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だるまんの陰陽五行コミュのいろんなトピック

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「捨てるエネルギー」

私は昔は部屋の模様替えが大好きで、年に3回以上は本棚やベッドの向きをあっち向けたりこっち向けたりしていました。その時に変わる雰囲気の変化がとても新鮮で、何か精神的に行き詰まったりするとすぐにやっていました。せまい部屋なのに、よくあれだけしょっちゅう工夫をしていたと昔の自分に関心します。
しかし、考えてみると最近はまったくというほどやりません。気がつくと、脇机の上には本や書類がうずたかく積まれ、床にまで衣類や本が積んである始末。何か目的の本を捜したりするのは一苦労…という状態です。
なぜ、こんなになってしまったのだろう…と考えると、要は整理整頓や模様替えをするのが「めんどくさい」のです。言換えるとそれだけのことをやるエネルギーがないのです。そして、これは五行的には「金」気が不足しているのです。「きん」は「こん」とも読むのでまさに「こん」気つまり根気がないのです。「金」は排泄の力でもあるので、整理や掃除というのはものを捨てることにも等しいわけです。「捨てる」というのは力が居ることなのですね。
こんなことを考えつつテレビを見てたら「ゴミ屋敷」のことを特集していました。そしてゴミ屋敷の主たちはまさに、もうこれだけのゴミを処置するエネルギーがない状態なのですね。そして決まって言うのは「これはゴミではなくて財産」とのことです。つまりゴミと認めると捨てなきゃならないので、捨てなくても良い言い訳をするのです。

我々の生きている現実世界は五行では「土」です。そして「土」の特徴上、そのままで居るということは母親の保護のもとに居るようなものなので、居心地はいいのでなんとなく居ついてしまうのです。しかし気づくとブラックホールに飲まれるように、もはや力が抜けていってしまい、もはや抜け出す力を失ってしまうのです。これは「土」の二面性というやつで、現実の中に生きる我々にとって、もっとも気をつけるべき問題なのです。
ここから抜け出すには「水」の方向に向かうことです。「水」とは「土」のような保護はないのですが、私はこれができる、あなたはこれができる…というネットワークの世界です。互いが互いを生かすという持ちつ持たれつの世界です。こういうとなんか悪い意味のもたれ合いのようにも聞こえますが、互いを尊重する世界と捉えてもらえればよいでしょう。ですが「水」に行くにはどうしても「金」の洗礼が必要となります。それは何度も言っている「排泄」ということなのです。「土」で貯えたもののうち、なにが必要で何が必要でないかを弁別して何かを捨てていかねばならないということです。
これがなかなか難しいという局面をもっているわけです。これらのことは五行の「土剋水」という相剋ルートと、その中間にある「金」のことを指しています。(『だるまんの陰陽五行』8ページの図参照)

そんなわけで、ゴミ屋敷にならないためにはどうすれば良いでしょうか?まずは「土」を脱するエネルギーです。言換えると、「土」の呪縛を脱するエネルギーが必要です。これがないからできないのですが、実は「土」には特徴があります。コンスタントに一定のレベルを保っているわけではなく、かならず波を伴うのです。これは「土」のエネルギーの特徴です。たとえば「土」を意味するお腹ですが、これが痛い時には波がありますよね。あれです。したがって、「土」の呪縛には波があるので、日常の中にもかならず「気が向く時」というやつがあるはずなのです。日常のなにげない一時で、ふと「片づけてみようか」と思う時があるのです。まずはこの小タイムを利用しましょう。小タイムなのでたいしたことはできませんが、それだけでも少しはできます。一見気まぐれのようですが、実はこれは気まぐれではなく、ベストタイミングということなのです。こんな所にも、五行を知っておくとその特徴を生かすスベがあるものです。

私自身も、そのようにやっています。部屋の模様替えまでするエネルギーにはなかなか至りませんが…。

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ヒーリングスポットの不思議を探る

来る10月31日に以下の日程で講習会が行われます。

【演題】「ヒーリングスポットの不思議を探る by 陰陽五行 in 鎌倉」
【月日】  10月31日(日)
【場所】  藤沢産業センター
(JR東日本藤沢駅から徒歩5分位。)
http://www.cityfujisawa.ne.jp/center.html

【主宰】  IAOH Japan
ドイツの国際ヒーリング協会 IAOH日本支部NPO法人  
International Agency for Outstsnding Healears
【費用】  会員4000円
  非会員5000円(当日会員になれば4000円)
【内容】 
○あなたの五行タイプを知る陰陽五行の基礎
講師…堀内信隆(IAOH Japanエキスパートメンバー.『だるまんの陰陽五行』著者.陰陽五行研究家.歯科医師 )
○対談.五行とヒーリング
鶴見明世(IAOH Japan理事長.ドイツIAOH協会正式認定.ヒーラードルイド)と堀内信隆
○質疑応答

これは、発足したばかりのIAOH Japanの企画です。理事長の鶴見さんと共にヒーラーと五行の関係についてお話する予定です。
ヒーラーというと治療行為をする人の事を思いがちですが、ここでは、もっと広い意味で捉え、芸術家や料理家なども加え、その他もろもろの、癒しを与えると共に人間の魂と肉体の向上に帰依する人をヒーラーと考えています。

当日は参加者全員の五行のタイプを知っていただき、タイプごとの生活や性格に留意する事を理解していただきます。そしてその特性を生かしたヒーリーングや考え方について考えていきたいと思います。

また、このことを土台にした上で、
11月21日(日)
には実際に鎌倉を歩いて五行の気をつかむ実習も企画しています。

IAOHではヒーラーはもちろん、ヒーリングに興味のある方、五行のタイプを知りたい方など、多くの参加者を募集しているそうです。

お申し込み、確認など以下のサイトを是非ご覧ください。
http://www.iaoh.jp/
田代まさし再逮捕

私はけっこうお笑い好きで、志村けんのくどいギャグが好きでした。田代まさしといえば「志村けんの大丈夫だあ〜」の印象が強いのですが、ボケもよし、ツッコミもよしで、志村とのなかなかの名コンビだったのを覚えています。その田代が数年前に逮捕されてから数年、これで何度目の逮捕なのでしょうか?何が彼をここまで墜落させてしまったのでしょうか?
今回の再逮捕劇を聞いて、私はまたあるエピソードを思い起こしました。

それはまだ一度も逮捕されていないころ、田代まさしの絶頂期の頃だったでしょうか?あるトーク番組での田代一家のディズニーランドのエピソードです。田代まさしは椅子から立ち上がって力説したのです。
「せっかく家族で楽しんでいるのによー、オレたちを見つけるとみんな写真を撮るんだよ。しまいにはサインまで求められてよー。なんで撮るんだよぉ!って怒ったんだよ。」
まあ、よくあることでしょう。プライベートを邪魔されるくやしさはわかりますが、これは力説することじゃありません。コメディアンという仕事上、これはついてまわることでしょう。しかも人気の証です。だからといって、バチバチ写真撮るほうも問題ありますが、撮られる側が肖像権を主張するのは、どうも問題だと思います。
そもそも、権利うんぬんというのは主張するためのものではなく、譲り合うためのツールであるという事が五行的にはわかります。
権利というのはエゴの問題なので五行では「土」から「水」という所に関わります。
社会の中にどっぷり浸かって自分の権利を主張するのは「土」的態度と言えますが、自分に出来ることと出来ないことを理解して相手のもっているもの(才能や仕事)を明確にするのが「水」的態度と言えます。その結果、自分のやることが明確になるのでそれが自分の権利となります。つまり権利は主張するものではなく与えられるものなのです。いまや、「土」から「水」への時代であるので、自ら権利を主張するのはもはや、遅れた態度と言えるのです。

もう少し具体的に言いましょう。
先のエピソードの場合、一般の方々は芸能人が家族で遊んでいるところを目撃したら、「あ、他人を意識せずにゆっくり遊びたい時もあるだろう」と見てみぬふりをするのが相手の権利を認めることだし、芸能人の方は「みなさんと一緒に楽しみましょう」というのが相手を認める態度となるでしょう。
こんなこと、夢みたいな話で、ありえない!
と思ったでしょうか?ありえないと思っているのはまだ「土」的態度です。ひとりひとりが変わると世界は変わります。そしてそういう方向にいまや向きつつあるのです。
まずひとりひとりがそれを認識していきましょう。上記のことが一般化するとすばらしい世界になるとは思いませんか?どんな所にもこういう姿勢が生きてくれば、すばらしい世界になります。夢物語だとあきらめずにひとりひとりがやっていきたいものだとおもいます。

芸能人というのはただでさえ、好奇の目にさらされるものです。しかしそれだけにものすごい発言権を持っているのです。だからまず彼らがそのお手本を見せる必要があるのであって、それをテレビで「写真とってんじゃねーよ!」なんて言うのは最悪でしょう。コメディアンとしては優れていても、その人間性の低さが今の田代まさしの姿を招いたのだと思います。

ちなみに、「土」と「水」の間にあるのは「金」。芸能人や政治家、テレビに出ている人たちは「金」と言えます。だから「金」というのはものすごく今現在、力をもっているのです。お金も「金」ですが、このことも含めて、今は「金」のありかたが、大切になってきているのです。
尖閣諸島問題

今、問題になっている中国との緊張問題をもとにして五行的に考えてみましょう。

日本が中国の船長を釈放したことで解決かと思いきや、さらにすごいことになってますね。これは各国メディアが伝えるように果たして弱腰外交なのでしょうか?これは国際間の問題なので、私のような門外漢にはとても語れる問題ではありません。
そこで、個人間の問題として、おきかえて考えてみましょう。なんらかの解決策が浮かぶかもしれません。あるいは、国際間の問題なので全く参考にならないかもしれません。しかし、私たちにとっては日常の人間間の問題の方が切実なので、決して無駄なことではないでしょう。

こんなシチュエーションはどうでしょう。
小学生が隣の子の机にまで教科書などをひろげてしまって、ココから先はオレの領分だからな!とケンカすることはよくありますが(今の小学生はひとりづつの机なのでこんなことも少なくなってますが…)、これに置き換えてみましょう。はっきりいってどこから先が相手の領分なのか分からない問題です。あとは感情的なもつれが問題なのです。それに対して親が出てきたとしましょう。オタクの息子がうちの子の領分を犯している!という具合に。
さて、こんな時あなたならどうするでしょう?相手がやたら感情的になってきて、学校だけの問題におさまらず、訴えるとまで言ってきたらどうしますか?
まあ、一般的には、相手は普通じゃないと判断しますよね。自分は悪くないと思えても、とりあえずはあやまっておいて、まるくおさめようとするのが大人の態度ではないでしょうか?
しかし、もっと話はややこしくなったとします。

あやまったらお前は自分が悪いと認めたのだから、わび金をよこせと言ってきたとします。さてここまで来たらどうしますか?
車の接触事故などではよくある話ですね。人間として相手に迷惑をかけたかもしれない状況にあれば、たとえ非は自分にないと思えても、すみませんね。大丈夫ですか?と尋ねるのが大人の態度でしょう。
なのに、それを逆手にとってくるということは、すでに相手は違う土俵に居る人物であると気づく必要があります。

これを五行で言うならば、その相手とは、異常なほどのプライドや権威固執の傾向があるということで「土」的な人間と言えます。そしてもしあなたが、上述のように非がなくとも相手にとりあえずあやまれる人間ならば、個という存在は相手と支え合って生きていることを知っている「水」的な人間と言えるのです。

私は前から現在は「土」と「水」の時代のはざまであると説明してきました。
五行でいう「土」の時代とはメンツとか権威とか集合的な意識の中に埋もれている状態で安心している状況です。従って、人間で言えばまだ成人する前の学生時代で、親の庇護のもとに先生や世間の言うことを聞いていればいいという状態を指します。逆にいえば、まだ未熟なので周囲に育てられて居る状況です。そして「水」の時代とは、今までの庇護のもとから出て自分の責任のもとに才能や個性を生かして世間に貢献していく時期です。人間で言えば専門課程に進む大学に入り、何か独自の職につく時代を指します。

したがって、もしあなたが人間として「水」の状態であって、相手が「土」の状態ならば、ここは相手を育て導くという立場に立つしか方法はありません。くやしいかもしれませんが、いちおうこの場では相手に屈するのが必要ということになります。大人が屈するしかないのです。そして相手が成長するのを待つしかないのです。
一部の人には腰抜けにみえるでしょう。しかし、そういう態度をとれる人がいないと世界は破滅します。そういう人がだんだんと人々を感化して世界は変わっていくのです。
事実、世界は「水」の時代へと移行しつつあります。「土」的な態度を取る人々はやがて分離していくことになります。これは歴史上確かなことです。時代の向きに一致している人間が未来を作っていくのです。

何度も言いますが、国際問題となるとこうは簡単ではないでしょう。世界が変わる前にこちらがつぶされてしまう可能性だってあるでしょう。しかし、どこかで本当の人間としての有りかたを信じていなければ迷い人になってしまいます。苦しいけれど、とりあえず屈するという態度を選んだ日本はいまのところ、正しいと言えるのではないでしょうか?なんせ政治のことなので、裏には知らない交渉が存在しているかもしれないのですが。
偶然の一致

三年前からスポーツジムに通って、週に一回は汗を流すようにしていたのですが、ここのところ、いろいろと忙しくて通えなくなってきました。一時期は週に二回は行っていたのですが、週に一回もままならなくなり、お金ももったいないので、ついに退会する決心をしました。温泉もついていたので、よかったのですが。
そして今日、退会の手続きをするために行こうとしたのですが、なんとなく気になったので電話してみました。そしてびっくり!
「当○○は、9月末をもちまして営業しました。長らくの御愛顧、ありがとうございました」との留守電の声。

はじめは冗談かと思いましたが、そんなわけもなく、つぶれたのだと知りました。
ここのところ、掃除も行き届いていないように見えることもあり、なんとなくアヤシイ気配はあったのですが、まさかこんなことになるとは!
それにしてもやめようと思った時につぶれてしまっていたとはまったく偶然の一致とはおそろしいものです。

こういう偶然の一致をユング心理学では「共時性」といいます。神秘学では「共時性」を伝えてくれる主が居ると考えます。そしてその主というのは私を越えた私、つまりハイアーセルフというわけです。
ハイアーセルフというと、ピンとこない人も多いし、「私を越えた私」だというと、「何それ?」という答えがかえってくることも多いのですが。いうならば「内なる神」です。私たちが自分の意志で心臓をとめることができないように、ハイアーセルフは私たちの内側で生きているのです。

本当はハイアーセルフというのはもっと神近き存在なので、こんなつまらないことにまでちょっかいは出さないのですが、なんとなく虫が知らせるとか、ふと気になるなんて時にはハイアーセルフが伝えている事もあるのではないでしょうか?
そして五行でハイアーセルフを象徴するのは「火」という要素です。正確にはハイアーセルフも大きい存在なので、その代表が「火」ですが、火に象徴される体温という熱がふだん私たちの認識しないところで私たちを維持してくれているように、ハイアーセルフはいつも見守っているというわけです。

だからといって、今日は何を食べようかとか、どのクジが当りだとか、つまらないことには口出ししないのが普通です。
大切なのは、私たちがハイアーセルフを意識することが多くなればなるほど、ハイアーセルフからの意志というかメッセージが伝わりやすくなるようです。
人生にとって大切な岐路とか、日常の健康や出会いなど、実はいつもハイアーセルフには注目することが大切です。
自分という存在は「私」だけではなく、奥に本体が居るのだという認識が大切なのです。

本日はこんなアウトラインですが、今後、もう少し掘り下げてお話していきます。
歯の不思議な話 1

今回から何回かに別けて「歯の不思議な話」をお送りします。
これは「陰陽五行」に合わせて歯と教育の話を書いたものです。ご期待ください。

【歯って何?歯から人生を考える その1】
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私は前から歯と葉は似ていると思っている。別にシャ レを言っているわけではなくて、言葉から形、そして意味まで似ていると思うのだ。それについて述べてみたい。
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歯の構造

歯の構造を眺めてみると、何層かに分れていて、いちばん奥には神経と呼ばれる部分がある。実はこの神経、本当は神経だけではなくて血管やらなにやら歯にはそぐわない柔らかい有機質がいっぱい詰まっている「歯髄」という部分なのだ。そしてその周囲には象牙質という層があるのだが、この中には象牙細管という小さな管があって、この中へと歯髄は枝を延ばしている。この形をよーく眺めてみると、まるで木の幹と枝の関係であることに気づく。そう、歯髄が幹で象牙細管が枝である。
一方、本物の木を眺めてみると歯の一枚一枚にまでこの「幹」と「枝」の関係があることに気づく。葉脈の形はまさにこのものズバリとなる。こういう風に、大きなものから小さなものまで一定の基準に整った形をもつものを「フラクタル」と言い、木でも海岸線でも、雷でも、そして細胞から宇宙までフラクタルにできているのだ。
注目したいのは、ひとつの形にはひとつの意味があるという西洋神秘主義の考えた方だ。「同種療法」という治療法があって、似ているものは似ているものに効くノという治療法だが、これも同じである。
たとえば、クマザサという草があるが、この繁殖がガン細胞の繁殖の仕方に似ていることから、ある種のガンに薬効があるというのだ。
私が言いたいのは、木や葉に似ている「歯の意味合い」とは何かということだ。
木は土に根を貼り、大地を潤したり、枯らしたりする。人体での歯が木に相当するなら、大地とは人体そのもの、もっと言うならば胃腸などの消化器官である。歯によって食物はとらえられ、大地である消化器官がそれを受け取るノ。木と大地のもちつもたれつの関係が歯と消化器官にも見て取れるのだ。

東洋医学の基本概念である「陰陽五行説」では人体の消化器官を「土」(ど)というグループ名でとらえている。まさに「土」(つち)なのである。一方の歯は「木」(もく)だったり「水」(すい)だったり、その局面によっていろいろなとらえ方をすることになる。
注目したいのは、「木」と「土」の関係とは陰と陽が結びつく初めの一歩という事だ。これがどういう事なのかは、また次回に譲るが、陰陽の結びつきという、この世界の原初の意味合いが歯に隠されているという事をじっくりと味わってほしい。
ただ、食べる為のものではなく、人間存在としての大きな役割がここに隠されているのだノと言うならば、ちょっと大げさに聞こえるであろうか?




歯の不思議な話 2

前回からの続きで「歯の不思議な話」をお送りします。
これは「陰陽五行」に合わせて歯と教育の話を書いたものです。ご期待ください。

【龍と蛇】
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 なんだかSMとかヤクザ映画のタイトルみたいになってしまったが、ここはその手のサイトではないのであしからず。れっきとした真面目な話をしたい。
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「木」(もく)というシンボル

棒状のものが陽であるという話を前回した。そしてそれがそびえ立つのは陰なる大地。
棒と地の接点こそが陰陽の交わりであり、相対世界という我々の世界の始まりとなる。
そして歯はその棒状の陽のシンボルのひとつとして時には扱われる。未開地の原住民が歯をネックレスにして首に飾るのも一種のお守りとして扱われている証であろう。
お守りといえば、神社で売っているのが日本では正当なお守りであるが、神社でお祀りしている神々のことを一人、二人とは言わないで一柱、二柱と呼ぶのはご存知だろうか?
なぜか神の数は「柱」で数えるのである。柱すなわち棒状のものであり、陽の象徴なのである。
こういう棒状のものを前回紹介した「陰陽五行説」では「木」(もく)というグループ名で扱う。棒状であるということは長いということでもあり、たとえば背の高い人などは、背丈に注目すれば「木」のタイプという事になる。おもしろいことに風も「長いもの」として「木」にあてがう。実際に目に見えるものではないのだが、フーッと吹いていくそのイメージは長さを感じるゆえであろう。電気も同じく目に写るものではないが、イメージとしては長さを感じるので「木」に配当されることが多い。電気と言えば、歯の痛みはまるで電気が走るような神経の痛みなので、神経も「木」となる。ここで再び歯を舞台にして「木」がバッティングした。
だから私のような歯科医が歯を扱う時は、相手が「木」(もく)であることに注意しなくてはならない。
陰陽五行説にはまるでジャンケンのような勝ち負けの関係があって、「木」は「金」(きん)に弱く、「土」(ど)に強いことになっている。「金」というのは金属一般も指すので、歯を削るビーンと音のするあれに「木」たる歯が弱いのもうなづける。

さて、今回のタイトルである龍とか蛇というのも長いという点に注目すると「木」そのものである。古風に表現すると竜(たつ)と巳(み)である。方位の表現に辰巳(たつみ)というのがあるが(「巽」とも書く)、これは東南を指し、やはり「木」のグループに入る。
龍とか蛇は日本では神のお使いとして扱われることが多いのも、おもしろい。ここで、思い出していただきたい。棒状の長い柱とは、天という本当の陽の代用としての(人間にとってわかりやすい代理としての)陽であった。だからこそ、龍とか蛇は神の「お使い」となるのである。お使いであるということは、時には道を誤ることもある。そんなとき、武力をもって正さねばならないこともある。武力すなわち刀は「金」である。「木」は「金」に弱い。だから神話のヤマタノオロチという龍は須佐之男命(すさのおのみこと)の刀でずたずたに切られてしまう。
歯も同じことで、神のお使いとして扱うのは大切なのだが、時にはムシバやその他の理由で削らねばならないこともある。歯を削らねばならない時はこの話を思い出して欲しい。

ところで、前述の神話のつづきだ。須佐之男命は、ずたずたに切られたヤマタノオロチの尻尾のあたりにカチンとあたるものがあることに気づく。見ると刀だ。須佐之男命はこれを叢雲の剣(むらくものつるぎ)と呼び、大切に収めることになる。
このあたりから、「木」と「金」の関係について、もう少し話をすすめてみたい。
歯の不思議な話 3

続けて「歯の不思議な話」をお送りします。
これは「陰陽五行」に合わせて歯と教育の話を書いたものです。ご期待ください。

【象徴とは何か】
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ここらで「象徴」という言葉の意味合いについて再確認しておきたい。ただの知識としてではなく、どうか知恵へと成長させていただきたい。
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最後の一葉
O.ヘンリーの「最後の一葉」の話は誰でも知っていると思う。画家の窓に描いた一枚の葉が病窓に横たわる少女の生きる力となった物語である。簡単に言うと、この葉のように、一見無関係なパワーを引き出せるものが象徴なのである。単に何か複雑な事象をシンボル化したものが象徴と考えてしまうと、大切な所を見失ってしまう。単にシンボル化した図像は「象徴」とは言えない。その象徴に触れることで自分の内側に何かが生まれるものを象徴と言うのだ。
しかし、この「象徴」、誰がチンしても同じ味のものができあがるというような類いのものでない所がややこしい。見る人が見ないと本領が生きてこないのが象徴である。先の例で言うならば、窓に描いた葉の絵など、関係ない人にはただの落書きである。

しかし、相手がどこの誰であろうと、その気になって心の奥底からその象徴に向かい合った時に、同じ効果を引き出せるものもあるノらしい。これは私も「らしい」と一歩ひいた表現をしておくしかない。ことがあまりにも物質界を離れ過ぎてしまうので、確かめようがないからだ。たとえば、荒れ果てた地に咲く一輪の純白の花を見て、嫌悪感を抱く人はいないに等しいノはずだ。

前から述べている五行も実はこの類いの象徴にあたる。
このところ、しきりに登場する「木」(もく)という象徴だが、陰陽五行の中ではただひとつだけの「生き物」である。残りは「火」、「土」、「金」、「水」とすべて生き物ではない。それだけに「木」の意味するところは生命に満ちあふれた存在だ。季節に当てはめると、生き物が萌え出てくる春、方位では太陽が登る東、色では若さを表す青ノ、とすべて発展的なイメージが占めている。
それに反して「金」(きん)は鉱物を示す言葉だが、死すべきイメージに当たる。季節では秋、太陽が沈む西、すべてが御破算になっていくところから何もない色である「白」も「金」に当てはまる。
だが、ここで注意してほしいのは「木」は生命にあふれるから良くて、「金」は死すべきイメージにあるから良くないノと単純に善し悪しで見て欲しくないのだ。視点を変えてみると、「木」は拡張していくイメージ、「金」は収斂していくイメージなのである。エネルギーが拡張していくときは姿が消えていくが、収斂していくときは塊に近づいてくる。「金」が秋であるのは、植物が春から夏へと蓄えた力を実に収斂していく時であるからでもある。春の後には必ず秋がきて、秋のあとには必ず春が来るのだからどちらが良いとか悪いとかの話ではない。

歯の場合も若者の歯は「木」気(「木」のエネルギー)が強く、歯の中の歯髄は大きくて活発である。老人の歯は「金」気が強く、歯髄は周辺から硬化して硬くなり、その柔らかい部分はやせ細ったような状態になる。「木」の中には「金」が生じ、「金」の中には「木」が生じるのである。
形態の点から見ると、硬い歯は「金」だが、真ん中の柔らかい歯髄は血管に富んだ「木」である。秋に収穫される果実の実は柔らかい「木」だが種は硬い「金」である。
「木」と「金」は東と西の関係のようにからみあってバランスをとっていくのである。

前回、「木」たる龍の尾から「金」たる剣が出てくる神話の話をしたが、ここにも「木」と「金」のからみあう象徴が見て取れるはずである。
さて、ということは、この神話はこの象徴を通じて何を言いたいのだろうか?「木」気の勢いすぎて盛んなるところ、「金」気が生じるという事なのである。
しかしここでは理屈以上のものを感じてほしい。この神話を通じて、理屈以上のものが私たちの心の内に生じる。それは何か?

結論を急ぐのはやめよう。もうすこし似たものを追って象徴を味わってみよう。(つづく)
歯の不思議な話 4  

続けて「歯の不思議な話」をお送りします。
これは「陰陽五行」に合わせて歯と教育の話を書いたものです。ご期待ください。

【血液と血球】
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生命力を運ぶ血液の中に存在する凝縮した血球を見て欲しい。ここにも「木」と「金」の関係がある。「木」と「金」のイメージは「生」と「死」という双子の姉妹にも通じるところがある。
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「生」と「死」
私たちはいつも一面でしかものを見ていない。たとえば歯が痛くなれば、ムシバになったのではないか、早く治さねばいけないのではないかノと考える。確かにムシバは治さねば、もっと痛い思いをするかもしれない。しかし故障したら部品交換をすれば良いというような人間機械の発想で生きていると、象徴のような無形のパワーの満ちてくる余裕などまるでない。事実、「象徴のような無形のパワー」という言葉がなんのことやらピンと来ない方も多いだろう。それほどまでに我々は機械的な唯物論に毒されている。
ムシバの背景には、歯髄が痛みを訴えるまでになった体力のバランスの乱れが存在するし、体力のバランスの背景には食生活も含めた日常生活の乱れがあるだろう。そしてそのまた背後にはストレスなどの精神的要素もからんでくる。
現代人はストレスといえば何となく理解できるのだが、私がここで一番話しておきたいのは、最前から述べている 「象徴のような無形のパワー」 を失ったために枯れてやせ細ってしまっている精神力なのである。
歯には「木」の要素も「金」の要素もあるといった。この事を理解すれば、歯には生き生きと活力を広げていくような若者的な力と、力を収斂させて硬くなりつつも長年の経験を生かして知恵者として丸くなっていくような老人的な力を持ち合わせていることがわかると思う。このような説明をまるで絵本を見ているような幼稚なものとして捉えてしまうと、無形のパワーを感じとることができない。自分自身が幼児のようになって、生き生きとしたイメージで捉えたとき、無形のパワーが広がってくるのが分かるはずだ。
そして、単に痛むような歯であっても、実はあのドリルで即、削らねばならない状況とは限らずに、自らの力で克服できることもあるという事を理解してほしい。

「木」と「金」の象徴のバランスはあるゆる所に存在している。「木」の拡散と「金」の収斂のイメージは一人の人間にとっても生と死のバランスと言える。人体の細胞はいつも片方で新生し、片方で死滅を繰り返している。7年も経つと、もう昔の細胞などほとんどいないのである。両者のバランスで我々はこうして生きている。こんな事を知らなくても生きていけるのだが、知っていると我々の内側に力づよいものが生じてくる。これが象徴の力だ。
そして血液の中でも生命力と死滅力がいつも存在している。赤血球が酸素を運ぶということ事態がすでに死滅のタイムカプセルを運んでいることにほかならない。酸化とは物質の崩壊の道だからだ。しかし酸素の与えるパワーがあまりにも大きいので、我々は呼吸によって酸素を必要とする生物となった。しかしこの大きな力を得るかわりに、同時に死滅のタイムカプセルを受ける道を選んだのだとも言える。

だからこうしていろいろと見回してみると、我々の周囲にはなんと、生と死のサイクルを繰り返しているものが多いことかわかるはずだ。太陽の登り沈みだって、海の満ち引きだってそうだ。
生をうれしいもの、死を悲しいものノと単純に捉えないで、大いなる命のうねりの一サイクルであると感じ取れたとき、自分の内に何か暖かい力が甦ったのを感じたであろうか?これが象徴の力なのである。
こういう観点で日々を過ごしていくと、たかが歯の痛みでも、それを受け入れて成長していく自分がほほえましく感じてくるノはずだ。
なかなか急にそこまでいかないにしても。
歯の不思議な話 5  

続けて「歯の不思議な話」をお送りします。
これは「陰陽五行」に合わせて歯と教育の話を書いたものです。ご期待ください。

【食事は恥ずかしい?】
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ある時、子供に聞かれたことがある。「なぜウンチするのは恥ずかしいのに、食べるのは恥ずかしくないの?」たしかに入れると出すの違いで、この差は何だろう?
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「土」(ど)という象徴
陰陽というペアは相手がそのつど変わるという事は前に述べた。そして五行説においては、今まで「木」と「金」というペア(相対関係)について述べてきた。
ここで、ちょっとペアの相方を変えてみよう。「木」(もく)と「土」(ど)の関係である。「木」の象徴するものは若さであり、進んでいくもの、広がっていくものであると言った。「金」(きん)は退き、収斂していくものであると言った。それに対して本日登場した「土」というのは「留めるもの」である。しかし留めるというのは「変わらない」という事ではない。留まるゆえに変質していくのだ。
たとえば、方位では「木」は一日の始まりで 太陽の登る 東だった。「金」は一日の終りで太陽の沈む西だった。それに対して「土」は真ん中である。色で言うならば、「木」は波長の短い青、「金」は波長の長い赤、そして「土」は可視光線の真ん中の波長を持つ黄色である。我々にとっても、真ん中とは天でも地下でもない。今立っている土そのものという事だ。しかし土は植物の種を育てる。ただ留まっているのみではない。そして腐らせもする。言うなれば子を育てもするし、過保護でダメにもしかねない「母」という存在も五行的には「土」なのである。

さて、人間の臓器で言えば、「木」は肝(臓)、胆(嚢)、「土」は胃と脾(臓)である。このふたつのペアの関係がまたおもしろい。
食べ過ぎで胃の負担が増えて機能がストップしかけると肝は頑張ってアクセル踏みっ放し状態になる。つまり、食物を「下げる」働きをする胃がダウンするので食べものが上がってしまうのだ。これが「嘔吐」である。嘔吐は肝のアクセル状態でおきる。飲みすぎで肝に負担がかかったときに吐き気がくることからもわかると思う。
同じことが、歯の「木」の働きの部分にも関わる。食べ過ぎは歯の神経を過敏にして、軽度のムシバでも痛みが出る。また唾液に過敏に反応してムシバになりやすくなる。味の象徴では「土」は甘味であるが、甘味が歯の大敵であることはご存知だろう。

しかしここで終わってほしくない。もう一歩、深みに入ってみよう。
吐き気を催すノとはどういう事だろうか?醜悪なものに触れたときに示す言葉である。これを単なる比喩として見過ごすと象徴は生きてこない。つまり、「木」気が過剰になるということは、人間の醜悪な部分に過剰に反応するという事でもあるのだ。

よく事件の被害者を「罪も無いのに」とたとえるが、事件うんぬんは抜きにしても、本当は罪のない人などいない。人は誰もが自らのうちに醜悪なものを抱えている。ふだんそれに気づかぬふりをしているだけだ。もし、誰かがあなたのこの部分をぶちまけたりしたら、あなたはきっと怒るにちがいない。「怒り」も「木」気である。これほどまでに「木」気というのは我々のそっとかくしておきたい部分に触れる力をもっているのだ。

そこで「歯」だが、歯の咀嚼するという作業は「木」気であるとたびたび言っている。では咀嚼とは本当は恥ずかしいことなのだろうかノという事になる。
だがここで「恥ずかしい」ということを「隠すべきこと」と思われるととんでもない勘違いになるから注意してほしい。恥ずべき事とは隠すことではない。それは自覚することによって恥でも醜悪でもなくなるのだ。つまり、「咀嚼を無意識に行わないでほしい」というメッセージになるのだ。
ためしに咀嚼を意識的にやってみてほしい。たぶん何の味もなくなって、食事の楽しみは半減してしまうだろう。しかし、絶対に食べ過ぎもしなくなる。
難しい問題である。かくいう私だって、食べる時は会話したり、テレビ見ながらだったり、マンガや新聞読みながらだったり、ちっとも咀嚼を意識していない。この状態で食事をすっかり楽しんでしまっている。しかし陰陽五行や神秘学の知恵は「咀嚼を意識的に行え!」と言っているのだ。
ま、せいぜい心がけてみましょう。
歯の不思議な話6

続けて「歯の不思議な話」をお送りします。
これは「陰陽五行」に合わせて歯と教育の話を書いたものです。ご期待ください。

【ガス抜きと「木」】
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満員電車でトイレに行きたくなったとき、あなたはどうします?少しずつオナラで出してなんとかその場を切り抜ける手もあるのですが。へんな話で恐縮!
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醜悪なものを認める
人間はなんでも自分の意志をもって行い生活しているように思っているが、人間の理性の及ぶ範囲なんてほんの氷山の一角に過ぎない。たとえば、心臓を止めようと思っても決して止めることはできない。消化の為の胃や腸の蠕動運動をやめようと思っても無理である。ある範囲から先は何者かによって制御がかかっているのだ。この何者かの正体は不明だが、いろいろな名で呼ばれ続けている。宇宙の意志とか、自然の力とか、神とかである。そうはわかっているくせに我々の、なんでも「自分の持っている尺度」の中で推し量ろうとしてしまうくせはなかなか治らないのだ。
そのくせの最たるものが、前回述べた「自らの内の醜悪なもの」への態度である。見たくないものなら捨ててしまえばいいのだが、捨てるということは、それが「今ここにある」ことを認めることになってしまう。なければ捨てることはできないからだ。だがこの醜悪なるものに対してはその存在を認めることすらいやなのだから始末が悪い。そこで何食わぬ顔して奥深くにしまいこんで忘れるようにつとめる。しかし、奥深くにしまえばしまうほど、なんか気になってしかたがない。なかば忘れかけて、なかば意識してしまうというややこしい状態になるのだ。

醜悪なものにアンテナを向けるのが五行では「木」気だと言った。
「木」の臓器での代表は肝(臓)だ。肝の役割は数々あれど、「解毒」を考えてみよう。解毒とは体にとっての毒を無害化することだが、これは毒つまり悪を取り扱う事に注目してほしい。ここに象徴の妙味があることに気づかれただろうか?肝の働きは「木」の働きそのものなのである。おまけに「なかば忘れかけてなかば意識してしまう」という所までがそれ自身痛みを訴えることのない肝の存在感にぴったりはまる。

それでは「木」のかかえた問題をどうやれば解決がつくのかというと、一番いい方法はガス抜きである。自らに内には必ず醜悪なものが存在していることを認めた上で、発散する方法である。生活の上で言えば、祭りやコンサート、さまざまな参加型イベントである。
強烈な音楽、踊り(ちなみにこのどちらも「木」の象徴に配当される)は人間を陶酔させて、内にためた醜悪なものを発散させてしまう。だからついでにイベントの最中は無礼講になるとなお効果的であることはご存知のとおりだ。

かの哲学者ニーチェはギリシア神話からアポロンとディオニソスというふたりの神を例にとって、理性と非理性の代表とした。そしてディオニソス的な陶酔がギリシアの人々にとって大切なガス抜きになっていたことを指摘している。ちなみにディオニソスとは酒の神バッカスでもある。このディオニソスが日本神話では須佐之男命や猿田彦命に似てくるのだが、これはまた別の時に述べよう。

さてここでまた歯の話になるのだが、
歯の中の歯髄(神経)が痛むときに、歯医者は「神経を取りましょう」と言うのだが、これは実は神経を取っているというよりは、歯髄という歯の中の密閉された部屋に窓を空けてガス抜きをしているのである。するとみるみるうちに内圧が抜けて痛みは弱まる。しかし歯髄の壁に穴を開けると当然神経に触れるので痛いから、「神経を取りましょう」と言っているのである。
こんなところにも歯の持つ「木」的な意味合いが出てくるのである。
ポリスの消えた日

私の済んでいる横浜では先日までAPECがあった関係で、ものものしい警戒ぶりでした。APECの始まる3ヶ月位前からどんどんと強まってきていました。私は毎朝まだ真っ暗な早朝に山下公園やみなとみらいの方面まで散歩するのですが、なんどもおまわりさんにぶちあたります。3ヶ月前にはたまに程度だったのですが、APEC直前には5分に一回はぶちあたりました。それほどすごかったのです。
ギロッとにらむおまわりさんもいれば「おはようございます」と声をかけてくるおまわりさんもいます。静かな早朝に考え事をしながら歩くのが好きな私にとって、彼らの存在は邪魔以外のなにものでもなかったですが、3ヶ月も続くと、さすがに慣れてきまして、はじめのうちはおまわりさんが居るというだけで警戒していたのに、居ることが安心につながるような変な感覚になってきました。

そして現在、APECが終わった今では、もうおまわりさんはいません。そして私はというと、昔の静寂に戻れてほっとしているかというと、そうでもないのです。なんだか寂しい気持ちすらしているのです。おまわりさんが必ず立っていた場所にいないのを見るとせつなく感じてしまうのです。不思議なものですね。しかし、これこれこそが今回のお話のテーマです。

この一連の出来事を五行で見ると「土」です。おまわりさんは法を犯すものを捉える立場にあります。つまりルールを強要する立場なので、ルールという枠を維持する役割をもっています。枠といえば「土」です。土が花壇や鉢で括られることで水分や栄養を平等に植物の種に与えていくことと同じです。このばあい、種にあたるのが我々一般市民です。おまわりさんが居るということはそれだけ安心ということなのです。しかし枠を強要されるという規制は苦痛でもあるのです。私ははじめにこの苦痛を感じ、しまいには安心の境地に至ったわけですね。

しかし生命は生長の為には一定の場に止まることはできません。水が留まってしまうと腐ってしまうのと同じです。五行的には「土」の次には「金」を経て「水」に至ることになります。
だからいつかは「土」を脱せねばならないのです。しかし「土」というのは五行でも四方の中心にあたるポジションであり、不思議な引力を持っているのです。そこから脱するものをひきとめるような力があります。
私はせっかくおまわりさんの圧迫から逃れられる、つまり「土」から脱する立場になったのも関わらず、もとの「土」が懐かしいわけです。「土」というのはこのように、捉えたものを逃がさないような引力をもっているのです。
同じことが、親のもとから脱することができないニートなどにも見られます。しかしここが「土」の危険性でもあるのです。ひとつの安定感の中に安住することで、個性とか自我の尊厳といったものをおきざりにしてしまうのです。

さきごろ、『アリス.イン.ワンダーランド』という映画がありました。この中でワンダーランドの住人たちが、アリスが大人になってしまって昔の輝きを失い、人間社会の常識感の中にひたってしまっていることを嘆くという場面がありました。
「土」とはこういう力をもっているのです。おおげさに言うと自覚をもたない奴隷のような人格を作ってしまうのです。
歯の不思議な話  7

続けて「歯の不思議な話」をお送りします。
これは「陰陽五行」に合わせて歯と教育の話を書いたものです。ご期待ください。

【ルドルフ.シュタイナーの教育論と医療理論 】

Rudolf Steiner(1861ム1925)はドイツの哲学者、教育思想家。心理学、医学などを学び、ワイマールでゲーテを研究した後、自然科学的思考法と精神的直観の統合を追究し、1902年以来「人智学」Anthroposophieを唱えた人である。
しかし何よりも卓越しているのが、そのオカルト的な思想である。オカルトと言うとオカルト映画の影響でいかがわしいものを連想しがちであるが、実際のところ、東洋哲学と西洋神秘主義をごくごく真面目に体系化した内容なのである。

今私は東洋哲学と言ったが、彼自身も自分の仕事は東洋にあるものと同じであると言っている。東洋哲学と言うと、たびたび述べてきている陰陽理論がまず中心にあって、このバランスをとることが中心理念である。そして、シュタイナーの提唱する「人智学」も陰陽という対極を結びつける方法について述べたものなのである。人智学のAnthroposophieとはアントロポス(人)とソフィア(結びつける)という言葉の合成語なのである。そしてシュタイナーのもともと在籍していたのが神智学協会と言って、マダム.ブラバツキーというロシア人がアジアとくにインドの秘教を中心に提唱していたものなのである。それだけに東洋に源があるのも当然とも言える。

シュタイナーの思想をひとことで言うと、まさに陰陽を結びつける融合した生き方をしましょうということになるのだが、この世が唯物的に傾いているだけに、バランス上その内容は霊的なものが眼につくことになる。だから、言い換えると霊的な視点を呼び戻してニュートラルな生き方を提唱しているのである。

なかでも私が非常におもしろいと思うのは、シュタイナーの教育理論(シュタイナー教育と言われる)であり、これがまた東洋医学の考え方に似ているのである。そして事実、シュタイナー自身が「教育と医療は同じものである」とも言っているのだ。
これは何も「患者さんに医学知識を教育するのが医療にとって大切である」という意味ではなく、医療とは教育のように、人間の成長(肉体的にも霊的にも)を促すものであるというのである。
以下、それについて述べていこう。
新刊案内

今年も押し迫ってまいりました。もう来年の事を言っても鬼は笑わないと思うので、ちょっとお知らせを致します。
『だるまんの陰陽五行』の新刊が出ます。春頃です。

『だるまんの陰陽五行.「土」の章』です。

今回はナンバーの上では第二巻ということですが、「木」の章、「火」の章、東洋医学の章に続く四冊目の配本となります。
内容的には五行の「土」(ど)という要素が中心になってきます。

五行に基づく精神的な進化の図式では「木」に続く二段階目ということになります。人間の成長期に当てはめると、「木」で大志を抱いた後に、現実という壁にぶつかる時期、もしくは現実社会の中でしっかりと育まれていく時期に相当します。しかしその反面、常識的世界観にどっぷり浸かってしまい、自らの才能や考え方が潰されていく時期にも相当します。
こういったことを背景にして、母との関係、お金の問題といった現実的な問題から、魂の方向性を問うカルマの問題、そして一段上の「土」とも言える「地母神」との関係といった内容が描かれています。そして私たち自身の本源とも言える高次の自我(ハイアーセルフ)との出会いと、それに与えられる真の許し(これをセルフ.ハグという。真実の自分にすべてをゆだねることで真の癒しが生じるということ)という所にまで内容は及びます。

今、時代は空前の不景気の中にあり、社会の中で自らの方向性を見失いがちな人々であふれています。そしてその背後にはお金の問題という根本的なテーマがひそんでいます。こういった時代的な有り方にもマッチした内容であると思います。

まだ春頃の予定ですので、まだ少し間がありますが、どうぞお楽しみにお待ちください。それまでに既刊の三冊で予習などしておいていだけるとなお理解しやすいと思います。
今回は内容の目次を発表しておきたいと思います。第31話から第65話までが「土」の章の内容です。

31.  二面性の世界
32. すべてはつながっている
33. 知識の責任
34. 影に気づく
35. 霧のるつぼ
36. 偉大なる母
37. 「土」の象徴するもの
38. 考えるとは関連を見いだすこと
39. だるまんの正体
40. 鏡の前後
41. お金について 1
42. お金について 2
43. お金について 3
44. お金について 4
45. カルマについて 1
46. カルマについて 2
47. カルマについて 3
48. 偽だるまん現る!
49. エーテルの反乱
50. インスピレーションはどこから来るか?
51. ジェニーの悩み
52. 月と「金」
53. マイナスゴールドの恐怖
54. 新しき旅路
55. 死にゆく神
56. イナンナ女神の冥界下り
57. 「卑」なる称号
58. 黒い聖母の系譜
59. 神とヒト
60. 助っ人の登場
61. 聖なる婚姻
62. 墜ちて登る
63. 欲張りの報酬
64. 「水」の門前にて
65. 自分に抱かれる
食べ過ぎ飲みすぎに御用心!

そろそろ忘年会シーズンです。私も今や真っ最中で、連続で飲みすぎたりすると、さすがにこたえてしまいます。こんなとき、強い味方の漢方薬があります。今回はその御紹介とまいりましょう。
『だるまんの陰陽五行.東洋医学の章』(第六巻)でも個紹介しましたが、その薬とは「 五苓散」(ごれいさん)(ツムラのものだと17番)と「黄連解毒湯」(おうれんげどくとう)(ツムラのものだと15番)です。
まず「 五苓散」(ごれいさん)ですが、これは水の代謝をよくする薬です。お酒は本来、他の食物などが小腸で吸収されるのに対して胃で吸収されます。飲みすぎますと、胃が熱をもってくるので胃のもつ分解機能が落ちてしまうのです。そして水もまた胃でいくぶんかは吸収されるのですが、飲みすぎると水の吸収機能も落ちてしまうのです。そこで 五苓散です。これは水の吸収機能を高めてくれます。こうすることで胃熱の状態を防いでくれるというわけです。
五行ではアルコールを分解する肝臓は「木」、胃は「土」です。そして「木」と「土」の関係は「木剋土」で、常に「木」が「土」に勝ちやすいのです。つまり肝臓は胃を困らせるところまでオーバーヒートしてしまうというわけです。だから五苓散が役立つのです。

そしてもうひとつの「黄連解毒湯」(おうれんげどくとう)ですが、こちらは主として食べ過ぎによる胃の満員御礼状態の解消に役立ちます。小腸の吸収が間に合わずに胃が満員御礼になってくるとやはり胃熱という状態になってしまいます。これはエレベーターが満員の状態を思い出してくれるとよくわかります。満員になると暑くなってきますね。これが胃熱というわけです。
しかし体の熱は陽気と言って、毛穴を通じて外側に出て行くことで私たちは体温を保つのです。この場合のように内側にこもってしまうと逆転現象が起きるのです。なにが逆転するのかというと、熱の逆である冷却水が迷惑するのです。水分などは代謝作用として内側を守る役目を持ちます。それが、熱が外に出てくれないので水が外側に行くしかなくなってくるのです。ちょうど、旦那さんが外に働きに出ないので、奥さんが代わりにバートで出るようなものです。外側に出た水分はむくみなどの原因になるのですが、食べ過ぎの場合は胃で吸収されない水分もあるので、胃のあたりがぽちゃぽちゃになってくるのです。こうなると熱と水の大騒動というへんてこな状況になり、みぞおちがつかえる感じになってくるのです。黄連解毒湯はこれをすっきりと解消してくれます。肝臓の解毒分解も助けてくれます。

両方とも薬屋さんで売っていますので、簡単に買える薬です。しかし、これらはあくまでもある程度、健康状態の人の場合です。はげしい冷えがあったり、便秘がひどい場合には適さない場合もあります。まあ、そんな場合はそもそも食べ過ぎ飲みすぎそのものを控えるべきということになりますね。持病のある方も、お医者さんに相談してからにしましょう。
私の場合は宴会に行く前に五苓散、帰ってきて寝る前には黄連解毒湯、という具合に使っています。これで二日酔いもなくスッキリ!です。

しかし、過ぎたるは及ばざるがごとし。あくまでもほどほどと言うことで。
歯の不思議な話  8

続けて「歯の不思議な話」をお送りします。
これは「陰陽五行」に合わせて歯と教育の話を書いたものです。ご期待ください。

【四つの体】 

まずシュタイナーの話の必須アイテムについて触れねばならない。シュタイナーは人間存在をふだん目に見えてる肉体を含めて四つの体に分けている。

1)肉体
物質体である。自然界のうち、鉱物界の物質体を人間は共有している。体内に存在するナトリウムとかカルシウムなどの鉱物を考えれば一目瞭然である。

2)エーテル体
生命体とも言われる。肉体にエネルギーを与えている。東洋医学のいう「気」にもっとも近い。主として感覚や記憶を司る。自然界のうち、植物、動物にもエーテル体がある。なかでも植物とのエーテル界の共有が重要とされる。それじゃなくても人間は植物に依存している。人体に必要な鉱物であるミネラル分は植物から摂取されるし、酸素を作るのは主として植物界である。おもしろいのは、植物は人間といわば陰陽の関係にあるという指摘だ。酸素を吸って二酸化炭素を出す人間に対して、植物は二酸化炭素を吸って酸素を出す。また、性器を下半身に持って隠している人間に対して、植物は性器を上に出してこれ見よがしに飾るノなどである。だから人間存在は陰陽のバランスをとるために植物が欠かせないのである。
また、物質はほっておけば腐ってしまうのに人間が腐らないのはエーテル体があるためである。従って、眠っている時にもエーテル体は肉体と共にある。死後、始めて肉体からはがれ落ちることになる。

3)アストラル体
アストラルとは星のことであり、アストラルつまり星の宇宙世界とつながっている微細な体である。主として感情や想念を司る。現在の人間ではアストラル体はわずかにしか発達しておらず、ほとんど理解されずにいる。しかしそれゆえにシュタイナー教育ではアストラル体を中心とした感情教育を柱にしている。自然界では動物界にもアストラル体は存在しているとされる。
また、睡眠中はアストラル体と次に述べる自我が肉体から離れ、アストラル界以上で充電してくると言う。ここでアストラル体が充電していないと、エーテル体がいわばガサガサになって疲労してくる。エーテル体の疲労は生命力の減退なので、肉体的にも精神的にも落ち込むことになる。

4)自我
肉体、エーテル体、アストラル体を指揮しているのが自我であるが、実は人間の自我は我々が思っているほどチンケなものではない。「私」と私が呼んでいる自我なんて、自我のほんの一部にすぎない。私と呼べるレベルを越えた所の本質的な自我をユングは自己と呼んでいるし、インド哲学ではアートマン、さらに上をブラフマンと呼んでいる。この両者の一体化を仏教では「梵我一如」と言っている。
シュタイナーは、「自我」ははるかなる外的宇宙と内なる内的宇宙の接点にあり、その両者に腕を伸ばせる存在であると言っている。こうして精神と肉体という陰陽世界の他に、自我という中心軸を挟む外界と内界の陰陽関係についても示唆しているのだ。そしてこの内界と外界の一致と把握が現人間存在の究極の目標であり、人間にとっての本当の自由に至ると言っている。

以上のことをふまえた上でシュタイナー教育について陰陽五行説とのからみで述べていこう。
十字架と五行

いよいよクリスマスです。
子供の自分はプレゼントをもらえるからとウキウキし、青春時代は恋人とロマンチックなクリスマスを送ろうとウキウキしたものです。しかし不思議に思ったことはありませんか?
なぜイエス.キリストの誕生日なのに私たちがプレゼントを送りあうのかって。イエスは万人に愛を送ったから、そのなごりだよと教わりましたが、なんだか納得いきにくいですね。

実はクリスマスというのはイエスの誕生日ではなく、西洋でのイエス以前の原始宗教のなごりであるという説があります。
ミトラ教の記念日をそのまま移行したとか、太陽崇拝のなごりをそのまま受け継いでいるとか、いろいろ言われています。確かなことはわかりませんが、イエスに関わるさまざまな謎とともに、後の時代に作られたものである可能性はあるようです。

さて、本日クリスマスとの関連でお話しておきたいのは十字架の話です。子供の時の疑問としてイエスの誕生日になぜ私たちが贈り物をしあうのか…という事とともにわからなかったのが、なぜ残酷な死に方をしたイエスの処刑道具である十字架をそのま拝むのかという事です。
私は幼稚園はカトリックでしたので、教会に掲げられたイエスのゴルゴタの丘に連れて行かれ処刑される一連の絵がとても恐怖でした。もしギロチンにかけられたのならギロチンを拝むのか?などとバカなことを考えたりしたものです。

しかし、五行を使って検討してみると意外なことがわかります。
五行はお馴染み星形マークの前に十字形マークのものがあるという事を以前にもブログでもお話しました。五行の元型は陰陽という相対関係であり、空間の相対には上下と左右という二重の関係性があることがわかります。これで陰陽という2の関係が4になるのです。この4とは左右と上下の交差する線で表すので十字架です。
そしてここには交差の中心点があります。これを含めて5にしたものを五行というのです。

そこで中心に注目しましょう。中心は五行でも「土」という要素に当てはまります。中心なのでいわば大黒柱です。そしてこれはそのまま母なる地球を表すのです。
キリスト教も仏教もない紀元前の世界での人々の崇拝はほとんど女神を祀っていました。その女神とは地母神であり、さらにはその娘であったり夫であったりしたのです。そして地母神の来たるところはというと、あくまで中心より来るということでクロスをその象徴としたのです。それが十字架にあたります。
つまり、キリスト教の象徴である十字架とは、それ以前の信仰である地母神への崇拝の形式をそのまま持ってきているということになります。

おもしろいことに、これは西洋に限りません。日本でも出産の後の胎盤は異界との接点の名残なので、それを四つ辻に埋めたといいます。四つ辻つまり十字架は異界との接点であり、異界の主である地母神への捧げ物であったのです。

こうしてみると、十字架上のイエスの姿とは地母神への捧げ物…とも受け取れます。しかしイエスは復活します。地母神への捧げ物とは、かならず復活する仕組みになっているのです。先に述べた胎盤は異界に入って次に来るもののエネルギーにかわるのです。胎盤から取れるプラセンタは成長を促進させる万能物質とも言われています。だからまんざら迷信でかたづけられるものでもないとおわかりでしょう。

だからクリスマスにはイエス様はもちろん、地母神への感謝の気持ちも持つのがスジなのでしょうね。そう思えば、プレゼントの事もよくわかります。親が愛する子に与えるプレゼント…、その代わりに私たちはお祝いをするのですから。
明けまして…

明けましておめでとうございます。駄文をいつもお読み頂きありがとうございます。
「明けまして…」というのは聞きなれた挨拶ですが、やはり日本人はコレですね。
アメリカではハッピーニューイヤーですから、明けるという表現を使うところがさすが日本!という感じがしませんか?

そもそも明ける…って何が明けるんでしょう?明けるといえば「夜が明ける」という言葉が一番先に思いつきますが、まさに新年というのは新しい年が朝のように始まるのだという感覚があるのだと気づきます。
そういえば、新年を新春といいますよね。1月はまだまだ冬で春のイメージにはほど遠いですが旧暦では現在の2月が新年だったので、まあそこそこ春に近かったということがわかります。
しかし2月はまだ寒いので春を感じるにはもう一ヶ月欲しいところです。
しかしです。ここでなぜまだ冬である2月の頃を春と呼んだのかを考えてみる必要があります。
春というのはあくまで、始まりなのです。日本では春を境に学校や会社など、新たな区切りが始まります。だから「始まり=春」である必要があったのです。五行で言うならこれは「木」です。「木」は春にして朝、大いなるスタートを表すのです。
そこにもってきて、今年は卯年。十二支の卯も「木」です。卯というのはウサギということになっていますが、もともとは雑草が生い茂る状態を示します。卯の文字はトビラが開く所を示す象形文字だと言います。
つまりトビラが開きはじめて向こうには雑草が生えるような季節がやってきたということなのです。
ここにまた「明けまして」が「開けまして」とつながっていることに気づくのです。

いずれにせよ、新年、初春です。一年の始まりです。しっかりと歩んでいきたいものです。
明けの明星

前回にひきつづき「明け」の話です。
明けの明星とは何か御存知の方も多いと思います。金星のことです。
私は毎日、まだ暗いうちに散歩したり自転車にのったりするのが好きなのですが(変な趣味かもしれませんが…。あの解放感がいいのです。運動にもなるし)、まだ暗い東の空にひときわ明るく輝く星があります。それが金星です。明けの明星とはうまいこと言ったものです。

実はこの星には魔力があるという話があります。あの輝き方を実際にみると確かに魔力を連想するのは無理もないことだと思います。しかしただの連想だけではありません。現に、かつて空海は修業の結果、夜明けに輝く金星が口の中に入り込み、求聞持法を獲得したといいます。
西洋では金星にたとえられるのはルックスフォルスという天使です。あまりにも美しいためにオゴリ高ぶって神に反抗して地に落されたといわれます。この別名がルシファーといい、いまや天使というより悪魔の代名詞になってしまっています。

しかし、ここで五行との関連から考えるととても興味深いことがわかります。ルシファーはあえて落ちたのでは?という可能性です。というのも、「金」というのは五行の五つのエレメントの中でもいちばん物質的に近い要素となります。つまりルシファーは物質に近い所(人間界)に役目上おもむいたということです。
たとえば水蒸気が冷えると水になり、さらに冷えると氷になります。温度が下がるというのは人体でもわかるように生命力が落されていく過程です。つまり落ちるほどに硬い、形の明確な、物質化が起きてくるのです。
そして「金」は季節では秋に相当し、秋とは植物は一年の成果を実に結集させる時です。つまり固まって形を作るのです。そして熟すと、ぽとんと落ちるのです。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て引力を発見したという有名な話がありますが、実は落ちるということでここにも「金」の要素の特徴が出ています。また、人体での「金」は肺と大腸です。大腸とはウンチを作るところで、ウンチもぽとんと落ちますね。さらに言うならば、お産というのもぽとんと落ちるような出産ほど母体は苦しまないので安産とされます。犬はとても安産だというので昔は犬印の腹帯をしたといいます。この犬も「金」の象徴です。ついでに猫も「金」です。

ルシファーは落されたのではなく、役目上落ちたというのが「金」という要素から連想されることです。暗やみに燦然と輝く金星がルシファーであるというのも、こう考えるとうなづけられます。

さらに「金」という事を詳しくみると、物質に近い、形が明確ということから、ものごとを明確に分けるという性格が出てきます。
五行の歴史上の分類から言うと、今のタイミングでは「土」から「水」で、その間の「金」が明瞭になってきているタイミングであるということは、このプログでもたびたびお話しています。新年が明けてそうそうですが、ますますこの「分ける」という要素が今年も強まってくるはずです。
分けるという点で絞ってみると、いい人と悪い人に分れてくるということもいえると思います。類は友を呼ぶの法則で、悪い人は自然と悪い人のサークルに入っていくという流れが見えてくるはずです。私たちの日常の身の回りの人でも、芸能人や政治家でもどういう人間関係の中に居るかを見ることが、その人を知る鍵となるでしょう。もちろん自分もそうです。身の回りの人をよく見てください。どういう人と縁が生じて、どういう人と疎遠になったかが、自分を知るひとつの手がかりになってくると思います。
元祖トイレの神様

私はもうここ何年も年末の紅白は見てませんが、「トイレの神様」をやったらしいですね。この歌は気に入っていて、何度も聞いていますが、何度聞いても泣けてきます。ドラマ化もしましたね。これも見ませんでしたが。ヒットしたからといってすぐにドラマ化したりするのがいかにもチープで、もとの価値を下げてしまうような気がするのは私だけでしょうか?

ところで、今回の本題はそのことではなく、 元祖トイレの神様がいらっしゃるのはご存知でしょうか…という話です。
名前を「金勝要(きんかつかね)の神」と言います。やはり女神さまなのですが、女性五人(正確には神様のことは柱で数えるので五柱)組みユニットの名前なのです。
そしてその正体は、お金の神様なのです。歌では、トイレを綺麗にするとべっぴんさんになるとおばあちゃんが教えてくれたとありますが、トイレを綺麗にしてお金持ちになろう!という趣旨があるのがその根本です。
金と名が付くくらいだからお金の神様だろということはなんとなくわかりますね。

しかし、実はもっと根本の意味があるのです。それがわかると、べっぴんさんになるとかお金持ちになるとかいうのは後付けであることがよくわかります。
それは金勝要の神とは「坤(こん)」神であるということです。「こん」と読むから金と書いたということもうなづけます。
そしてこの坤神とは極陰の神であるということです(ちなみに極陽は「乾」で表現する)。
男女で言うと男女の陰陽配当からもわかるようにやはり女性です。しかも年齢から言うと「お母さん」です。

陰というのは冷たく暗いというイメージがありますよね。だから水も極陰のひとつです。水がすべての生命を生みだすように母という存在も生みだす力の持ち主です。したがって坤神とはすべてを生みだす母なる地球であるということなのです。

しかしそれらがどうしてトイレにつながってきたのでしょうか?坤とは陰ですが五行では「土」に象徴されます。土も生命を生みだす母そのものですよね。そして土の栄養は生物の排泄物です。排泄物中の窒素を加工して栄養に変えていく力を持つのです。つまり捨てられたものが新たな力に生まれ変わるのです。
ここに、単に生みだすものとしての象徴から再生させるものの象徴して認識されてくるのがわかると思います。

こういった存在を「地母神」と言います。現にキリスト教や仏教以前、古代日本やヨーロッパのケルト人のアニミズムでは地母神を祀っています。いまでも世界各国には民間信仰として性器をかたどったものを信仰するフェリシズムにこのなごりが残っています。
なぜ性器のことが地母神につながってくるのかはまた別の機会にお話しましょう。

トイレの神様とは母なる地球そのものだったのです。
ミームの世界1

ミーム(meme)という言葉を御存知でしょうか?リチャード.ドーキンス博士によって提唱された言葉で、人間は遺伝子の道具にすぎないという考え方です。その遺伝子というのは常に複製して子孫を増やすという目的によって動くので、結果として常に利己的で長命安定の遺伝子が優位に立つという考え方です。従ってこの世は利己的で他者を押しのけてまで長生きしようとする人々であふれていくという結論になります。ここには人間としての道徳観とか形而上的な意味での愛などの発想はみじんもなく、殺伐とした現実世界を説明する形になっています。

博士による『利己的な遺伝子』という本が出たのは今から30年も前で、出版当時は一般市民からは悪魔の所業だと非難もかなり受けたそうです。しかしミームという言葉は今では完全に市民権を得て、それこそ「ミーム」となって我々の観念の中で増殖している所です。

博士の思想は、いまのように悪人が謳歌する現実の中では「確かに最もだ」と納得してしまうところがあります。たとえば、銀行は預金をおろすにもいちいち本人確認をうるさくいうようになっていますが、これはインチキや詐欺師が増えているからそれを防ぐためにやっているのですよね。言い換えると、善人より悪人のほうに基準をおいているのです。人は悪人かもしれないというミームがその発想の基準にあります。たとえ、銀行の窓口のおねえさんがよく知っているお客さんであっても、おねえさんの判断は一枚のかみきれにおとるのです。学校では名簿を配らない学校が増えているといいます。これも、名簿を悪用する人が多いという悪人基準にあるからこそやっているわけで、善人よりも悪人が世間の基準になっているからです。だから現在という世界は悪人が世界を駆逐するという常識のもとになりたっているとも言えるのです。これは他人=悪人というミームがほぼ浸透しているとも言えるのでしょう。
こうしてみるとお金持ちこそ勝ち組であるというような常識観からたわいのない流行語まで、私たちの観念の中で自己増殖している利己的な遺伝子がすべてを支配しているとも考えられるのです。

さてこれを五行で検討してみましょう。ミームという考え方は、世間的な考え方が「強力な想念の殻」となり人々はその殻に捕らわれて行動していく…という言い方に置き換えることができます。これは『だるまんの陰陽五行.「木」の章』でも述べた「想念殻」というものに近いでしょう。従って「木」です。そしてそれは「土」で現実となるので事実、世界は殺伐としていくわけです。
しかしここに「木」から「土」というルートには、ふたつの道があることを五行では説明します。
ひとつは相生ルートです。これは「木」、「火」、「土」という道で、木は燃えて土となるという、ほっといても経過するような自然な道のりといえます。前述の例で言うならば想念殻はそのまま火のような勢いをもって地に足がつくようにまん延するという意味です。
かたや相剋ルートという道のりがあります。これは「木」から「土」という流れで、木は根を張ることで土の場所を奪う、従って「木」は「土」に勝つ…と表現されます。 前述の例で言うなら
、想念殻は現実的なものを越えて繁殖していくということです。たとえば集団パニックのように現実にはないうわさから大暴動がおきるようなものです。確かにこういうこともありますが、これはまれなことでもあります。なぜならば相剋ルートは単なる勝ち負けを言うのみでなく、相生ルートのような自然に流れる道を努力によって変えていくことを意味しているからです。今述べた「木」が「土」に勝つというのは、「木」は「土」に勝ってしまうという事を言っているのではなく、「木」は「土」に勝ちやすいので、ある力を応用することで「木」の力を「土」に譲りましょう…ということを意味しているのです。だからこそ、図式で書く時には矢印の尖端は「土」にむかせて書くのです。つまりトロフィーは敗者である「土」に向いているのです。
そのある力とは「木」と「土」の間にある「火」です。相剋ルートでは二者の間に立つ要素は仲介として働きます。だから「木」が「土」に勝ちやすいのだけど「火」の仲介で事態は変わることを意味します。この関係性で見ていくと、ミームのような殺伐とした世界観は別のものになります。   つづく

ミームの世界2

結局、博士の言うミームの世界と、陰陽五行の世界の違いは陰陽という相対的世界観がベースにあるかどうかの違いなのです。私たちの世界は一つの原則で動いているのではなく、陰陽という相対的な世界の中を振り子のように振れながら進んでいくのがおおもとの姿であると陰陽五行は言うのです。上述の例では、現実世界の裏には、「火」の仲介という一見したことろでは見えてこない触媒が働いていると考えるのです。そう考えるかどうかでたとえ同じ現実でも世界観が変わってきます。世界観が変わってくると、ミームのような伝染した思想の虜になる可能性も減ってくるということになります。

さて「火」とは何なのかと言うと、火ですから愛などの熱や、焦がすほどの熱を意味します。前述の例で言うならば、他人=悪というミームに対して、違うかもしれないという反対の熱(意識)を維持することです。現実がそうであっても、どこかにその意識を持つことがその人を変えることになります。

NH./黄金比率の長方形を正方形で切ると、また黄金比率の長方形ができる。正方形は一般常識で長方形はそれに対するアンチテーゼ、つまり前述の例なら触媒である。この点をプロットしていくとらせん形を描くことになる。これが相剋ルートの軌跡と言える。つまりらせん的に発展していくことを示している。触媒とはある意味、アンチテーゼと言ったほうが良いのかも。
節分

いよいよ節分です。先週、みなさまがたは体調が不調の方が多かったのではないでしょうか?あるいは精神的にどんよりとして何かと停滞していた方も多いと思います。節分というのは旧暦の大みそかから新年への動きなので一番大きな「節」になるのです。節というのはつなぎ目ですから邪気が侵入する所でもあるし、邪気が停滞する所でもあるのです。

たとえば身体で言えばいちばん邪気が侵入しているのは胃です。それはそうですね。食物という異物をそのまま受け入れているのですから。呼吸器である肺も異物の混入した空気を取入れるのでやはり邪気をうけますが、それは胃の比ではありません。そして五行で言うと胃は「土」になります。「土」というのは十時型で描く時の五行の中心になるので、陰陽という両方の要素を含み持つ所になります。ということからも、邪気が多いということは理解できると思います。

また、関節というのも邪気がとても停滞する所です。異る骨と骨が接触するところなので、気がこもるのです。電車で言うと連結部です。連結部にずーっと立っていると気持ちが悪くなる体験をした方もあると思います。異るものどおしの接触というのは陰陽の接点とも言えます。そしてこういったものを古来より日本では「節」と表現するのです。つまりは節は邪気の停滞する所なのです。

だから節分が苦しいタイミングであるということはよくわかると思います。暦ではこういったタイミングを「土用」と言います。五行の「土」に当たるので土用と言うのです。土用は季節の継ぎ目なので実は一年に四回在るのですが、なかでもハードな土用は節分という冬の土用とウナギで有名な夏の土用です。寒暖という大きな二種の接合するタイミングだからハードなのです。

では邪気を溜めないためにはどうするかですが、これも五行で考えるとよくわかります。
「土」は「木」に負けやすい関係…というのがあります(「木剋土」といいます)。つまり、土用の時期ではちょっとしたことでも「木」が「土」に勝ってしまうのです。「土」は邪気の影響でそれだけ微妙な状態にあるということです。従って、「木」を調整するのが一番の近道となります。
「木」の調整というのは、「木」とは何かを考えてみればわかります。「木」とは伸び上がるエネルギーを指すので、人間で言えば思いが勝手に暴れまくるということです。あれこれと不安感が増して食欲を落し、気が上に上がり足が冷えてフラフラにさせてしまうのです。
部屋の暖房では暖気が上に上がりやすいように、人体でも気が上にあがってしまうので足が冷えるのです。
つまりは足湯などで足を暖かくし、いろいろと不安が出てきたらお腹などをあたため、それは思いの暴発であるということをキモに命じることです。実はキモというのも肝臓なのでやはり「木」なのです。
また、少量のお酒でリラックスをはかるというのも「木」の暴発を防ぐ方法です。お酒と言えば肝臓ですが、これは「木」の薬になるということですね。しかし、量を越すとまっさきにやられるのが肝臓であることも御周知のとおりなのです。
「土」の終焉

ここのところ、「土」的な世界観の終焉をにおわせる事件があついでいます。
「土」的な世界観とは五行の時代分類ですが、実際は明治時代から「土」の次の時代にシフトしています。しかし時代というのは数学的にぴったりと区切れるものではないので、実際には2050年まで「土」的な影響が次第にうすれていく形でシフトします。だから時代的な意味で完全に「土」が切れるのはまだまだ先のことなのですが。
「土」的な世界観とは権威やプライド、お金など、ある意味その人本人の人間性とは別のところで与えられているレッテルに左右する世界観です。たとえば江戸時代ならば職人の子は職人、貴族の子は貴族、武士の子は武士ですが、江戸末期から新選組が農民出身であっても武士になるなど、いままでの規則が崩れ始めています。同様に現代、お金のもつ意味、政権とはなにか、神事とは何か…といった、ある意味私たちの常識と化した世間のレッテルがどんどん崩れているのがわかります。

たとえば民主党ですが、前にも言ったとおり自民党の万年与党を崩すためだけに必要だった政党なので、やはり早くも死に体を呈しています。次の選挙では確実に政権を失うでしょう。では自民党がまた返り咲くのかというとそれはわかりませんが、仮に勝ったとしてもまたすぐに零落するのは目に見えています。
これからは今回の名古屋の選挙でもわかるように、人間性がはっきりと見えてくるところでの評価が重要になってくるはずです。もはや政党は意味を成しません。

日本ではなかなかクーデターはありませんがエジプトのムバラクに見られるような政権にしがみつく者、既得権を失いたくない者に対しては激しい揺さぶりがおこるのです。

同じ意味で相撲界の激震もまだまだ続きそうです。相撲は古来からの神事であるにも関わらずスポーツ化し、勝てば良いのだといった無軌道な常識が影響しています。八百長や賭博など神事に携わる人間として最も無関係なはずであるものが表面に吹き出し、母体を破壊していくのです。あたかも体内の毒素を毛穴から排泄していく免疫反応のように明確になっていくのです。はやく毒素を出さないと不治の病になるように相撲界もあぶない所まできているようです。

「土」の時代の終焉というのは、そうしたレッテル式の思考を除外していく傾向にあります。ルールとか法律によって縛りつけるのではなく、個人個人が人間性の輝きによって結ばれていく時代が次の時代です。
これは五行では「水」と表現しているのは従来からお話している通りです。

では私たちはどうすればよいのでしょうか?
あくまでも常識的なものが正しいものだと理解しないことです。一見非常識と思えるような考え方に実は真理が含まれていることがあります。社会が与えたルールや法律が正しいとは限りません。だからといって犯罪を犯せというのではありません。あくまでも自分の人間性に照らして判断する習慣が必要でしょう。
身近なところでは人間つきあいです。世間が悪く言う人、良く言う人、それを自分の目で見直してみるのです。
人間以外にも世間の評価というものがあります。たとえばある食材が、テレビで健康にいいと言ったからそれがいいとも限らないと見直してみるのです。

ついでに言うと現代人はマスコミに躍らされています。
マスコミの振りまく常識感が私たちを支配しすぎています。なぜ他人に格付けされたものが価値を決めるのでしょうか?なぜ「地デジにしろ!」とあんなにとやかく言われる必要があるのでしょう?そんなにテレビを見なくてはいけないのでしょうか?
こういった所にも世の中の常識の変なことがあるものです。
「変なところ捜し」…というのが意外と本当の意味でのトレンディなのかもしれません。
ハイアーセルフ(1)

ハイアーセルフ…ってご存知でしょうか?
最近わりと耳にする言葉なので知っている方も多いと思います。「高次の自我」のことで、私たちが私とよんでいるよりもっと大きな私、つまり私たちが私と認識できないようなバックグラウンドにあるワンステージ上の「私」のことです。
といってもわかりにくいかもしれません。
たとえば、私たちがご飯を食べた時にそれを「消化しよう」と思わなくても自然に消化してますよね。心臓を「止めよう」と思っても止めることはできませんね。こういった私たちの制御を超えたところにある高次の私というものが私たちの最奥にはあるのです。言い換えると、あるとしか思えないのです。

唯物論者は人間は自動機械であると言います。しかしその機械は偶然に生じたのでしょうか?
かつて哲学者のシュタイナーは、理科でバケツの水をかきまわし宇宙ができた実験を教わった時、ではそれをかきまわしたのは誰なんだと質問して先生を困らせたといいます。

別に神という言葉をつかわなくても良いのですが、私たちの背後には何かそういった大いなる存在があると仮定したほうがとてもすんなりと理解がいくのではないでしょうか?

私は日常、顎関節症を専門とし歯科の診療をしている歯科医師ですが、治癒の過程には明らかにその患者さんの背後にある力を感じざるを得ません。しかもそれは単なる偶然的、機械的な自然治癒力ではなく、理性とか摂理のようなものが感じられます。
そういったものが、哲学や宗教、精神世界体系ではハイアーセルフと呼ばれているのです。

 「陰陽五行」ではまずものごとには陰陽の相対関係があると学びます。たとえば昼と夜、男と女…という具合に私たちをとりまく世界はすべて相対的な関係がベースになっています。
だから肉体と精神も陰陽のコンビなわけで、病気が治癒する過程でも肉体の治癒だけではなく精神面での治癒というか発展があるのです。つまり肉体だけが治癒してもその人の精神面に変化がなければ同じことを繰りかえす事になのです。
顎関節症の場合はその傾向が顕著です。たとえ症状がやわらんだとしても、精神面での気づきがないとなんども再発するのです。あたかもハイアーセルフが「そのままではせっかく病気になった意味がありませんよ」と言っているような感じです。

この春に発売される『だるまんの陰陽五行.「土」の章』ではいよいよこのハイアーセルフへと話が及んでいきます。これにあわせて、現在東京と横浜でハイアーセルフに関する講習会もやっています。(東京の講習会「アルカノンセミナー」では近々ストリーミングによる映像配信も行うそうです。わかり次第またお伝えします)

ハイアーセルフに関しては重要なテーマなので、このブログでもとりあげていく予定です。
ハイアーセルフ(2)

エジプトのムバラク政権の破滅と共に、お隣のリビアでも反カダフィの勢力が増し、民族蜂起が盛んになっています。
ひとりの権力者による独裁がつぶされて民衆のひとりひとりが自我にめざめていくというのは、五行で言う「土」から「水」の時代に移行する上では一番のテーマなので、まさにそれが出てきていることになります。
一見、独裁社会とは見えない民主主義の世界でも実は影で牛耳っている人間が居ることはご存知の通りですが、それもだんだんと日の目にさらされることになります。日本では自民党の独裁がつぶされてから民主党が与党になりましたが、最近は小沢さんがらみで内紛が起きてますね。小沢さんはまさに旧勢力のシンボルのような存在なので、まだいろいろとテーマをつきつけてくれることでしょう。

こういったことをひとつのキーワードでくくると「プライド」という言葉が浮かびます。
「水」という時代は、花壇のように土を囲って植物を育てる「土」の時代の次に来る個性の時代であるということはたびたび言っています。だから言い換えると、囲っている花壇を打ち壊さないとダメなのです。しかしここに起きてくる問題がプライドです。個性を育てることはとても大切ですが、ここで勘違いが起きるのです。個性の主張が間違ってプライド化してしまうという事実です。
本当の個性というのは自我の主張がメインではなく、自分の「できること」と「できないこと」を理解し、そして自分が「できること」とは本来「したいこと」であって、そのために自分を信じて努力して進むことなのです。同時に「できないこと」は他人を信じてネットワークを作っていくことなのです。ちょうど現代のインターネットのウエブに象徴されています(いわばインターネットや携帯電話は「水」の時代の先兵的存在です)。
しかしプライドというのは自分だけが正しいという妄想を伴うので他人との協力という発想がなくなり、自分に反するものは排斥しようとしだすことになります。
ここに「水」の時代の後に来る「火」の時代との関連性が出てきます。プライドという間違った「水」的状態では絶対に「火」へと進めないということです。

実際、「火」の時代なんてのは気の遠くなる位未来のことなのでその時代について述べても何にもならないのですが、「火」という精神状態が何を意味するのかがわかっていると、今やるべきことが見えてくるのです。
「火」というのは、実はハイアーセルフの入り口であり、狭義のハイアーセルフと考えて良いのです。
「水」で得た確かな個性は「火」で大いなる自己の認識へと進みます。つまり「水」ではまだプライドに陥りやすいあやうい自我なのですが、「火」ではもはや「自分が、自分が」と言っているような小さな自我意識ではなくなるということです。
そしてこれの自覚が私たちの魂の遍歴の「とりあえずの目的」ともいえます。

私たちは実は、このハイアーセルフを内側に持っています。しかし気づいていないのです。
たとえば一人の人間の成長に照らし合わせた場合、「土」では世間という枠の中に居ますから、あいかわらず常識観やルールが私たちの規範となっています。いわば高校生までの世界観です。しかしそのままでは個性が育たず、「水」に至ってはじめてなにか自分ならではの自我を主張した世界に入ります。いわば高卒後や大学以降の世界観です。しかしここではまだプライド化しやすい自我なのです。
うまいこと自我の主張が成功し、ひとかどのお金や地位を得ると、ひどい時は自我をプライドに変えてしまって既得権を得て、他人を自分の枠の中に押し込めて自らを王のような立場に置いて新たな「土」的世界を作ってしまう人も居ます。
しかし、「水」の後に来る「火」というハイアーセルフへの認識があると、そういう間違いには陥りにくくなるのです。
自我の奥にはプライドを超えたハイアーセルフがあるという自覚はこうした誤りを防ぐのみならず、どう考えどう行動することが人間として大切なのかを教えてくれます。そしてなぜ自分が生まれてきて、なぜ今という自分があるのかという理由も。

何かを行動するとき、実はハイアーセルフはすべて理解しています。人生の岐路に立って迷いの中にあるとき、ハイアーセルフはすでに答を知っているのだという事を思いだしてください。そんなとき、「土」的な常識や「水」的なプライドを捨ててハイアーセルフに自らをゆだねてみてください。答は絶対に来るはずです。考えてみればわかることです。だってハイアーセルフとは自分自身なんですから。ただ自分とは気づいていない、それほど高次な自分であるだけです。
答は偶然の一致のような出来事や、夢に象徴されてやってくることもあります。

次回では、このあたりをもうすこし詳しくお話していくことにしましょう。
ハイアーセルフ(3)

チュニジア、エジプト、リビアと続く独裁者撲滅運動が盛んです。リビアではすでに激しい内線状態だと聞きます。
共産党独裁の中国や独裁者のおさめる北朝鮮では情報統制がひかれているという話です。
この動きは私がいつもこのブログでお話している「土」の時代の終焉のひとつの動きと見て間違いないでしょう。
「水」の時代になるということは、個の主張が力を持つということですから。
そして個といえばエゴの動きと表現できるのですが、注意しなければならないのは単なるエゴイズムのエゴで終わっては何にもならないということです。
しかし「水」にはエゴという側面がしっかりと入ってきます。

「土」にも全体として育むという良い面とその中の個を腐らせやすいという悪い面があったように、「水」にも個が輝きだすという良い面と個の主張からエゴのぶつかり合いが出るという悪い面があります。
これは「土」から「水」に至ることで修正がかかるように、「水」の次に来る「火」で修正がかかります。

「火」とはエゴを超えたエゴ、つまりハイアーセルフ(狭義)を指すのですが、ここで言う個の感覚はすでに私たちの感覚とは異ってきます。ここでは個どうしのぶつかり合い、たとえば優劣の競争などは存在しません。優劣というのはひとつの切り口での競争であり、それが人間の全存在を決めるものではないからです。たとえば音楽的才能があるからといってその人が他の人より優れた存在とはいえません。日常のやりくりに勝ったひとりの主婦の前ではただの音楽バカに過ぎません。
こうした才能と言うものが誰にでもあり、互いがそれを認めた上になりたっているのが「火」の世界です。つまり個は個であると同時に全体での認識をもっているのです。

少なくとも、こういった新しい個の獲得というのが私たち人間の現段階での最終目標になると思えます。むろん、この先もまだあるのですが、現人類には理解ができない世界です。

世界には宗教というものが存在しますが、本当の宗教というのはこのハイアーセルフへの導きを教えているものです。それがゆがめられて特定の人物や神に忠誠を尽くすのが宗教だと誤認されてしまっているのが現状のようです。いかにも「土」的な状態の人類の理解の仕方なのです。だからまさに今、そういった私たちの足もとを見直す必要が生じているように思えます。

五行を通じて考えていくと、地震や内戦など、ひいては火山爆発など「土」的なものが暴れている現在、ただの社会事象や天災として認識するのではなく、こうした点にまで思いが及ぶことになります。
セックスと五行 1

ある方から質問がありました。
愛とセックスに関して、五行との関係を説明してほしいと。
とても重要なテーマですので、この場で少し触れてみたいとおもいます。

私自身、やはりスケベなオヤジですから、若くて綺麗な女の人を見かけると心が動きます。そしてあわよくば…なんてずうずうしい思いにふけることもあります。
しかし、これって恥ずかしいことでしょうか?女の方でもこういう事はあるのではないでしょうか?イケメンの若い男性を見たら心が動くのは当然です。
だからこれは食欲同様の正常な反応であることは確かなのではないでしょうか?

このことが、カレーライスを見たら食べたくなるのと何が変わるのでしょうか?ここに現代人の性のタブーがあります。
結婚したら他の異性には心を動かすのはもちろん肉体行為に及ぶのはもってのほかだ!というのが現代の常識で、それを犯した者には不倫の罪状がたたきつけられるのですが、それでも最近は中世の昔のようにさらし者になって石つぶてをなげられるなんてことはありません。不倫は文化だと言い放った芸能人も居る位ですから。

これが正しいかどうか判定する前に五行で考えてみましょう。
男女を五行で見ると男が「木」で女が「土」です。これをなぜかと話すと時間がかかりすぎるのでその件に関しては『だるまんの陰陽五行』を読んでください。
「木」と「土」では「木」が勝ちやすい傾向にある(「木剋土」)ということから、男が女をおさえこむ形で男女の肉体関係がおきやすいということはよくわかります。しかしこれはあくまで相剋ルートでの勝ち負けの関係であって、相剋の本当の意味は「勝てる者が負ける者に力を譲る」ことであると、かねてからお話しています。その原理でいくと男は力づくで女を勝ち取ろうとする反面、女の為に自らを捧げるのが正しい有りかたであることになります。これをひとつの表現で言うと「畏敬」ということになります。つまり男は女に対して畏敬の念があって接する時にはじめて男女の関係は正当なものになるということです。

それでは女の方はというと、「土」ですので「育むが腐らせる」という意味をもっています。「腐らせる」というのは自分に寄ってくる男を召使いや金づるのようにしてしまう姿を指します。そこで女に求められる正しい態度は「育敬」ということになります。つまり相手の男性を自分の欲望の道具とするのではなく、男として成長させるのが女の正しい姿というわけです。

セックスと五行 2

「畏敬」と「育敬」、これが男女という「木」「土」の関係を正常にさせるキーワードになります。そして男女間には精神的な愛の他に肉体的な性行為が伴います。これは五行では次に来る「土」から「水」への動きに関わってきます。「土」から「水」の間に来る「金」、これがセックスに相当します。「水」とは個を重んずる態度を表し、「金」はそのために捨てるべきものを示します。
つまり、セックスによってその男女は「畏敬」と「育敬」によって育んだ互いの何か(社会的な地位やお金、時には健康面も)をなげ捨てることで本当の個に接することになるのです。
考えてみれば、セックスというのは互いが裸になってする行為ですから、精神的にも社会的にも、まとっているものを捨てないとできないのは当然です。
捨てた何かによって次の生命が誕生することもあります。「金」といえば季節では秋、たわわに実った柿の実がぽとんと土に落ちて次の命の栄養に変わるように男女のセックスから子供が生まれます。また、男女にとっては、捨てた行為ゆえに相手の本性に触れていくことになるのです。ここで肉体の中にある精神にもろにふれていくので、中には性格の不一致など、今まで肉体の魅力の内側に隠れていたものに出会って挫折することもあるのです。「畏敬」と「育敬」がもともと存在していたか、ここではっきりと問われることになるのです。

以上が五行的な解釈ということになりますが、それでは不倫は正しいかどうかという問題が残ります。これは正しいとも正しくないとも言えるのが正確なところでしょう。
なぜなら正しいか正しくないかを決めるのは社会的な常識ではなく、人間としての有りかたであるからです。もっと具体的に言うならば、その人が人間として魂を成長させえたかどうかがいちばんのネックになります。
だから不倫ゆえに本人も苦しみ、他人もまきこんでしまったとしても、それが結果として関与しているすべての人にとって学びとなり、人間的に成長できたのなら、それは正しかったということになるのですが、これは人間の立場でとうてい判断できるものではありません。死んでみないとわかりません。従って、自分の心に問うて、すべてをゆだねるしかないのです。ゆだねる相手はハイアーセルフです。
最初の段階で男女を「木」「土」と言いましたが、「木」と「土」の間には触媒としての「火」がありましたね。これが狭義のハイアーセルフです。結局、特定の男女にとっては最初の出会いからハイアーセルフは見つめているのです。ふたりの出会いが互いにとって確かなものであったなら、それはなるべくしてなったふたりの関係ということです。あとは勝手なエゴを出さずに静かにハイアーセルフの采配にゆだねていくしかないのだと思います。
巨大地震

私の住んでいる横浜でもかなり揺れました。あんなに長い時間揺れたのは始めての体験です。おそらく、ほとんどの方がそう感じて恐怖にさらされたと思います。事実、大変な被害を受けてしまった方もおられると思います。そしてまだまだ安心はできない状況です。余震は続き、震源を変えた地震も頻発しています。

太平洋プレートなど地震の原因はいろいろと言われていますがこのブログでは五行でその意味を考えてみます。

実は先日一晩うんうんとうなって寝込みました。一般的には風邪とみられる症状で、寒け発熱、吐き気、筋肉痛という症状でした。しかし、あきらかに違うことがあります。始めから筋肉痛という症状が出て、仕事が終わってすぐに床についたとたんに寒けがおそってきたのでした。寝ながら考えました。これは「木」気が上がり過ぎていると。「木」というのは季節では春なので、確かに今の時期は「木」気が上がるのは当然です。また人体では肝臓が「木」なので肝臓の支配する筋肉が痛くなるのも当然です。しかしただの風邪なら順番としてもうすこし後に出てくる症状です。さらに吐け気ですが、「木」は「土」に勝ちやすいという側面を持つので「土」である胃の力を弱めてしまって出てくる症状です。これも順番としてちょっと早いです。
しかしいずれにせよ、寒けが出だ以上、これは全身が毛穴を閉じて体温を上げている状態だということがわかったので次には高熱が出ると思いました。案の定、高熱が出だしたので後は汗が出れば一晩で治ると思いました。そして滝のような汗が出て、翌朝には綺麗に回復したのでした。

これを部屋でたとえるならばまず窓をしめて温度を高めた後、窓をいっきに開けて室内の汚れた空気をイッキに出すようなものです。その時の温度差が水滴になるように汗が出るのです。人体ではこの汗で体内の邪気を追い出します。
こうして回復したものの、なんか変な「木」気の異様さがあることは捨て切れない思いを残していたのでした。

そして今回の地震。地震は五行では「木」と「土」が絡みます。地面という点においては「土」ですが不動の地面を揺らすほどのエネルギーは「木」です。つまりは「木」が「土」に勝っている状態で、まさに先日の私の風邪と似たものなのです。「木」気が強過ぎるという点も一致します。

結論として言えるのは両者とも「木」気が異様に強過ぎるということです。そういえば花粉も今年はすごいです。暑い夏と寒い冬を経ると花粉が増えるように、現在の地球環境は「木」気を異様に高めてしまっているのです。

そこで解決策です。私たちの力では地震はどうにもなりませんが、心づもりとしてはやっておくことがいくつかあります。防災グッズや食料備蓄など一般的な地震対策はさておき、心の上での対策について五行的に言いますと、さきほどの風邪で汗が回復の糸口になったように、ここでも心の汗を出すようにすることが必要だと五行は言っていることがわかります。
つまり、何を排泄するのかを明確にしておく必要があります。多くは自分の心の垢です。虚栄心や自己保身、今の国会のように相手をけ落とす事だけに終始するような生きかたに終始していないだろうか…など、いくつもあります。こんな宗教的にも見える内容は地震とは無関係のようでもありますが、五行的に言うと、どうしてもここにたどりつくのです。
ひとりひとりの心のバイブレーションが変わると環境としての「木」気も必ず変化します。高すぎる「木」気を弱めることができるのです。

最初の震源だった宮城県はホツマツタエという古代文書によると『日高見の地』と言って、もともと日本の中で一番霊格の高い地です。そこが中心となる連発地震だったという事も何か示唆的なものを感じるのです。
何が起きたのか

ある方から質問をいただきました。日本の鬼門側にあたる東北であんな天災が起きたということは次には裏鬼門側にあたる近畿が危ないだろうか、それとも何か他の因果律があるだろうかという質問です。

『だるまんの陰陽五行.「火」の章』では気のエネルギーは裏鬼門(坤、南西)の力が鬼門(艮、北東)に抜けて、そのあと次元を転換して北西(乾)から南東(巽)に動く…ということを書きましたが、これは必ずしも今回のような天災には通用しないと私は考えます。「陰陽五行」を占いとして考えた場合、いろいろと意見は出てくると思いますが、私はあくまでも東洋哲学的なモノサシとして考えています。

今回の巨大地震とそれに伴う原発事故は「土」から「水」に向かうタイミングでの究極の「金神」であるというのが私の五行的解釈です。「金神」というのは「金」的なエネルギーの権化を指す言葉で、左右を分別して態度を明確にさせようとする力を指します。

日本という国は、かつての原爆と終戦のことと同様に、全世界に先駆けてドロをかぶるひな形的役割、ナビゲーターとして人々の行くべき方向を示す役割があるのではないか…と私はかねてから考えています。私自身も、進んでドロをかぶるなんて、本当にやるせないし冗談じゃないというのが人間としての本音ですが、どうもそういう意味合いがあるように思えてならないのです。

前回のブログでも書きましたように地震前から異様に「木」気が高まっていましたが、これは人体でいえば肝臓の働きつまり解毒が進んでいる状態です。世界的に営利を中心に生きる人々が多くなり物質的な側面でしか物事を考えられなくなってきた結果として現在までの文明を否定されたようにすら思えるのです(原発も否定され電気を奪われるという生活に戻された事など)。
現時点でも多くの方が犠牲になっており、本当に心から哀悼の意を評します。本当につらいことです。近しい人を失った方の悲しみは考えるに余りあります。耐えられない悲しみだと思います。
しかしさらに言うならば、今生きている我々にとってもまだこれからが正念場という所に来ていると思うのです。
どういう正念場かというと、五行的には今までの「土」的世界観(競争主義、お金がすべてとする考え方、唯物主義)に戻るのかそれとも「水」的世界(互いが互いの個性を認め協力していく世界)に進むのかを決める正念場ということです。
五行の相剋ルートで見ると「土」と「水」の間に「金」があります。この場合、「金」は「土」から「水」へ移行する触媒的働きに相当します。
文字どおり、水を目標にした金神的な天災だったといえるのだと思います。

この場に来て世界は日本に注目しだしました。多くの国が援助を申し出てくださっています。日本の精神性をほめたたえる国も出てきています。今、私たちはここまで築いてきた文明的な力のない状態でも、人間としてやっていけるという事を見せる必要があるのではないかと思えるのです。
その武器となるのが精神性です。

天災の後、放射能をさけるために外出をひかえよとか雨をさけよとかいろいろとチェーンメールが相次ぎましたが、風評はさておき、自分自身を見つめて、エゴではない本当の自分がどっちへ向かおうとしているのか、見つめていきたいと思います。
自分を保つ

いまだ原発では緊張した事態が続いております。福島の方々や被災した方々にとっては生活の危機に加えて精神的な苦痛まで強いられる状態となり、本当に大変だと思います。型通りの言葉でなんとも切ないのですが、心よりお見舞い申し上げます。

しかし、この緊迫した状況ではなんともならないのが実情です。私の居るのは横浜ですが、放射性物質が飛散してきているが健康には問題のないレベルであると報道では言われています。放射性物質はすぐに拡散してしまうというのがその理由です。
しかし首都圏にいる方々でもすでに関西方面へと逃げ出している人も多いと言います。
その反面、福島や被災地に近くとも仕事とか家庭の都合で逃げたくても逃げられない人々もたくさんいます。

このブログでは一貫して、人間として精神的にどうあるべきかを語っていますが、いまのこの事態は、直接被災した方々を除いては、自分の精神をどういう状況に置くかということをせまられている状況であると思います。そのことについて触れたいと思います。

というのも、報道ではショッキングな場面が多くを占め、不安をあおるような作りが目立ち、本当に精神面をどうケアするかについて考えているように思えないからです。
たとえば、放射線量が一時的に増えた時の官房長官の「人体に確実に影響あるレベル」と言った場面だけを何度も放送したり、首相の「放射線の漏えいが増大しています」という場面を強調したりしている様子が多大に見られるからです。
その反面、「今一番大切なのは情報です」と連呼しています。
従って、恐怖や不安をあおる噂が出回り、報道や国はウソをついてると人々は感じ、ガソリンや食品、懐中電灯や電池などが市場から消えていきます。

この実体は、放射線がいま現在どういう状況であるかという本当の事実を超えて、私たちは不安に流されているのだという事に気づいていただきたいと思います。かつて関東大震災の時には被災後、一部の人々が暴動を起こして飲み水に毒を入れているという噂が流れ、虐殺騒ぎがあったといいます。これほどの問題ではないにせよ、それと似たほどの噂の流布があるという事は言えると思います。

五行的には放射線は「金」です。理由はいずれお話するとして、「金」の力を緩めるのは「火」か「水」と言うことになりますが、「火」の場合は極端になるので「水」が一番重要です。
皮肉なことに原子炉への注水が鍵になっている事と一致してきます。
「水」というのは五行的には個性を意味します。つまり衆愚に走らない一貫した自覚を持つという事です。

多少の被爆ならば、被災者の方々と苦しみを共有するぐらいの覚悟であるほうがかえって事態を好転させると思えます。
確かに被爆は恐ろしいことですが、これへの不安から殺し合いをするようになってしまっては、いままさに天が日本人に与えている試練に確実に不合格となってしまいます。

被爆で恐ろしいのは甲状腺への放射線物質の汚染であるといいますが、甲状腺は栄養素や水分代謝を行うホルモンを分泌する組織で五行では「水」です。
しかも甲状腺が疾患を起こすと精神疾患に似た状況となります。初期では鬱病との鑑別がつきにくい位であると言います。
このことからも、今回のような事態は、すでに被爆以前からも甲状腺を傷めやすい状況を作っていることが分かります。

なんとか疑心暗儀にふりまわされずに、自分の今できることをやるように努力したいと思います。繰り返しますが、直接被災した方々や原発近くの方々にとってはこんな呑気なことは言っておれない状況であると思います。しかしできるだけ自らを保ち、できうる行動をとっていただければと祈っております。
天王星との関連

占星術に詳しい方のお話によると、先日の3月11日の午前0時ごろから天王星が魚座宮から牡羊座宮へと移動したとのことです。天王星はひとつの星座宮を7年で移動し、12星座の始めにあたる牡羊座に戻ってくるのに84年かかるそうです。つまり84年で全天を一周するのです。そしてその一周したタイミング、それがつい先日ということになります。しかも、天王星の一周の区切りには必ず革命的な出来事が生じるとのことです。しかも今回は木星と0度の関係(コンジャンクション)にあるとのこと。これは精神面も加えた大きな変化を意味するそうです。

この情報を五行と照らし合わせてみるとおもしろいことがわかります。
まず天王星の周期の7年というのは一般的な骨細胞が再生するまでの年数です。骨は五行では「水」。つまり「水」の刺激に天王星は関わるということです。
「水」は自我の認識に関わるといいましたが、事実天王星が発見されたのは18世紀の啓蒙の時代で人々に自我意識が芽生えてきた頃に相当します。
そして「木」というのは思いを意味し、地震以前の1一週間位から「木」気が高まりすぎていることは以前のブログで書いた通りです。これで今回の天災人災の起きた背景には「木」気の高まりと「水」の刺激が関連しているということがわかります。

「水」と「木」というのはとても連動しやすい傾向をもっており、精神面では「水」の持つ自我意識と「木」の持つ思いがつながりエゴイズムに発展しやすいのです。これは自我インフレーションとも言いますが、自我の誤った使い方です。しかも「水」の自我意識は「火」でエゴを超えたもの(ハイアーセルフ)へとつながっていくことが大切なのですが、これがとても難しい事ときています。したがって多くの人間は「水」から「火」へは行けずに「木」とつながりエゴのインフレを起こしてしまうのです。

ここでまた気づいてほしいのは今回の事件です。まず地震(「木」)、次に津波洪水(「水」)、そして原発の熱上昇(「火」)という順番できており、まるでフリーメーソンの入会儀式のように人としての思い(「木」)を純化させるための水の試練、火の試練という形になっています。

これらのことは単なるこじつけと取る方もいらっしゃるでしょうし、事実こじつけなのかもしれませんが、少なくとも再考の価値はあります。こじつけという事で一蹴してしまうのは早計というものです。

五行的に解決策をみていくと、「水」「木」のつながりを解いていくことがまず重要となります。これは昨日のブログで書いたとおり「水」がキーワードとなります。そして本日はもうひとつのキーワード、つまり「木」をいかに収めるかという話になるのですが、「木」を収めるにはとにかく気を下ろすことなのです。これは下半身を暖め、心を落ち着かせることです。不安などの思いが持ち上がってはきますが、単なる思いは事実とは異るということを肝に銘じることです。そして気を下げるということは足下を見るということにもなります。自己保身というエゴにふりまわされるのではなく大地を愛し大地を信じることでもあるでしょう。事実放射線なども大地という自然が必ず浄化するのです。今起きていることを多くの人々と共有し、自分にできることからしていくという気持ちを忘れずにありたい…と強く思います。
変化の時

原発の問題で放射線漏れが盛んに問題になっています。被曝を恐れて国外脱出する人々も居るそうです。首都圏を脱出する人も居るそうです。なかには政治家などとつながっており特別ルートの情報で「すでにやばい」ということで逃げ出している人も居るそうです。
原発地域に近い方々にとっては退避しなければならないレベルは存在すると思いますが、それ以上に過敏に反応する人々が増えてきているのです。しかし一般的な日本人にとっては仮りに逃げたくとも逃げれない事情があります。家族や仕事、多くの人々との関係というものがあります。もし皆が「我れ先に」と逃げ出すことが起きたらそれこそ地獄絵図です。しかしそれはおきないでしょう。被災地においても暴動や略奪が起きないというすばらしい日本人だからこそ、まず日本にこのような出来事が起きたともいえます。
未曾有の危機を迎え、今私たち人類は確実に変化を求められています。そしてそのまず第一歩として日本人が選ばれているのです。それは先日のブログで書いたように日本は世界のひな形になっているということでもあるし、『だるまんの陰陽五行.「火」の章』でも書いたように国津神と呼ばれるエネルギーに同調しているためでもあると言えます。

ではどのように変化するのでしょうか?
本日のブログでお話しておきたいのは、実は放射線というものへの我々のイメージを変える必要があるのではないのかという事です。

放射性物質というのは、私たちが食事した食物を体内で分解してエネルギーに変えていくように、自然界の原子でありながらどんどん分解してエネルギーを出していく物質です。その時に発するのが放射線なのですが、実は宇宙には放射線が充ち満ちているのです。言い換えると宇宙は大きな胃袋なのです。どんどん物質が分解してエネルギーを出している、そういう世界なのです。しかし地球環境では大気がそれを遮へいしているので宇宙よりは弱い放射線が存在しているのです。だから「放射線は怖いもの」だといっても、我々にとって慣れていない高いレベルで、しかも急激に与えられた場合での話であって、仮に少しずつ、許容範囲を広げつつの被曝ならむしろ我々をエネルギー的に新たな生命体へと変えていく…とも言えるのではないでしょうか?
たとえば宇宙ステーションで8ヶ月保管した桜の種を地上に持ち帰って植えたところ、発芽しないはずの種が芽を出しているという事実があります。宇宙で行動したアポロ宇宙飛行士たちが精神的に大変化を起こしている事実もあります。このようにエネルギー体系を放射線は変えていく力があると考えられるのです。

いままで放射線は怖い悪魔のような存在として私たちは認識していましたが、それはあくまでその量と時間の問題であることを今、はっきりと認識すべきです。言い換えると、今、このような形で日本に与えられた出来事は私たちを変化させるためのきっかけであるとも言えるのではないでしょうか?
今までの常識感でふりまわされずに、新たな価値観でものごとを理解しなおしたとき、そこに未来への鍵があるのではないでしょうか。

外部から与えられる事象を、我々を損う敵と見るのではなく、我われを成長させる力と見ていくこの姿勢は、五行の相剋ルートの示すものでもあります。一部、経営畑で言われているところの「loose-loose」の姿勢でもあるのです。「loose-loose」というのは「儲けた者勝ち」というのではなく互いに損する事を通じて結果として互い何かを得るという考え方を言うのです。
本当に私たちは今、変わる時が来ているのだと痛感します。
買い占めは是か非か

ある方から「買い占め」についてどう思うかという質問をいただきました。本日はこの点について考えてみたいと思います。

子供のころよく見た夢があります。私は子供で大人の人がパンか何かをくれようとしているのです。しかしもう食料はそれしかないことを私は知っているのです。だからその大人の人はパンを私にわたせばもう食料はないのです。私もお腹がすいているのですがそのパンをもらうことができないし、お腹はすいていても悲しくて食欲がないという状態…という夢です。

もし今、「目の前」で苦しんでいる被災者の方を直接見ていて肌で感じていたら…、たぶん誰でも買い占めはできないと思います。
今の夢のように自分が得するという事より自分が相手のものを奪うという苦しみの方が大き過ぎるからです。私たちはテレビや報道で苦しんでいる被災者や周辺の方々のことを知っています。しかし、たぶん肌で感じ切っていないのです。だから買い占めが未だに横行しているのでは…?とも思うのです。

また、こんなことについても考えてみましょう。たとえばすごく捜していた珍しい本が、ある時ある本屋さんで見つかったとします。あなたは喜びいさんで、その本をレジに持っていくでしょう。しかしちょっと待ってください。その本をあなたが買うということは、やはりその本を捜している「誰か」は機会を失うことになります。この時、その本をあなたが買うことは「買い占め」にあたるでしょうか?この時に本を買うあなたは私の夢の話のパンの例と同様に、罪悪感を感じるでしょうか?
なんだか哲学問答(ハーバード白熱教室)みたいになってきましたが、これもひとつの考え方です。たぶん多くの方はこの場合は買い占めには当たらないし、罪悪感を感じる必要もないと答えるでしょう。なぜかというとパンは命に関わるが本は命に関わらないからというのが大半の回答だと思います。しかしこうも言えるのです。パンは肉体の命には関わるが本は精神の命にも関わると。

ややこしくなってきたので五行的に整理しましょう。
五行的にはたぶん、こういう答になります。
『こうむったもの と思うのか 与えられたもの と思うのか』。
私たちは日常生きているといろんな事に遭遇します。歩いていてボールがぶつかった時、まずはあたりをキョロキョロして投げたのは誰だと思って捜すでしょう。しかしこれは「こうむった出来事」であると思ったからです。逆に「与えられた出来事」と思えば犯人探しの前に今このタイミングで自分にボールがぶつかったのはナゼかと思います。今自分が思っていたことに対する天の注意か何かの喚起か、あるいはぶつかることで肉体の一部を刺激して何かの血流刺激が必要だったのか…などなどです。
後者はとても精神的な有りかたですが、五行の相剋ルート(五つの要素を一つ飛ばしで進む道。詳しくは著書などご参考ください)の読みかたはこういう意味合いをもっています。

だから今回の大変な天災や人災も、「こうむったもの」ではなく「与えられたもの」と見るならば、自分の世界観や出来事を通じての教訓が大きく変わってきます。
買い占めうんぬんに関しても、目の前の残り少ない灯油を見た時にこれを自分だけが買ってしまうことに関してなんらかの考え方が浮かぶことになります。自分がそれを買ってしまうことで迷惑を被る誰かの姿がありありと感じられるかもしれません。しかし自分とて早急に本当に必要なものであるなら、その一部を買い求めることも確かにアリだということです。しかしそれは決して買い占めにはならないでしょう。本の例も同じで本屋さんにその本があったということは、「出会えた」ということになるので買うことは買い占めにはならないはずです。要は「分を知る」ということなのです。

動物は冬眠する前には命が途切れないようにたくさん食べ出すといいますが、危機的環境に陥れば自分の身の回りに多くの食料や物資をため込みたくなるのはある意味、動物的本能なので、いたしかたない部分はあります。しかし我々は同時に人間でもあるのです。今のように考えると、自分に与えられているものはどの程度であるのか見当がつくと思います。
被災者の方の事を思って買い占めをやめるべきだというのは当然ですが、ということは自分に与えられいる範囲がどの程度かをしっかり見極めることも大切になってきます。こうしたことはこれからの人類の生きかたのポイントになっていくのでは…と思うのです。
そしてこのことは買い物には限らず、自分が何をできるか…という話にもつながります。これはたびたび述べている五行の「水」の意味合いです。自分という存在について再考し、再構築していくきっかけになると思います。
ギリシア神話と大震災の関連

ギリシア神話ではパンというヤギの足をもった神様が居ます。彼は幼児と老賢人を足したような性格で日本神話のスサノオノミコトに似ています。それゆえにキリスト教の悪魔のイメージのモデルにもなっており、バフォメットという悪魔の図ではパンのようなヤギ足を見ることができます。
そのパンは昼寝を邪魔されるとものすごい声で騒ぎ、その声が必殺武器で相手はひるんでしまうのです。
パンの傍若無人な性格は五行では間違いなく「木」です。そして大声という点でも「木」がズバリあてはまります。
今回の地震のような巨大なエネルギーも「木」ですが、パンが悪魔にもたとえられる理由がよくわかると思います。

しかし本当の悪魔というのは私たちがイメージする「悪」とはだいぶ異り、何かを我々に与える力をもっているのです。
前回のブログで我々の身に起こることを「こうむったこと」ではなく「与えられたこと」と考えることで全く違った結果を産むという話をしましたが、「木」の持つ悪魔的な力が振りかかった時は、同様に我々にある力を与えるのです。

これを五行で言うと「木」が触媒するものは何かと考えてみるとよくわかります。「水」から「火」という作用です。これはエゴという自我からハイアーセルフという自我を超えた自我意識、大いなる繋がりへと変化する作用を示してます。つまり「木」は私たちにエゴイズムを超えた深い部分での人間同士のつながりを与えるということです。

同じくギリシア神話でプシケー(心の語源)という人間の女性の物語があります。プシケーは美人だったので女神アフロディテ(別名ビーナス)は嫉妬し息子のエロス(愛の語源)を遣わして貶めることにします。しかしエロスは逆にプシケーに恋をしてしまいます。しかし人間と神とでは恋はできないのでエロスは去るのですがプシケーはエロスを忘れられずに放浪します。そして放浪中にあのパンに出会います。パンはここでは老賢人のようにプシケーを諭し、誠を尽くせば必ず報われること告げます。
つまりプシケーはパンの助力を得てエロスに向かうのです。これを五行であてはめると自我的な心(「水」)はパン(「木」)の助力で愛(本当の愛つまり「火」)に向かうということです。
つまり「木」のような悪魔的な力は我々のエゴを愛という大きなつながりへと導くという事です。
ついでに言うとプシケーがエロスに出会うまでにアフロディテから受ける様々な悪魔的な試練も「木」の触媒と言えます。このあたりは日本神話の大国主命がスサノオノミコトの娘を得るまでスサノオから受ける試練とそっくりです。

ちなみに「水」の象徴として恐怖というものもあります。「水」は色では黒を示し、何が起こるかわからない恐怖も「水」にあたるのです。このことをふまえて今回の大災害を見てみましょう。
地震(「木」)、津波(「水」)原発事故(「火」)とありましたが、地震という「木」がきっかけになって私たちの恐怖(「水」)は「火」という人間としてのつながりを得るに至るという事を意味します。
現に、被災者を援助するために次々と人間の輪ができています。これはまさに原発を超えた愛の「火」そのものです。こんなときに必要以上に自己保身を願って買い占めしたり、被曝の恐怖と向き合って働く方々をよそ目に必要以上に逃げ出したりパニックに陥るような行為は「水」への逆戻りなので注意しましょう。
余談ですがパニックという言葉もパンから来ています。パンのような悪魔的な力に翻弄されることを意味しています。

ほんとうにこの災害は多くのものを私たちに「与えて」いるのだと思います。
ナマズ絵に見る日本人の底力

先日、私たちの前に現れる出来事を「こうむった」のではなく「与えられた」のだと考えようという話を書いたのですが、何人かの方々から共感のお言葉をいただきました。
本日はこれについての続編です。
かつて江戸時代に大地震があって大被害が出た時に「ナマズ絵」というのが大ヒットしたという話があります。地震を起こすナマズを神様がこらしめるという絵柄で、もう二度とあのような恐ろしいことは起きないと人々を心理的に安心させる目的があったのですが、この後にちょっとおもしろい現象が起きます。当初はこらしめられる役割だったナマズがだんだんと庶民の中に溶け込み、いっしょに生活したりお祭りに参加するなどの絵柄に変わっていくのです。これはどういう意味をもっているのかというと、あれほどの悪夢だった地震がいつの間にかお友達になっているという事です。つまりナマズのおかげで「自分たちは変わることができた。意味ある命を送れるようになった」という観点に変化していったということです。
このことから何がわかるでしょうか?

先日のブログで、多くの外国人が、今回の地震のような環境下でも秩序正しい行動を維持できる日本人の国民性に敬意を向けているという話題について触れました。しかしこのナマズ絵の話題は、江戸時代の頃でさえ、私たち日本人は災害をも自分の糧と変える力をもっていたということになるのだと思います。

日本ひな形論に関しても一度紹介しましたが、かつて日本を訪れたアインシュタインがこう言ったという話も残っています。
「いずれ世界は神に感謝する日が来るだろう。日本という国が存在していてくれたことを。」

このことはあまり信ぴょう性がない話だとして避けられてしまう向きもありますが、私はアインシュタインの人柄から、こういう事を感じとったということは充分ありえるのではないかと思えます。

つまり、こうも言えるのです。日本は今回の災害を契機にして、まず世界で始めに生まれ変わるのだと。
ちょっと大風呂敷でしょうか。まあ大風呂敷でもいいかもしれません。しかしそのように本当に言われることは夢ではないと思います。
今回、あれほど多くの方々が我が身を顧みずに頑張ってくださっています。多くの苦しみを受けた方々も居ます。
その方々の努力を無にしないためにも私たちはがんばるべきであり、がんばれるのではないか…と思うのです。

野菜や牛乳、飲み水に放射線が混入していると大騒ぎになっていますが、この点でもあくまで冷静にありたいと思います。
放射線といえど、少量のものであれば病気になることもないし、むしろナマズのように私たちを変革してくれる友人に成りえるのだとも考えられるのです。かつて水銀汚染によって死の海と言われた水俣湾の海ですらも自然界はそれを浄化する有機水銀分解菌を繁殖させたと言います。自然界の力、そして私たちの体はまだまだ科学ではわかっていない大きな力を秘めているのです。

前例主義(経験上、これだけやれば万全だという判断)でやってきた大堤防が自然界の前ではいとも簡単に破壊されてしまったのですが、逆に、前例主義で人体の限界を設定しても、いざとなったらまだ見ぬ力が私たちを変革する可能性は多いにあるのです。
私たちは今こそ、自分たちの底力を本当に信じるべきなのではないでしょうか。
見かたを変える
 
福島の原発の問題収束にまではまだだいぶ時間がかかるとの発表がありました。被災者の方々や近隣地域に住居のある方にはとても気の毒なことで、本当につらいことだと思います。
 こんなときに、何かできることはないかと支援の輪がひろまっていることも事実です。

本ブログでは「陰陽五行」をもとに物事を解釈していくという事をしていますが、ひとつの世界観を提示することで、まずこころを元気にしていただくということを趣旨としています。

「陰陽五行」には相剋ルートという順番があります。五つの要素の関連でジャンケンのように何が何に勝つという関係性を示します。たとえば「木」という要素は「土」という要素に勝ちます。これは木が土に根を張ってその場所を奪ってしまうという関係性です。しかしそれは単に勝つから「木」が「土」より偉いという事を示しません。勝てる「木」は負ける「土」に自らの力をいくらか与えることで両者のバランスをとろうとするのがその本義となります。五つのすべての要素がそのような関係性で成り立っているのです。

従って、こういう事をメインに据えていくと今回の出来事においても大切なことが見えてきます。この不幸な出来事から何を得るのか…という事です。

かつて地球の草創期には酸素を利用する細菌は存在せずにメタンガスを栄養としていたそうです。それが植物の生成と共に酸素が登場したとき、彼らにとってはちょうど現在の放射線のように死の大気だったのです。
しかし環境に適応する道を選んだ細菌は有酸素下で成長し、それが現在の細胞の内にあるミトコンドリアの先祖だといいます。
こうなるまでには気の遠くなるような年月があったのですが、このことは今の状態にも通用します。

つまり、私たちにとっての一見、不幸な出来事とは環境の激変という形で現れるのですが、私たちはそれに適応する力を持っているということです。

今、最も急務なのは放射線に対する考え方でしょう。以前のブログでも書いたように、単に恐れるのみならず、今こういう事態になったということは、私たちにとって放射線とのつき合い方を変えていくタイミングでもあるということなのです。
単に悪魔的なものと見るのではなく、肉体的にも精神的にも私たちを進化させていく力かもしれない…と視点を変えて行くことから始めましょう。

肉体面では疾患との関連もあって、いますぐうんぬんという事は言えないので、まず精神面から考えていきましょう。
それには五行の「金」という事について考えてみる必要があります。次回から順番に検討していきたいと思います。
金神としての放射線

五行の五つのうち「金」というのは季節では秋です。秋は収穫の季節であるように、収斂という形で不要物を捨ててエネルギーを込めてクッキリとした形にするという意味をもっています。人体で言うと肺と大腸にあたり、ちょうどウンチを作ったり呼吸で吸ったり吐いたりするように「捨てて分ける」という意味を持ちます。
今回の災害のうち、原発というのはエネルギー確保の手段なので熱に関わるので五行では「火」に象徴されますが、放射性物質という点に絞ると「金」になります。なぜなら放射性物質はどんどん分解して「分れる」という事がその発生機序になっているからです。

かたや、日本の文化には「金神」という神様が居ます。金神はいわゆる裁きの神で偽善などは通用せずにバッサリと裁くのです。このバッサリという点から「金」の要素という所に一致があることがよくわかります。

それでは何をバッサリやるのかというと「金」の前にある「土」という所に関わってきます。
「土」は「育みそだてる」という特徴があるように、いわばミソもクソもいっしょに渾沌とした中でのバランスのようなものを重視します。だからある意味、母の胸に抱かれるように気持ちが良いのですが、犯罪者だろうが善人だろうがすべて等しく扱われるのです。
そういう不合理を金神は許さないのです。
だから安楽をむさぼる平安時代の貴族は金神をものすごく恐れました。民衆の過酷な生活を横目に自分たちのぜいたくをむさぼっていた貴族にとっては金神の裁きの対象になることは必至だったからです。
そこで栄えてきたのが陰陽道などの呪術です。
陰陽道は「陰陽五行」をもとにした一種の科学だったのですが、貴族が独占したためにその本義は隠されてしまっていたのです。

さて、今回の放射線漏れはそういった点から見るとまるで金神の裁きのようにも思えませんか?
計画停電になってみて、いままで電気にたよりきっていた私たちの生活が見直され始めました。人間どうしの共感や連絡、協力といったものにも視点が向いています。自らを犠牲にしてもみんなの為にがんばるといった生きかたにも尊敬の念が集まっています。

仮に、ここで今私たちの目の前におきていることを、本気で金神の裁きであると信じた場合、それを非科学的であると無視した場合に比べて、なにか問題があるでしょうか?
逆に自分を見直す機会となるのではないでしょうか?

金神の裁きとかいう表現をするといかめしくなるので、自分を見直すきっかけとでも言えばよいのだと思います。

いまプルトニウムが出たというニュースも出回っていますが、プルトニウムという名前は冥王星を意味するプルートから来ています。そしてプルートはゼウスによって地下に閉じ込められた土星(サターン)を見張る役割を持ちます。つまり「土」の問題を見直すということなのです。こういう事にも今現在の問題点との関連を見出すことができます。一見、偶然の一致に思えることは重要な意味を持つことは実はとても多いのです。

なかでも大切なのは唯物主義や金銭に対する考え方の問題です。こういった点について触れていきましょう。
金神の役割

私たちは経済活動というものをとても大切なものだと思っています。お金がないと生きていけないと思っています。確かにそれは事実でしょう。しかし事実でないかもしれません。

ものすごく単純に考えてみましょう。もし、自分の周りに十人程度しか人がいない小さな集落に居るとしましょう。その場合、お金はたぶん、意味をなさないでしょう。私は家を作るのが得意、あなたは料理が得意、そして彼は医療活動に通じてる…という具合にそれぞれが自分の才を活かすことができれば、お金など必要なしで、しかも互いに信頼感を持ち、互いの役にたっているという充実感をもった人生を送れるはずです。

しかし、人数が増えて不特定多数との交流が始まると、その均衡が崩れ、お金をもって互いの信頼関係を代用するようになり、やがてそこに互いの信頼の代用だったはずのお金が主役に躍り出るようになります。
ついに人は信頼という心の有りかたよりもお金というモノを重視するようになります。これは目に見えないものより目に見えるものを重視する唯物主義に繋がり、ついにはお金がお金を産むマネーゲームへとつながっていきます。(このあたりは5月に出版される『だるまんの陰陽五行.「土」の章』に詳しいです)

今の常識とはこういった流れの上になり立っていることがわかると思います。これを五行で言うと「土」ということになります。つまり私たちの立っている地盤です。そしてその「土」的な社会には上述のような常識観が渦巻いているのです。

しかし、最初に言ったように、もし、状況が異れば常識は変わるという事に注目すると、私たちの立つ地盤とはその程度のものであって、常識に振り回されている自分の姿がよく見えてくると思います。

前回お話した金神というのは、こうした常識観をぶち壊す役割をもっているのです。そして「土」的な常識に立つのではなく、自分という自覚の上に立つ「水」的な世界観へといざなう役割をもっているのです。

実は「水」的な世界観としての予行演習とも言えるものがすでにもう世界に出回っています。それはインターネットです。
いずれ、そのあたりについてもお話しましょう。

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