子がずっと一番下ということはないんだよ。だからそれを自覚しなくちゃいけないし、変わるときが来るんだからね」と言っていました。今はそういう時なので、彼女にとってはつらい時期だと思いますけど、この経験が必ず彼女を大きくすると思っています。そしてそれがスケートにも生きてくるので、見守っていきたいですね。

――浅田選手の進退についても話したりするのですか?

 本当に悩んでいるのだろうなというのは分かります。でも私は「じっくり考えていいんじゃない」と思っています。焦ることもないし、今まであれだけ頑張ってきたので、今後のことは、本当に彼女自身がやりたい気持ちなのか、それとももうこれでいいと思うのか、じっくり考えてほしいなと。彼女は自分自身以外の部分でもきっといろいろとあるからこそ大変なんだと思います。私みたいに「はい、辞めます!」とはならない。周りからたぶんどんどん言われる。でもゆっくり決めればいいし、真央が決めたことに対して私はどういう結論を出しても応援します。これからもみんな仲が良いし、何があっても関係は一緒だからねとは言っていて、私は真央の選んだ道をただただ応援するというか、見守りたいという気持ちです。


私も先生も折れないから大変だった


恩師の長久保コーチ(右端)とは今でも良き師弟関係を築いている

――長久保コーチとは引退後もよく会っていらっしゃるんですか?

 そうですね。今朝も会いました。普段レッスンするときも必ずいるので。

――現役時代はけんかもよくしていたそうですが、さすがに今はないですか?

 もうしていないですね(笑)。現役時代はけんかというか言い合いは多かったと思いますけど。

――そういうときはどちらが先に折れるのですか?

 どっちもあまり折れないから大変でした(笑)。まあ生徒ですし、私が最終的には「すみません」みたいな。でも謝るだけじゃなくて、自分はこのときこういうふうに思っていたんだということを言わないと、先生も勘違いしたままになっちゃうので。人間の言い争いってほぼほぼ勘違いが原因じゃないですか。だから「私は先生のこういうところが嫌だったから、私も次からは直すけど、先生もこういうときにここを直してほしい」って直してほしいところを言います。そうじゃないと同じことの繰り返しになってしまいますしね。私はこういったところが嫌だったんですとか、先生のその言い方が嫌だったんですとか。だからこういったときにもうちょっと一呼吸置いて、分かってほしいかななどと言っていました。



<下文へつづく>
<上文のつづき>

鈴木明子「真央が選んだ道を見守りたい」
特別な絆で結ばれた仲間たちへの思い <3−3>
(スポーツナビ 2015年2月27日 12:13)



――何でも言い合える良い師弟関係ですね。

 私も良い関係だなと思っています(笑)。


焦らずに自分のペースで歩いていけたら


今後も「焦らずに自分のペース」で歩いていく

――現在はプロとしてアイスショーなどで活躍されていますが、プロとして滑るのは楽しいですか?

 楽しいと思っていたんです。ただ実際は、楽しいというより厳しい世界だなと思います。

――どういった点ですか?

 お金を払って見に来てもらっているので、失敗すると「プロとしてダメだな」と思うことがあって……。プロは表現の中にジャンプが溶け込んでいるイメージなんです。「ジャンプを跳びます」じゃなくて、演技1つの中にジャンプがあるというだけで。競技だとジャンプがあって、スピンがあり、それで表現をするという感じじゃないですか。でもプロは表現があって、その中にジャンプがあるという感じなので、そこがすごく難しい部分かなと思いながらやっています。

「プロフィギュアスケーターはこれ」というふうにならなければいけないわけではないと私は思っていて、これからやっていくうちにどういう方向性になるか決まってくると思うんです。でも焦らずに「こうじゃないといけないんだ」ではなく、可能性をどんどん広げていって、根本にあるのは本当にフィギュアスケートを好きな人が増えてほしいという思いと、後輩たちがどんどん活躍する場で注目してもらえたらいいなというその気持ちでお仕事できればと思っています。最初は焦る気持ちがありました。「こんなのじゃプロとしてだめだ」というのもあり、すごく自己嫌悪に陥ったり、本番が怖くなったりということがあったんです。でもそうじゃなくて自分自身のペースをつかめるようにしようと思い、今はゆったり構えるようにして、「人生はまだ長い」と思ってやるようにしています。

――今後、挑戦したいことはありますか?

 今は自分が手いっぱいなのであまり考えていません。ただ子どもたちに音を動きで表現する部分のお教室ではないですが、セミナーみたいなものを開けたらいいなと。練習というよりは、みんなでこういう表現をしようというものを、ステップを入れたりしながら、同じステップを「楽しそうに」とか「悲しそうに」などと個々にやってみたり。この音をどう表現するかとか、ここで動物を表現しようといったことをクラスでやっても楽しいのではという、ザックリしたイメージがあります。

――競技生活の経験を今後の人生にどうつなげていきたいと思っていますか?

 フィギュアスケートを通して1つのことを諦めないでコツコツと続けていったのが、今の鈴木明子というスケーターだと思うので、これからものんびりだと思うし、焦らずに自分のペースで好奇心を持って、歩いていけたらいいなと思っています。人生は生き急ぐことはないと思っていて、でも挑戦しないとチャンスも何もつかめないと思っているし、だから自分の足で勇気を持って一歩踏み出そうというのはすごく意識しています。

(取材・文:大橋護良/スポーツナビ)


<終>

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