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井島・石島コミュの石島の歴史

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小さな島で,300年という永い間の生活を知る資料が現存するわけではありません。特に明治40年にこの島で大火があり,それまで保存されていた資料類は,このとき焼失したということですので,現存する若干の資料と現在この島の人々の生活に残る伝承などを述べていきたいと思います。現在の石島の歴史がスタートするのは,元禄15年(1702)12月22日に30年間にわたる胸上村と直島との間の境界論争に江戸幕府の裁定がだされたときからです。石島山の北側が備前の国児島郡に所属し胸上村の一部で,南側が直島の一部であるという裁定にしたがい,それまで人の住んでいなかった石島山北側の開拓,管理,集落形成等を目的として胸上村から善六,冶右衛門,善右衛門という3人の人々が移住してきたそうです。したがって,この人々が今石島に住んでいる人たちの宗家ということになります。石島を開拓する,という使命をもって移住したこの人々は,それぞれ万端の準備を整え,覚悟もしていたことでしょう。母村である胸上村からも当然何らかの形でいろいろな援助があったことは当然であると思われますが,300年前の開拓生活は農機具の発達した現代では想像を絶するきびしいものであったということは十分想像できます。寛保2年(1742)頃の文書によると,石島の開拓がはじまって40年ほどの間に,最初移住した3軒が8軒になり,人口は56人になっていて,平均すると1軒に7人という大家族で生活していたということが伺われます。そして人口が増加するにしたがって家数も増え,その規模に応じて共同生活を営むのに必要な規律や統制,相互の信頼や助け合いなどの生活秩序は常に自主的に生まれ,守られ,島の生活はお互いの努力で次第に向上しながら,幕末,明治を迎えたであろうと思われます。その長い年月,島の人びとの生活は豊かで強力な人間関係が保たれながら発展してきましたが,その住む土地は石島山の北斜面という,比較的急斜面で海に達するという条件の土地でした。したがって土地そのものにも,生活用水にもおのずから限界があり,そこに住むことのできる人の数にも限界があるのは当然といえるでしょう。
 土地にも水にも乏しいというそんな地理的条件のなかで,石島の人たちは,この島の周辺が磯魚類の宝庫であり,漁場としてすぐれた海であることを知り,その生活基盤を漁業にもとめたのであると思われます。

 現在の石島の人たちの漁法は建網(刺網),小型底曳網,流瀬網,蛸縄,一本釣りのほか,海苔の養殖と多彩で,ことにそれぞれの漁期や漁法,労力の配分を巧みに組み合わせた経営の合理性は,石島の漁業の特徴と言えるのではないでしょうか。

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