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関西城郭同好会コミュの【城郭ニュース 第349号】  2013/06/03(Mon)

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=じ=ょ=う=か=く=に=ゅ=ー=す==================

【城郭ニュース 第349号】                2013/06/03(Mon)

==================じ=ょ=う=か=く=に=ゅ=ー=す=

◆今週の目次◆
(1)伏見城(京都市伏見区):巨大な土橋や創建当時の石垣を確認
(2)七尾城(石川県七尾市):第2の道か、尾根の南に石垣多数
(3)名古屋城(愛知県名古屋市):本丸御殿の玄関と表書院を29日に公開
(4)二曲城(石川県白山市):土塁と空堀の一部を復元へ
(5)佐賀城(佐賀県佐賀市):天守は内部5層
(6)大洲城(愛媛県大洲市):二の丸西曲輪から海鼠壁の瓦が出土


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(1)伏見城(京都市伏見区):巨大な土橋や創建当時の石垣を確認
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 豊臣秀吉や徳川家康の居城だった伏見城について、大阪歴史学会や京都府教育委員会が調査を行い、巨大な土橋や創建当時のものと思われる石垣などを確認した。伏見城があった場所には明治天皇陵が造営されたことから、遺構の大半は桃山陵墓地として立ち入りが規制され、研究が進んでいなかった。城跡は約80万平米(東京ドーム17個分)に及び、宮内庁が陵墓地でこれほど大規模な文化財調査を許可するのは異例である。

 調査の結果、本丸と二の丸をわたる巨大な土橋(長さ約40m×幅約5m)や幅数十mの堀、天守の土台(一辺十数m×高さ約5m)など、多くの遺構が確認された。また秀吉時代の野面積みの石垣は、高さ約7m×長さ約20mにわたって残っていた。一方、徳川期の石垣には一辺 1.8mの巨石が用いられていた。調査を行った京都府教育委員会では、これまでの調査を総合して城跡の範囲を示す概略図を作成した。

▼伏見城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://homepage3.nifty.com/yogokun/husimi.htm
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/fusimi.htm
 http://www.geocities.jp/zanyphenix/shiro400.html


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(2)七尾城(石川県七尾市):第2の道か、尾根の南に石垣多数
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 国内最大級といわれる七尾城の調査を行っている七尾市教育委員会は、城山の麓と本丸を結ぶ「第2の幹線路」があった可能性が高いことを明らかにした。これまで遺構が土砂や草などに覆われて明確ではなかった尾根の南側について、同市教育委員会が平成21年(2009)から調査を行ってきた。

 その結果、南側斜面で野面積みの石垣が多く確認された。枡形の存在も見つかったことや複数の石垣の位置などから、幹線路であると推定された。これまで明確となっていたのは北側斜面を通る「大手道」で、今回のものは南側斜面に設けられていた。能登守護職であった畠山氏が往来の利便性を重視して南側にも道を設け、能登の統治に役立てていた可能性があるとしている。ただ、この第2の道がいつ造られたのかは明確ではなく、来年度末まで調査を継続する。

▼七尾城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.ishikawa-maibun.or.jp/sanpo/nanaojo.html
 ↑石川県によるサイト
 http://homepage2.nifty.com/mizuki55/hokuriku/nanaosi.htm
 http://napoleone.my.coocan.jp/Cyubu/Ishikawa/Nanao/Nanao.html


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(3)名古屋城(愛知県名古屋市):本丸御殿の玄関と表書院を29日に公開
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 太平洋戦争時に空襲で焼失した名古屋城本丸御殿は第1期復元工事が終了し、玄関と表書院が今月29日から一般に公開される。焼失を免れた絵図などの史料を基に、可能な限り江戸時代初期の技術で復元を行った。

 復元工事は平成21年(2009)1月に始まり、平成30年(2018)に完成する予定である。昭和初期に本丸御殿を正確に計った実測図や江戸時代から残る絵図などがあり、できる限り建設時の工法や技術を再現しながら復元が行われている。

 今回公開されるのは、本丸御殿約3100平米のうち、玄関や表書院など約1090平米である。玄関は将軍などの正規の来客が通される建物で、一之間と二之間を隔てる障壁画「竹林豹虎図」(重要文化財)の中央2枚も、表書院への廊下に6月9日まで展示される。名古屋市では本丸御殿を観光の起爆剤にしようと期待しており、6月16日まで多くのイベントが行われる。

▼名古屋城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/
 ↑名古屋市による公式サイト
 http://www.hommaru-palace.city.nagoya.jp/
 ↑名古屋城総合事務所による本丸御殿に関するサイト
 http://www.hommaru-palace-jv.com/
 ↑ジョイントベンチャーによる本丸御殿復元工事に関するサイト


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(4)二曲城(石川県白山市):土塁と空堀の一部を復元へ
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 鳥越城とともに国の史跡に指定されている二曲(ふとげ)城で、城跡中心部に土塁と空堀の一部を復元することとなった。土塁と空堀は、遺構が出土した場所に復元される。本丸に最も近い四の郭の北西部に、北東から南西へ長さ11m×高さ 1.5mの土塁を築く。また土塁と並行して、長さ1.5m×幅 2m×深さ0.8mの空堀の一部も復元する。

 平成19年(2007)の発掘調査で確認された、石を積んで土塁を補強した場所についても、復元を行う予定である。この部分には付近で採れた直径40〜60cmの自然石が乱雑に積み上げられており、二曲城にこもる一揆勢が急場しのぎに行った補強とみられている。同市教育委員会では、一揆勢の必死の抵抗を物語るものとして、復元を決めた。

▼二曲城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.hb.pei.jp/shiro/kaga/futoge-jyo/
 http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/hakusan/futoge.html
 http://www.siromegu.com/castle/isikawa/futoge/futoge.htm


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(5)佐賀城(佐賀県佐賀市):天守は内部5層
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 佐賀城天守台の調査を行っている佐賀市教育委員会は、文献調査などから天守内部は5層構造で武器庫の役割を果たしていたことを確認した。佐賀や長崎などの史料や絵図など約5千点の文献調査を行った結果、このように判断した。

 天守内部については4層で描かれた絵図もあったが、佐賀藩主の業績などを記した史料では上部から「上段」「下段」「二段」「三段」および「其外(そのほか)」となっていた。最上階が内部で上下に分かれていたことが確認できたことにより、内部は5層と判断した。

 また「石火矢」と呼ばれる直径2.5〜8cmの鉛玉を打ち出す大砲や、のろしを上げる「火矢筒」などが保管され、武器庫の役割を果たしていたことも判明した。同市文化振興課では、天守の構造が残り、歴史的価値が高く、将来的には国史跡指定を目指したいとしている。

▼佐賀城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://sagajou.jp/
 ↑佐賀城本丸歴史館のサイト
 http://homepage2.nifty.com/yogo1394/kyushu/sagasi.htm
 http://4619.web.fc2.com/shiro111.html


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(6)大洲城(愛媛県大洲市):二の丸西曲輪から海鼠壁の瓦が出土
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 大洲城天守の西側に広がる「二の丸西曲輪」の調査を行っている大洲市教育委員会は、海鼠(なまこ)壁の瓦が出土したと発表した。海鼠壁は造るのに手間がかかり、武家や商家の屋敷や蔵などではよく用いられたが、城に用いられるのは珍しい。

 江戸時代の絵図によると「御武具蔵」があった場所のため、同市教育委員会では歴代藩主の甲冑を納めるなど特別な蔵があったのではないかと推測している。海鼠壁は四角く平らな瓦を並べ、目地を漆喰で盛り上げ、格子模様を付けるものである。防火や防水の機能に加えて、見た目にも美しい。

 御武具蔵は元禄5年(1692)に描かれた「元禄大洲城絵図」と安永9年(1780)頃の「大洲城下武家屋敷図」でひときわ目立つように描かれ、海鼠壁のような装飾も認められるという。今回の調査は西曲輪西側で崩落した一部の石垣を修復するために行ったもので、北西側では城壁内の通路「武者走」の跡も確認されている。

▼大洲城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www1.ocn.ne.jp/~ozu_jou/
 ↑大洲城管理事務所による公式サイト
 http://www.geocities.co.jp/yogo139/sikoku/oozu.htm
 http://4619.web.fc2.com/shiro187.html

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