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仏教・中観思想・空思想を学ぶコミュの「三十七の菩薩の実践」(ギャルセー・トクメー・サンポ師著)の学びについて

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「三十七の菩薩の実践」(ギャルセー・トクメー・サンポ師著)の学びについてのトピックでございます。「入菩薩行論」(シャーンティデーヴァ論師著)と併せまして、「三十七の菩薩の実践」につきましても論考を深めていければと存じております。

「三十七の菩薩の実践」
〔ギャルセー・トクメー・サンポ師(13世紀・チベット仏教サキャ派の学僧)著〕

ナモー、ローケーシュヴァラーヤ(南無観自在菩薩)

 すぐれた師(ラマ)であり、救世者(くぜしゃ)である観自在〔菩薩〕(かんじざいぼさつ)に、常に三門(身、口、意)で恭しく礼拝いたします。観自在〔菩薩〕は「一切の法(存在)は去ることも、来ることもない」とご覧になりつつ、しかも輪廻(りんね)する衆生のために一心に励んでいらっしゃるのです。
 一時的な幸せと究極的な幸せを生じる源であるもろもろの仏陀は、正しい法を完成することで仏陀となりえました。それは〔法を〕実践することの内容を知り、それを実際におこなったからなのです。これより菩薩の実践について述べることといたします。

1.大きな船のような有暇具足(うかぐそく)をそなえた有意義で得がたい生を享けた今生で 自他ともに輪廻の海から救われるために 昼夜を問わずに怠けずに聞・思・修(もん・し・しゅう)すること それが菩薩の実践である

2.身内に対しては愛情を水のように注ぎ 敵に対しては憎しみを炎のように燃やす 善悪の見境(みさかい)がつかない愚かさは真っ暗な闇(やみ) 故郷を捨てること、それが菩薩の実践である

3.悪い故郷を捨て去れば煩悩(ぼんのう)はしだいに消え去っていく 怠けず励む者の功徳はおのずと増えていく 知性が澄めば教えに信が生ずる 「静謐(せいひつ)な場所」に安らぐ心、それが菩薩の実践である

4.長い間親しくしている友と別れ、努力して得た財産を後に残し 「肉体」という宿を「心」という客が去っていく 今生を捨てること、それが菩薩の実践である

5.交われば三毒(貪・瞋・癡)が増大し 聞・思・修の行が疎かになり 慈悲がなくなりはじめる そのような悪い友を捨てること それが菩薩の実践である

6.〔その人に〕従えば欠点がなくなって 功徳が上弦(じょうげん)の月のように満ちてくる そのような善友(ラマ)を自分自身の身体よりも大切にする それが菩薩の実践である

7.自らも輪廻の牢獄に捕らわれている 世俗の神にいったい誰を救うことができるのか それゆえ、救いを求めても欺く事のない三宝(仏・法・僧)に帰依をする それが菩薩の実践である

8.「極めて耐えがたい悪趣(あくしゅ)の苦しみは 罪業(ざいごう)の結果である」と釈迦は説かれた そのため命を落とそうとも罪業をおこなわない それが菩薩の実践である

9.三界(欲界・色界・無色界)の幸せは草葉の露のごとく 瞬時に消え去るものである いかなるときも変わらずに解脱の最高の境地を目標とする それが菩薩の実践である

10.無始以来より私を愛してくれた母たちが 苦しみもがいているならば、自身の幸せなど何になろうか それゆえ、限りなき衆生を救うために菩提心を生起させる それが菩提の実践である

11.あらゆる苦しみは自らの幸せを追い求めることより生じ 悟りは他者のためを思うことより生ずる それゆえ、自己の幸せと他者の苦しみをまさしく交換する それが菩薩の実践である

12.何者かが大きな欲望で私の財産を すべて奪おうとして盗みに入ったとしても 身体と財産と三世の善の集積のすべてを差し出す それが菩薩の実践である

13.自らの過ちが認められないにもかかわらず 何者かが私を斬首刑(ざんしゅけい)に陥れたとしても いたわりの心でその罪を自ら被る それが菩薩の実践である

14.ある者が私に対してさまざまな非難中傷を 三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)に遍くふれ回ったとしても 慈しみの心で繰り返しその者の功徳を称賛する それが菩薩の実践である

15.大勢の者が集まるなかである者が 私の過失を掘り起こし罵声を浴びせかけても その者を善友(ラマ)と思って敬意を払う それが菩薩の実践である

16.わが子のように大切に育てた者が 私を敵のように見なしたとしても 病気のわが子に接する母のようによりいっそうの愛情を注ぐ それが菩薩の実践である

17.私と同じくらいか、それより劣る者が 慢心を起こして私を軽視したとしても 師(ラマ)のように尊敬し自らの頭頂に戴く それが菩薩の実践である

18.生活に困窮し、常に人より軽蔑され ひどい病苦や悪霊に憑かれても それでも一切衆生の罪業と苦しみを受けて疲れることをしらない それが菩薩の実践である

19.称賛され、大勢の者が頭を垂れ 毘沙門天(びしゃもんてん)の財宝と同じものを手にしても 世間の豊かさには本質がないと見て驕らない それが菩薩の実践である

20.自身の中にある怒りという敵を調伏しないなら 外の敵を倒しても憎しみはますます増大するばかり それゆえ、慈悲という軍隊で自身の心を征服する それが菩薩の実践である

21.欲望の特性というのは塩水を飲めば飲むほど渇くのと似て どんなに満足してもさらに貪りたくなる 欲望が起きた対象はいかなるものでもすぐに捨てる それが菩薩の実践である

22.いかなる現象もそれは自身の心であり 心の本性は本来戯論(けろん)より離れている そのように理解して主客の諸相に気をとらわれてしまわない それが菩薩の実践である

23.意識がとらえる喜びの対象は 夏の盛りの虹の色彩のごとくに 美しい現象であっても実体のないものとして執着(しゅうじゃく)を捨てる それが菩薩の実践である

24.さまざまな苦しみは、夢の中での息子の死のごとく 錯誤を実体あるものととらえることより生じた疲れ それゆえ、たとえ逆境に遭遇したとしても錯誤と見なす それが菩薩の実践である

25.悟りを得るために、この身さえ犠牲にする必要があるのなら 外側のものなどなおさらに 見返りや成果を期待せず布施を行ずる それが菩薩の実践である

26.戒律を守らずして自利の完成は無い それでいて利他を成し遂げる願いを持っても笑われる それゆえ、世俗の欲を放棄して戒律を遵守(じゅんしゅ)する それが菩薩の実践である

27.善という財を求める諸菩薩を 傷つけてしまう者もまた、尊い宝も同然である それゆえ、あらゆる者に恨みをもたず忍耐を修習(しゅじゅう)する それが菩薩の実践である

28.自利のみを得ようとする声聞(しょうもん)、独覚(どっかく)も 頭に移った火を消そうとするように努力をするのをみるならば すべての衆生のためになる功徳の源泉となる精進に励む それが菩薩の実践である

29.「止」を伴ったすぐれた「観」が 煩悩を克服するのをよく知って 四無色定(しむしきじょう)を超越した禅定(ぜんじょう)を修習する それが菩薩の実践である

30.智慧のない五つの波羅密(はらみつ)だけならば 完全なる悟りを得ることはない それゆえ、波羅密行を伴った三輪無分別智(さんりんむふんべっち)を修習する それが菩薩の実践である

31.自らの錯誤を自らが正さないなら 行者が非法を行うことになりかねない それゆえ、常日頃より過ちを見抜いて捨てる それが菩薩の実践である

32.煩悩にかられて菩薩の方々の 過失を非難するならば、結局自らを衰退させるだけ それゆえ、大乗者の過失をいっさい口にしない それが菩薩の実践である

33.富と名声にかられ争いとなり 聞・思・修の行が疎かになる それゆえ、親友やご支援くださる人々に対しての甘えを捨てること それが菩薩の実践である

34.汚い言葉が他者を動揺させ 菩提行の在り方を弱めることになる それゆえ、他者の心を害するような汚い言葉を捨てること それが菩薩の実践である

35.煩悩に慣れれば制することが難しくなる 念(記憶)〔正念〕と正知(しょうち)という対治の刃を手に取り 欲望などの煩悩が起こるやいなや刈り取ってしまう それが菩薩の実践である

36.要約するなら、どこでもどんなときも何をしようとも 自らの心の在りようがどんな状態であっても 常に念と正知を利用して利他を成し遂げようとする それが菩薩の実践である

37.以上のように精進(努力)して、成し遂げられた諸善を 限りなき衆生の苦しみを取り除くため 三輪無分別智により、悟りを得るために回向(えこう)すること それが菩薩の実践である

 経とタントラと論書に説かれている内容を、諸賢の言葉に従って、菩薩の三十七の実践として、菩薩道を実践したい人のために著しました。浅学非才で諸学者の好む文章が記せないため、経典と賢者の言葉に準拠して、菩薩の実践を誤りなく正確に記そうと思慮しました。けれども、菩薩道は広大であり、私のような知力の劣る者には、その奥底は理解しがたく、矛盾や無関係などの過失の集積になってしまいました。諸賢方よ、お許しください。
 これによって生じた善があるならば、その善によってすべての衆生が勝義と世俗の二つの菩提心を起こし、輪廻と涅槃のどちらにも住することなく、救世者である観自在〔菩薩〕と等しい境地に至ることができますように。

 記した内容は自他のためになる言葉であり、学僧であり比丘であるトクメー・サンポが、グルチュー・リンチェン・プクというところで記したものです。

(藤田省吾氏、 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ師 訳)

和訳引用参照元「ダライ・ラマ 生き方の探究」春秋社 1997年
ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ著、藤田省吾 (翻訳)、ゲシェーソナムギャルツェンゴンタ (翻訳)

コメント(42)

「〈一切の法(存在)は去ることも、来ることもない〉とご覧になりつつ、しかも輪廻する衆生のために一心に励んでいらっしゃる」観自在菩薩は、菩薩であるがゆえにまさにこれらの
37の実践をなさっておられるお手本である、

と観ずるべきでしょうか?
観自在菩薩の自在であるところの観(ヴィパシュヤナー)とはまさに「〈一切の法(存在)は去ることも、来ることもない〉とご覧になる」ところのものでしょうか?


【菩薩の智慧行】
30.智慧のない五つの波羅密(はらみつ)だけならば 完全なる悟りを得ることはない それゆえ、波羅密行を伴った三輪無分別智(さんりんむふんべっち)を修習する それが菩薩の実践である


以下の文章は島村大心師の『菩薩の実践三十七頌による 誰にでもできる心の練磨法』からの引用です。


上記のゲシェー・ソナム師の30頌とは、若干違いが有りますので、そのまんまけいさいします。




30頌【菩薩の智慧行】
 智慧なき五波羅蜜によっては究竟菩提を得ることはできないから、方便のある三輪で無分別の智慧を修するのが菩薩の実践である。

これが六波羅蜜の最期、智慧波羅蜜である。
これまで述べてきた五波羅蜜に智慧、即ち空性の智慧の探求が伴っていなければ、いくら一生懸命それらを実践しても、究竟菩提(つまり悟り)の境地に達することは出来ない。 布施、持戒、忍辱、精進、禅定これらは全て智慧即ち空性を心身で理解する為の方便であるから、それが智慧の探求と切り離されていたら、仏道修行にはならない。 そして、そこに一切衆生の為という大悲が欠けていては、大乗仏教にはならない。

これら五波羅蜜の内、智慧と直結するのは、禅定である。
したがって五波羅蜜の各種方便、特に禅定、それに大悲の三つ(三輪)によって、分析的認識である分別を離れた、即ち戯論(ケロン)を離れた自他未分の智慧を修するのが菩薩の実践だということだ。


このように「止観」の禅定によって一切諸法無自性(無我)、即ち空性を心身で知ることが悟りである。 しかもそこに分別、即ち自他を分別し、個々の現象を凡夫の言葉で理解しているレベルは悟りとは
程遠く自分自身を含めた一切諸現象の平等性を、あるがままに、無分別の状態で理解する智慧を磨き上げることが重要だとしている。


そして、この智慧が実現する時は、輪廻は根本から断滅し、涅槃の状態に入ることになる。 この悟りの状態を古来、真如(シンニョ)・如実知自心(ニョジツチジシン)・浄月輪(ジョウガチリン)・法界一如(ホッカイイチニョ)・浄菩提心・法身(ホッシン)・真諦・究竟円満・明・至道無難・法界体性智(ホッカイタイショウチ)等々と表現しようと努めてきたが、その具体的内容は悟った人にしか分からない。
だからと言って早々に諦めてしまっては、それこそ永遠に悟れず、苦界に沈まねばならなくなる。

この途方もない難事業に、勇気を持って立ち向かい、長い長い道を諦めずに、精進を重ね、一切衆生の為に、僅かでも智慧を磨き、あの長い長い階段を一歩一歩登り続けるのが菩薩の実践なのだ。

これで菩薩の立場からの六波羅蜜の説明が終わったので、次頌から自分の心をチェックする日常生活での実践を説いている。36頌まで。


これが終われば、説明は全て終り、あとは我々菩薩の実践だけが待っている。

最期に三十七頌は廻向で、締めくくりに【結頌】として観自在菩薩と等しくあるようにと、グルチュ・トクメは、謙虚に自身を浅学菲才である為、誤りがあると思われるが、大筋では正しいはずと、これに従って、一切衆生が修行をし、悟りを開いて、三十三変化する観自在菩薩と等しくあって、輪廻と涅槃の両者に辺際しないようにと結んでいます。

「三十七の菩薩の実践」のトピックいいですね。
関連するサイトを貼っておきます。

ニンマ派高僧トゥルシック・リンポチェによる説法会
http://www.tibethouse.jp/culture/37.html

佛子行三十七頌
http://tw.myblog.yahoo.com/khentrul-rpc/article?mid=2401&prev=2419&l=f&fid=12

Garchen Buddhist Institute --- 37 Practices of the Bodhisattvas
http://www.garchen.net/resources.html#37things
http://www.garchen.net/resources/37practices-tib-eng.pdf

Simhanada --- 37 Practices of a Bodhisattva
http://tralvex.com/pub/spiritual/pdf/Simhanada%20---%2037%20Practices%20of%20a%20Bodhisattva.pdf

http://longlivehhdl.ning.com/profiles/blogs/the-37-practices-of-a

H.E. Garchen Triptrul Rinpoche
37 Bodhisattva Practices - Singapore
http://www.dharma-media.org/mfs6.php?mediaID=00000047

37 Bodhisattva Practices - Malaysia
http://www.dharma-media.org/mfs6.php?mediaID=00000048
観自在菩薩について
「チベット仏教の神髄」
http://www.amazon.co.jp/dp/4817512555
にディルゴ・ケンツェ・リンポチェによる解説がありますので、引用します。

 「南無観世音菩薩」
 この意味するところは、「私は(世俗の勝利者である)観世音菩薩に帰依します」ということです。
 観音様は、宇宙的慈しみと哀れみの心の化身として、また諸仏の中心仏として、生きとし生けるもののために、大菩薩として姿を現されました。観音様の慈しみと哀れみの心は広大無辺で、あらゆる生き物に及んでいます。上は王や女王から、下は一般の人々にまで、また声聞や縁覚から十地の菩薩に至るまで、漏れるところはありません。これは、仏陀の広大無辺なお心そのものであり、大慈悲そのものです。仏陀の様々なお諭しの中で、なぜ慈しみと哀れみの心が最も重要なのでしょうか。それは、慈しみと哀れみの心こそが広大にして奥深い菩薩道の根源であるからです。慈しみと哀れみの心は、覚者の心そのものです。世俗の真理(世俗諦)という観点から言うと、観世音菩薩は十地の階位に到達した大菩薩であり、永遠の仏界の諸仏の神髄そのものです。そして出世間的な真理(勝義諦)から見れば、諸仏諸菩薩が生まれ出る大地なのです。現劫のあらゆる宇宙の王者は、すべて観世音菩薩から現れています。そのために、観音様は現世の最高権威と言われているのです。観音様は、決して世俗的意味での権威ではありませんが、仏法の王であり、輪廻の三界を抜け出た方であり、生老病死を解脱した方です。それは、あらゆる生き物のための、完璧な解脱の模範と言ってもよいでしょう。その意味では、諸仏でさえも観音様の模範に倣っているのです。だからこそ、最初の第一行目は観音様に対する絶大なる帰依の心を表明しています。
ノルブさん、どうもありがとうございます(^_^)


>1.大きな船のような有暇具足(うかぐそく)をそなえた有意義で得がたい生を享けた今生で 自他ともに輪廻の海から救われるために 昼夜を問わずに怠けずに聞・思・修(もん・し・しゅう)すること それが菩薩の実践である

この人生(今生)が死によって途切れることを思えば、

またそれがいつ来るのかわからないことを思えば、

この生というものが本当に限られた時間しかないことを意識させられずにはいられませんね
いつ来るかわからない死との競争で僕たちは修行を完成させるための実践に、まさにこの詩頌にうたわれているように昼夜を問わず励まなければなりませんね
ツィッターのほうで、いいこと書いて有るって、お聞きしました。
見てなかった。。。。
「自他ともに輪廻の海から救われるために」というくだりを何だか仏教の決まり文句のようにサラ〜と読んでしまって、その実、心の中では明らかに自分の救われることのみを考えている自分に気づかされざるをえません
すなわち、こうして教えを受けながらそれを表面で聞き流し、実は教えと真逆な心を後生大事に隠し持っている自分の愚かさ、非法、傲慢に直面させられずにはいません

そんな時、今の僕があわてて自分の心を対治するために行うのは「生きとし生けるものの苦しみをすべて僕にお与え下さい。僕が積んだ功徳があればすべて生きとし生けるものにお与え下さい」と何度も何度も心の中で念じるばかりです
>昼夜を問わずに怠けずに聞・思・修すること 

今までの僕は本当に怠けてました
ぜひ一心不乱にそうしたいと思います
31.自らの錯誤を自らが正さないなら 行者が非法を行うことになりかねない それゆえ、常日頃より過ちを見抜いて捨てる それが菩薩の実践である


この31頌は、自分の迷乱を自分でチェックしないなら、修行者の身体は法でない事をする可能性あるので、その為に、常に自分の迷乱(不善業など)をチェックすることが菩薩の実践であると言っています。

自分の心・口・意の行動を常にチェックすることを怠るならば、十不善業や利他行に反することをしてしまう恐れはいつもあります。

不善業を繰り返してしまうことにもなりますが、因果の法則も忘れ、更には、自分が空性であることは余程意識していないと忘れてしまい、自分は自性を持つ常恒不変なものと思い込んでしまいます。


従ってこの我執から三毒、五毒が頭をもたげて来ます
中でも、ものに対する執着は極めて大きい。そんな中、自分は菩薩行をやっていると自分に言い聞かせ、自分を常にチェックするようにするのです。

慣れてくれば、意識しなくても常時チェックしている状態になります。




更に言うと
15頌.大勢の者が集まるなかである者が 私の過失を掘り起こし罵声を浴びせかけても その者を善友(ラマ)と思って敬意を払う それが菩薩の実践である

この部分は、他人の失敗や悪行をチェックする暇があったら、その暇を自分の心口意のチェックに充てることが、菩薩の実践であるという。

これは利他と自利を思えば、バランスは難しいでしょうね。

「自分の心・口・意の行動を常にチェックすることを怠るならば、十不善業や利他行に反することをしてしまう恐れはいつもあります。 」

耳の痛い話ばかりです。
石田さん


そうですね、耳の痛い話ですが、我々が放逸になり易いということなんでしょうね。

益々身を引き締め、注意深くならないといけませんね。



仏陀たち、菩薩たちが教えを説かれた時代に生まれ、その教えを聞き、学ぶことのできる人間の身に生まれた幸福を無駄にしないように

限られた人間としての命を、間違ったことに浪費することなく、ひたすらに学ばせていただきたいと思います
石田さん

ダライ・ラマ14世さんの知人たちが中国の監獄から出て来てダライ・ラマさんに語ったところによると
「監獄に入れられていたことをさも大変なことだったかのようにみんなねぎらって下さるが、

中国の監獄で暮らすことなんかより自分の心を見つめる実践のほうがはるかに難しい」

とのことです
>命を落とそうとも罪業をおこなわない 

この決意そして実行はおそれ多いほど尊いものですね
今、この決意ができるかどうか!?

32.煩悩にかられて菩薩の方々の 過失を非難するならば、結局自らを衰退させるだけ それゆえ、大乗者の過失をいっさい口にしない それが菩薩の実践である



第32偈
自分の煩悩から他の菩薩の過失を詰問するなら、自分の堕落となってしまうので、大乗にいる人は、〔他の〕過失を説かないことが菩薩の実践である。


仏教は、どこまでも自分自身の心を磨き上げることで、縁ある人々が今よりレベルアップすることを願い、祈り、秘かに影響を与えるという態度を執ります。

感心は常に自分自身に向かっていて、自分を差し置いて他人の行動を観察して、あれこれ言うことは決してしない。 ただあるのは、一切衆生の利益になるために、他人を詰問したり罪をあげつらうことは、すべきではない。

それぞれが、修行の途中なのだから、時に過失があるのは当然のことで、互いが助けになれば良いのです。


だから僧伽(サンガ)というのはありがたいのです。

カルマ・ランジュンさん、良いお言葉を有難うございます。
33.富と名声にかられ争いとなり 聞・思・修の行が疎かになる それゆえ、親友やご支援くださる人々に対しての甘えを捨てること それが菩薩の実践である


第33頌
施主に貪着することを捨てる。

財貨と恭敬(クギョウ)〔を受けることに〕より、あれこれ言い争うようになり。聞・思・修の実践が衰えることになるので、親友。親兄弟の家、施主の家などに貪着することを捨てるのが菩薩の実践である。


「財と人からの尊敬」に対する執着は人によって、執着の違いはあるものの、一般的に強い執着の対象になります。 それに捕らわれると聞・思・修の実践がおろそかになってしまいます。
 出家者の場合なら、生産活動に従事していないので、施主を失うのは生活の糧を失うことになることになるかも知れないので、大変厳しいものではありますが、この身体さえ、人に布施しようと激しい決心したのならば、ある意味、空性の理解と実践の乖離を埋めるチャンスです。

地震によって、被災されていらっしゃる方々へ、深くお見舞い申し上げます。

生命と安全がすみやかに確保され、不安と恐怖の中にある方々が一日も早く癒されま
すよう強く願います。


中国メディア広州日報は日本人に対しこう評しました。

2011/03/16(水) 10:26
  中国メディア広州日報は14日、東北地方太平洋沖地震が発生したことについて、「日本人は大地震という生死にかかわる時でさえ、公共秩序を守り、集団の利益を優先している」と評価する記事を掲載した。

  記事は、「人に迷惑をかけない」との言葉は、日本の小学校の道徳で最初に学ぶ言葉だと指摘し、「人を不快にさせない、人に心配をかけない、気をつかわせないなどといったこともすべてが『迷惑をかけない』ことの範ちゅうに入る」と紹介した。

  また、日本人は悲しみという感情を安易に表わさず、逆に自分が悲しんだことで他人を心配させたことをわびるのだと紹介、「大地震のなか、家族や友人に不幸が起きた場合でも、大抵の日本人は大声を出して泣いたりせず、思わぬ災難を黙って受け止める。自分が助かったりすると、『ありがとう』ではなく、『ごめんなさい』という人が多い。つまり、感謝よりも他人に迷惑をかけてしまったという気持ちのほうが強いのだ」とコメントした。

  たとえ大地震という生死にかかわる時でさえ、日本人は公共秩序を守りぬき、被災者集団の中にあって、誰も集団生活を乱さず、絶対的な服従によって集団の利益を維持するとしたうえで、「みなと同じように力を合わせ、困難を克服し、物事を効率よく行う。日本では奪い合いなどの事件は起こらないと言っても過言ではない」と評価した。(編集担当:畠山栄)





これは日本人の美徳と優しさを物語るエピソードですが、表面的な美しさの裏面には
人によく見られたいという欲求が強く含まれています。 人に良く見られたいという願望は、言い方を変えると、人に悪く見られたくないという無知の欲求に支配されています。  この無知のエネルギーは一見美しく見えるので、厄介なのです。
これが愚鈍さや曖昧さの基になるのです。

この時の根底にある「わたし」と言う感覚に捉われなく、「わたし」を意識せずに利他を思えば、菩薩行になるんでしょうけどね。



福島原発の炉心溶融は、私たちの生活基盤の脆弱さを、あらためて、あらわにするものですが、
余震はしばらく続くと予想され、状況は予断を許しません。

わたしたちは、地震、津波で亡くなられた方々、救助活動や原発の修復の活動の中で亡く
なられた方々のご冥福を祈ります。


各国から秩序ある国民性への賞賛の言葉に酔いしれる傍ら先への不安から買い占めに駆り立てられる
一見、矛盾しているような行動も
我執からくる一面なのですね。

今生で得た功徳を被災された人たちに捧げ
その苦しみが我が身に回向するように祈ります。

ありがとうございます。
そうですね、ジローさん


 ただ今の原状を見れば、聖なるものに拘るのも、それ自体も、我執を強め、捉われになるので、内証を見つめ続け、苦悩している災害に合われた人達を思えば、出来るだけ自分の遣れることをやって、やって慢心に陥らないように気を付けなければならないと想うんです。


災害に合われている人は、まさに地獄の苦しみを味あわれていることだと想うんです。
寒さと、不安と、飢えは、実感を持った苦しみとして現れることと、未来に対する不安もその苦苦に乗っかって増大します。 本当に苦しみと不安が無くなることを祈ります。

そして問題は、災害の苦だけではなく、私たちの苦しみは、生・老・病・死という形に集約されますが、常に私たちの直ぐ横にあって、いつ私たちに襲いかかって来るか判りません。

いつも思いやりを持って、いつ生・老・病・死が遣って来ても良いように、覚悟した生き方をしていきたいですね。



カルマさん

>聖なるものに拘るのも、それ自体も、我執を強め、捉われになる

祈り、義援金、ボランティア、節電
善意で始める行動への戒めとしたいと思います。

ありがとうございます。
ジローさんのお住まいの千葉でも色々と災害が起こったとお聞きしましたが

ジローさんのお住まいはどうですか?


大変な中での、書き込みではないんですか?


 前の職場は、浦安の近くだったのですが、あの辺も液状化が起こっていそうでです。


カルマさん

地震から2〜3日は錯綜する情報で右往左往しました。

拙宅は千葉県内陸部の地盤が安定した場所なので被害という程ではありません。
但し私は不在だったので
在宅中だった妻と姪っ子がパニック状態だった話を聞くと相当な揺れを感じたみたいです。
二人は地震が少ない沖縄育ちですから
このような感覚は個人個人区々ですね。

また仰るように
浦安地区の液状化は酷いと話を聞きます。

職場のある
海浜幕張地区でも液状化はあちこちでありました。

それでも
何事も無かった雰囲気に戻りつつあります。

一番不安なのは
どの情報が正しいか?
疑心暗鬼で自覚を失ってしまうばかりで苦しいです。

ジローさん


そうですか、とりあえずご無事で何よりです

仲間の加藤登紀子さん宅もマザー牧場の近くの山の奥の方で何度か法要で行きましたが、千葉は海の側と内陸部ではまるで違いますもんね。



3月11日以来の日本の状況は本当に僕たちの心のあり方、行動の仕方、生活の姿、人生観について厳しく問い直すものですね
どうしてこんなに汚れてしまったのか・・・。

残念です。
>観自在菩薩は「一切の法(存在)は去ることも、来ることもない」とご覧になりつつ、しかも輪廻する衆生のために一心に励んでいらっしゃるのです。


あらゆるものは決して固体としての実体で私たちの前に立ち現れたり、私たちの前から姿を消したりするわけではなく、まったく本源的なたゆたう力の二次的・幻影的な二項対立のようにして私たちの心を煩わせているに過ぎないのだが、
その真理にしっかりと安らぎながらも観自在菩薩は幻影的二項対立の中にとらわれ心を煩わせている私たちを、この心の苦しみから救おうと日夜励んでいらっしゃる。

2011年3月の東北地方太平洋沖地震以来ですから、4年の歳月が流れたんですね。

菩提行とは関係無い日々を送っている一般の人々は、利他よりも自利に奔走する日常に埋没して愛の無い日々を送ってしまいがちです。

  これはどんな仕事に携わっていても言えるのですが、僕は建築の現場監督をやっているのですが、今は横浜の戸塚にある大学の増築工事と図書館の改修工事をやっているのですが、この横浜を管轄する横浜支店と数カ月前までいた東京支店とは丸で別世界の様に人間関係も仕事に対する皆のモチベーションも全然違うのです。

 別の人間だから雰囲気も環境も違うんだから、職場も違って当然だと思うでしょう。

  ところがその前の羽田空港国際線ターミナルと、東京駅八重洲口近くの現場は、人間は違うのに同じ様に「愛」があるんです。  現場の規模も全然違うのです。
なのに空気は東京支店の共通の愛があり、どんなに忙しくても、心を失わないのです。

  それに対し横浜の現場は、そんなに忙しくなくても人間関係はギスギスして愛と思いやりが無いのです。

  顕著なのは、自分の功績と評価ばかりを追い求め、思いやる心の余裕を維持しようという信念は無いのです。
  そういった意識の方向性を一人一人が意識するだけで全然違った環境を創るのです。   そう想うのが自分一人だけだったとしても、その愛は浸透し広がって思いやる心の空間は連鎖して拡大していきます。

  どんな時も思いやる気持ちを忘れずにいきましょうね。




>>[033]

人と人との和という全体への心づかいと、
自分の言動が人におよぼす苦楽への想像力は、
人間社会において本当に大切なものだと思います。
思考や心がしばしば自分だけの利害や喜びに閉じこもり、心の動きがそういう内部にだけ固着してしまうと、
たちまち他者に迷惑や損害や苦しみをもたらすようになってしまいますね。
>>[33]

願いが通じたのか、浅草の現場、つまり東京支店からお呼びが掛かりました。

大して有能ではない僕を呼んでくれる所長に感謝です。
能力が無い事は、解っているから120%の力で応えようと思っちゃいます。
そうやって信頼の関係性は強くなって行くのですね。
心の働かせ方や気持ちの込め方というのは形がないようでいて、それを明確に見ることのできる人たちにとっては明らかに確認できるものだから、
そうやって他者に読み取られたものは一つの絆、関係性、縁起となって、私たちの生活の確かな基盤となってゆきますね。
>>[36]

だから僕は愛が大事だと思っているんです。 思いやる心や忍耐の事です。
単純な選り好みや愛着の事ではありませんので悪しからず。(笑)
>>[37]
その土台はシーラ(戒)や寛容さ(布施)から自然に出てくる意識の拡がりだと思うのです。
>>[38]
これで本題の「菩薩の三七の徳目」の実践に戻れました(笑)

>>[037]

もちろん他者や人間社会全体あるいは生き物すべてやこの惑星と自然すべてへの愛、慈愛、慈悲などは、言葉は違えどすべての優れた宗教が智慧とともに強調するものですね。
智慧だけの強調なら優劣を競うことに堕してしまう。本当に深い智慧は、慈悲や愛情と結び付かない智慧の不完全さを克服し、豊かな愛情を実現するものですね。
ギャルセー・トクメー・サンポ作『三十七の菩薩の実践』

ナモー、ローケーシュヴァラーヤ
勝れた師にして救世者であられる観自在菩薩に三門をもって深く礼拝いたします。
観自在菩薩は、一切法が来ることもなく去ることもないと見届けながらも、輪廻する衆生のために一心に励まれる。
一時的な幸せと究極的な幸せの両方を生じさせる源としての諸仏は、正法を完成させることで仏陀となられた。実践すべき正法の内容を知り、かつ実際に修習されたからだ。
ここに菩薩の実践について述べることと致します。
1 余暇と歩き回れる両足をそなえた大船のように有り難い人間の生をうけた今生で、自分も他者もそろって輪廻の海から救われるように、昼夜を問わず怠けることなく、聞思修に励みます。
それが菩薩の実践である。

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