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海洋基本法コミュの「北方領土四島の法的根拠について」 入手した文書全文

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■択捉、国後、色丹、歯舞の諸島領有の法的根拠について(調査報告)
 ソ連科学アカデミー「国家と法研究所」は他機関の指導的な法学者、国際法学者および東洋学研究所と世界経済国際関係研究所(IMEMO)の日本専門家の参加を得ていわゆる北方領土問題の法的側面に関して状況分析と実務的ゲームを行った。
 参加者がたどり着いた議論の結論は、以下に掲げる形で提出された。
 左側はソ連のありうべき法的立場であり、右側はそうした諸事実と諸文書に関して予想される日本側の論拠づけである。
1【歴史的事実】
 日本との領土紛争でのソ連の法的立場は、次の諸要素からなり得るであろう。
 南クリルの発見と開発の歴史は、択捉、国後、色丹、歯舞領有の法的根拠に何らの有利な論拠を与えない以上、ソ連は自らの法的立場の根拠に戦後処理の諸文書を置くべきであろう。
 現段階でのソ連によるこれら諸島の占有の正当性は、第2次世界大戦の終結と戦後処理に関連して採択された諸文書ととられた諸行為にのみ、依拠することができる。これらの諸文書と諸行為は、その総体として精査されるべきである。
 日本の法的立場とソ連の論拠に対する予想される反論は次のような形を取り得るだろう。
 択捉、国後、色丹、歯舞の諸島は日本固有の領土であり、それらに対する法的根拠は1855年と1875年の条約によって確保された。そして1945年8月まで、いかなる国によっても疑いを提起されたことはなかった(注1)。
 〈項目1に対する論評〉
 歴史的な諸事実(発見、占有)は特定の領土に対する法的根拠の基礎になりうる。しかしながら、その後にこうした領土の国家帰属が条約文書によって確保された場合には、歴史的事実はその法的意味を失う。さらに、そうした問題に関するその後の諸条約文書は、それ以前の諸条約文書を無効化する。
2【ヤルタ協定】
 〈ソ連の立場〉
 1945年2月11日のヤルタ協定によってソ連は、法的に義務の性格を負い、従って何よりもまず、正確な義務を含み、はっきりとその義務の範囲を定めた協定自身の文言から、日本に対する勝利後にクリル諸島の引き渡しを受ける権利を獲得した。諸連合大国が決定を取るにあたっての諸動機は、この場合、法的意味を持たない。
 〈日本の立場〉
 日本は参加者ではないため、ヤルタ協定は日本に対して拘束力を持たない。さらに日本の降伏の基礎としてポツダム宣言の条項を受け入れるに際しても、この協定は秘密であったので、日本はその存在すら知らなかった。それ以外にも、協定は領土問題を最終的に決定していなかった。
 1945年2月11日の極東に関する諸大国間のヤルタ協定はクリルの地位に関する問題の解決の一部においてソ連に一定の権限を与えたが、領有の法的根拠を提供したわけではない。
 ヤルタ協定によると、日本との戦争参加に際してのソ連の義務は、米と英の義務と同様、クリル諸島に関する条件も含め、極東における戦後秩序の再編期間に際して協定に列挙された条件として諸連合国によって実行されるものであった。1945年9月2日の後でソ連にクリル諸島に対して生じるのは直接的な権利でなく、それらをソ連に引き渡すことを要求する権利である。従ってヤルタ協定はクリル諸島領有の法的根拠を提供する文書ではなく、同様に一方的な行動の法的な根拠にもなりえない。
 協定はそれに署名した諸大国にのみ義務的な効力を持ち、相互の関係を律した。国際法に従えば、条約は、それに同意しなかった第三国に義務を生じさせない。例外的にありえたのは、問題が日本の責任に関する場合であった。しかし、日本の責任問題はヤルタ協定では決定されなかった。
 〈項目2に対する論評〉
 ヤルタ協定は実際、ソ連にクリル諸島領有の法的根拠を提供して日本にその義務を課するものではあり得なかったとはいえ、戦後処理の結果、クリル諸島を誰に引き渡すべきかを十分明確に示している。
3【ポツダム宣言】
 〈ソ連の立場〉
 日本の降伏の条件となった1945年7月26日のポツダム宣言(注2)は、日本の主権を「本州、北海道、九州及び四国ならびに我らの決定する諸小島」に制限した。このような形で諸連合大国は日本の領土を4つの主要な島の範囲外において処分する権利を確保した。一方で日本は、この権利を降伏文書で完全に承認した。処分の方式は諸連合大国自身によって決定されなければならなかった。
 ソ連は、ヤルタ協定に従って与えられた権利を実現し、米国の合意のもとで日本部隊の降伏を受け入れた色丹島と歯舞群島を含めてクリル諸島を占拠した。1946年1月29日付の連合国日本占領軍最高司令部訓令第677号は、それに従って行政的目的のためにクリル諸島、色丹島、歯舞群島グループを日本政府の管轄から外したことにより、ソ連の行為の正当性を間接的に認めている。
 ヤルタ協定に従って自らの権利を実現し続けつつ、ソ連は1946年2月2日、1947年1月2日、1947年2月25日の諸法令により、クリル諸島を自らの領土構成の中に編入した。主要な諸島の範囲外で領土を処分するという、日本によって承認された権利を持つ諸連合大国もこうしたソ連の行為に反対を表明せず、まさにそのことにより、それらの行為の正当性を承認した。日本側からの異議の存在は法的意味を持たない。なぜなら、クリル諸島の編入で諸連合大国と同意した法的行為がソ連により実行されていた期間、日本は主要な諸島を除き、いかなる領土に対しても権利を行使していなかったからである。
 〈日本の立場〉
 日本は、それ自体がカイロ宣言(注2)を承認しているポツダム宣言の条件により降伏した。しかし、第1にポツダム宣言にはヤルタ協定に対する言及がなかった。第2に、いかなる形でもクリル諸島の地位の問題を決定していなかった。第3に、クリル諸島は日本によって正当な方法で獲得されたため、(カイロ宣言でいう)「暴力及び貪欲(どんよく)により」略取したものでなかったため、カイロ宣言の効力が及ぶものではなかった。さらには、ポツダム宣言には、降伏の諸条件に、いかなる形でもヤルタ宣言への言及がなかったことから、ポツダム宣言の発表時と日本の降伏時に、諸連合大国がヤルタ協定を日本にとって義務的なものと宣告する意思がなかったことは明らかであり、領土問題にかかわることがらで諸国間の関係を律する文書の性格は、ヤルタ協定に対して保留されていた。このことに関して、特にポツダム宣言第8項で、日本の主権は4つの主要な諸島と、「我らの決定する諸小島」に制限されるとあったことが証拠になりうる。文言から、日本の領土の具体的な範囲の明確化が、将来の合意へと残されたことは明らかである。
 さらに、ポツダム宣言第8項では第一にカイロ宣言の条件が実行されることが示されており、このことに関係してのみ日本の領土は制限される。従って、日本が失うのは武力の助けによって獲得した諸領土だけでなくてはならなかった。提案の最初の部分を考慮したうえでの項目の解釈は、諸連合国が合法的に獲得した領土を取り上げる意思のなかったことを示している。そもそもクリル諸島を日本は合法的に占有した。
 日本はいかなる時にも、ソ連による択捉、国後、色丹、歯舞の諸島の編入を認めなかった。このことに関する抗議は事実上、1945年12月から始まり、現在まで続いている。
 諸連合大国は、クリルの編入の行為を、平和条約を締結するまでの一時的なものと見なしていた。すべての領土問題は、その時まで最終的な性格を持ち得なかった。
 日本からクリル諸島を取り上げることは、侵略戦争に対する日本の責任を実現した結果としての制裁という見方がしばしばなされる。しかし、これは事実と一致しない。すでに1940年にソ連は、日本との不可侵協定締結の条件としてクリル諸島を獲得する希望を表明していた。そして、このようにして極東で国境を変更する意図は、日本との戦争の結果、実現が可能となった。このことは、クリル引き渡しを主張するに際して、ソ連が自らの長期的な対外政策の目的を実現したのであって、侵略戦争に対する責任の原則を実現することは意図していなかったことへの有利な証拠となる。ヤルタ協定でクリル諸島の引き渡しは日本の責任の実現としてではなく、極東でのソ連参戦の条件と見なされた。ソ連は、第2次世界大戦の勝利と日本の降伏の結果、クリル諸島を併合することで、「勝利者」の権利を実現した。
 〈項目3に対する論評はなし〉
4【国連憲章の敵国条項】
 〈ソ連の立場〉
 「この憲章のいかなる規定も、第2次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり、または許可したものを無効にし、または排除するものではない」と規定する国連憲章107条は、択捉、国後、色丹、歯舞の諸島のソ連による占有の根拠付けに援用しうるだろう。
 この条文は諸連合国のいわゆる敵国に対する行為が合法的であり、国連憲章に違反しないと認めている。従って、日本に関する諸連合大国の諸法的文書は、ソ連によるクリル占領を含む諸連合大国の諸行為と同様に合法的である。
 〈日本の立場〉
 107条は、諸連合大国が共同であれ、単独であれ、いわゆる敵国に対してなした行為を、全て合法化することを目的にしていない。条文は、国連憲章の規定、とりわけ武力行使の禁止に関する規定が、諸連合国の行為の法的効力を失わせないことを示しているだけだ。この条文は国連憲章から独立して効力を有していない、いかなる行為あるいは法的文書にも追加的な法的効力を与えることはない。
 〈項目4に対する論評〉
 この項目でのソ連の論拠づけは、ありうる日本側の反証に対してきわめて脆弱(ぜいじゃく)である。
5【サンフランシスコ講和条約】
 〈ソ連の立場〉
 1951年のサンフランシスコ講和条約で状況は最終的に固まった。同条約により、日本は、ポツダム宣言で想定されていたようにクリル諸島に対するあらゆる権利、権原および請求権を放棄した。クリル列島からどの島々が日本に属するものであるかは、諸連合大国によって指定されなかった。従って、講和条約は、条約の参加者でないソ連に権利を与えなかったけれども、それにもかかわらず、同条約はヤルタ協定とポツダム宣言の規定の実行、ソ連の諸行為とそれらに対する諸連合大国による暗黙の承認の結果、クリル諸島地域に生じた実際の情勢を確認した。
 同条約での「クリル諸島」の概念の不明確さと、日本によるこの用語の独特の理解は法的な意味を持たない。なぜなら、何が日本の領土の構成に入らなければならないかを明確にする権利は、ポツダム宣言の参加者である諸連合大国に与えられていたからだ。クリル諸島に関して諸連合国によるそのような明確化は、ソ連の行為への黙認と、極東での戦後の秩序形成の結果により生じた「クリル諸島」の用語の総体としての異なる理解が、こうした権利の喪失を有効にした(注3)。
 〈日本の立場〉
 日本がクリル諸島に対するあらゆる権利、権原および請求権を放棄することを定めた1951年のサンフランシスコ講和条約は、どんな国にそれらが引き渡すかを、指定していなかった。いかなる場合にも、ソ連がサンフランシスコ条約に署名せず、条約の意味でも、条約の目的の上でも連合大国ではなかった以上、条約はソ連に何らの権利も与えていない。
 サンフランシスコ条約はソ連によるクリル諸島占有を認めておらず、クリルに対する領有の法的根拠は明確にされずに残された。
 そのほかにも、サンフランシスコ条約の意味における「クリル諸島」の概念には、択捉、国後、色丹、歯舞の諸島は含まれず、放棄はそれらには及んでいなかった
 色丹、歯舞両島は日本では、北海道の一部と見なされている。そして歴史的にも、地理的にも、行政的にも両島は北海道の一部だったし、サンフランシスコ条約のなかで用いられた「クリル諸島」の概念に入れることはできなかった。講和条約の準備期間中、日本側はこのことに注意を向けさせてきたし、サンフランシスコでの会議での演説で日本首相の吉田もまた、間接的な形で色丹と歯舞が北海道の一部であることを確認した。
 1946年1月29日の連合国日本占領軍最高官総司令部指令第677号に従うと、色丹と歯舞はクリル諸島とは異なると見なされていた。なぜなら、「その中には」という言葉は使わずにコンマで区切られ、クリル諸島とだいたい同じように「含んで」といった言葉に続いて次のように列挙されていた。「……クリル(千島)諸島、水晶、勇留、秋勇留、志発と多楽を含む歯舞群島グループおよび色丹島」
 択捉、国後両島は、すでに1955年と1875年の両条約でクリル諸島とは異なると見なされていた。
 1855年条約の第2条で「択捉島は日本に属し、一方でウルップ全島とそれより北の方、その他のクリル諸島はロシアが領有する」と明確に取り決められた。このようにして、この条約に従いクリル諸島はウルップ島とそれより北の列島の諸島に含められた。なぜなら、文法的にクリル諸島の概念はカッコの後の文章の2番目の部分にのみ、関係するからだ。このことは、すなわち別のという「その他」の言葉、すなわちウルップ島のほかに、その北にある諸島もクリル諸島を構成することを示している。
 さらにこのことは、1875年の条約でより明確に示された。:「全ロシア皇帝陛下は自らとその後継者らに至まで、彼が今日領有しているクリルと呼ばれる諸島グループを日本皇帝陛下へ引き渡す……こうして今後、上記のクリル諸島グループは日本皇帝に属することになる。
 このグループは下記に示す18の島々を含む。つまり:1)シュムシュ、……そして18)ウルップである」。従って国際法的な意味で1875年の条約で双方間により合意されたクリル諸島はウルップ島を最終地点とする。
 このために択捉、国後、色丹、歯舞の諸島に対する日本領有の法的根拠はサンフランシスコ条約に害されることなく残った。日本は現在まで択捉、国後、色丹、歯舞の諸島領有の法的根拠を有しており、それに反してソ連は奪取して併合し、これらの島を不法に占拠している。
 〈項目5に対する論評〉
 日本がサンフランシスコ条約でクリル諸島を放棄したことは、ソ連の立場を有利とする最も重要な論拠である。択捉、国後が1855年と1875年のロ日条約とサンフランシスコ条約の意味合いにおいてクリル諸島の構成には入らないとする日本側の主張は、極めて説得力に欠ける。それと同時に、色丹と歯舞はクリルの構成に入らず、このためにクリルの日本の放棄は色丹と歯舞に関係しないという日本の主張は、十分に説得的である。
6【日ソ共同宣言】
 〈ソ連の立場〉
 両国により批准承認された1956年10月19日のソ連と日本の共同宣言に従いソ連は、それらの実際の引き渡しは平和条約の調印後に実行される条件で色丹、歯舞両島の日本引き渡しに同意した。
 しかしながら1960年にソ連は、1月27日の政府覚書で新日米安全保障条約の締結を根拠にして、引き渡しの条件に米軍部隊の撤退を加えた。そして1960年4月22日の覚書でソ連と日本の間の領土問題は解決ずみと表明した。
 〈日本の立場〉
 ソ連のそのような一方的行為は、もし情勢の根本的な変化が生じたならば起きうるし、合法でもあっただろう(注4)。しかしながら、そうした変化は当時は存在しなかった。このため二島引き渡しについての条項実施をソ連の一方的に拒否したことは違法であり、法的結果を持ち得ない。このことから、ソ連にとって平和条約締結後の日本への色丹、歯舞両島引き渡しの義務は、効力を持ち続けている。
 〈項目6に対する論評〉
 日本側の立場はここでは極めて説得的である。ソ連にとって今日まで平和条約締結後の色丹、歯舞引き渡しに関する義務は効力を持ち続けている。
7【グロムイコ・ソ連第1外務次官と松本俊一・日本政府全権委員の交換書簡】
 〈ソ連の立場はなし〉
 〈日本の立場〉
 1956年9月29日にソ連外務次官と日本政府全権委員との間でソビエトと日本の関係正常化について書簡が交換されたことも、当然つけ加えられるべきである。ソビエト政府は、平和条約締結に関する交渉は、領土問題も含めてソ連と日本の間の外交関係回復後も継続するものとする日本政府と意見を共有することを示していた。ソ連政府は、外交関係回復後の領土問題も含む平和条約締結に関する交渉の継続に、自らの同意を表明していた。
 その文言が書簡の交換までに合意されていた共同宣言において、ソ連が日本に色丹、歯舞を引き渡す義務を負ったことを考慮すれば、書簡の交換で問題たりえるのは択捉、国後両島に関してのみとなった。このことから、ソ連は、これらの領土に対する法的根拠を未確定と見なしていたという結論が導かれる。
 〈項目7に対する論評はなし〉
【結論】
 双方の法的立場の分析は択捉、国後、色丹、歯舞の四島に関してソ連と日本との間に紛争が存在することを客観的に実証している。
 択捉、国後両島に関するソ連の法的論拠はより有力である。なぜなら日本は降伏に関する文書とサンフランシスコ条約でクリル諸島の放棄を約束させられたからだ。しかしながら、択捉、国後両島に対する領有根拠の法的な手続きは完了していない。択捉、国後がサンフランシスコ条約によって日本が放棄した範囲に適用される「クリル諸島」の概念に入らないことを日本側が証明することは、少なくとも大変に困難である。
 色丹、歯舞両島に関すれば、日本側の立場はより論拠付けがなされている。これら両島は1855年から1945年まで常に日本の統治下にあって、北海道の一部と見なされてきた。このため、おそらくはサンフランシスコ条約での「クリル諸島」の概念には入り得ない。肝心なのは、双方が批准承認した1956年の日ソ共同宣言に従ってソ連が、平和条約締結後に色丹、歯舞両島を日本に引き渡す義務を負ったことである。
 紛争が、かなりの部分で法的性格を帯びていることを考慮すれば、これは原則的に国連国際司法裁判所による審査の対象になりえるであろう。紛争を国際裁判所に付託することの妥当性の問題を解決するに当たっては、問題の法的な側面だけでなく、政治的な側面も、その他の側面も考慮されなくてはならない。
【注】
 1 誰が最初にクリル諸島を発見し、経営したかを確定するのは非常に困難だ。より性格にいえば事実上、不可能である。18世紀から19世紀前半までの間、ロシアは事実上、北と中央のクリル諸島に権力を行使し、一方で日本は南のクリル諸島に権力を行使していた。しかしながら、この地域ではロシアと日本の間で領土上の境界を定めることは行われず、それぞれの影響圏に入っていないクリルの部分について、ロシアと日本に応じて領有の法的根拠が形成されることもなかった。
 ロシアと日本との間の国境の問題は1855年の条約が解決し、双方のそれぞれに、相応する領土に対して領有の法的根拠が生まれた。1855年の条約ではウルップ、択捉両島の間に国境が引かれ、それより北の諸島にロシアの権力が行使され、それより南に日本の権力が行使された。サハリンは国境が定められずに残された。
 1855年の条約の文言は、択捉より北にある諸島のみがクリル諸島に関係するとの解釈を許容することを可能にする。とはいえ、実際のところ境界の画定は妥協の結果であり、「クリル諸島」の概念を明確にすることとは関係がなかった。境界の画定は実際上の影響圏に従って行われた。
 1875年の条約により、日本は中央と北のクリル諸島を、サハリンへの請求権放棄の交換として獲得した。このようにして日本は合法的に、全クリルに対する領有の法的根拠を手に入れ、一方でロシアはサハリンに対してこれを手に入れた。
 1904年から1905年の露日戦争を終結させた1905年のポーツマス平和条約により、日本はサハリンの南部分を獲得した。このことに際して1875年の条約の有効性および効力は、クリル諸島地域での国境に関して害されることはなかった。なぜなら国際法の規範によると、国家間の領土上の境界を定める条約は、戦争の事実だけで無効化されることはなく、すべての問題は平和条約で解決されるからである。1905年のポーツマス条約はクリル諸島の地位も、この地域の国境にも、1875年の条約にも触れておらず、1875年の条約は有効かつ効力を持つものとして残った。
 ポーツマス平和条約の有効性は、1925年のソ日基本法則条約でも確認された。
 このようにして、1945年8月の半ばまで日本はすべてのクリル諸島を合法的に領有し、列島に対する領有の法的根拠も議論の余地はなかった。この状況下で四つの南の諸島は、一度もロシアの領土になったことはなかった。
 2 米国、英連合王国、中国各国政府首脳の声明(ポツダム宣言)は1945年7月26日に採択された。この文書では、とりわけ次のことを明確にしていた。:「8 カイロ宣言の条項は履行されなくてはならない。また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに我らの決定する諸小島に局限される」。
 カイロ宣言は1943年11月27日に、米国、中国、英国の代表者らによる会議で採択された。宣言では次のように記された。:「……三大連合国は日本の侵略を制止し、かつこれを罰するため、今次の戦争をなしつつある。これら同盟国は、自国のために何らの利得をも要求するものでなく、領土拡張の何らの念も持っていない。これら連合国の目的は、1914年の第1次世界大戦の開始以後に日本が奪取し、または占領した太平洋での一切の諸島を剥奪(はくだつ)することにある・・・。日本はまた、暴力および貪欲により日本が略取したほかの一切の地域より駆逐されなければならない」。
 3 当該の論拠づけの文脈での「クリル諸島」の用語の日本による理解は法的意味を持たないにもかかわらず、それでもなお、次の諸事実は指摘されるべきである。
 平和条約の批准承認の期間中、日本政府当局者(吉田首相、西村熊雄外務省条約局長)は、日本の放棄にはすべてのクリル諸島――北も南も――が含まれると表明していた。このことについては、鳩山・日本首相も1955年に語った。しかしながら、あらゆる機会において「クリル諸島」の概念に色丹、歯舞両島が含まれたことはなかった。
 4 1956年10月19日のソ連と日本の共同宣言は、それ自体が国際条約であり、その条項からの一方的に離脱しうるのは、国際諸条約の法体系に従えば、条約締結に際して存在した情勢に関して変化、それも参加者が予測していたような根本的な変化が起きた場合だけである。
 そうした変化は、そのような諸情勢の存在が、条約の参加者が負う義務に対する彼らの合意の本質的な根拠を構成し、そして情勢の変化の結果が、なおも条約によって実行を義務づけられている義務の効力の範囲を根本的な形で変える場合にのみ、理由とすることができる。

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ロシア主張、揺らぐ根拠 北方領土、旧ソ連の内部文書

北方領土の法的地位について検討した旧ソ連の文書=遠藤啓生撮影

文書作成で指導的役割を果たしたレイン・ミュルレルソン氏=大野正美撮影

文書作成に参加したゲオルギー・クナーゼ元ロシア外務次官=大野正美撮影
 北方四島領有の法的根拠について、旧ソ連のゴルバチョフ政権がひそかに作成していた文書の存在が明らかになった。「第2次世界大戦の結果、四島の領有権はロシアに移った」とするロシア政府の公式的な主張を大きく揺るがす内容だ。歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)二島の引き渡しで決着をつけようという動きがロシア側から度々示されてきた背景も読み取れる。▼1面参照
 ■ゴルバチョフ氏「客観的分析を」
 文書を見つけたレイン・ミュルレルソン元エストニア第1外務次官(69)によると、ゴルバチョフ大統領(当時)は日本訪問を控え、「戦争の結果、四島はソ連のものとなった。問題は存在しない」というソ連外務省のかたくなな立場に対し、飽きたらずにいた。「ソ連の主張の強さも弱さも知りたい。特に日本の主張で強い部分は客観的分析が必要だ」とも語ったという。
 こうして1990年秋にできた検討グループは、「国家と法研究所」副所長だったブラドレン・ベレシェチン氏(81)が責任者を務めた。後に国際司法裁判所(ICJ)の判事になった国際法の第一人者だ。
 また、同研究所所長を長く務め、大統領の法律顧問にもなったウラジーミル・クドリャフツェフ科学アカデミー副総裁(故人)が政権とグループ間を調整した。同副総裁は、共産党一党支配脱却を目指すソ連憲法改正案づくりも手がけるなど、ペレストロイカ(改革)政策を進めた大統領の側近の一人だった。
 作業には、こうしたソ連の一流の法学者のほか、後に日本担当のロシア外務次官となったゲオルギー・クナーゼ氏(64)ら日本研究の専門家も動員された。
 ■「まず二島返還」幻の92年提案
 ゴルバチョフ政権の文書は、当時のソ連の一級の法律専門家らが客観的な立場で作成した。それだけに、「歯舞、色丹で日本の領有根拠は極めて強く、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)ではソ連の領有の法律手続きは完了していない」という結論は、四島領有の法的根拠として掛け値なしの相場観を示す。実際、戦後のソ連、ロシアの北方領土政策は、この相場観の範囲で揺れ動いてきた。
 典型的な例が、92年3月にコーズィレフ・ロシア外相(当時)が訪日した際に、渡辺美智雄外相(同)に行った非公式提案だ。同行して提案を事実上用意したのは、日本担当の外務次官だったクナーゼ氏だった。
 同氏によると、提案は(1)56年の日ソ共同宣言に従って歯舞、色丹を日本に引き渡すため、市民の移住、施設の賠償、漁業権、島の非軍事化などの問題を日本と協議する(2)この協議で合意後、平和条約を結んで歯舞、色丹を日本に引き渡す(3)二島を引き渡した結果、2国間関係が質的に成長すれば、国後、択捉で交渉を始める、との内容だった。
 クナーゼ氏は、この提案の内容に沿った領土問題の打開を、92年9月に訪ロした渡辺氏にもじかに働きかけた。だが渡辺氏が、この訪ロ中に当時のエリツィン大統領に「四島の主権が日本に属することを勇気をもって決断してほしい」と迫ったため、大統領が激怒。同月の大統領訪日も延期となり、ロシア側の提案も立ち消えになったという。
 クナーゼ氏は、「歯舞、色丹の引き渡しがうまく進んで国民の支持を得れば、国後、択捉の帰属の問題を話す環境ができると期待した」と語っている。国後、択捉の交渉を始めた場合の結果については、「うまくいけば両島も日本のものとなる。日本がへたをすれば、ロシアのもので残る」との当時の見通しを説明した。
 ■国後・択捉「両者の主張に弱さ」
 政権基盤がすでに弱体化していたゴルバチョフ政権は、ICJ付託などを含むこの文書の検討結果をほとんど生かせず、1年後に退陣した。だが、その内容は、検討に参加したクナーゼ氏がロシア外務次官となり、92年の提案を準備したことなどで間接的にロシアの政策にも反映された。同氏は93年ごろ、非公式の場で領土問題のICJ付託を日本側に打診したが、拒否されたという。
 一方、日本も北方領土問題の打開で、ICJを使おうと試みたことがある。72年10月、大平正芳外相(当時)がソ連を訪問し、グロムイコ外相(同)に提案した。これに先立ち、グロムイコ氏は、日ソ共同宣言の歯舞、色丹二島引き渡し条項を軸に領土問題の打開策を提案したが、日本側に拒否されていた。その後、ソ連が領土問題の存在自体を否定し続けて交渉が行き詰まり、大平氏がICJを使って打開を狙ったのだ。結局、このときはソ連側に拒否された。
 その後も、ICJは検討された。昨年8月の李明博・韓国大統領による竹島訪問後、日本政府は韓国側に竹島の帰属問題についてICJに共同提訴を提案した。日本外務省筋によると、その後、外務省内で北方領土をICJが審査した場合を想定した分析が行われた。結果は、歯舞、色丹では日本は絶対に負けないが、国後、択捉では日本とロシアの主張のそれぞれに弱さもあり、読み切れない部分が多かったという。
 これは、ゴルバチョフ政権の文書を作成したグループが、四島問題をICJが審査した場合の判決について、「色丹、歯舞は日本に属すべきだ。択捉、国後でソ連の立場は強いが、絶対的な明白さはなかった」とした分析結果とも符合する。
 当時、作業に関わったアレクサンドル・チャールイ元ウクライナ第1外務次官(59)は、ICJ判決の分析結果を「90年当時は、あくまで国際法に基づいて検討したため」と説明する。
 その後、日ロ両国は93年の東京宣言で「法と正義に基づいて」四島の帰属の問題を解決することで合意した。四島の問題にはソ連が中立条約を破棄して戦争を始めたことなど、「正義」の側面が密接に絡んでいるため、「もしICJが『法』に加えて『正義』にも基づいて審議すれば、より日本に有利な判決が予想される」と同氏は見る。
 (機動特派員・大野正美)
 ■ゴルバチョフ政権作成文書の要旨
 【ヤルタ協定】
 〈ソ連の立場〉協定によりソ連は、クリル諸島(千島列島)の引き渡しを受ける権利を得た。
 〈日本の立場〉日本に協定は拘束力を持たない。
 〈論評〉協定は、ソ連にクリル諸島領有の法的根拠を提供しなかった。誰に引き渡すべきかは明確に示している。
 【ポツダム宣言】
 〈ソ連の立場〉連合国は日本の領土の処分権を確保した。
 〈日本の立場〉クリル諸島を日本は正当な方法で獲得し、カイロ宣言でいう日本が失うべき領土に当たらない。
 【サンフランシスコ講和条約】
 〈ソ連の立場〉ヤルタ協定とポツダム宣言の実行などで生じた情勢を確認した。
 〈日本の立場〉色丹、歯舞両島は北海道の一部だ。日露通好条約などでクリル諸島はウルップ島とそれより北の列島の諸島に含められた。四島領有の法的根拠は講和条約に害されなかった。
 〈論評〉日本が講和条約でクリル諸島を放棄したことは、ソ連の立場を有利とする最も重要な論拠だ。択捉、国後がクリル諸島の構成には入らないとする日本側の主張は、説得力に欠く。歯舞、色丹での日本の主張は説得的だ。
 【日ソ共同宣言】
 〈ソ連の立場〉ソ連は、歯舞、色丹両島の日本引き渡しに同意したが、ソ連は、新日米安全保障条約締結を根拠に、領土問題は解決ずみと表明した。
 〈日本の立場〉ソ連の一方的行為を合法化する情勢の変化はなかった。歯舞、色丹の引き渡し義務は有効。
 〈論評〉日本の立場は極めて説得的。
 【結論】四島に関して日ソ間に紛争が存在する。
 択捉、国後両島でソ連の法的論拠はより有力だが、法的手続きは未完了。択捉、国後がサンフランシスコ講和条約で日本が放棄した「クリル諸島」の概念に入らないことを日本側が証明するのは大変に困難。
 色丹、歯舞両島は「クリル諸島」の概念には入らない。日ソ共同宣言でソ連は、歯舞、色丹を日本に引き渡す義務を負った。
 紛争は国際司法裁判所の審査対象になりえる。

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