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アウグスティヌスコミュの「告白」における好奇心への否定的見解について

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好奇心に知的などとつけて、好意的、肯定的に評価する傾向がありますが

アウグスティヌスは好奇心に鼻先を引きずりまわされるというような表現を

して、好奇心に自分が乗っ取られることを警戒しています。

皆様はアウグスティヌスの考えをどうお考えでしょう。また

アウグスティヌスの好奇心についての研究論文などあったら教えて

頂けないでしょうか。

コメント(9)

はじめまして。
お断りしておきますが、私は研究者やまして学生ではなくて、20年ほど前に大学の哲学科に在学した際のゼミで『告白』が取り上げられていたのが切っ掛けで、日本語訳を1、2度とおして読んだ印象から述べます。
アウグスティヌスは一人の信者として信仰心を保つこと、それのみに集中したがっていますが、一方で好奇心を押さえきれない自分をどうすべきか、それを悩んでもいたのではないでしょうか。

これは、当時と現代の社会的状況の差異も加味した上で考察すべき問題だと思います。
個人の個性の発揮や知的好奇心の満足、そして学問的探求は現代では人間に許された知性的活動の聖域と見なさていますが、この当時は個性や意志を尊重する気配が現代に比べて低く、自分の意思や恣意に任せて何かを探求する事は社会のニーズにおいて、人間の大事と見なされていなかったと考えます。
これは、古代社会の状況とその当時の宗教の重さから考えられる事です。
それを踏まえて極言すれば、神への奉仕への前には観劇や友との対談や学問の探求と、女性や社会的成功そして酒池肉林の類への興味の間に差がなかったと考えられるのではないでしょうか。みんな"煩悩"だと、仏教用語でまとめると。
そして。アウグスティヌス自身はそういった社会や宗教のあり方について必ずしも従順ではない、言葉を変えればごく自然に周囲の状況を受け止めた上で不思議に思う事は「どうしてなのだろう」と素直に感じてしまう性質なのだと考えます。言ってしまえば、彼は「どちて」坊やなのでしょう。
そんな性格なのに、キリスト者として神には素直に信者でありたいと悩んだからこそ筆を起こして『告白』を描かざるを得ないのではないのかな、と。
そういった矛盾に自覚があるから、自戒の意味で警戒しているのでしょう。しかし、もし彼がこういった矛盾を内包せずに素直に信者であったとしたら、彼の信仰の深さの独特や彼の三位一体説は成立しないのではないかと。
神の前で煩悩に悶絶してきた自分を見つめ直す事で、"自分"の存在を確認し信仰の意義を新たにする、そんな構造が『告白』にはあるような気がします。
追伸:提示した問題については面白いと思いますが、もう少し自分の見解を煮詰めて提示してみると、問題の焦点が絞られて深くなると思います。余計なお節介でしたら、申し訳ありません。
ジュンソー さん

ありがとうございます。

まだ、御忠告もアウグスティヌスの言葉も咀嚼していませんが、

好奇心の問題性に関心をもったのは

告白の10巻35章中央公論p382にある「目の欲」に取りつかれていた

私は、アウグスティヌスの言葉で目からウロコが落ちたような経験をしたからです。

現在、中学生や高校生には食事の間もケータイを離せない子どもたちがいて、

問題になっていますが、我々大人でも程度の差はあれ同じようなことになっています。

しかし、そんな状態も好奇心に知的と着いただけで容認されているように思われます。

アウグスティヌスの系譜にいるパスカルも慰戯によって、

信仰から目をそらしてしまっていることを批判しています。

知的な好奇心の最たるものである科学からパスカルが信仰へと

身を転じたのも、没価値的な科学を批判的にみたからでしょう。

信仰とまではいいませんが、現代はさらに、情報の発達によって

絶えず大切なものから関心をそらされ、

別なものでごまかされている気がします。

それに気が付くにも、アウグスティヌスの好奇心についての批判を良く

理解したいと思います。ソクラテスのように壁に映った影を実在であると

思いなすことから反対に向き直るには、あまりにも影によって好奇心を

ひきつけられています。

啓示もダイモンの声も聞こえてこない私には

だから、回心の問題の手前にある好奇心の問題を

あるいは欲望の問題を

良く考えなければならないのかと思われます。




あるお爺さんに、分からなくても良いから、問題の周辺を歩き回るように

話し始めれば何か出てくると言われ、書き始めたのですが、

加藤先生の「アウグスティヌス『告白録』講義」のまさに、

10巻以降を読み残していたことを思い出しました。

好奇心については載っていないかもしれませんが、

その周辺の思索には触れることができるでしょう。

ジュンソー さんには改めてありがとうございます。

もう、このトピックについて提案者が納得して終了したならばそれまで。
ただし、お許し願えれば次の箇所も参考にご覧いただければと思います。

同書第12巻26章から28章にかけて、聖書を字義通りにとって反発したり悩んだりする者を、アウグスティヌスは拒否していません。文字通りに受け取って、そこに描かれている出来事を感覚的、擬人的な親近感で解釈しようとする人たちをその素朴ゆえに、多少の哀れみを感じながら受け入れています。
そして、P.475の注釈(2)をご覧ください。山田晶先生の解釈を踏まえれば、アウグスティヌスの好奇心への警戒感は、むしろ読みの甘さ、行間を読まない態度への慎重さ、詰まり文字通りに受け取って神意を問うような好奇心への慎重さではないでしょうか。
そして、第6巻第4章第6節p.194でアンブロシウスの「文字は殺し、霊は生かす」の聖書解釈に共感し、マニ教に飽き足らない自分が彼の聖書の読み方に共感を覚えて、次第にマニ教を離れてくあたりは、「目の欲」に惑わされていた自分を恥じている気持ちが露になっていると思います。
聖書を比喩的に寓意を読み取ることで、文言を文字通りの受け取ってその矛盾を検める姿の浅ましさを己に感じる事が、好奇心への戒めと解釈するのは自然ではないでしょうか。
第5巻14章p.184も参照してみてください、注釈も併せて。

アウグスティヌスにとっては、現代と違って信仰も学問もその全てが聖書1冊に掛かっており、それを検証する研究本もほぼ無かった時代です。現在のように参考文献も無い時代ですから、自分の眼力と読解力だけで聖書を解釈し、聖書の内容の真実の疑わずかつ矛盾を超えなくてはならない苦悩の中で、ちょっとした文言の矛盾を摑まえて教義の矛盾を見つけたような気になることの浅ましさを、過去の自身の姿を思い起こして自戒しているように見えてなりません。
彼あるいは当時の神学者にとっては、神を通しての自分やその周囲の関係を聖書1冊で説明しなくてはならないと言うか、すべては神と神への信仰で世間や周囲が成り立っている事が前提でしたから、現代人の感覚とは余程ことなっているでしょうから、好奇心そのものの否定より好奇心が探求となって神へ近づく道になるにはどうしたら良いかと悩んでいたのでしょうから、目先の描写の矛盾に引っかかって読みが深くならない事を「目の欲」としたのだと考えます。
以上、説明が重複しており蛇足に堕しているやも知れませんが。参考になれば。
ジュンソー さん

ありがとうございます。

アウグスティヌスが改心する前の自分と改心した後の自分を比べて

なぜ、自分は迷いの道に踏み込んでいたのかという

告白の前半の部分との大まかな対比で考えてしました。

細かく見ると6巻にも関連個所があることを御指摘されて

感心致しました。

もう一度、これから御指摘の箇所を読み直して見て、

さらに納得したいと思います。

明日の朝、仕事がありますので、今夜はお礼まで。
ジュンソー さん

読みの浅さを好奇心と解釈されておられることは分かりました。

ヘブライ語やギリシア語ではなく、翻訳された聖書の文字を

字義通りに解釈しているつもりになっている人々に対する

批判的な態度と共感的な憐みには大いに納得するところです。

しかし、

世俗的な野心のあったアウグスティヌスの好奇心と肉(性欲)へ

の思いが語られることとの関連から

聖書の字句への解釈の問題へ移られることについては

良く分かりませんでした。

マニ教は一種の精神主義的、禁欲的な所があって、

それが結婚を認め、世俗的なもの(肉)を容認する

カトリックにはない魅力として受け入れられていたとあります。

私の理解力が足りないからだと思います。


それから、聖書がすべてと書かれましたが、

懐疑論批判などをアウグスティヌスがしているのは

少なくとも知識人には聖書がすべてではなかったからであるように思われます。

アンブロシウスもフィロン経由の哲学的な解釈の方法をとっている

わけですから。そうとう聖書以外の教養をもっていたように思われます。

今回読んでみて、アウグスティヌスはアンブロシウスを

しぶしぶ受け入れているような印象を受けました。

師と尊敬はしているようですが、実は

嫌いだったのではないかと思いました。
ヨセフさんのコメントの前半、特に肉欲と好奇心の関係については別記したいと思います。後半の「聖書が全て」と言うのは、ちょっと書き方が悪かったと反省あせあせします。

唐突かもしれませんが、宗教も学問もこの世界や自分がどんな故事来歴を持って、どこに進むのかと言ったオリジナルストーリーを求めていくことは、通じていると考えています。それが、デカルトの辺りらいわゆる"科学"が誕生して、現代に至るまで様々な科学、あるいは学問に分化し深化しているのではないでしょうか。古代ローマでも、ギリシア哲学の思想が流れ込んでいたのは承知しています。なにしろ、アウグスティヌス自身がネオプラトニズムの洗礼を受けているのは山田先生の注釈にも有るとおりです。
ただ、この世界と自分の成り立ちを説明する聖書が存在が現代に比べて著しいとは考えたのです。現代は宗教を自分の拠りどころとする人は少ないように思うのは、逆に言えば古代に比べて現代は宗教以外の選択肢からでしょうか。
以上は時代背景としても考えた事ですが、アウグスティヌスのキリスト者の立場としても聖書は不可避であった訳で、それで筆を滑らせてしまいました。

さて。ヨセフさんのコメントに刺激されて私見を述べてみたくなりました。
アウグスティヌスは結局、聖書を素直に受け入れることについて最後までどこか割り切れないものをのこしていたのではないでしょうか。
当時の知識人として色んな知識を身に付けていたのは、知識の習得以前に感覚や感情の生理から反発を聖書に覚えた結果、納得の行くものを求めての態度でもあったのではないか、と。
反発が克服できずにマニ教に逸れていくものの、結局戻ってきてしまう訳ですが、信仰の面では否定しなくてはならないものの、マニ教に惹かれていた自分を否定しきれない気持ちも残ったりして。そこで、原理主義的な要素の強い宗教に引かれる自分をただし、不条理を越えて信仰を保つべく、知的であろうとなかろうと好奇心に引きずられる事を良しとしなかったのではないでしょうか。
アンブロシウスの影響と言うのも、相手への好悪の感情は分りませんが、聖書あるいはキリスト教を受け入れる、納得のための方法として採用したと考えると、案外に窮余の一策なのかも。
山田先生の註にもあったと思いますが、母から教わったキリスト教に泥臭さを感じる、その感情がぬぐえ切れなかったのでは、と勘ぐるのでした。
>>[7]

8年ぶりですが、また好奇心の問題に関心を向けています。
ふと、アウグスティヌスの影響を受けているパスカルのことを検索したら、こんな論文が見つかりました。https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellfk/23/0/23_3/_pdf/-char/en

アウグスティヌスそのままです。それからハイデガーもアウグスティヌスを元にして好奇心について一章を設けて書いていました。
8年ぶりのコメント、ありがとうございます。
8年たって、自分自身も仕事や環境の変化に流されて、すっかり忘れていました。
論文の紹介をありがたく頂戴します。時間を見つけて、読んでみます。

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