ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

農援隊コミュの待ちぼうけ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
待ちぼうけ、待ちぼうけ
ある日せっせこ 野良稼ぎ そこに兔が飛んで出て
ころりころげた 木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
しめた これから寝て待とうか 待てば獲物が驅けてくる
兔ぶつかれ、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
昨日鍬取り 畑仕事 今日は頬づゑ、日向ぼこ
うまい切り株、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
今日は今日はで待ちぼうけ 明日は明日はで森のそと
兔待ち待ち、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
もとは涼しい黍畑 いまは荒野(あれの)の箒草(はうきぐさ)
寒い北風木のねっこ

この歌は、韓非子の「守株待兎」をネタに、北原白秋作詞・山田耕筰作曲で、1923年(大正12年)、満州唱歌として発表されて、戦前戦後の節食・倹約の思想、戦後の日本農業の有様と奇妙に一致して、盛んに歌われたものである。

歌詞の引用された、説話の内容は、宋の時代に、稲作をする農民がおり、畑の隅に切り株に、ある日兎がぶつかって、首の骨を折って死んだ。

この兎を持ち帰って食べた百姓は、それに味をしめ、次の日からは鍬を捨て、また兎がこないかと待っていたが、二度と来なかった。そのために稲は実らず、百姓は国中の笑いものになったそうな。

この逸話から守株待兎(しゅしゅたいと)という成句ができた。本来は、古い習慣に確執し、全く進歩がないとか、臨機応変の能力がないことの意味で、韓非は、この説話を、古の聖人の行ったような徳治を行うべきだという儒家の主張を批判し、「昔の統治方法をそのまま用いるのではなく、時代に合わせて変えるべきだ」という文脈で用いた。

「改新」や「改革」などということばが悪く取られかねない「滅私奉公」の時代であったため、偶然の幸運を当てにして時間を無為に過ごすな、楽をして金儲けをしようと思うな、というふうに教えられた。

戦後GHQ民生部の圧力で施行された「農地解放」(1947年:昭和22年)は、寄生地主が日本の軍国主義に加担したとして、地主の農地を、政府が強制的に安値で買い上げ、7割余りの農地が小作人のものに換わった。これにより、北海道を除いて、大規模営農が事実上不可能となり、日本の農業が国際競争力を得られない構造が固定化されることとなった。

しかも、遺留分を含む均分相続が改正施行されたので(1948年:昭和23年)、まさに「そこに兔が飛んで出て ころりころげた 木のねっこ」式に、小規模な地主が続々と誕生したのである。

しかし、労せずして手に入れた、農地は、経営規模とは言えないものであったので、守株待兎の説話によって作詞された童謡のように、「もとは涼しい黍畑 いまは荒野の箒草」(耕作放棄地)が続出してしまったのである。

しかも、多くの日本人の、価値観にとんでもない誤解を生んでいた。

日本人は、原価10円の物を工夫して100円で売ったというのと、10円で買って(無料で遺産相続して)100円で売ったいうのを、同じ90円(遺産を相続した場合は100円)の儲けと考える。

しかし、この二つはまったく違う。

原価10円を工夫した場合、原価に工夫と労働力が加わり、便利さと生活の潤いがあるから100円で買っても惜しくない、価値が生まれている。生産者には知識や技術が、消費者には富が残る。

しかし、土地の場合、利益を得た人と損した人がでる、差額があるだけで、この世の中には何の価値も生まれない。

これが同じだと考えている人は、いつか必ず、損をする。

ただでもらったもので「経営規模ではないから」と、耕作放棄して出て行った、農家の人たちもそうなる。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

農援隊 更新情報

農援隊のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。