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小説倉庫コミュの宝石の如く、赤く

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  1

 少女は闇の底にうずくまり、がたがたと小刻みに震えながら、頭を抱えていた。
 震え。それは単純に恐怖から来ていた。その対象が特殊であることも、より一層少女の恐れを深くした。
 一体何が起きたのか。いや、そんなことは分かりきっている。はっきりと自分の目がその光景を捉えたのだから。
 だからといってすんなりその事実を受け入れられるわけでは無かったが。
 むしろ逆に、見たものを否定したい衝動が恐ろしく強い。まさしく、狂わんばかりに。
 少女が背を向けている場所にあるものは、それこそ生きとし生けるもの全ての恐怖の源であり、様々な終焉を孕んでいる。
 一度は穴が開くほどにそれを見つめたため、少女は恐慌状態に陥った。
 もたらされたのは混乱と、自失。そして拒絶だ。
 いるのは長い時間を過ごした自分の家だった。だが今この場所に漂う空気は冷たく、硬く、どす黒い。慣れ親しんだ自分の家だとは思えないほど、その場は凶暴な違和感に満ちていた。
 少し時間が経ってから、突然、ひくっ、と大きなしゃっくりが喉から漏れた。そしていくら止めようとしても止まらなかった全身の震えが、唐突におさまった。
 冷静さを取り戻した、というわけではない。
 人の気配を感じたような気がした。

コメント(53)

「ほう、少しは利口になったようだな」
「何者ですかそれは」
 実際に一度も聞いたことのない偉そうな言い回しに戦慄しつつ、義母の手から逃れる。そして微妙に痛む首筋に手を当てながら、リュードはマリエッタから距離をとった。
「あれ、逃げるの?」
「離れただけですよっ」
 彼女の手の届かないところでも話はできる。というかすぐ近くにいるといつ危険が及ぶかわからないので、距離を置くのは必須事項と思われた。
「で、話してくれるんだよね」
「あー、うん。そうですね。うん。そうそう」
 後ろめたいことをしようとしているせいか、答える瞬間に少し視線が泳いだ。それを見逃さなかったのか、
「あれ、なんか嘘くさいけど?」
 義母は両手を前に構えながらにじり寄ってきた。その瞳の輝きはやけに鋭い。
(あれは野生動物の目だ。しかも肉食な感じの)
危険を感じて、根拠もなくそんな考えにとらわれた。
「ちょ、ちょっと待ってください。嘘なんて滅相もないですよ。ちゃんとホントのこと言いますから!」
「ふーん。ならいいんだけど」
 必死に弁解すると義母は納得したようだった。必死すぎてうそ臭さが混ざる余地がなかったのかもしれない。
 とりあえず湧き上がる情けなさになんて負けない。そう思ってリュードはこぼれそうな架空の涙をぬぐった。
「ほら、さっさと話して」
 まるでそれが当然といわんばかりに横柄に、義母は言った。
(くそう、いい気になって。でもしょせん暴力で得たものに未来なんか無いんだッ)
 胸中で負け惜しみを吐く。そう、弾圧された民衆が真に権力に従うことはあり得ない。下克上、市民革命、農民一揆、弱者は常に、上に立つ理不尽な人種に反旗を翻そうと狙い続けている。だから自分も屈するわけにはいかない!
 やや大げさに決意を固めると、リュードは言った。
「あの、その、なんて言いますか、ちょっとえっちなことが頭に浮かんだんで、仕事中に何を考えてるんだ、とそんな感じで頭を振ってたんですよ」
「あれだけ渋っといてそんなことかぁぁぁ」
 叫んで、マリエッタはこちらに飛んできた。
 いや、飛びかってきた。
「だってそんなこと正直に言えるわけないじゃないですかってうわあああああ!」
 きっと見舞われるのであろう暴力的な瞬間から逃れようと、マリエッタから背を向けて逃げ出す。しかし先に動き出した彼女がこちらにたどり着くほうが確実に速かった。その結果、背中にやたらと強烈な蹴りを見舞われて床を転がることになる。
「うう、あんまりだ……」
 厨房の端っこでひっくり返りながら、リュードは我が身の不幸を呪った。
 そうしてひとしきり嘆きの言葉を連ねた後で、ふと思い出す。
「そういえば世界の半分は」
「さぁって仕事仕事ー」
 完全に無視された。
   3


「悪意の残滓は、簡単には拭えないか」
 呟きは、しかし自らの耳にすら届かず、周囲の雑音にかき消された。
辺りは騒然としていた。自身の周りにもほぼ密着状態で数人の野次馬がいる。野次馬は一箇所だけでなく、一軒の家の軒先をぐるりと取り囲んで人垣を作っていた。その内側では、白い制服を着た騎士団員たちが走り回り、何かの作業をしていた。
 数人の騎士――ここでは辺境警備隊員だろうか――は関係のない者が一定以上近寄らないように、自らの体で境界を作っている。
 視線を、それらの隊員を通り越して、人垣の中心に位置する何の変哲もない家の玄関に向けた。
 開け放しの扉。直線で中へ続く廊下が見える。その先の部屋に、かなりの数の隊員が詰め込まれていた。
 そこに一体何があるのか。ここからでは隊員たちの体が邪魔で中になにがあるのかまったく見えない。
 だが、予想はついた。与えられた情報を繋げたなら、そういうことになるのは避けようのないことだった。
 それを確認すると同時に虚脱感が全身を支配するのもまた、避けられないことだった。
 こめかみに手を当て、彼は天を仰いだ。
 どうするべきかを考えて、まず頭に浮かんだのは、一人の少年の顔だった。
 これ以上、事態を悪くするわけにはいかない。たとえ自らの力が及ぶはずもないとしても、これ以上を見過ごしたなら、一生自分を許せなくなる。
 彼は百八十度方向転換し、野次馬の中から抜け出した。
 事件現場から離れていきながら、西を見やる。
 悪意の残滓は尾を引いていた。それを辿れば、標的の居場所を知るのは用意だ。
「西――城か」
 勝ち目の少ない戦いを挑むことになるのだろう。しかも、負けることは許されない。
「いわゆる燃える展開、だな」
 だが血湧き肉踊るようなことはもちろんない。暗鬱としか言いようが無い気分で、エルダンは目的の場所へ向かった。
 時折横から確かめるような視線が刺さるのを感じつつ、リュードは皿の山を少しずつ片付けていった。
 客は二時間以上前から一人も来店していない。これだけ長い時間客が来ないというのも珍しいことで、昼の混雑が嘘だったように思えてくる。
 もっとも、あれだけ客が来たなら当分は来なくていいとも思っていた。大半は片付いたものの、洗う皿は未だに残っている。皿洗いが終わるぐらいまでは、むしろ来ないでくれたほうが体力、気力的にありがたかった。
「しかし、今日はなんであんなに混んだのかねー」
 どうやら似たようなことを考えていたらしいマリエッタが話しかけてきた。彼女はリュードの横で腕組みをしながら、リュードの磨いた皿がある程度溜まるのを待っている。マリエッタの方が圧倒的に仕事が速いため、作業はどうしても一枚濯いでは待ち、また一枚濯いでは待ち、というやり方になる。そんなまどろっこしいやり方はイライラするらしく、一気に洗えるように待機しているのだった。
 待たせている身としては非常に焦る。役割分担を逆にすればいいと思うのだが、以前そう提案したとき彼女は、「若手育成のための精神的スパルタ教育」だとかそういう理屈で受け付けなかった。
「んー、なんだか警備隊の人が多かったですよね」
 昼間の様子を思い出して答える。白いタイツのような制服を着た集団が客席を埋めた光景は、そう簡単に忘れられるものではなかった。
「あら。そうだったの?」
「覚えてないんですか?」
 警備隊というのは、この町における治安維持機関のことだ。 王都から遠く離れた町には、王宮から辺境警備隊として、数十名からなる騎士の一隊が派遣される。
 この町、コルサの町も例に漏れず、辺境警備隊が派遣されていた。彼らの詰め所は町の中心部――ここから東に離れた場所に位置する。平時には、隊員はそこで訓練をしている。そのために警備隊員が「マーガレット」に食事をしに訪れることはめったに無い。わざわざ遠出しなくても詰め所の近くに似たような店があるからだ。
 そんな警備隊の人間が大勢この店に来たということは、なんらかの理由でこの近くにやってきて仕事をしていたことが考えられる。
 そして彼らが仕事をしているということは、事件があった可能性が高い。
「だって私ずっと厨房だったじゃない」
「あ、そうか」
 今現在この店では、専らマリエッタがキッチンを担当し、リュードはホールを受け持っていた。キッチンとホールは壁一枚で隔てられている――つまり隣同士なのだが、両部屋の間には料理を出すための小さな窓が腰辺りの高さにひとつついているだけで、そこからしかお互いの部屋を覗くことはできない。行き来には、一旦廊下出て回り込むような形を取る必要があった。
 そういうわけで、いくら普段と違って目立つ客が集団で来店したとしても、調理に追われててんてこまいな彼女にはその姿を見ることはできなかっただろうし、その事実を覚えようも無かった。
「どうも失礼しました」
 謝ると、マリエッタは眉と口の端を一緒に持ち上げてみせた。よくわからない顔だが、気にするなという意味だろうと推測する。
「でも、警備隊がこっちに来たってことは何かあったってことだよね。……怖い事件とかじゃなければいいけど」
「そうですねぇ」
 義母は心配そうに眉をひそめ、なにやら懸念している様子だ。しかしリュードにとっては、近辺で事件が起ころうが、直接関係ないのならどうでも良かった。相槌も適当だ。
「……うーん」
 なにやら俯いて考えるような仕種をし始めるマリエッタ。関わりがあるとは思えないことなのに、そんなの気になるのだろうかと、不思議に思う。まぁ女性はそういうの好きだからな。と一人で納得して作業を続けていると、
「あのさ、ちょっと近所の人に聞いてこようかな!」
 突然、顔を上げてマリエッタが言った。とても良い事を思いついたとばかりに、彼女の顔はきらきら輝いている。
「ええ?」
 一体何を言い出すのか。聞こえてはいたが、そんなのは聞き間違いであってくれ、そういう気持ちで聞き返す。
「だから、何があったのか調べに行きます!」
 かなりの良い笑顔で、悪びれもせずに彼女は言い切った。そして続ける。
「えーとね、近くで事件があったのならうちの客の入りにも影響があるわけよ。多くなったり少なくなったり。実際今日の昼は警備隊の人がたくさん来たんでしょ? 私は直に見てないけど。それで、もしも危険な事件が起きてたりしたら、周囲を歩く人が減る、イコール客足も減ると予想しなきゃいけないわけで、仕入れとかにも影響しちゃうのよ。週末たくさん材料仕入れて、もしお客さん全然来なかったら大変なことになるでしょ? だから、私が大丈夫か大丈夫じゃないか、見定めに行こうと思います!」
 聞きながら、リュードは背筋が冷えるのを感じていた。マリエッタのこの勢いからして、自分がなんと言おうと彼女はもう事件のことを調べに行くと決めている。彼女が一度やると言い出したらよっぽどのことがないと引かない性格だというのは嫌と言うほどに分かっていた。それでなくても、この店でリュードは逆らうことが難しい立場にある。
「……えーと、それはつまり、僕一人で夕方切り抜けろと?」
 恐る恐る聞く。
「うむ」
 やけに渋い声で即答された。
 叫びだしたい気分になりつつ、それでも簡単には諦めないという悲壮な想いから、リュードは説得を試みた。
「無理ですっ」
 説得というか、簡潔な断定になった。
「私はリュードのこと信じてる」
「信じようが信じまいが、一人でお客さんみんな相手するなんて無理ですからね」
「えー、私は一人でやってたよ」
「世にも奇妙な超人と一緒にしないでください」
「うわ失敬な。じゃなくて、だいじょーぶ。一人で店番ぐらい、リュードにもできるって。料理待たされてキレたお客さんがクレームつけてきたりしたら、即座に土下座して腹でも切るフリすればいいんだから。私はそうしてたし」
「よくこの店潰れませんでしたね……」
 土下座してついでに頭を踏みつけられる自らの姿を想像し、泣きたくなりながら呟く。
 このまま彼女が行くと言い張れば、想像は否応にも現実となるだろう。それをなんとしても阻止するために、何か手立てはないかと考えていると、ふと、あることを思い出した。
「って僕、料理とか教わってないじゃないですか!?」
「ええ!?」
 マリエッタは心底驚いたような顔をする。
「いや、何驚いてるんですか。10年早いネ、とか言って料理教えてくれなかったのは義母さんですよ。めんどくさがってそういうこと後回しにするから墓穴掘るんです。料理の作れない店員が一人残ったところで、店は機能しませんからね。行っちゃ駄目ですよ!」
 唾が四方に飛ぶ勢いでリュードはまくしたてた。オーナーを叱り、おまけに命令さえするというのは勇気のいることだったが、たった一人で押し寄せる客を相手にすることに比べればどうということもない。
「ぬー……」
 マリエッタは悔しげな表情で拳を握り締めていた。引き結んだ口から歯軋りが聞こえそうなほど、顎に力が入っている。
「そこまで行きたいんですか……」
 義母の好奇心に戦慄すら覚えて、リュードは呟いた。
「あったりまえでしょ。店の売り上げを大きく左右する――下手をすればこの店の存続にも関わりかねない事態を前にしているのに、厨房に閉じこもってのらりくらりと料理作ってなきゃいけないなんて、そんなバカなことがある? いえ、無いわ」
「へぇ。大変そうですね。というか夕方にのらりくらりしてるヒマなんて無いはずですけど」
 演技がかったオーバーな動作で力説する義母に、リュードはいたって冷静に指摘した。
 夕方から夜にかけての時間帯は、仕事帰りの客が大量に訪れる。それはもし店員二人が揃っていても、二人とも必死で走り回るぐらいの忙しさを毎日のようにもたらした。
 そんな夕方の混雑を一人で乗り切るというのは、自殺行為もいいところで、まず考えられない。いや、客のためにも考えてはいけないことだった。
(でも義母さん、ほんとに一人でやってたからなぁ)
 彼女の息子になる以前、義母はまだ健在だった彼女の父、つまりリュードの義祖父とこの店を経営していた。だが彼女が二十二の時に義祖父は他界し、それから数年の間、義母は一人で店を切り盛りしていた。
(本当に土下座してたんだろうか……)
 一人で食べ物屋を経営するというのはどうしても無理がある。調理、接客、掃除、売り上げの管理、仕入れ、等等、やることが多すぎるからだ。結果、客を待たせることになるのは間違いないはずなのだが……当時店が評判を落としたということは聞かない。マリエッタに聞いた話なので彼女が隠している可能性はあるが、今もまずまずの客(それも相当な数の常連客を含む)を集めて経営できているということは、本当に彼女は一人で無事にこの店を経営していたのかもしれない。
(だとしたら、凄い人だ……)
 二十二歳といったら、リュードはあと五年でその歳になる。五年で、果たしてそこまでのものを身につけられるかどうか。自信は無かった。
 そういうことを考えて、改めて義母を見ると、心なしその背中が大きく見えた。あくまでなんとなく。
 その小石を蹴るような仕草にしても、身体をゆらゆらと揺らして周囲に哀愁を漂わせる行為にしても、ときおり目元を指の甲で拭ってみるにしても、動作の一つ一つに大物のオーラがにじみ出ているような気がした。
「え、それはいじけてるんですか?」
 何かおかしいことに気付き、いつの間にか部屋の隅に移動していた義母に声をかける。
「…………ちらっ」
 義母はわざわざ擬音を使ってこちらを見、すぐに視線を外した後、聞こえよがしに呟いた。
「行きたいなぁ」
「無理ですよ」
 即答で冷たく一蹴する。
「いーきーたーいー」
「駄々こねても駄目です。不可能です」
 そう言うと、義母は突然振り返り、
「君は自分にレッテルを貼っている! 自らの可能性を自分で決め付けては、人が成長することなど望むべくもない!」
 ピンと伸ばした人差し指をこちらに突きつけ、マリエッタは燦然と言い放った。
「ああ、うん。そうですね」
「ちょっと! 人と話をするときはそっぽ向いてたりしちゃいけないと思う今日この頃ですが」
「ふーん」
「おーい」
 そろそろ相手をするのもめんどくさいなぁと思い始めた頃、ちょうど皿の山が片付いたので、リュードは手についた水を払って義母に背を向けた。
 このまま相手をしていたのでは、いつか言いくるめられそうで怖かったというのもあるが。
「こらぁ、逃げるなっ」
「ホールの掃除してきます。義母さんもそれ、続きどうぞ」
 義母はまだ作業を終わらせていない。指差されて、つまらなそうに仕事に取りかかった彼女を尻目にし、リュードは調理場を後にした。
   4


 床に固定された椅子というのは、全ての人間にとって不便以外のなにものでもない。少なくともリュードには、そうとしか思えなかった。
 例えば座っているとき、座り位置を変えるために椅子を引きたくても、椅子の足は床と同化しているため、動かすことができないし、例えば今の自分のように周りの床にモップをかけるときには、わざわざ椅子の足を避けて拭かなければならなかった。
 避けなければいけないということは、それが障害物ということに他ならず、障害物は得てして人類の嫌われ者だ。結果として人類の成長を促すことがあるとは言っても、こんな日常の、人生においてさほど重要度が高いとも思えない局面では、自らの成長など考慮するわけもなく、それはただただ面倒に感じるだけのものだった。
 ――とりあえず真剣に考えてみたところで、椅子を床に固定するメリットは一切見つからなかった。一体何故このような不便なものが世に存在して、それなりに出回っているのか。
その答えを出す前に、リュードは固定椅子に関する思考を打ち切った。
 それは椅子の下の床を掃除し終わったからというのもあるが、同時に、まったく意味の無いことを考えていたと気付いたからでもある。この店の全客席が固定椅子であり、自分が店員である以上、不便さはついてまわる。しかし固定椅子に関わっている時間などは、人生においてほんの僅かな割合に過ぎないのだ。そんなことのために考える労力を割くのは虚しい、そう悟っただけ。
「ふう」
 一通り掃除を終えて、リュードは軽く息を吐き、モップの柄を持ち上げた。
 続いて柄の先端についている真っ黒な毛の塊に目を落とす。
汚れていた。かなり。
 いや、それはいくらなんでも汚れすぎだった。掃除を始める前、モップは真っ白――とまでは行かないまでも、それに近い色をしていたはずだ。それと比べた今のモップの変貌ぶりは、この店が飲食店であるということを考慮すれば戦慄すら呼び起こす。
 理不尽な汚れを一身に背負ったモップを見つめて、眉根に皺が寄るのを意識しつつ、リュードは思案した。
 一体何故モップはこんなにも汚れているのか。
ここ数日、自分ではモップ掛けをやっていなかったはずだ。何度かやろうとは思っていたのだが、そのときはすでにマリエッタがやっているのを見ていて、一日に何度もやる必要も無いと思い、やらずにいた。もし自分が掃除していたのなら、今日ここまで汚れが残っていたということはないだろう。
 そう、ポイントは今日久しぶりに自らが掃除をしたということだった。それまで、このフロアは自分以外の人物が掃除をしていた。そしてそれは一体誰だったか。
「……」
 考えるまでも無く、この店の従業員といったらあと一人しかいない。
(義母さん……)
 リュードはがくりと肩を落とし、モップの柄にもたれかかった。
 義母マリエッタは、仕事が速い代わりに信じられないような手抜きをすることがたまにある。この場所を掃除した時も、客の視点からは手抜きをしていることなどまったく分からないように、巧妙に汚れを隠したに違いなかった。
(食べ物を扱ってるんだから、店を清潔に保つぐらいは当然だと思うんだけどなぁ)
 口を尖らせ、心の中でぐちぐちと不平をもらす。が、それがどうしようもなく不毛だと悟るのには一分もかからなかった。たとえ本人にこのことを指摘したとしても、どうせもっともらしく聞いてるフリをしながら、内容は一瞬で忘れ去られるのがオチだ。それならもう自分にできることはない。結論に達し、リュードはモップを片付けることにした。
 モップを濯ぐための水を汲んであるバケツは、ホールと厨房を繋ぐ廊下に置いてある。そこに向かいながら、
「……はぁ」
 本日何度目かになるため息を吐く。すぐにバケツのある場所について、リュードは緩慢な動作でバケツにモップを突っ込んだ。
 柄を動かすと、今まで見たことも無いようなどす黒い色がモップから滲み出てきた。
 うわぁ、と思わず呻きながら、更に力を入れてモップ濯ぐ。
 そうして念入りにモップの汚れを落としていると、ホールのほうから、からんからん、といった軽やかな音が聞こえてきた。これは店の入り口のドアに直接取り付けられている鐘の音だ。言うまでも無いが、扉が開くと音がなる。
 鐘は来客を告げていた。
 まだ作業の途中だったが、せっかく来店した客を待たせるわけにはいかない。本音がいくら面倒でたまらなかろうと、これは仕事なのだから。
 小走りでホールに出て店の出入り口に向かう。そして移動しながら、外から入ってすぐの場所に立っている人物に声をかけた。
「いらっしゃいませー」
 こちらの声に、客は軽く手を上げて答えた。それは、赤の他人と言って差し支えないその他大勢の一般客よりは、いくらか親しげな反応と言えた。
 そして近づくと、やはりその客は親しい人物であったことが確認できる。
「エルダンじゃないですか」
 名前を呼び、こちらも手を上げて答えた。見知った顔を前にして、無意識に緊張していた顔の筋肉が緩む。
「ああ。久しぶりだな」
 季節の割には重そうなコートを脱ぎつつ、エルダンは言った。
「そうですね。どうしてたんですか?」
「少し王都へ行っていた」
「へぇ、旅行ですか。いいですねぇ。僕も行ってみたいですよ。王都。あ、どうぞ。こちらへ」
 席に案内するべく、エルダンを手招きする。
「ああ、すまない。……そうだな。王都なら、そのうち行けるだろう。あそこは思っているほど遠くないからな」
 エルダンがこちらに歩いてくるのを見計らって、彼専用の席へ歩き始める。彼はいつも店の一番奥の端っこの席を好んで座っていた。なぜなのか聞いたことはないが、恐らく謙虚な性格が現れているのだろう。
「そうなんですか? でもあそこって往復に一週間かかるとか聞きますけど」
「まぁ、歩けばそうだろうな」
「え、歩く以外にあの凄まじい山を越える方法があるんですか?」
「んー、まぁ、無いというわけではない、な」
 そして目的の席へたどり着き、リュードは椅子を引いて恭しく指し示した。
「どうぞ。特等席でございます」
 苦笑しながら座るエルダンの隣の席に、自分も腰掛ける。
「義母さーん、エルダンですよー」
 少し声を張って厨房のマリエッタへ伝える。注文は聞かずとも分かっていた。なので彼女へはエルダンの来店だけ知らせれば十分だった。
「え、ふぁ、ふぁーい!」
 とりあえず、すぐに返事は返ってきたが。
「今、声がおかしくなかったか?」
 明らかに妙だったマリエッタの声に、エルダンが反応する。
「……ですね」
「何かをほおばっているときのような感じに聞こえたが」
「たぶん、何かつまみ食いしてたんでしょう。仕事中に何してんだ……」
 やる気の無いバイトか。そんなことを思い、頭を抑えて呻く。
「はは、流石だな」
 楽しそうにエルダンは笑った。彼はマリエッタとも面識があり、彼女の性格もある程度理解している。とはいえ、厨房で料理を作るマリエッタと、ホールで食事をするだけのエルダンが直接顔を合わせることはあまりない。
「流石というか、まぁ、相変わらずやる気があるんだか無いんだかわからない感じですよ」
 憮然とした表情をしてみせる。それはある程度は本気なのだが、きっとエルダンには微笑ましい程度にしか映らないのだろう。
 エルダンは、来店する客の中で唯一会話を交わすことのある人物だった。長身で、男にしては長い黒髪と、厚いメガネが彼の見た目を相当野暮ったくしている。見るからに鬱陶しそうな前髪の奥からは、やけに鋭い――剣呑と言っても差し支えないほど――の瞳が覗く。見た感じで判断すると、お世辞にもとっつき易そうな人物だとは言えない。だが喋ってみると、固い口ぶりのわりには意外なほど物腰が柔らかく、笑うときにはこちらまで安心してしまうような優しげな光がその瞳に浮かぶ。
 彼と仲良くなったのは、店で起こったとある事件がきっかけだ。以来、来店すると軽くおしゃべりをするようになり、今では最も信頼を置いている。自分にとって唯一親友と呼べる存在が彼だった。
 友というより兄に近いのかもしれない、とは思うが。
「エルダーン! 久しぶりじゃないー。何してたのよー?」
 何かを炒めるような弾けた音が隣から聞こえてきた頃、マリエッタの大声が同じ方向から飛んできた。エルダンが来たことを知ったのは少し前だったはずだが、その少し間に彼女にはやるべきことがあったのだろう。例えば口の中に残っていたものの処理とか。
「リュード、頼む」
 答える代わりに、エルダンはこちらに目配せをしてきた。
「王都へ行っていたらしいですよー!」
 頷き、彼に代わって大声で答える。寡黙でシャイなエルダンは、ここが飲食店であることに気兼ねして、大声を出したがらない。そのため彼女との会話はいつも中継をすることになっていた。
「へえー、そうなんだあー。おみやげはー?」
 すかさず返ってきたマリエッタの言葉に、エルダンは息を詰まらせた。
「そ、そんなものは無いが……」
「おみやげは無いらしいですよー」
 そう言うほか無く、正直に告げる。
「ええー、ショックー! 料理手ぇ抜いちゃおうかなー!」
「リュード、フォローを頼む」
「え。フォローって」
「私はここの料理を食べることだけが生きがいなんだ」
「そ、そうなんですか」
 そんな可哀想な人生を送っているのか。そういった疑問が真っ先に浮かんだが、それはなるべく顔に出さないように心がけて、リュードは頷いた。そして何を言うべきか考えようとして、その前にふと思う。
「あ、でも、いくら義母さんでもあれは冗談だと思いますけどね」
「そうなのか?」
「たぶん……」
 まじめな顔で聞き返されると自信が無くなる。冷静に考えてどうなのだろう、そう思ったとき、彼女を相手に生活していくに当たって、最も忘れてはならない教訓が脳裏をよぎった。
 ――彼女はいつでも本気。
 そう。本気なのだった。冗談にしても、それが笑えない結果を招くことなど分かりきっていても、彼女はやる。というか笑えないことをされた記憶がいくつかある。
「いや、ホントにやるかも」
「頼む。後生だから」
 呟きを聞き逃さなかったエルダンが真剣な顔で縋ってきた。後生なんて言葉は生まれて初めて聞いたなぁとぼんやり考えながら、とりあえず彼の頼みを聞くことにする。
「ダメですよー。エルダンはここでの食事だけが生きがいらしいですからー。そんなことしたらエルダン泣いちゃいますよー!」
「いや、泣きはしないが」
 ぼそりと否定してくる。
「そうなのー? じゃあやっぱり頑張っちゃおうかな!」
「そうしてくださーい」
 義母を丸め込むと、エルダンはこちらに向かって親指を立てて見せた。感謝の印ということらしい。なんとなくお茶目な様子の彼を見て、こちらもなんとなくいたずら心が芽生えた。
「義母さーん! お礼にエルダンがタダ働きするとかー!」
「いやしないぞっ!」
 即座に否定されたが、その声がちゃんと隣に届いたかは定かではない。寡黙なエルダンは滅多に声を張ることが無いのだろう、本人は叫んだつもりだったのだろうが、実際はそれほど大きな声ではなかった。
「えー、助かるー。うーれーしーいーってばよ」
 案の定マリエッタが聞こえていないような反応をしている。もっとも、彼女の場合聞こえていても聞こえていないように振舞う可能性が高いが。
「二人していじめないでくれ……」
 いつも冷静な彼が困った顔をするなどあまり見られるものではない。今まさに貴重なものを見たことで得をした気分にもなったが、これで調子に乗るのは少し大人げない。ここは素直に頷いておいたほうが良さそうだった。
「わかりましたよ。でもうちの店は人手が足りてないから、働きたくなったらいつでも言ってくださいね。タダ働きは大歓迎です」
「給料を出すという考えは無いのか」
「やだなぁ。あはは」
 笑うと、エルダンはやけに疲れた顔をした。
   5

「できたよー」
「はーい」
 マリエッタの呼びかけに応じて、リュードは隣の厨房とこのホールを繋ぐ小さな窓に取り付いた。
「はい、これ。落とさないでよん」
「子供じゃないんですから」
「なっ。慢心は命取りぞ!」
「はいはい」
「あら生意気」
 渡されたのは、盆に乗った「今日の日替わりランチ」だった。エルダンはマーガレットに来ると必ずこのメニューを頼む。メニューをどれにするか悩む必要も無く、毎日違った料理を食べられるのが手軽で良いらしい。こちらとしても、メニューを聞く必要が無いのは楽でありがたかった。
「お待ちどうさまです」
 言いながら、エルダンのテーブルに料理を置く。
「ああ、悪いな」
「いいえ。それじゃ、僕は仕事やってきますから、ごゆっくりどうぞ」
 多少わざとらしさを意識しつつ、恭しく礼をしてエルダンの席から離れた。
「仕事、仕事、と」
 そしてやるべきことを思索しながら歩いているうちに、エルダンが来る前、モップとバケツを出しっぱなしにしていたことを思い出す。まずやるべき仕事はそれらの片付けだった。
「よっ」
 バケツとモップを手にとって、力を込める。
 しかしその瞬間、再び入り口の方から鐘の音が聞こえてきた。来客を告げる鐘。
 がくりと脱力する。
 客商売だから仕方ないとはいえ、やりたい仕事をことごとく遮られるのはあまり気分の良いものではない。
 だるく感じるのを堪え、だがこれも仕事と言い聞かせてホールへ走る。
「いらっしゃいませー」
 不機嫌さが言い方にモロに表れたが、まぁ仕方ない。とにかく客の元へ歩み寄る。
「何名さまで……」
 そして人数を尋ねようとしたところで、固まった。
 客の姿を目で捉えたのが原因だった。
 思わず凝視する。
 客を力いっぱい見つめるという行為は、あまり褒められたことではない。それは分かっているが、止められなかった。そこにいるものがあまりに場違いすぎたために。
 自分の目、もしくは頭がおかしいのでなければ、店の入り口に立っているのは、甲冑だった。
 それもかなりでかい。
 甲冑。それは戦いのとき、最前線に配置された騎士が敵の矢や剣などから身を守るために纏う重装備。頭からつま先までを完全に鉄の鎧で覆うため、斬撃や刺突などの攻撃では効果が薄く、斧や鈍器などの打撃系が有効と思われる。久しく戦争の無いこの国では、貴族の城の調度品に成り下がっているようだ。
 とっさにそんな解説を頭に並べてみたものの、状況に対する理解は訪れない。
 基本的に甲冑なんて物騒なものを持っているのは騎士だけだ。貴族の使用人か、商人でなければ、おそらく一生お目にかかることのできないはずの貴重品が、店の入り口に立っている。
 異様な光景だった。
「え、えーと……」
 リュードはこれがどういうことなのか理解できないまま、とりあえず接触を試みた。
「あの、お客様で?」
 甲冑は着るものだ。単体で動くなどありえないのはもちろん知っている。となると必ず人間が中に入っているはずなので、声をかけるのは間違いではない。そう判断する。
 来店した相手が客なのかどうかを疑うというのもおかしな話だが。
「いや、客ではない」
 甲冑はくぐもった野太い声でそれを否定した。やはり中に人が入っているらしい。当然のことに、なぜか少なからず安堵する。
(って客じゃないのかい)
 ツッコミを心の中だけに押さえられたのは僥倖だった。下手なことを言って刺激したらなにが起こるかわからない。
 と、甲冑はがちゃりと音を立てて腕を持ち上げ、親指で自らを指差した。やけにゆっくりな動作なのは、やはり重いからだろうか。
「見て分からぬか?」
 聞いてくる。
「え? ええ……?」
 甲冑。それ以外に言いようがない。しかし、よく見たら甲冑は帯剣している。やはり下手なことを言って機嫌を損ねでもしたら、命は無いのかもしれない。
 もっとも、すぐに逃げてしまえば重くて追いつけなさそう、とも思うが。
「我輩は王立騎士団辺境警備隊所属主任騎士、プルトールと申す」
 いつまでも答えられずにいたので、分からないと判断したのだろう。甲冑は自ら名乗り始めた。やけに大仰な口ぶりで。
「はぁ、警備隊の方なんですか。それにしては……」
 おかしな格好をしている。普段見かける辺境警備隊の連中は、肩や胸、膝などにプルトールが身につけている甲冑と同じねずみ色の金属プロテクターを装着しているが、それらは最低限の防備といった感じで、全体としてはむしろ身軽な印象だった。
 こんな大げさな、顔まで隠すほどの重装備を身につけている警備隊は見たことが無い。
「重そうだ、と言いたいのであろう?」
 プルトールは何故か一歩こちらに近づいて言った。ちなみにその一歩で床が嫌な音を立てて軋んだ。
「う。そ、そうですね……」
 表情すら分からない鉄の塊がずい、とこちらに迫る様子にたじろぎながら、リュードは頷いた。
「実際めちゃくちゃ重いのだ。キミのような細い少年では一歩歩くことすらままならぬであろう」
 いきなり身体的なことを指摘された。
 何様のつもりか。自分は甲冑のクセに。甲冑が悪いのか良いのかよくわからないけど。
 気分を害していると、プルトールはさらにこちらに近づいて、言った。
「だが鍛えれば見込みはありそうだ。どうかね少年。我輩と共に国の平和を守るというのは」
 勧誘だった。
「いえ、結構です……」
「むぅ。毎日体を鍛えて手に入れた肉体美で賊と戦闘でもしようものなら、若い婦人方にモテること間違いなしなのだが」
「間に合ってますから……」
 実際は別に間に合っていることなど一切無いのだが、こんなときの常套句でしか兜の奥のギラついた視線からは逃れられそうに無い。
 リュードは目を逸らしつつ、げんなりしながら背後を見やった。
 食事をしているエルダンに助けを求めようとすると、ちょうどこちらを見ていた彼と目が合った。これだけおかしな甲冑が騒いでいたら、何事かと目を向けていてもおかしくはない。だがこのときのエルダンの視線は、なぜか、やけに鋭かった。危険なものを遠くから監視するような、冷淡と言っても差し支えないほど細く剣呑なまなざし。
 目が合った瞬間、慌てたように表情を和らげたことも、見逃すことのできない妙な違和感を生み出していた。
「?」
 不思議に思ったのと同時、エルダンは取り繕うようにスプーンを置いて立ち上がった。
 そしてこちらに向かって歩いてくる。
「辺境警備隊の方だろうか? 見受けるに、非常事態と思しきいでたちだが、善良な一般市民の住居を訪れるのに面を隠したままというのは、いささか礼に欠けていると思われるが?」
 こちらに向かう歩みを進めながら、エルダンはそんなことを言った。相手に合わせてなのか、いつも以上に堅い、まるで騎士のような物言いだった。
「おおお、これは失敬。我輩としたことが少し慌てていたようだ」
 言うほど口調に慌てたような様子は見受けられなかったが、ともかくプルトールはそんなことを言いながら一歩後退し、体を前に倒した。
「?」
 その行動が今の会話とどう関わってくるのか、一瞬では理解できない。何か意味があるのか考えていると。
「ふぬっ」
 突然プルトールは声を上げて、自分の頭をつかみ、激しく振り始めた。
(な、なんなんだ……!)
 及び腰になるのを自覚しながら、後退さる。
「ふぬおおお……!」
 壮絶なうめき声をあげて、プルトールは頭をシェイクしている。意味が分からない。
「あの、非礼がどうとかの話なんじゃ……」
 心配になって声をかけるが、プルトールには聞こえていないのか、頭のシェイクを止めようとはしない。というか全身鉄の塊のはずの甲冑にしては、その動きは機敏すぎた。それが余計に不気味で、こいつからは逃げても追いつかれるかもしれない、と場違いな覚悟をする。
 どうすればいいのか分からず、リュードは戦慄しながらプルトールを眺めていた。
 と。
 スポン、と音がしそうなほど勢いよく、プルトールの頭が取れた。
「ええええ!?」
 そんなバカなと思ったが、よく見てみると、抜けたのは甲冑の頭の部分、つまり兜だった。別に頭そのものが取れたわけではない。
「はっはっは、いやいや失敬、驚かせてしまったかな。サイズの都合上、こうしなければ面を外すこともできないのでな」
 ほがらかに笑いながら、プルトールは体を起こした。
 取れた兜を小脇に抱え、微妙に息が上がって紅潮したプルトールの素顔があらわになる。
 渋い声のイメージに違わぬ、彫りの深い中年男性だった。そして甲冑の大きさからもわかるが、巨漢だ。ただでさえ大きい甲冑の兜がなかなか抜けないということは、首が太い。すなわちその下も太い。イコール、ムキムキの筋肉男が想像された。
「ともあれ、顔を隠してたままでいた非礼を詫びよう。おっと、隠していたほうがまだ見れたなんて言わんでくれよ。はっはっは」
 まだ動揺から抜け出せないこちらなどお構いなしで、プルトールは自分の言ったことに一人で笑った。豪快な性格なのだろう、口を大きく開けて、気兼ねしている様子は一切ない。彼が笑うたびに、口元のよく整えられたヒゲがもさもさ揺れた。
「ん? どうした、少年よ。そんなに見惚れて。申し訳ないがそっちのケは無いぞ」
「いや、意味が分かりませんが」
「はっはっは。幼いな、少年よ。では詳しく説明してやろう」
「ええぇ……」
「そんなことより、用事があってここに来たのではないのですか。勧誘ではなく」
 詳しく説明し始めそうになったプルトールの言葉を、エルダンが遮った。さりげなく窮地を救われる。
「おお、忘れるところであった。前途有望な若者を見るとつい、な」
 ヒゲをいじりながら、どこか嬉しそうに照れるプルトール。
 いろいろと突っ込みたくなるが、触れると蒸し返されそうなのでやめておく。
 と、プルトールは即座にその表情を真剣なものへと変じた。
「じつは付近で事件があったのだ。殺人事件がな」
「……殺人事件」
 物騒な言葉に気分が冷える。
 何か起きているのだろうとは予測していた。昼の客層、そして辺境警備隊員というプルトールの来訪。いつもと違うことが立て続けに起きれば、その原因を嫌でも想像してしまう。しかしそれでも、まさか殺人とまでは思わなかった。基本的にコルサの町は治安が良く、泥棒など軽めの犯罪もそれほど起こらない。殺人に至っては数年に一度あるか無いかだ。
 町の誰かが人を殺し、殺された。命のやりとりがあったということ。
「犯人は捕まったのだろうか」
 エルダンが冷静に質問していた。
「いや、現在捜索中であるが……」
「ふむ」
「じつは、我輩がここに来たのはその犯人について聞きたいことがあるためなのだ」
 そう言って、プルトールはこちらを見た。
「少年。店主殿を呼んで頂けるかな?」
「あ、はい」
 特に断る理由もない。なぜ自分たちなのかという疑問はあったものの、協力するのは一般市民の義務とされている。
 特に深く考えず、従うことにした。
   6


「当店のオーナー、マリエッタです」
「王立騎士団辺境警備隊所属主任騎士、プルトールと申します」
 営業用の口調で、マリエッタがプルトールの相手をしている。
 二人は店唯一のテーブル席に座って、話をしていた。
「わざわざ店を閉めていただいて、大変恐縮であります」
「いえいえ。警備隊の方たちに協力するのは義務だと思ってますから」
「重ね重ね恐縮であります」
「ところで、プルトールさんが着ているのって甲冑ですよね? そうですよね?」
 突然マリエッタの声のトーンが上がる。
「は? はぁ。そうでありますが」
 見れば分かるだろう、といった感じの怪訝な視線。
「わあ。本物の騎士さんなんですね! やっぱり危険な事件があったから武装してるんですか?」
「はぁ、そんなものです。というかこの辺りにも騎士はごろごろいますが」
 この町に派遣されている辺境警備隊は全員騎士だ。というより騎士しか警備隊には任命されない。そんな常識も忘れるほどマリエッタは浮かれていた。店を任せて野次馬しに行こうとしていたところを、向こうからやってきてくれたのだから、幸運とでも思っているのだろう。
「うふふ。大変な任務ですよね。いつも守ってもらっている身としては、頭が上がりませんわ」
「恐縮であります。ところで、用件に入ってもよろしいですかな?」
「あ、はいはい。取り調べですね? いつでもどうぞっ。わぁ、なんだか初めてなので緊張しちゃいます」
「すぐに済みますので、楽にしていただいて構いません」
 テンションの高いマリエッタとは裏腹に、プルトールは先ほどまでとは打って変わって、神妙とも言えるほど真面目な態度を取っている。一応店の最高責任者への礼儀か、それともこれから話す内容が、冗談交じりで話すことができないほど重いものなのか。両方という可能性もあるだろう。
 話がなんとか聞き取れる程度の位置の席に座り、リュードは彼らの会話に耳を傾けた。
 隣の席ではエルダンが食事を続けている。店は閉まっているが、それは新しく客が来てもマリエッタが料理を作れないのでそうしているだけで、別に部外者を締め出すためではない。プルトールも彼がいることに関して何も言わないので、特に問題も無いはずだ。
「では単刀直入に」
 プルトールの声が低くなった。その変化は相手と、恐らく自分自身を身構えさせる号令に他ならない。
「はいっ」
 待ってましたとばかりに浮かれた返事をするマリエッタ。彼女は空気を読むことを知らなかった。
 最初に会ったときのプルトールの態度を見ていれば、今彼が明らかに硬くなっていることは容易に知れる。
 少し考えるように間を置いてから、プルトールは唇に鉛でもついているかの如く、ゆっくりと口を開いた。
「アラミスという人物をご存知ですね?」
 まずは問いかけだった。
 アラミス。知っている。尋ねられたマリエッタにとっては、より馴染み深い名前だ。
「ええ、知っています。アランがどうかしましたか?」
 アランとはマリエッタだけが使う、アラミスの愛称だ。
「今朝方、彼の自宅で、アラミス氏は殺されました」
 刹那。
 時が止まった。
「……え?」
 まだ場違いな、能天気な声がマリエッタから発せられた。
 思わずその場で立ち上がる。何か意味があるわけではない。体が勝手に動いていた。頭は真っ白というよりも無色透明に近く、自分が何を聞いたの理解しながら、意識のどこかでそれを否定しようとする動きがある。
 アラミスが殺された。あの、アラミスが。
 それはつまり、彼の家に何かの危険が迫っていたということ。
 それはつまり……。
 座っていた椅子が、自らの足に跳ね除けられて音をたてた。刹那の静寂を破ったその音は、いやに大きく店内に響いたが、誰もそこには興味を向けない。そんな余裕はなかった。
「え……。え?」
 たまらずマリエッタのほうへ体を向けると、彼女は混乱しているのか、子供のように首をひねって理解を試みていた。
 いたたまれなくなる。
 目の前にいるプルトールは顔を伏せていた。彼も、アラミスとマリエッタがどういう間柄なのかを知った上でここを訪れたのだろう。
 それならば。それでも事実を突きつけるのならば、せめて目を逸らさずにいて欲しいと思うのは贅沢だっただろうか。彼に何の罪もないのは分かりきっているが、事実を持ち込み、あえて彼女が傷つくのを早め、それと引き替えに情報を求めるのならば、こちらも相応の対価を求めても良いのではないか。
 半ば見当違いの、恨みに近い感情をプルトールに対して抱く。
 それを知ってか知らずか、彼は顔を上げた。
「アラミス氏が、殺されました」
 追い討ちをかけるような一言を、まだ理解できていないマリエッタに浴びせる。
 それが、相手の気持ちを考えない無神経な仕打ちにしか思えず、激昂しかけてプルトールの元へ詰め寄ろうとしたそのとき。
 後ろから腕をつかまれた。
「リュード」
 振り向くと、食事を中断していたエルダンがこちらを見据えていた。
「落ち着け」
 なにを考えているのか分かっていたのか、エルダンの言葉は的確だった。
 熱しかけていた気持ちはそれだけでは冷めなかったが、静止する彼の手を振り払ってまでプルトールの胸倉を掴みに行くほど子供でもない。リュードは脱力とともに椅子へ腰を落とした。
 そして再びテーブルの二人を見やる。
「死んだ……?」
 ようやくその言葉は彼女の元に届いたようだった。それでもキョトンとして要領を得ない様子なのは、ただ痛々しかったが。
「はい……。我々は犯人の行方を追っています。そしてその手がかりを、あなたがたからなんとしても聞き出したい」
「うそ……」
 プルトールの言葉は完全に耳に入っていないようだった。マリエッタは両手で口元を押さえて虚ろな視線を中空に向けていた。
「アランが……?」
「マリエッタさん、気を確かに。我々が必ず犯人を捕まえます。ですから、これから尋ねることに正確に答えていただきたい」
「リュード、アランが……」
 プルトールの言うことを完全に無視して、マリエッタがこちらを見た。立ち上がり、おかしな足取りで歩いて来ようとする。
「義母さん」
「冗談でしょ? そんな、やだなぁ」
 無理に笑おうとして、彼女は完膚なきまでに失敗した。その引きつった半泣きの半笑いを見せつけられて、こちらも泣きそうになる。
「嘘でしょ……」
 呟きながら、彼女はこちらにぶつかってきた。
 何も言えなかった。「嘘だよ」と。そう言いたくても、それこそが嘘だということを自分は理解しすぎていた。
 プルトールが辺境警備隊というだけで、彼の言葉は覆しがたい説得力を帯びる。何しろ王立騎士団直属の派遣騎士隊なのだ。王の名の下に働く彼らが不確かなことをするわけがない。
 アラミスの死は恐らく事実だった。
 それが分かっていたから、せめて、今にも崩れそうな彼女の体を支えるため、両肩に手を置く。
 普段の活発さからは考えられないほど小さな体が、小刻みに震えていた。
   7


「……ちょっと、引っ込んでくる」
「あ、はい」
 しばらくしてから、彼女は唐突にそう言って体を離した。
 急ぎ足で向かったのは店の奥。厨房と休憩室がある方向だ。
 もう落ち着いた、というわけではないはずだ。それならば顔を隠しながら逃げるように走り去る必要はない。
 恐らく気持ちの整理をつけるために、一人の時間が必要だと判断したのだろう。
 ただ、それなら自分よりもプルトールに断るべきだった。彼の方を見ると、案の定驚いたような顔でマリエッタが向かった方を見ている。
「む、むう?」
「一人になりたいみたいです」
 明らかに戸惑っている様子のプルトールに説明する。
「そうか。奥で休むのだな?」
「はい。すみません」
「気にすることは無い。近しい人物が死んだと聞かされて、冷静でいろというのはどだい無理な話だ。ショックで手がつけられないほど取り乱すことが無いだけ助かった」
 プルトールが理解を示してくれたことは、純粋にありがたかった。
「やっぱり、取り乱す人は多いんですか」
「うむ。女性なら恋人の死を告げられれば大抵は泣き叫ぶものだ。ひどい時にはこちらに暴力を振るって取り消せと凄む者もいる」
「強いんですね……。うちの母は」
「うむ。誇りに思うといい」
 近しい人の死を告げられたのだから当然のこと。
 そう。当然だった。自らと関わりのある人物が突然いなくなれば、その人物と交わることで得られる利益のようなものを、失うことになる。
 突き放した言い方になるかもしれないが、人と人との交友関係は、必ず利害関係で成り立っている。無機質なところでは金銭や物品の交換関係、有機質なものでは、一緒にいることで得られる楽しさや安心感、心地よさ。
 何かを得られるから一緒にいたい。その人がいるから自分が自分でいられる。与えてくれるものが大きければ大きいほど、相手に対する依存は高まる。
 愛は恐らく人間関係で最も大きな利益を互いにもたらすのだろう。ときに、目に見えるどんな多大な利益すら凌駕するほどの凄まじいものを。
 そんな計り知れない益をもたらす存在が消えたらどうだろうか。
 無限と言えるほどの有益な何かをもたらしてくれていた存在が消える。すなわち、もうその人物から何かを得ることはできない。
 それは本当に、痛恨の出来事だろう。
 ……そしてマリエッタは、アラミスを愛していた。
 恐らくアラミスも彼女を愛していた。
 アラミスが来たときに限って、マリエッタは料理を自らアラミスの席まで運んでいた。
 そして見ているこっちが恥ずかしくなるようなウブな態度で、会話を交わしていた。
 店がどんなに混雑を極める状況にあっても、まるで周りなど見えていないかのように。
 料理を待たされたほかの客は、なぜかこちらに催促の怒声を浴びせてくる。どうしようもなくてひたすら謝っていたのは記憶に新しい。
 とにかく二人は恋仲にあり、もしかしたらそろそろ義理の父親として紹介されるのではないか、と内心ビクついていたものだ。
 ビクついていた、というのは、もちろんアラミスが父親になっては困るからなのだが……その理由をはっきりと意識するのはまだ恥ずかしかった。
「ふむ……。ではマリエッタ殿が休んでいる間、キミに話を伺おうかな、少年」
 プルトールが声をかけてきた。
「はい。いいですよ」
 答えて、先ほどまでマリエッタがいた席に腰を下ろす。
「協力に感謝する。少年――いや、リュードだったな。まずは聞きたい」
 こちらの名前を教えていないのに、あえて呼び方を切り替えたのは、既にこちらのことを調べ上げているとアピールしたかったからだろうか。
「……見たところ、キミはとても落ち着いているようだが。その……あまりショックは受けていないのだろうか」
 言いづらそうに、言葉を選んでプルトールが尋ねてくる。それはつまり、当然の如くショックを受けていないように見えるということ。十分に衝撃を受けていた身としては、意外な言葉だった。
「ショックを受けていないなんてことはないです。まだ実感がなくて、悲しいのかどうかもわからないってのはありますけど。でも、もしかしたら本当にそれほど悲しくないのかもしれない。僕は義母さんほどアラミスさんとは仲良くなかったですから」
「そうか……」
 それは事実だった。アラミスとは数えるほどしか話をしたことがない。彼は義母との関係の手前、なんとかこちらとも仲良くなるきっかけを探っていたようだったが、交友関係は双方の歩み寄りが無ければ進展しない。つまりこちらからも仲良くなろうとしなければ、彼の努力も意味をなさないということだった。
 邪険に扱っていたわけではなく、ただ単にどう接すればいいか分からなかった。だから彼が人のいい笑顔で話しかけてきても、世間話的な質問に淡白に答えたあと、逃げるように他の仕事に移るというのがパターン化して、きちんと話したことは一度も無かったように思う。
 そう思うと、後悔の念が押し寄せた。
 彼が悪い人間か良い人間か、単純には判断できないが、少なくとも自分たちに好意的であったことは間違いない。それならば、たとえ上手く受け答えが出来なかったとしても、きちんと向かい合って話をしてあげるべきだった。
 だがその機会は二度と訪れない。永遠に彼の好意に報いることはできない。
「僕は……。アラミスさんとは親しくなかったけど、アラミスさんは僕に対してとても優しくしてくれました。料理を下げるときは必ずありがとうって言ってくれたし、人見知りの激しい僕に気を遣って、進んで話しかけてくれた。なのに僕はアラミスさんを避けてばかりで……。いつかちゃんとお礼を言いたかったのに、死んじゃうなんて」
 後悔は悲しみへと姿を変え、心の中で広い範囲を占領する。だがそれを自覚すればするほど、心の隅から、それよりも強い感情がじわじわとせりあがって来ていることに気づかされる。
 焦りにも似た、不愉快な何かが。
「僕は本当に冷たい人間だと思います」
「そんなことは無い。今聞いて分かったが、お主はアラミスの死を十分悲しんでいるではないか」
 プルトールのフォローも、もはやどうでも良かった。
「そうなのかもしれません。でも、それ以上に気になることがあるんです。アラミスさんが死んだことよりも気になって仕方ないことがあるんです」
「なんだというのだ、それは」
「プレのことです」
 言った瞬間、プルトールが息を呑むのが気配で感じられた。
「彼の娘のプレを知っていますよね。知らないとは言わせない。だって、ここに来たのはプレがどこにいるのか聞きに来たからなんでしょう?」
 顔を上げ、強くプルトールを見据える。それは激昂に近い感情だった。ただし、それはプルトールに対してではなく、自らに対する怒りだ。
 アラミスが事件に巻き込まれたということは、彼と最も近い間柄にいた人物もその現場にいた可能性が強い。彼女に危険が及んでいたのに、自分はこんなところでのうのうと日常を過ごしていた。
 そのことに腹が立った。
「分かっていたのか……」
「今、なんとなく予想がつきました。ほとんど勘ですけど。プルトールさんは別に、アラミスさんの死を僕らに伝えに来たわけじゃない。捜査のために来たんですよね。それなら、聞くことなんかひとつしかない。犯人について、でしょう。そして僕たちが話せることなんて限られますから。僕たちを犯人と疑ってるなら話は違いますけど」
「…………」
 プルトールは無言だった。どういった反応をするべきか思いあぐねている、といった感じか。それならば、とリュードは更に言い募った。
「プレはどうなったんですか?」
「う、うむ……。事件現場であるアラミス氏の家は、死体を除けばもぬけの空だった。一緒に暮らしていたはずの娘、プレは、忽然と姿を消していた」
「行方不明……」
 最悪の事態にだけは及んでいないようだが、それでも状況の不穏さに戦慄を禁じえない。
「うむ。考えられることとしては、何らかの目的で犯人に連れ去られたか、もしくは……」
「違います」
 すかさずプルトールの言葉を遮る。ぎょっとした顔でプルトールがこちらを見るが、構わない。彼の言わんとすることは分かっていた。だからそれを最後まで言わせるのは我慢できなかった。
「プレは犯人じゃありません」
 断言すると、プルトールは一転、呆気に取られたような顔でこちらを見た。
「いや、別にアラミス氏の娘が犯人だとは思ってないが」
「え。そうなんですか?」
「う、うむ。殺され方が少々特殊でな。少女の力では不可能だと判断された」
「そ、そうなんですか……」
 勘違いとわかって顔が熱くなる。プレのことだからと、興奮しすぎてしまったようだ。
「じゃぁ、プレはさらわれたんですね?」
「うむ。恐らくそうだと思われる。自主的に身を隠しているということも考えられたが、事件から時間が経っても姿を見せないことを考えると、それも無いようだ。やはり犯人に誘拐されたか、あるいは……」
 死んでいるかもしれない。プレを犯人と疑っていないなら、他に考えられるのはこれだけだった。
「まだ、死んでません」
 だがなぜか、極めて冷静に断言できた。根拠はまったく無いが、死んでるわけが無いと、強く思う。願望にしては迷いの割り込む余地がないほど。
「わかるのか?」
「いえ、わかりません。でもきっとプレは生きてます。だから僕は、プレを助けに行こうと思います」
 それは、思いつきに近く、咄嗟に口から出た言葉だった。
「な!? それは許可できんぞ!」
 聞き捨てならないとばかりにプルトールが立ち上がりかける。
「それでも、僕は行かなきゃならないんです。それが僕の義務ですから」
「義務だと?」
「はい。義務です」
 長ら間、自ら記憶の奥底に追いやっていた、幼い頃の情景が脳裏に浮かび上がってくる。
「なんだか分からぬが、殺人事件が起きているのに、一般市民を勝手に出歩かせるわけにはいかぬ。ここは我輩らに任せてもらうぞ」
「いやです」
「な!?」
 ここは譲れないところだった。
 静かな闘志が全身を駆け巡る。
 自分がやるべきこと、そして自分にしかできないことが、目の前にある。
 プレは幼馴染だ。
 とても大事な幼馴染。
 必ず守ると心に決めていた。その誓いの場面を思い浮かべても、もう時がたちすぎて霞掛かった情景しか映し出されないが、決意は色褪せることなく生き続けている。
 だから、やらなければならない。
「我輩は力ずくでもおぬしを行かせぬぞ」
 とはいえ、プルトールの言うことは当然だ。市民の命を守る騎士が、みすみす命の危険のあるような場所に行かせるわけが無い。
「どうしても、ですか?」
 立ち上がり、睨むのに近い視線をプルトールに向ける。
「当たり前だ。我輩を誰だと思っている」
 しかしプルトールは視線を真正面から受け止め、まったく動じることが無い。
 逆に視線を返されて、反射的に目を逸らしたくなる。だが、そうしては覚悟の欠如とみなされてしまうに違いなかった。何より自分自身がそうすることを許せない。
 目は背けない。
「それなら、僕は無理にでも行きます」
「リュード。我輩の言う力ずくがどういうことなのか、わかっておるのか?」
 プルトールは言いながら、静かに立ち上がった。しかし位置的に、自分の座っている場所のほうが入り口のドアに近い。先手を打って逃げ出してしまえば逃げ切れそうだ。
 実際そうしようとした。
 視線をプルトールから外し、体を入り口ドアの方向へ向ける――その動作をしようと思いながら、しかし行動に移すことはできなかった。
「我輩は本気だぞ……」
 プルトールはただ静かにこちらを見下ろして。その「ただ見ているだけ」が、恐ろしい威圧感を放っていて、まるで金縛りにでも遭っているような感覚に陥る。
 数瞬前までは自らプルトールを睨んでいたはずなのに、今はむしろ逸らそうと思っても逸らすことができない。
 正直な話が、それは恐怖だった。
 まるで物理的に影響を与えられていると錯覚するような視線だった。具体的にどう怖いのかは分からないのに、逆らえばひどいことになると確信できるような物騒さを、その視線は纏っている。
 こちらの決意は決して鈍っていない。プルトールが言うように命の危険さえあることも理解している。それでも行こうとしているのだ。決して一時の激情からの動機ではない。
 ただ、プルトールの気迫がそれを上回っていた。なぜかは分からないが、今の彼は目的のためなら人の命でも奪いかねない気がした。
 そんな鬼気迫る威圧感を、プルトールは放っている。
「貴様に少女を助け出す義務があるというのなら、我輩には市民を危険から守る義務がある」
 一体なぜここまでするのか。彼に仕事としての義務があるとはいえ、こちらはさっき知り合ったばかりの他人。ここまで本気で邪魔をする理由はないはずだ。
 プルトールの行動は一見大人げ無いようにも感じられた。
「我らは騎士だ。国の守護者たる者」
 それに言い分けするかの如く、プルトールは突然語り始めた。
 険しい表情は変わらない。それなのに、なぜか彼の纏う雰囲気が悲愴なものを変じているような気がして、リュードは息を飲んだ。
「このコルサの町同様、王国は辺境警備隊という名の騎士隊を派遣して辺境の治安を守っている。その構成は知ってのとおり、全員が騎士だ。しかし騎士しかいない隊の名前がどうして「警備隊」なのか、おぬしに分かるか?」
 突然問いかけられて、思考が止まる。
「え? わ、わかりません」
 慌てて答えたのでしっかり考える余裕は無かったが、ちゃんと考えてもプルトールの問いに答えられたかは疑問だ。
「騎士である必要が無いのだ」
 こちらをしっかりと視線で捉えながら、しかしプルトールはどこか別の場所を見ているようだった。
「戦いが無くなり、わが国は平和になったと言って良いだろう。それは当然喜ぶべきこと。だがしかし、国を守護するのに最も貢献した騎士の存在は、以来急速に意義を失って来ている」
 そこまで聞いて、言いたいことが予測できた。
 ありがちな話だ。騎士は戦時下においてのみその力を完全に発揮する。戦うための訓練をしているのだから。そして戦いが無くてはその力は行き場を失う。王国はそんな騎士たちが働く場を無くさないために、辺境に派遣して治安を守ることを命じた。
 それは、王国の統治から放置気味だった辺境にしっかりした管理を施せるのと、路頭に迷う危険のあった者たちへの人材運用を同時に可能にしたことで、高い評価を得た政策だった。
 だが国に最も貢献した自分たちを、王都と比べれば確実に劣った不便な辺境へ追いやるのは不当極まりないと、騎士の間では不満に思う者がほとんどだという。
 そして新たに与えられた仕事の内容にも、満足している者はまずいないという噂がそこかしこに広まっていた。
「騎士は国を、ひいては人民を守護する者。それなのに我々がこの地で行っていることといえば……。守るべきものを守れないことを見せ付けられ、そして本来守るはずだった者を狩り立てるという、ひどいものだ」
 警備隊は基本的にその行動が後手に回る。事件が起きて初めて動き出すのだ。そして事件が起きたということは、その内容によっては既に手遅れになっていることが多い。人を守ることが誇りであり、生きがいとしている騎士にとって、この任務は常に無力感がついて回るのかもしれない。
「それでも、治安を維持することが王国の守護に繋がるのならと、胸に滲み出る違和感を押し殺し、我輩は仕事に従事してきた。それなのにだ……」
 プルトールはとうとう堪え切れなかったのか、悲しみをその表情に露にした。
「我輩は、友をすら守れなかったのだ……!」
 そのとき、なぜ彼が自分をいかせまいと必死になるのか、それを理解する。
 彼は本気で守ろうとしている。会って間もなく、他人にすぎない自分を。
 そして自らの手で犯人を捕まえようとしている。
「アラミスはこの地に来てからの唯一の友だった。これでいいのかと自問自答の日々に、奴の存在は救いだった。奴と酒を交わしている間は少なくとも嫌なことなど忘れられたのだからな」
 警備隊のプルトールと単なる町の住民であるアラミスがどのように知り合い、交友を深めたのかは分からない。だがアラミスはマリエッタの支えでありながら、同時にプルトールにとってもかけがえの無い存在だった。アラミスという人間がどれだけ得がたい人物だったかを思い知る。
「騎士などという称号を得ながら、大事なものを護れないことがどういう意味を持つか、おぬしに分かるか?」
 正直なところ、理解は示せそうも無かった。ただ悲しみの深さが計り知れないということしか、今の自分には分からない。
 それに悔しさを感じて、リュードは俯いた。
「こんな気持ちを二度と味わいたくは無いのだ。だから、おぬしを行かせるわけにはゆかぬ。アラミスを殺した何者かは、我輩が捕まえる。絶対にだ」
 決意を語るプルトールの言葉には明らかに憎しみも混じっていた。その不穏さを危惧するものの、たしなめようとしたところで、彼の気持ちを完全には理解できていない自らに、彼の心まで届く言葉を投げかけられるとは思えない。
 ただ、俯くことしかできない。
 相手は大人だった。恐らく自分の三倍以上は生きている。そんな相手が一体どんな言葉なら納得して身を引いてくれるのか、全ての経験において劣っているに違いない若造には、想像すらできなかった。
「それなら、一緒に犯人を探せばいいのではないか?」
 と――。
 唐突に別の方向から声が飛んできた。
 はっとして声のした方を見る。
 エルダンが食事を終えてこちらを向いていた。
「エルダン」
「実はな、私もアラミスとは交友があったんだ。殺されたと聞いてひどく動揺している」
 特に取り乱した風もなく、いつも通りの口調でエルダンは言う。
「皆、犯人を許すわけにはいかないという点で共通しているようだ。ならば共同戦線は理に適っているではないだろうか」
 それは名案だった。どちらか片方が残されて悔しい思いをするよりも、いっそ共に行動したほうが後腐れが無くて良い。
「いや、危険だとわかりきっているのに、一般人を連れ歩くことなどできぬ」
 プルトールは当然の如く反対した。
「犯人がなぜアラミスを殺したか、分かっているのか?」
 エルダンが尋ねる。今までの話も聞いていただろうに、プルトールの意見などまるで意に介していない様子なのは流石だ。
「わからぬ。通り魔的なものだと同僚たちは話していたが」
「違う。犯人は明確な意図を持ってアラミスを殺した。そして奴はさらに犯行を重ねる可能性がある」
「な!?」
 それは、断定だった。先ほど自分がプレの生死について語ったのとは違い、単純に事実を述べている様子だ。
 プルトールも流石に驚きを隠せないようだった。もちろんこちらも同じだが。
 なぜエルダンが警備隊でも知らないような情報を知っているのか。
 何か特殊な情報網を持っているのか、それとも彼自体がこの事件にかかわりがあるのだろうか。
「おぬし、なぜそんなことを知っている……」
 プルトールも同じことを考えたのかもしれない。問いかけは低く、警戒心を滲ませる。
「それに答えて欲しいのなら、私とリュードを同行させるのが交換条件だ」
 エルダンは冷静に、取引を持ちかけた。
「話にならぬわ。そもそもおぬしの言うことがでたらめでないという保障はどこにある。信じて同行して、我輩とリュードが罠にはめられない証拠はあるのか」
「もう時間が無いのだが……」
 エルダンは困ったように額を指で掻いた。そして、やや考えるように視線を宙に漂わせ、
「それならば、犯人が次に起こすであろう行動を先読みし、危険を回避することで信用してもらう、というのはどうだろうか」
 提案した。
「ふむ……。それはつまり?」
「現在この店には、武装した犯人グループが向かっている。いや、正確には犯人の手駒だな。奴らはリュードを次のターゲットに定めている」
「ぇ」
「なんだと……!」
 それは物騒の一言では済まされないような発言だった。
 犯人はプレの父親アラミスだけでなく、自分も殺そうとしている。
「ぼ、僕が狙われてるんですか?」
「うん」
「いや、うんじゃなくて!」
 激昂するが、エルダンがあまりにも普段どおりなので、じつはこれは大したことではないような錯覚に陥る。
「冗談ですよね……」
「大丈夫だ。お前は私が守る」
「それはありがたいですけど……」
 欲しい言葉はそんなものではなかったのだが。
「騎士プルトール。もしそいつらをやりすごすことが出来たら、ある程度は信用してもらえるだろうか」
「い、いやそれは……。随分と突拍子も無いことだな……」
 にわかには信じがたい。つまりそういうことなのだろう。いくら実際に人が一人死んでいると言っても、次に狙うのがほとんど関りの無い自らで、しかも犯人はグループで攻めてくるなど。
 エルダンがこんなときに悪い冗談を言う人間でないことは良くわかっている。しかしいきなりこんなことを言い出すのが不可解で、途端に彼という人物がわからなくなる。
「エルダン。もう一度聞きますけど、本当なんですか……?」
 冗談では済まされないことだ。いや、冗談だったならまだ良いが、本当だったならどうすれば良いのか。
 果たして、エルダンは神妙な面持ちで頷いた。
「本当だ。今日はそのことを伝えに店に来たのだが……変わらない日常を送っているリュードたちを見たら、それを壊すのが躊躇われた」
 言われてみれば、今日のエルダンは来店したとき何か様子がおかしかった。いつもなら自分で席へ座りに行くのに、今日は入り口で立ち止まっていた。それは彼の迷いを象徴していたのだろう。
「だが迷っていても事態が好転するわけでもない。むしろお前たちの日常を守るためにも、私はやらなければならない。それだけの対価を、私はお前たちからもらっているのだからな」
 彼に対して特別なこと――命を守ってもらえるほどの感謝に値するような――をしてあげた記憶は無かった。だが彼自身が言うのなら、知らないうちにそんなことをしていた、ということもあるのかもしれない。
 ただ、自分には覚えが無かったが。
「今はまだ信じられないかもしれないが、とにかく私の言うことに従ってくれ。もし私の言うようなことが起こらなければ、私を笑いものにするだけで済むのだから」
 エルダンの言葉に偽りの響きは無い。彼なら嘘をついていても顔色ひとつ変えずにいられるような気もしたが、そもそもこんな嘘をつくメリットは見当たらなかった。万が一、犯人とグルなのだとしても、エルダンのもたらした情報は犯人からしてみれば、絶対に漏れてはならないもののはずだった。
「わかりました。信じます」
 何よりも、エルダンは友人だ。それだけで信じるに値するのではないかと、そう思うのは間違いではないはず。
 信頼を視線に乗せて、エルダンを見据える。
 エルダンは頷くと、プルトールに向かって言った。
「当事者の了解は得た。あとは貴公が邪魔をしてくれなければうまく行くと思うのだが」
「……ぬぅ」
 プルトールは未だ納得いかないような表情をしていた。
「別にあなたを置いて逃げ出そうというわけじゃない。危険を回避するために、場所を移動するだけだ」
「それはどこなのだ?」
「今はまだ言えない。だが、もし何事もなければすぐにこの店に戻ることを約束しよう。そしてリュードと共に店から出ず、あなたの捜査の邪魔はしない」
「本当であろうな?」
 その条件は悪くないと判断したのか、プルトールは僅かに興味を示した。
「命に代えて」
 エルダンがそう答えると、プルトールはキョトンとしたあと、声高に笑った。
「ふはははは! まるで騎士だな、エルダンとやら。その心意気、気に入ったぞ。騙されてやろうではないか。貴公の言うことが本当なら、貴公についていく事こそ犯人への近道となり得る。同行させてもらうぞ」
 そう言いながら、プルトールは立ち上がり、甲冑をうるさく鳴らしながら入り口のほうへと歩いていった。
 そして入り口の手前で振り返る。
「外で待っている。支度があるなら早くするのだぞ」
「わかった」
 答えると、エルダンはこちらに体を向けた。
「支度は特に必要ない。そのままでいいからついてきてくれ」
「わかりました」
「問題は、マリエッタだな……」
 それはこちらも気にしていたことだ。マリエッタだけを残してこの店を空けるわけにはいかない。賊がやってきて彼女一人だったなら、恐らく自分たちの行き先を聞き出そうとするはず。
 その方法が優しいものだという保障はどこにも無い。
 最悪人質に取られたり、命の危険に及ぶ可能性も考えられる。
「義母さんも連れて行かないと……」
「ああ。だがどうやって今の話を信じてもらうかだ。じつはもう時間が無い。一から説明している余裕はなさそうだ」
「じゃぁとりあえず説明なしでついて来てもらうしか……」
「そうだな。しかしひどく傷ついたようだったが、言うことを素直に聞いてくれるだろうか」
「わかりません。とにかく、無理にでも連れ出さないと。ここは任せてください」
「わかった。それでは私も外で待っている。なるべく急いでくれ」
 常に余裕を持って行動している彼から急かすような言葉を聞くのは初めてだった。思った以上に切羽詰っているのかもしれない。
「わかりました」
 答え、小走りで店の奥へ向かう。視界の端でエルダンも店の外へ歩き出していた。
「リュード」
 と、エルダンに呼ばれ、顔だけ振り返る。
 エルダンはこちらに背中を向けたまま言った。
「信じてもらえるというのは、ありがたいことだな」
 そして続ける。ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの小さな声で。
   8

「いたか?」
 リュードの青ざめた顔を見れば、それは聞くまでも無かったが。
 それでも声に出して確認したのは、そうせざるを得ない状況に陥っているからであり、自分の予想とは反する答えへのわずかな希望にすがりたかったからだ。
 声に出すのも億劫なのか、リュードは力なく首を振る。落胆した様子の彼からは疲れが色濃く見て取れた。
 この店の仕事は相当な重労働だと聞いていた。昼の混雑をようやく乗り切った後に、こんな非常事態が起きたおかげで疲れも一気に噴出したのだろう。
 だが、休んでいるヒマなど与えられない。
「どうするのだ……。彼女がいなくては、ここを離れることなどできぬぞ」
「とにかく時間の許す限り探すしかない。リュード、店のどこかに隠れているということは無いのか?」
「人が隠れられそうなところは全部見ました。棚も、引き出しも、ロッカーの中も、作り置きの鍋の中だって」
「そうか」
「一体何故こんな……」
 プルトールの問いに答えられる者はいない。
 それは今、ここにいる全員が抱いている思いだからだ。
 店を出るという話になってリュードが彼女を呼びに行ったとき、奥の部屋には誰もいなかった。ただ、開け放たれた部屋の窓が、恐らくマリエッタが店を抜け出したのだということを予想させた。
 それを知らせに来たリュードの取り乱し様は、相当なものだった。
 しいて言うならば、それは母を見失った幼子のようだった。まだ少年とはいえ、もう大人になりかけている男の慌てっぷりに、最初は面食らったものだが、リュードの生い立ちを考えればそれも無理のないことと納得した。
 リュードの家族へ対する思いは特殊だ。その特殊さゆえの苦しみは、恐らく大勢の人間には理解できないだろう。だが自分には彼を理解できる。彼と通じるものを自らも背負っているから、というのが理由だが。
「いや、すまぬ……。我輩がこういうことも予測して部屋から出ることを許さなければ」
 プルトールはリュードの様子に何か反応を見せるというよりも、自らに落ち度があったことを悔いているようだった。
「あなたのせいではない。誰もあそこからいなくなるなどと考えはしない。もしこれがあなたのせいだというなら、私にはもっと責任があることになる」
「おぬしは食事をしにきていただけではないか。責任など……」
「本来は食事などするつもりは無かった。いや、とにかく今は責任のかぶりあいをしている場合ではないな。ギリギリまでマリエッタを探して共に身を隠さなければならない」
「わかった」
 頷き、プルトールは甲冑をガシャガシャと鳴らせて店の中へと歩いていった。
「リュード」
 呼びつける。
 いつも以上に冴えの無い表情。あまり前向きとは言えない彼が、今この状況で何を想像しているのかは容易に見当がついた。
「リュード、まだマリエッタに何かあったと決まったわけではない。確かにアラミスへの犯行も家の中でのことだったが、あっちは皆が寝静まった深夜でのこと。こんな明るい時間から人の家に忍び込んで誰かを連れ去るなど、できるものか」
 第一、彼らはマリエッタには興味が無いはずだった。目的はリュードと、もう一人。
 リュードたちは知らない犯人の意図を、自分は知っている。本来なら隠さず打ち明けるべきなのだろうが、これを打ち明けてしまっては、リュードが知るべきではないことにまで話す必要が出てくる。
 それは、彼の友人として絶対に避けたいことだった。
(こうなってしまった以上、遅かれ早かれ、かもしれないが……)
 つくづく自らの不甲斐なさが悔やまれる。事前に被害を抑えられた可能性のある人間は、自分だけだというのに。
 だからこそ、悲しみをこれ以上増やさないためにも、やらなければならない。
 そして今やるべきことは、マリエッタの安否を知ることだ。
 マリエッタが自分たちの前から姿を消して、一体どうなったのか、考えを巡らせる。
 第一に、マリエッタが何者かに連れ去られた可能性。
 これはあまり考えられなかった。
 自分の手に入れた情報が正しければ、犯人たちはこれからこの店を襲撃しようとしている。なのにわざわざそれに先んじてマリエッタを連れ出す意味は見当たらない。というか、最初から彼女はターゲットにはされていない。
 となれば、マリエッタは自ら店を出たのではないか。
 彼女の性格も考慮すれば、これが一番ありそうなことだった。
 彼女はプルトールからアラミスの死を知った。だが人に聞かされただけで認めたくないことを認めてしまうような人間ではない。
 予想に過ぎないが、自らの意思でアラミスの生死を確かめに行った、もしくは他の目的を持ってどこかに向かったというのなら、十分に考えられることだ。
「リュード、恐らくマリエッタは自分から店を出たんだ。店にはプルトールが来ていた。正面から出て行くと言っても、危険だと止められるのは分かりきっているからな」
 つい先ほどそれをしようとしていたリュードに言うことではないかもしれないが。
「一体何のために出て行ったんですか……」
「それは、まだわからない」
「いくら義母さんでもそんな意味のないことはしないですよ。外に出てどこに行こうっていうんですか?」
「分からないが、アラミスに関連したことで何かを思い、何かをしようとしたのだということは考えられる」
「そんな……」
 あるわけがないと一笑に付してしまおうとしたのだろう。リュードはどこか自虐的な半笑いを浮かべかけ――しかしそこでぴたりと動きを止めた。
「いや、あるかもしれないですね」
「そうだろう?」
 同意を得られたことが嬉しくて、思わず笑みを浮かべた。毎日一緒にいるリュードがこう言うのだから、自分の考えは俄然信憑性を帯びてくる。それはすなわち、状況がこれ以上厳しい方向へ向かわずに済むかもしれないということなのだから。
「それじゃあ、ひとまずマリエッタは自分からどこかへ移ったと仮定し、今最も危険な我々が安全な場所まで移動するということでも構わないか?」
「え、それは……」
 もし仮定が正しくなければ、マリエッタを見捨てることになる。それだけは避けたいのがリュードの気持ちだろう。しかし、さほど広くない店の中はもう完全に探しつくしたのだから、マリエッタが店の中にいることは、隠し部屋でも無い限り考えられない。それならば、彼女はもう近くにはいないということにして、自分たちは別の場所へ移ったほうがいい。
「じつを言うと、もう時間が無い。ここから一秒でも早く離れなければ犯人たちと鉢合わせすることになるんだ。これだけ探したんだ。マリエッタはもうどこか別の場所にいる可能性がとても高い」
「……そ、そうですね。じゃあ、移動しましょう」
 まだリュードは完全には納得できていない様子だったが、これだけ時間が差し迫っては仕方無い。多少強引でも頷かせるしかなかった。
   9

 東に町の中心部、西に港。ちょうどその間の位置に「マーガレット」は店を構えている。町の中心から続く住宅街の一番外れで、店の西側は建物がほとんど無い。港につくまではのどかな田舎道が続いている。
 その田舎道に、林で囲まれている場所が数百メートルほどある。背が高く、小さい割には鬱蒼としているこの林は、店の様子を探りつつ身を隠す書くには最適の場所だった。よほど下手な隠れ方をしない限り、店からこちらの姿は見えないが、林の中からは店の様子が丸見えになる。
 二人を率いてやってきたのは、この林の中だった。
「ここに隠れるんですか……?」
 不安そうに尋ねてきたのは、リュードだった。
「ああ。ここならやつらに見つかることなく店の様子を探ることができる。なかなかいい場所だと思うんだが」
「良いと思います。店からこの林の中の様子なんて、どうやっても見えないですから。でも、犯人たちが店に誰もいないって知ったら、周りを探したりしませんか? そうしたら真っ先に怪しまれるのはここだと思うんですけど」
「そうだろうな」
「ここいたらまずいじゃないですかっ」
「大丈夫だ。今ここに隠れるのはリュードたちの店が危険であることを確認するため。やつらが気づいたらすぐさまここを離れる。それでいいだろうか? 騎士プルトール」
「ああ、構わぬぞ。……だが、店にやってくる犯人グループをここから確認することができるのか? 店が閉まっていることを知らない一般客がやってくるかもしれないではないか」
 もっともな疑問を投げかけられるが、その心配はなかった。
「大丈夫だ。これから現れる連中は、一目見ただけでそれと分かる、特殊な格好をしている。見たら驚くだろうが、私を信じて欲しい。これからあの店に現れる連中は、危険だ」
 知らず、声色が低くなった。無意識に緊張しているのがそれで分かる。
 隣でもリュードがゴクリと唾を飲み込んでいた。
 本当なら店に犯人たちが現れるのを確認するまでもなく、一刻も早くここを離れるべきなのだが、義務感に駆られたプルトールがそれを許さないだろう。
「それで、あとどれくらいで現れるのだ?」
 プルトールは比較的気楽な様子で聞いてきた。まだ店に犯人が現れるという情報に対して半信半疑なのかもしれない。本当に信じていたらリュードほどではなくとも、それなりに緊張しているはずだ。
「太陽が沈みきったとき、やつらはやってくる」
 林の外は既に赤く染まっていた。本当にギリギリまで店に留まっていたのだ。もし説得できずにあの店から出ていなかったらと思うと、ぞっとする。
「誰か来ましたよ……!」
 突然、リュードが低く抑えた声色で警告した。
 別にささやく程度に声量を抑えなくとも、よほど大きな声を出さなければまず店には聞こえない。緊張感があるのは良いことだが、リュードは少し怯えすぎているかもしれない。怖がるなというほうが無理な話とはいえ、怯えは敵に立ち向かう意思を奪う。これからリュードは立ち向かう意思、勇気を試されることになる。それを思うと、今のリュードの様子には少し不安を覚えた。 
「あれは……少し町の方へ行ったところのレンデル殿であるな」
「レンデルさんが犯人だって言うんですか……!?」
 知らない名前だが、どうやら近所の人らしい。丸々太った中年男性だ。
 そのレンデルという人物は、店の入り口の前まで歩み寄ると、しばらく店の扉をじっと眺めたあと、どこか寂しそうに踵を返した。
「あれは一般客だな」
「ああ、そうなんですか。よかった」
 リュードは大げさに息をついて、肩の力を抜いた。
「うむ。我輩もレンデル殿とは近所づきあいも長いのでな、捕まえねばならないのかと思うと悲しいものがあった」
「そうですね。僕もあの人常連さんなので、顔見知りだし、もしそうだったら気まずかったです」
「そうであろうなぁ。もし捕まえてしまったら美人の娘さんも悲しむであろうし」
「あ、彼女のこと知ってるんですか?」
「何度かすれ違いざまに挨拶を交わしたことがある。……そういえばお主と同じくらいの年齢ではないかな?」
「ああ、はい。ちょうど同じクラスでしたよ」
「ほほう! あれだけの美人と毎日会えるとは、幸せではないか」
「いやまぁ、一度も話したことは無いんですけどね」
「ふむ、それは勿体無いことを。お主ならイチコロであろうに」
「な、なにがですか……」
「謙遜するな。わははは」
 やけに話が弾んでいた。どうでもいいが、プルトールの笑い声は少し大きすぎて危険を感じる。
「騎士プルトール。声が大きい」
「む、これは失敬」
(怒られてしまったではないか)
(僕のせいにしないでくださいよ)
 ひそひそ声は、正直丸聞こえだったが。
 ともあれ、今のやりとりでリュードの肩の力が少し抜けたように見えた。プルトールがそれを狙ってやったのだとしたら、相当な策士と言える。これは一種の才能を持つものにしかできないに違いない芸当なだけに、素直に尊敬する。
 そんなこんなで、いまいち緊張感の消え失せた時間を過ごしながら、日没が迫ろうとしていた。
「そろそろだ」
 肝心な時までお気楽気分でいるということはないだろうが、自身の気を引き締める意味も兼ねて宣告する。
「やつらがやってくるぞ」
 さすがに、一瞬で空気が張り詰めていくのを感じた。プルトールもリュードも、強い眼差しで店の方角を見据えた。
 と、ここで
「質問が」
 リュードが律儀に手を上げてたずねてきた。
「なんだ?」
 リュードは少し言いづらそうに言った。
「あの……僕の視力が悪いだけなのかもですけど、暗くて店の様子とか全然見えないんですが……」
「ほう」
 なぜかプルトールが反応する。
「奇遇だな。我輩もこの暗さでどうやったら店の様子が見られるものかと考えていたところであるぞ」
 言われて、店のほうを見てみる。
「……」
 日が完全に沈んだおかげで、辺りは暗く、店はその輪郭をおぼろげに浮かび上がらせる程度だ。
「見えないな……」
 呟く。
「い、意味が無いではないか!」
 プルトールが猛然と抗議してきた。その後ろではリュードがこけている。
「すまない。日没以降が夜だということを完全に失念していた。そうだな。日没は日が沈んでいるのだったな」
 つい、当たり前のことを声に出して確認した。どこかで日没=夕暮れというイメージが刷り込まれていて、夕暮れならまだ辺りは明るいものと勘違いしていたようだ。
「これではやつらの行動など探りようが無いな」
「冷静に言ってる場合じゃないですよ! だって日没には来るんでしょう? もう来てるかもしないじゃないですかっ」
「待て、静かに。何者かが現れたようだ」
 プルトールが真剣な声で言うと、リュードは渋々といった様子で黙り込んだ。
「分かるのか?」
「あそこを見るのだ。松明のような灯りが複数動いている」
「本当だ」
 リュードも一緒に店の方角を覗き込む。店の周りで、複数の赤白い光が蠢いていた。その光は、わずかに揺れたり大きさを変えることから、恐らく単純に炎だと思われる。
「あれがそうなのであるか?」
「姿を見てみないと断言はできないが、恐らくそうだろうな」
「数が多いですよ……!?」
 焦った様子でリュードが言った。数えてみると、灯りの数は15ほど。店を囲むようにして展開している。となると、店の後ろ側にもいると思われ、最終的な数はもっと増えそうだ。
「この時間帯はいつも客が多いな。一般客かどうか分かるか?」
 プルトールがリュードに尋ねる。
「松明なんか店の中に持って来るお客さんはいないですから、たぶん違うと思います」
「では決まりだな。やつらは店に誰もいないことを知れば、必ず周囲を探しに出るだろう。ここにいては危険だ。一刻も早くここを離れよう」
 そう言った瞬間、プルトールが茫然と呟いた。
「待て……」
 その様子が普通ではなかったので、リュードと二人驚いてプルトールを見る。
「あれは……警備隊ではないか……」
 かすれた呟きに、リュードが即座に反応した。
「ええ!?」
「今、ほんの僅かにだが、警備隊支給のプロテクターが見えた。毎日嫌でも目にしているのだ、見紛うはずもない。あそこにいるのは警備隊だぞ……!」
「いや、違う」
 即座に否定する。
「あれは警備隊の姿をしてはいるが、警備隊ではない」
「馬鹿な。警備隊以外にあのプロテクターを装備する者などおらん。それとも、賊がわざわざ警備隊に変装しているとでも言うのか? ぱっと見だが、あれは偽物などではなかった!」
 まずい流れになっていることを感じ取る。胸中で舌打ちしながら、エルダンは考えた。
(どう説明したものか……)
「あなたの言うとおり、あれは正規の騎士だ。だがさっきも言ったが、我々にとっては敵だ。信じてほしい。ゆっくり説明する時間がなく、適当に言っても混乱を招く恐れがあるので、黙っていた」
 うまく核心からずれながら説明して丸め込むしかない。そういう結論に達する。
「正規の騎士が、我々の敵なものか。騎士とは国を守護する者、つまりは人民の味方なのだぞ」
 やはり、彼は典型的な旧騎士世代だ。騎士のあるべき概念に捕らわれすぎて、それを妄信している。
「必ずしもそうでないということは、あなたも知っているはずだ」
「それはすなわち、貴様が人の道に外れた行いをしたと言うことか……?」
(なんでそうなるんだ)
 めったに味わうことのない苛立ちを感じ取り、焦りが加速する。一刻も早くここから離れなければならないというのに、味方同士で不審に思い合っているなど論外だ。
「……まずはここを離れるのが優先だ。やつらについての話は、それからでも遅くないだろう」
「ダメだ。今我輩はお主が本当に信用できる人物なのかどうか分からなくなってきている。納得できる説明がない限りここを動かぬぞ」
「それならあなたを置いて行くまでだ。もう一度言うが、今、本当に危険が迫っている。それを分かってほしい」
「ならばこそ、説明をするべきではないのか? 何でもかんでも知ったような顔をして、何も知らぬ我輩らは混乱するばかりだ。敵が来る、危険だ。そればかりで具体的な説明もなくては、信じたくても信じられぬ」
「すまない。その時が来れば全てを説明をしたかったが、今は限界のようだ。リュード、行くぞ」
 恐らく店のほうにいる連中は、既に店に誰もいないことを知っただろう。もう辺りを探し出しているかもしれない。一秒でも早くここから離れなければならず、プルトールを置いていくことを決断する。プルトールだけなら、やつらに見つかってどうこうされるということはない。
 これでは店で交わした彼との約束を破ることになるが、この状況ではそれも仕方ないと思われた。リュードの身を守るのは何よりも優先すべき事項だからだ。
「え。……えっと、僕は」
 しかし、なぜかここでリュードが躊躇いを見せた。
「どうした、急ぐんだ」
「あの、僕も少し説明が欲しいです。何も分からないままただ逃げるのは、ちょっと」
 その言葉の意味が一瞬では理解できず、硬直する。
 少ししてから我に返り、エルダンはリュードの顔を凝視した。
 ちょっと、の先にどんな言葉が来るのかは分かりかねたが、それは恐らくプルトールと似たような気持ちということに違いなかった。リュードはとにかく何も言わず自分についてきてくれると思っていただけに、その言葉は衝撃的だった。
「……逃げながらでは駄目なのか?」
 今は時間がない。
「この場での説明を希望する。でなければ我輩もリュードも納得せぬぞ」
 プルトールがリュードの言葉まで代弁することにひどく苛立つ。
「危機感というものがないのかっ」
「危機感もなにも、本当に危険なのかどうかすら実感できぬのだ。お主が説明を怠った結果だぞ」
 絶句するほかない。説明を怠ったのではなく、限られた時間の中では最低限の説明しかできなかっただけ。そもそもプルトールが店にやって来なければ、時間に余裕はあっただろうし、リュードだけをすんなり連れ出せたものを。
 決断を迫られていた。
 全てを話して、やつらに包囲されるか。
 自分だけでも逃げ出して、リュードをやつらに連れ去られるか。
 希望のある選択は、どちらか。
「……では、話そう。もっと具体的なことを」
 苦渋としか言えなかった。顔も相当渋くなっていることだろう。
「やつらはな……王国の」
「そこまでだ」
 突如、その場にいたのとは明らかに別の人間の声が、割り込んできた。

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