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日本の超古代文明コミュの秦氏=キリスト教のネストリウス 派説

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スイトチコフさん 「キリストの墓とピラミッド」とは別トピにしました。
みなさまもよろしくお願いします。

【隠された】十字架の国・日本』に興味がわきましたら読みたいと思っていますが、現在読む予定はありません。ケン・ジョセフ・シニア氏とケン・ジョセフ・ジュニア氏も知りませんでした。前述のとおり
・「佐伯好郎、秦氏のユダヤ人景教徒(ネストリウス派)説」は時代に矛盾があります。
・「茶道は、キリシタン迫害時代のキリシタンたちの「聖餐式」だった。」 も迫害以前に信長の時代にカトリックの聖餐式の影響により形成されました。隠れキリシタンの出現は秀吉の時代になってからです。

本を読んでいませんので、この2点の記述は本当にあるのか読んだ方教えてください。

近年のDNAでも弥生時代以降の日本人は急激に朝鮮化していることが証明されています。私は以前から朝鮮半島での戦乱で、日本へ脱出した民族や集団がいて原日本人(アイヌ、蝦夷)が北へ追われたと主張してきました。
このような証明は考古学、古文書、伝承、人類学などとの照合が必要です。

・日本書紀によると応神天皇14年に弓月君が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったとの記述があるそうで、日韓合同での研究も近年進んでいます。
・現在の京都市伏見区や、大阪府寝屋川市太秦など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。河内国太秦には弥生中期頃の太秦遺跡が確認されており、付近の古墳群からは5〜6世紀にかけての渡来人関係の遺物(太秦古墳群)が出土している。

>秦氏が何者かを伝える資料も無い(あったらごめんなさい)

私にとってはこれらはりっぱな資料です。
・スイトチコフさんはこの時代的矛盾を、どのように考えておられるでしょうか。
・朝鮮半島からの渡来人で 土木や養蚕、機織などを伝えたとの説は否定されますか。
・「秦氏のユダヤ人景教徒(ネストリウス派)説」の学術的証明をひとつでも知ってる方教えて下さい。

コメント(57)

> ブラボーSAKAさん

はじめまして。

秦氏の考察について皆さんの会話を見させて頂きました。

忌部族の話しがほとんど出てないのはどうなんでしょう?

唯一、忌部にふれた話しをしていたのでコメントをしてしまいました。

忌部族の里の徳島ですら、ほとんどの人が話しを分からないと思います。
でも、私の知るトコでは、忌部の人の名字は(秦)(はだ)という方が多いです。
スイトチコフさん
昔、新潟〜ハバロフスク〜イルクーツク〜紹介のシルクロードを旅行したことがあり、懐かしい地名やチャイハナ(喫茶店)という言葉も思い出しました。シルクもありましたのでネストリウス派は別にして、秦氏の出身地として否定はしません。

・「秦氏=ネストリウス派」ならば渡来以前に養蚕とネストリウス説を熟知していなければならない。
・養蚕は当時中国近辺(中国に近いシルクロードを含む)にしかなかったので、ペルシャ、イスラエルなどの中東の民族が日本へ養蚕技術を持ち込むとは考えにくい。
・渡来した秦氏の人口は数十人の宣教団などではなく、氏族単位である。
・秦氏が渡来した応神天皇の時代に、ネストリウスはまだ生まれていない。

以上を考慮すると「秦氏=ネストリウス派」は成立しませんが、他の可能性は否定せず今後も注目したいと思っています。
ブラボーSAKAさん
>解らないという、回答で理解して宜しいでしょうか?。

はいけっこうです。

>秦氏については、謎が多く、代表的な文献に載っていることで、行き詰まってしまうことですよね。難しいですから、素人が調べるのは。

1.藤原氏と秦氏の関係
2.古事記・日本書紀を総指揮した人物
3.平安京の構築に資金と土地を提供した人物
4.神社構築と秦氏の関係

素人で解りません、上記を調べれば「秦氏=ネストリウス派」が証明できるという意味に聞えます。玄人の専門文献での説明お願いします。

ブラボーSAKAさん
小ばかにしているのはあなたでしょう。

>秦氏については、謎が多く、代表的な文献に載っていることで、行き詰まってしまうことですよね。難しいですから、素人が調べるのは。

自分の発言が正しいと思うならば削除などせず残してください。
[秦氏=景教徒]はありえないと本人が認めています。

「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)。だが佐伯自身は(秦氏が景教徒でないことは認めたが)その後死に至るまで「秦氏=ユダヤ人キリスト教徒」と確信しており、また彼の所説は日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張する人々からは、同祖論を学術的に根拠づけるものとして歓迎された。( 出典  ウィキペディア)

学者でなくても頭を冷やし、ちょっと調べれば「秦氏=ユダヤ人景教徒」説には無理があると解ります。景教学者の佐伯自身も時代的に辻褄が合わないので誤りを認めました。

その後は『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』第14代仲哀(ちゅうあい)天皇(在位192-200年)の第8年に,弓月(ゆづき)国の巧満(こうまん)王が,日本の朝廷を公式訪問した。を引用し路線変更したようです。日本に初めてキリスト教が伝わったのは西暦199年としました。内容は相変わらず言葉の語呂合わせ、こじつけのようです。

『極東における最初のキリスト教王国弓月、及び、その民族に関する諸問題』』というタイトルの論文の中で、次のように述べている。

彼らは時代的に「景教徒 Nestorian ではあり得なかった」こと,
ゆえに, 「私見によれば,弓月の民は,使徒時代以後のキリスト教徒であったに相違ないし,又,大多数がユダヤ人改宗者であった原始教会のキリスト教徒であったかもしれない。」


これは新発見でした。話に参加してくださいました皆様に感謝します。
lotusさん
彼の本がやっとみつかったので少し読み返してみました。
簡潔にいきたいので以下に本文からそのまま抜粋します。
しばしば景況=ネストリウス派という表現をします。詳しい事は後述しますが、この表現は適切では有りません。ネストリウスは確かにリーダーの一人でしたが教祖ではなかったからです。
景教は新しい宗派の名前ではなく、むしろ使途トマス以来の原始キリスト教の流れを汲むものです。景教は東方基督教の一つです。
東方基督教はロシアやギリシャ正教会などの東方正教会(オーソドックス)
、および景教などの東方諸教会があります。
まだありますが後ほど、、
参考までに
(秦一族は)背の高い人々で、衣服を清潔にし、特別な言語や人々であり、王は馬に乗り高い文化を持つ人々だった。
(魏志東夷伝)
当時衣服を清潔にしていた人達とは?
>しばしば景況=ネストリウス派という表現をします。詳しい事は後述しますが、この表現は適切では有りません。ネストリウスは確かにリーダーの一人でしたが教祖ではなかったからです。
景教は新しい宗派の名前ではなく、むしろ使途トマス以来の原始キリスト教の流れを汲むものです。

ネストリウスをリーダーの一人とか教祖ではないという表現はどうなんでしょう?
キリスト教ですから教祖はキリストで、教祖の死後沢山の派ができました。
ネストリウス派の創唱者はネストリウスです。

原始キリスト教のトマスを創始者にしたいようですね。
カトリックはペテロを創始者にしています。
聖書にはありませんが外典で「トマスの福音書」というのがあり、1945年エジプトで発見されました。景教=ネストリウス派ではなく、「景教=トマス派」説なんでしょうか?

>(秦一族は)背の高い人々で、衣服を清潔にし、特別な言語や人々であり、王は馬に乗り高い文化を持つ人々だった。
当時衣服を清潔にしていた人達とは?

筆者の故郷だといいたいのでは?
佐伯とは違った景教説のようで、続きが楽しみです。
lotusさん
>景教=ネストリウス派ではなく、「景教=トマス派」説なんでしょうか?
そういうことではないと思います。こういうことだと思います。(確かどこかにこんな事が書いてあったような)
ネストリウス派というのは外部の人(カトリック)がかってにそう呼んでいただけでいわば悪口の様なものだと(異教徒みたいな)
著者もそうですが彼ら(景教徒)はネストリウス派などとは呼ばない。当然トマス派とも呼ばない。

>景教は新しい宗派の名前ではなく、むしろ使途トマス以来の原始キリスト教の流れを汲むものです

景教=ネストリウス派というのがそもそも間違っているんでしょうね。
ネストリウス派=景教の一部ということじゃないかと思いますが
というか、むしろもともとあったものを区別しやすいように後生の人がそう呼んだだけかも?ですね

>筆者の故郷だといいたいのでは?
たぶんその通りです(笑)
宗教は教祖の死後、宗派が乱立して自分の宗派こそが教祖の意思を継ぐ正統派である、と主張するのが常です。それは悪いこととは思いません。しかし正しいものが歴史に残るのではなく、勝利したものが自分に都合のいいように歴史を創作して広めます。

カトリックはキリストの継承者をペテロにして、バチカンの総本山をサン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂とよんでいます。
現在の正統派キリスト教はローマ・カトリックの激しい弾圧、殺戮、焚書により創作されました。「トマスの福音書」も異端として焚書されたのですが2000年後エジプトで発見されています。

コンスタン ティノポリス総主教ネストリオスの説は、カトリック内主流派の路線に合わず異端と宣告されエジプトに亡命し亡くなっています。ネストリウス派を作ったのは弟子たちで、ローマの権力下にない東方のペルシャに総本山を置きました。

ペルシア人司祭「阿羅本」らによって伝えられたネストリウス派は中国では景教と呼ばれました。

>著者もそうですが彼ら(景教徒)はネストリウス派などとは呼ばない。当然トマス派とも呼ばない。

初期においてはそう呼んでいたが、現在は都合のいい説を広範囲に採用しているからネストリウスもその一人にしているのかな?
著者の所属教会解りますか?

lotusさん
>著者の所属教会解りますか?
アッシリア東方基督教会??だと思います。

ちなみにlotusさんは?
魏志韓伝(東夷伝韓条)より
==========
辰韓は馬韓の東にあり。その耆老、伝世し、自ら古の亡人にして秦の役を避けて韓国に来適し、馬韓その東界の地を割きてこれに与うと言う。城柵あり、その言語は馬韓と同じならず。名づけて国を邦となし、弓を弧となし、賊を冦となし、行酒を行觴となし、相呼びて皆を徒となすは、秦人に似るあり、ただ燕・斉の名物にあらず(?)。楽浪人を名づけて阿残となす。東方人は我を名づけて阿となし、楽浪人は本その残余人という。今これを名づけて秦韓と為す者あり。

初め六国あり、稍(しだいに)別れて十二国となる。弁辰また十二国、また諸小別邑あり、各渠帥あり、大は臣智と名づく、その次に險側あり、次に樊[シ歳]、次に殺奚あり、次に邑借あり。已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁(辰)樂奴國、軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰[シ賣]盧國、斯盧國、優由國あり。弁、辰合わせて二十四國、大國は四五千家、小國は六七百家、總じて四五萬戸。

その十二國は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作(な)し、世世相繼ぐ。辰王は(辰韓人が)自ら立ちて王となるを得ず。【魏略にいわく、明らかにそれ流移の人為(た)り、ゆえに馬韓の制するところとなる。】

土地は肥美、五穀及稲を種るに宜しく、蚕桑を暁(さと)り、[糸兼]布を作り、牛馬に乗駕す。嫁娶の礼の俗、男女別あり。大鳥の羽を以って死を送る、その意、死者をして飛揚せしめんと欲す。【魏略に曰、その国屋を作るに、横に木を累(かさ)ねてこれをなす、牢獄に似るあり。】国、鉄を出す、韓・[シ歳]・倭皆従いてこれをとる。諸市買、皆鉄を用いること、中国の銭を用いるが如し、また以って二郡に供給す。俗、歌舞・飲酒を喜ぶ。瑟あり、その形、筑に似る、これを弾きまた音曲あり。児生まれるや、すなわち石を以ってその頭を厭(あつ、圧か?)し、その偏を欲す。今、辰韓人、皆偏頭。男女倭に近く、また文身す。歩戦に便(慣れている)、兵仗、馬韓に同じ。その俗、行者相逢うに、皆住(とど)まり路を譲る。
弁辰は辰韓と雜居し、また城郭あり。衣服・居處辰韓と同じ。言語・法俗相似る、鬼神を祠祭するに異あり、竃を施(もう)けるに皆戸西(家の西)にあり。その[シ賣]廬國倭と界を接す。十二國また王あり、その人形皆大。衣服は潔清にして、髮長し。また広幅細布を作る。法俗特に嚴峻。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
ストイチコフさん
>ちなみにlotusさんは?

宗教組織にも、それらしきグループにも所属していない自由人です。
本の内容もう少し書いていただけると参考になります。

偽史学博士さん
資料ありがとうございます。
現代風にアレンジしてあるようですが、これでも私には難しいので秦氏に関してどのように書かれているのか、要点を教えていただけないでしょうか。
>34

lotus様

28でストイチコフ様が挙げられた「魏志東夷伝」の読み下しです。
朝鮮半島にあった辰韓と弁辰という国に関する記述です。


辰韓は中国大陸の秦の亡命者が建てた国とされており「秦韓」ともいう。言葉は他の朝鮮半島の国より中国の秦に似ている。養蚕を行い、布を織る技術がある。

弁辰は辰韓と領地が混ざり合っている(ということはもともとは別の国らしい)。体は大きく衣服は清潔で髪は長い。広い幅の布を作ることができる。

2,3世紀、日本でいえば邪馬台国の時代の朝鮮半島の話です。

ストイチコフ様がこの記述に言及されたということは弁辰と辰韓のどちらか、またはその双方の民が日本に渡来して秦氏になったと考えておいでなのではと思います。
偽史学博士さん
秦氏=ネストリウス派ではなく、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人が有力と考えております。それで36と私の考えは矛盾なく繋がります。4世紀前後は大量の渡来民が朝鮮半島から日本へ押し寄せたのではないでしょうか。その一つが「秦氏」であり「天皇家」だったと推測します。

こりきに CR-Xさんのお話とも関係してきますが、日本独自の古墳とされてきた前方後円墳がこの辺でも発見されています。任那日本府があったようで、古代日本を考える上で朝鮮半島を頭越しにはできませんね。
こりきに CR-Xさん
現在の聖書が正典として確立したのは400年頃、マルキオンから始まり、エイレナイオス、アタナシオスなどカトリックにより取捨選択され決定されました。カトリックの意にそぐわぬものは全て異端として排除され、その中に『トマスによる福音書』『フィリポによる福音書』『マリアによる福音書』『ユダの福音書』などもありました。
キリスト教がローマの国教になり、ローマに都合のよい宗教を形成していったのです。

話は変わりますが「こりきに CR-Xさん」フランスへ帰られるとのことでしたね、南フランスのレンヌ・ル・シャトーとかカタリ派の本拠地モンセギュールには興味ないでしょうか。カタリ派は輪廻転生を信じていた宗派で異端とされ滅ぼされました。

蚕は古代中国で食用として飼われていた。それから糸をつくり機織りへと発展したと記憶しています。現在の蚕は自然環境では育つことができないそうです。アルコールに弱い人は中国に現れ朝鮮半島と西日本に多く、東北のひとはアルコールに強いようです。耳垢の分布もこれに非常に近いようです。

耳垢には乾性耳垢と湿性耳垢があり、割合は人種によって大きく差があるようです。北部の中国人や韓国人で湿性耳垢は4 - 7%、ミクロネシア人やメラネシア人では60 - 70%、白人では90%以上、黒人は99.5%が湿性耳垢であると言われています。日本人全体では湿性耳垢の人は約16%。。湿性耳垢は北海道、東北、北関東、南九州、沖縄地方に多く、乾性耳垢の人は西日本に多い傾向があります。

アルコール、耳垢、人骨などから石器時代、縄文時代と継続してきた原日本人の国であった日本列島に、弥生時代以降朝鮮半島から大量の渡来人が押し寄せたことが解ります。
以下、他のコミュに書いたものです

●たとえば、日ユ同祖論の根拠でよくつかわれる
『太秦』=イシュ・マシャ=イエス・メシア=イエス・キリストの意味。ヘブライ語(古代語アラム語)で解読。

これは、戦前の京大佐伯博士の説です。
彼は景教の世界的権威で、時代考証の間違いは、秦氏=原始ユダヤキリスト教=ローマ教会に枝分けれする前の初期エルサレム教団の末裔説を最後には提唱してました。

これは、名称、カテゴリー次元の話なので、厳密には
「ネストリウス派=秦氏」はありえないですが、広義の東方教会のなかには含まれるという話でしょう。あと、秦氏は数世紀にわたり渡来してきてるので、同じ秦氏のなかでも違う民族であったり、時代背景が異なる場合もあります。

まさに東洋のダビンチコードですが、ロマンの領域をでる証明はまだないです。

司馬遼太郎は新聞記者時代にこの説にはまり、処女小説をネストリウス派説で書いたので、後にデビュー作品を封印しましたw


ちなみに聖徳太子の参謀は、京都、赤穂にある大癖神社=ダビデ寺が祀る秦河勝(自称秦の始皇帝末裔の弓月王5世=日本書紀他。今のウイグル、カザフスタンあたりが故地、2世紀にはすでにトルコ系キリシタンだった弓月王国説=佐伯説)。

世阿弥やいまの宮内庁の雅楽、東儀氏らの先祖です。
ちなみに私は初期入植地の岡山吉備の秦氏(=ハダと読みます)末裔です。

吉備には380年代には渡来し定住していたようです。郷里の秦小学校の校旗は、弓と月です。(日本書紀の弓月王記述からきてるのか、一族の口伝かどうかはわかりません)

総理大臣だったハシリュウも縁戚で、同じ秦村です。吉備ではないが、羽田元総理の実家には、始皇帝からの系図があったらしいです。(怪しいですが)


秦氏はもともと数世紀にわたる混合移民開拓団。
イエス、ユダヤ伝承をもつ、トルコ系、チベット系の五胡十六国時代に興亡のあったいくつかの秦王朝(中華北部を制覇した異民族系の前秦、後秦帝国)の亡命説もあります。


吉備のユダヤ文化(チベット・チュルク系 4、5世紀前秦、後秦王朝亡命)流入説は、古墳形状や中央アジア系の墳墓のユダヤ文化(山羊のレリーフ・国立民族博物館)
にみることもできます。

http://luna555.blog19.fc2.com/blog-category-13.html
今までの秦氏=日ユ論だけではつまらないのは、明治以降のヨセフ・アイデルバーグ、マックロード、トケイヤー、ジョセフ親子・・・らユダヤ側からの視点は、一般には驚異で新鮮だが、一方的過ぎるという点。


古代日本へのユダヤ文化流入は誰も否定できないでしょうが、イエス伝承となるといきなり複雑化します。そして収拾不能になる・・・ww


・70年代の松本清張や司馬遼太郎が処女作で書いた、日本人シルクロード渡来世界観
・80年代以降のNHKのシルクロード番組ブーム
・故宇佐美さんらの近代フリーメーソン思想、古典的ユダヤ陰謀論と秦氏
・「ムー」飛鳥氏らの歴史エンターテイメント演出

そして
・最近の911テロ疑惑のベンジャミンミンフルフォードらの、自由金融市場派・ユダヤ陰謀論
・みのもんた番組などでの歴史ミステリーロマン

などがごっちゃになり、なんとなく謎の古代史エンターテイメントでアバウトにくくられて、商業的にも市場形成してしまったからなんでしょうね。


また、アカデミズムにみる中世の異界説も、それはそれで重要ですが、歴史の一側面でしかなく、戦後左翼系の騎馬民族説(佐伯博士の弟子になる江上東大教授が一大ブームを起こした秦王国南下侵略説)、新羅渡来説も単純な歴史の断面でしかないので、面白くはないですよね


なんというか、もっと、民俗学、経済学、岡田史観のようなアジア的歴史観で、淡々と、コスモポリタンなイエス・ユダヤ文化混入の痕跡を終えないものかと・・・。


加藤謙吉、大和岩雄あたりのニッチで地味な秦氏研究をふまえた上で、アカデミズムが触れない「壮大な建国物語」を語れないものかと・・・


久慈力氏なんか、わりと常識的な「シルクロード渡来説」で好きなんですが、表層的で弱い。この分野は、まだまだこれからメジャーになっていく分野だと思います。

出版化もしたいし、ダビンチコード的な物語を、深く語れる原稿とかないですかね・・・
「ネストリウス派=秦氏」は間違いであると、京大佐伯博士自身が認め「原始キリスト教=秦氏」説に切り替えました。しかし根拠はなく想像上の仮説です。

ダビンチコードも発売まもなく読みましたが、フィクションです。
46 3枚の写真右 帽子をかぶった埴輪は出土品でしょうか。

>古代日本へのユダヤ文化流入は誰も否定できないでしょうが

肯定できる古文書か何かありましたら紹介お願いします。

ユダヤ陰謀論や宇佐美さん「ムー」飛鳥氏などのトンデモを寄せ集めダビンチコード的なフィクションを出版したいということでしょうか?
シーガイル☆猛虎さんの考え方には共感します。

秦氏とか天皇家をどうしてもユダヤに結び付けようと考えている人たちは、最初から結論ありきでなんでも日ユ同祖論と結びつけようとトンデモを寄せ集めます。そのような「ムー」的情報に偏ると、非常識が常識になってしまいます。

原始キリスト教がどのように布教されていくか、グノーシス、新プラトン主義、犬儒派、ミトラ教、その後のキリスト教がローマの国教となってからの弾圧と弾圧から逃れ異国へ布教した勢力。このような視点から考察すべきではないでしょうか。

現在の主流であるカトリックとプロテスタント以外のコプト教や東方教会により深い真実が秘められていると感じています。キリスト教もイスラム教も出発点はユダヤ教の一派だったのでしょうね。
48
>京大佐伯博士自身が認め「原始キリスト教=秦氏」説に切り替えました。しかし根拠はなく想像上の仮説です。

原文読みましたか?
彼は当時の景教研究の権威だし「太秦を論ずる」には、ダビデを祭祀する秦氏独特の大壁神社の研究とか、それなりの根拠が出てますが。
2世紀にはキリスト教国化していたトルコ系弓月国を、秦氏の故地とした説は、説得力に弱いが、後の渡来系研究や弟子の江上博士の騎馬民族説に影響を与えましたね。

(騎馬民族説に賛同してるわけでないです)


>46 3枚の写真右 帽子をかぶった埴輪は出土品でしょうか。
そうです。
当時の中華文化に影響される前の、代表的日本人支配層の人物像。
中央北方遊牧系の風俗、ユダヤ祭祀関係者に類似した帽子、髪型。

国立民族博物館には、尻尾に脂肪を溜め込むユダヤ遊牧独特の山羊のレリーフの棺が展示されています。中央アジアと同一形式の墳墓をもつ吉備祭祀の研究はまだこれからですが、4,5世紀、巨大化する前方後円墳の中核に吉備の特殊機器様式(その後の埴輪文化)があることは、アカデミズムの常識です。

つまり、大和吉備連合朝廷(ていうか吉備が移動し大和になった)の祭祀文化には中央アジア的な要素が混入している。それがユダヤ文化かどうかはわかりませんが。

秦川勝が顧問をして、皇室財務をみていた聖徳太子の頃までは、少子部という13歳以下の秦氏からなる天皇近侍の秘密祭祀集団がいました。その系譜は、現代の宮内庁や京都賀茂神社の葵祭りなどの重要な天皇祭祀にも継承されています。


>肯定できる古文書
今のところないでしょうね。

ただ、日本書紀などにみる非実在説の高い聖徳太子へのイエス伝承化や、天孫一族の始祖系図などは聖書伝のものとほぼ同一ですね。

景教が唐で大流行した直後の編纂時の年代、秦氏自身が編集しているので、最先端の国際教養にあわせるという意図で、イエス伝が混入していておかしくはないでしょうね。まあ、ペルシャ人官僚もおいたというくらい見栄を張ってますしw


>ユダヤ陰謀論や宇佐美さん「ムー」飛鳥氏などのトンデモを寄せ集めダビンチコード的なフィクションを出版したいということでしょうか?

残念ながら昔の出版ビジネスでは、そういうのが主流です。
(あの国民作家、司馬遼太郎ですら!)
ロマンとエンターテイメント性がないと、大衆的な市場は狙えませんからねww

ただ、私は文脈からも、そういう次元のことは求めていないことを書いています。


ダン・ブランは小説家ですから、ダビンチコードや天使と悪魔がフィクションであることは、大前提です。ただ、そのなかにどれほど先端科学や合理的な史実研究、宗教、思想解釈を記号として混入させ、物語として面白くさせるかに意味があるのです。


記紀や古代の宗教文献も、ほとんどが想像的な当時の「物語」か「政治的策略文献」ですよ。

安易なルポルタージュでしかない史記や三国志の文献で歴史を語ることが、どれくらい危険なことか。
200年も続く日本民族の建国をあいまいにした邪馬台国論争をみたら、陳寿も笑うでしょう。漢人の仕掛けた、1700年も効果的な壮大な歴史トラップですよ(笑)

死海文書、グノーシス派などを意味深長にちりばめて大ヒットしたエヴァンゲリオンを批判しても仕方ない。物語と研究書では、出版手法も異なりますしね。
>46 3枚の写真右 帽子をかぶった埴輪は出土品でしょうか。
そうです。

とても興味あります。
どちらでいつ発見されたのでしょうか?

ユダヤ文化の一部が中央アジアまで来ていたのは間違いありません。
前方後円墳は韓国、中国にもあるようです。発祥がどこかはまだ解っていません。

エヴァンゲリオンは読んだことありません。
クリスチャンではありませんが、旧約も何度も読みました。死海写本から旧約のほとんどが発見されたので、紀元前にユダヤ教聖典が完成していたのは確かですね。

人類がどのように全世界に分布し、日本人のルーツはどのような経緯をたどってきたのか興味深いところです。縄文時代から弥生時代への転換期に朝鮮半島から大量の避難民や亡命者が流入し、農業が始まると平和な日本列島で急に土地の奪い合いが始まり、豪族、皇室の権力闘争へと発展していったのかな。

日ユ同祖論、秦氏=ネストリウス派、竹内文書、ムー大陸が流布されたのは戦前軍部の国粋主義者に都合がよかったからですね。戦後は雑誌「ムー」、その影響を受けたのがオーム真理教です。

庶民が国を平和に導くなどできません。ブルジョアと僧侶を殺し、ロマノフ王朝を滅亡させたロシア革命をみても、中国の文化大革命をみても低次の権力争いで人間のモラルも品性も失います。尖閣諸島の漁船事故は中国政府の自作自演。南沙諸島でも漁船を使い同じ手を使っています。国のリーダーは古ローマのように乞食同然の哲学者の話を聞きに行くような賢帝であってほしいものです。金は力なり、数は力なりでは国はほろびますね。
失われた10支族である日本人として
イスラエルで抑圧されている
真のユダヤ人(2支族)を
応援したいです。

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