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一般的懐疑論をめざすコミュの懐疑原論への試み 01 おおまかな進路

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しばーらく、なんてもんじゃなく、ほったらかしにしていましたが、ひさびさにやってみますか。

懐疑を言語行為とみなして、その方法を説明することはあたりまえに行われています。しかしより具体的にどのような言語行為なのか、その原理は何に基づいているのかに現代的な説明をつけようという試みは知りません。もうヘーゲルがやっているじゃないかとの意見もあるでしょうが、複雑で未完成でなにより知識が古いのでいっても近代だと反論しておきます。
とはいえ通常は先行研究をふまえて、自分の意見をつけたすものですが、そんなもの無視です。逆にいえば、私に反論する材料だけはたくさんあります。あー反論されたい。簡単だよ。たぶん。

はじめるにあたり、読者は以下について、ある程度の知識があることを前提とします。

・セクストス・エンペイリコス 「ピュロン主義哲学の概要」
・韓非子、黄老道など。このあたりは出土文献が多いので、奮励努力に期待する。
・ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」 エンペイリコスと述語論理は事前によんでおこう。
・無限論かチューリングマシンか公理的集合論、とくに対角線論法と無限の濃度について、田中一之 「ゲーデルに挑む 証明不可能なことの証明」なんかどうだろう。「ファインマンの計算機科学」もすてがたいが、わかりにくいかな。
・認知言語学 とくにラネカー、トマセロなど。レイコフもいいけど、哲学よりだからやめとく方が無難。チョムスキーは忘れよう、いなかったことにしよう。
・科学哲学 入門書くらいでかまいません。H.I.ブラウン「科学論序説―新パラダイムへのアプローチ」あたりが教科書としてうまくまとまってる。絶版だけど、図書館にはあるとおもう。他のでもなんでもいいんですが、科学史を俯瞰できるようなのがいい。最初にファイヤーベントとかはやめとこう。ギリシアやローマの歴史知らないでマキャアベリ読むようなもの。思想家が前提している歴史知らないで読んでも、身にならない。
・プラグマティズム これも入門書くらいでかまいません。ウィリアム・ジェームズ「心理学原理」は良書だとおもいますが、これはさらに興味がある人用。逆に分析哲学はいらない。ゴンブリッチあたりの美術史を読んでから分析美学を読めば、つかえないことがすぐわかる。

以上、いちいち細かな説明はしません。めんどくさいから。
「わかんないなら読めばいいじゃん」の態でいきます。それでも質問されたら、難しいのには答えるしかないでしょうね。時間もらうけど。


ところで自分は懐疑主義者にふくまれるとはおもうのですが、なにせエンペイリコスや韓非子だしているところからしても、根本は古代の懐疑主義者といえます。そして現代の各種懐疑主義には組みしません。したがって私がどのような視点をもっているか、説明しなければ不親切です。

「信じやすく、まったく疑わないのは馬鹿だが、はじめから疑ってかかるのは暗愚だ」なんていいます。「馬鹿は言葉で釣れるが、暗愚は財貨で釣れる」なんてのは余計なことですね。でもこれググっても出てこないよ。こことか以前のが原典だから。

懐疑主義者は馬鹿と暗愚の中庸をとるべきであり、懐疑論はそのために最適な方法を探しだそうとする志向だというのが、基本的な私の立場になります。現代のラジカルだったり、形而上がかった懐疑論は嫌いです。

「君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか」なんてのには、完全な証明が不可能であることを証明してやればいいんです。疑うだけ時間の無駄。「決定的な確証がないので、いまのところ不明」というのも、一つの答えです。ピュロン主義でいう判断停止(エポケー)です。

「すべてを疑っても、疑っている自分自身の存在は疑いえない」そうでしょうかね。疑ってもいいんじゃないかな。論法としては。
この論法は疑う対象が知覚できることを暗黙の前提としているので、知覚と疑うという認知システムが存在しているとの暗黙の主張でもあります。デカルトはここから神の存在証明にもっていくアクロバットをやりますが、つきあう必要はないでしょう。懐疑も方向を間違えると、なんだかよくわからなくなります。
適当に「判断停止」すべきであり、その停止が最適であるかどうかを判断するのが懐疑論だとおもいます。現時点でわからないことは、わからないとするのが誠実さでしょう。そういうところを放り出すから、分析哲学は嫌いだし、相対主義は性にあいません。

たとえばゴンブリッチの美術史を読んでから、分析美学を読むと、まったくもって意味不明です。分析美学の絶対的な美しさと、美術史の歴史的物語の美しさ。私みたいな素人の良いと感じるから美しいとして買えるなら買おうかなんてのは、分析哲学であつかう問題ではありません。今のところはね。物語を無視して値段なんかつかないの。

また対象はなんでもよいのですが、相対として並べたとして、そこに並べる基準があるならば、相対化の一種でしかない。ならば、複数の概念を表示するときに必ず成り立つ命題の総称が相対主義である、でいいんじゃないかな。図書館でつかわれている日本十進分類法など特別なものを除けば、日常的にはいちいち気にすることもない。そこを気にするのが哲学だろうといわれれば、すぐ謝ります。しかし、おそらくは納得いかないだろうから質問はするけど。

つまるところ私は厳密さが苦手なんでしょう。「だいたい」「おおよそ」「テケトー」が好き。一般的な哲学する態度ではないですね。プラグマティズムもしくはプラグマティクスが一番近しいのではないだろうか。使えるなら、何主義でもどうでもいいや混ぜちゃえ、というテケトーぶり。でも懐疑主義者だよ。きっと、おそらくは。
結局のところ「知っているものは知っている。知らないものは知らない。ただしそれは現時点においてのみ」という自覚が懐疑なんじゃないかな。

それで得られるものはピュロン主義だと個人の心の平穏(アタラクシア)で、韓非子だと社会の平穏(勢)になります。こういう違いを理解するためには、歴史知らないとどうにもなりません。思想は、当時の状況へのアンチテーゼでもあるからです。だから、まともな死に方しない人の多いこと。日本の幕末なんて頭の良い人から、腹をめしたり暗殺されていったといっても、過言ではないだろう。


後々重複するでしょうが、少々具体化します。
エンペイリコスは医者で、韓非子は政治を中心とした思想家です。両者とも相手の主張を疑いますが、前者の目的は病気を治すこと、後者の目的は国を富まし安定させ、結果として民衆の生活をよりよくすることです。

目的があるのですから、ただ疑うだけではどうにもなりません。目的に対して複数の方法があるならば、どの方法が最適か比較する俎上にのせるための懐疑が必要です。そして現在最適だとされていても、新たな発見や時代の変化で将来もそうであるとは限らないので、現状に疑念をもちながら情報収集するための懐疑が必要です。ただしどちらも古代の文献なので、そのまま現代に通じるとはいえませんが、意思決定の科学のはしりだといってもよいでしょう。
次回はそのあたりを掘り下げます。

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