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剣聖伝 上泉伊勢守信綱コミュの【本編】無明の間(下の二)

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打ち込むと決めた瞬間、使太刀の脳内は光速に近いイメージが奔流する。

燕飛の技、六本。
師である移香斉から授けられし表太刀。
中国武術の円運動を基調にして、陰流の基本である。
猿廻・・・車の構えから右袈裟懸けに切り落とす。
だめだ、遅い。

山陰・・・左下段より脇の下を切り上げる。
違う。二の太刀が間に合わない。

月影・・・横雷刀の構えから、振り下ろしつつ歩を進め、相手の拳を切る。
いや、敵の位置が低すぎる。

浦波・・・八双の構えから、敵の背後を廻し切る。
踏み込みが足りぬ。

浮舟・・・上下に重心を移動しつつ、受け太刀ごと十文字に切り落とす。
これも遅い。

表太刀ではだめだ。
七太刀の天関ではどうだ。
いや、カウンターを取られる。
踞地獅子はどうか。
これは先の先で敗れる。
容髪もしかり。
小手切りは相手の思うつぼだ。
地軸はより低い位置から逆襲され、相打ちにもならぬ。
明月之風も、相手が低いと使えぬ。
燕鴈は踏み込みが甘いとやられる。

出し惜しみしている場合ではない。
三学円の太刀もこの非常時には無用だ。

ならば九箇の太刀、必勝でどうだ。
逆風、八重垣、村雲・・・
戦場では無敵の技の数々も、この、底知れぬ闇相手には歯が立たない。

秘剣、天狗抄。今まで敗れたことはない必殺の技が八本ある。
無形の位から、相手によって初めて姿をなす。
花車。霞の構えから無拍子に覆いかぶさるように切り突く。
あるいは明身。下段から青眼に移行する間に、距離感を覚えさせずにそのまま突きこむ。
やれるかもしれない。そう感じたということは、万にひとつは敗れるかもしれぬ。

最初からわかっておった。
奥義の太刀を使わざるを得ないことは。
無二剣。相手が執笛勢ならば、まずこれだ。いや、しかし、これは誘っている?
活人剣。くねり打ちが間に合わない可能性がある。
向上。突きの早さでは負けぬが、何やら罠っぽい。
極意。低さでは相手が上。折り敷くことができぬやもしれぬ。
神妙剣。相手が切り上げてくるなら、これに限る。
さて、どれを披露する?

これらはすべて、伊勢守が八双から振りかぶらずに歩を進め、勢源に突き込んだ、電光石火の一瞬に脳裏を巡った思考である。

現実の剣筋は、下から切り上げてくる勢源の小太刀を十文字に受け、そのまま切り落とした。傍らで固唾を呑んで見守っていた疋田には、それだけのこととしか見えなかった。

八箇必勝。
後に伊勢守が疋田に語った最終奥義、勢源を破った技の名である。

敵、いかなるところより打ちくるとも、われは唯一拍子にその拳に十文字と勝つことを言う。古来これをまろばしの勝ちとして伝えられている。八つということ、これは無数の意あることを示す。・・・・・

伊勢守第一の弟子とされる疋田豊五郎、ついにその境地に達しえなかった。
実際には、伊勢守より口伝で高低数名に伝えられたのではあるが、それを伝承する器が絶え、失伝してしまったものである。
もとより、伊勢守自身、勢源という稀代の名人があればこそ、伝書に記することすらかなわぬ究極の奥義を、まさにこのとき会得することができたのである。

小太刀を打ち落とされ、手の痺れを快く感じながら勢源は破顔した。
「おみごとでござる。それがしの無明の間を破ったのは貴殿が初めてでござる。」

そう声をかけられて、伊勢守は目を開いた。
目を閉じて剣を振るったことすら、今の今まで気づかなかった。

日本海の潮の匂いが感じられる。潮騒もかすかに聞き取れる。
冷たい風が心地よい。
目に映るすべての色が鮮やかだった。

「今宵、よろしければご一緒に酒でもいかがですかな? 勢源どの。」
豊五郎ははっと我に返り、夕餉の支度をせねばと立ち上がった。

早く西上野に戻り、殿を補佐せねばならぬ。武田はいつまでも悠長に待ってはくれぬ。
ただ、今宵は、剣の奥義をまたひとつ極めた余韻を、この盲目の友と共に祝いたかった。

「ガス海老と申す海の幸がござる。この地にしか獲れぬ珍味至極にござれば、ぜひ味わっていかれるがよかろう」
年下のはずの勢源は、好々爺然とした笑顔を向けた。厳しい修行が刻んだ顔のしわが好ましかった。

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