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関西城郭同好会コミュの【城郭ニュース 第247号】 2010/12/20(Mon)

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=じ=ょ=う=か=く=に=ゅ=ー=す==================

【城郭ニュース 第247号】                2010/12/20(Mon)

==================じ=ょ=う=か=く=に=ゅ=ー=す=
◆今週の目次◆
(1)子城台倭城(韓国釜山広域市):南東部で登り石垣を確認
(2)高松城(香川県高松市):天守台修復状況を報道陣に説明
(3)甲府城(山梨県甲府市):防災新館の計画修正で石垣の一部を現地保存
(4)和歌山城(和歌山県和歌山市):二の丸御殿大奥部の礎石17基を確認
(5)武田氏館(福井県小浜市):戦国時代の土塁を確認


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(1)子城台倭城(韓国釜山広域市):南東部で登り石垣を確認
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 豊臣秀吉の命による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に日本軍は朝鮮半島沿岸部に多くの日本式の城郭を築き、現在でも倭城として二十ヵ所以上も残っている。そのうち釜山市内にある子城台(釜山倭城の支城)で、他の倭城に多くみられる登り石垣が確認された。

 昨年10月に韓国のウリ文化財研究員の発掘調査によって出土したが、この度倭城に詳しい大阪市博物館協会の黒田主任学芸員によって登り石垣であることが確認された。子城台は小さな丘の上に築かれており、全体が石垣によって囲まれている。今回の登り石垣はそれとは異なり、全体を囲む石垣と直交する形で幅3.7〜4.5m×長さ約10mであることを確認した。

 下層からは南側の海に向かって延びる別の石垣の遺構が見つかっており、当初は丘陵南側にあったと思われる港を守る形で築かれたが、翌年に丘陵を囲む石垣を築いた上で登り石垣を設けたのではないかと推測された。

→登り石垣は国内でも彦根城、洲本城や伊予松山城で見ることができますが、これらはいずれも朝鮮半島から帰国に築城されたもので、倭城の影響があると言えます。加藤清正による西生浦倭城や小西行長による熊川倭城が登り石垣がよく残っていることで有名ですが、子城台倭城でも見つかったとは驚きです。

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(2)高松城(香川県高松市):天守台修復状況を報道陣に説明
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 高松城天守台石垣の解体修理を行っている高松市教育委員会は、12月11日開催の現地説明会に先立って状況を報道陣に説明した。天守台を解体した石材は元の場所に積み直されており、現在の高さは約8mとなっている。積み直し作業は来年度に終了の予定で、最終的な高さは13mとなる。これらの石材のほとんどが花崗岩で、同市内の庵治から屋島にかけて地域で採石されたとみられる。

 天守台は砂地に立っているために地震などに弱く、また堀を流れる海水の干満の影響で石垣内部の盛り土が流出するなどの問題がある。そのため、石垣最下段の外側を松の杭と板材で固定し、石を積めて補強している。また、盛り土が海水につかる部分には数種類の大きさの砕石を入れて、土の流出を防いでいる。同市教育委員会によると、コンクリートなどでの補強は行わずに、江戸時代そのままの技法で補強していることを知って欲しいとしている。

▼高松城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kaihatu/kouen/ryokuchi/tamamo_park.html
 ↑高松市のサイト
 http://www3.ocn.ne.jp/~madai/←玉藻公園の公式サイト
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/takamatu.htm


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(3)甲府城(山梨県甲府市):防災新館の計画修正で石垣の一部を現地保存
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 山梨県庁防災新館の建設工事にともなって県庁敷地内から出土した築城当時とみられる石垣について、山梨県と同県教育委員会は一部を現地保存する方向で検討に入った。

 石垣は防災新館の地上1階から地下1階部分に相当するため、これまで県は保存に否定的であった。しかしながら、豊臣時代の築城期(天正年間末期)に築造されたとみられることと、保存状態が極めてよいことから甲府城の姿を伝える貴重な遺構とされた。県は当初石垣を他の場所に移設して保存する方法を検討したが、同県考古学協会は現地保存を求めていた。

 最終的な方針は今後決めることとなるが、いずれにしても一度解体して復元する必要がある。現地保存する規模や方法を現在検討しており、年内には方針を決める予定である。

▼甲府城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.city.kofu.yamanashi.jp/kanko/history/0104.htm
 ↑甲府市の公式サイト
 http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/ko-fu_zyou/ko-fuzyou_kenkyuusitu.html
 ↑山梨県埋蔵文化財センターのサイト
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/yamanasi/kouhusi.htm


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(4)和歌山城(和歌山県和歌山市):二の丸御殿大奥部の礎石17基を確認
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 国の史跡に指定されている和歌山城二の丸の発掘調査を行っている和歌山市教育委員会は、二の丸御殿内の大奥部分で礎石17基を確認したと発表した。二の丸御殿は藩主が生活や政治を行ったとされる場所で、昨年には藩主が部屋から鑑賞したとされる坪庭の漆喰池など大奥関連の大規模な遺構が初めて確認されている。

 今回の調査は二の丸と西の丸を結ぶ御橋廊下の復元にともなって行われたもので、一昨年度から実施されている。文政8年(1825)に描かれた「和歌山二ノ丸大奥当時御有姿之図」などが残っており、調査地域には二の丸御殿があることは知られていた。

 昨年行われた調査と今回の発見で、絵図の内容と合致する形で遺構が確認された。今年の調査で確認されたのは、御座之間と御対面所の円形の礎石15基と方形の礎石2基である。また、直径約30cmの土坑や漆喰池の導水口につながる土管なども出土した。

▼和歌山城については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.city.wakayama.wakayama.jp/menu_4/kankou/wakayama.html
 ↑和歌山城管理事務所の公式サイト
 http://www.wakayamakanko.com/seeing/history1.html
 ↑和歌山市観光協会の公式サイト
 http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kinki/wakayama.html


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(5)武田氏館(福井県小浜市):戦国時代の土塁を確認
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 武田氏館跡関連遺跡の発掘調査を行っている小浜市教育委員会は、長さ約20m×幅2〜2.5mの土塁を確認したと発表した。戦国時代の大永2年(1522)以降に若狭国守護だった武田氏が後瀬山の北側山麓に築いた当主館を、守るためのものとみられた。

 同市では平成18年(2006)から発掘調査を進めており、堀の遺構などから館の広さは南北・東西ともに 100mを超える規模だったのではないかと推測している。今回は旧小浜小学校跡地を4ヵ所調査し、玉石を敷いた遺構(南北約5m×東西3m)、柱穴、石組みの溝や井戸跡などを確認している。同市教育委員会では、保存状態もよく、今後の調査に期待が持てるとしている。

▼武田氏館については、下記サイトを参考にして下さい。
 http://www.pref.fukui.jp/doc/maibun-c/event/25siryou_d/fil/029.pdf#search='武田氏館 小浜市'
 http://www.geocities.jp/honokuni/shiro/wakasa/obama/takeda.htm
 http://www.siromegu.com/castle/fukui/takedayakata/takedayakata.htm

▼若狭武田氏については、下記サイトに詳しく述べられています。
 http://wakasa.k-server.org/

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