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ゾルゲ/ケア〜霊性コミュの「隣人を愛せよ」に関するメモ

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「汝自身を愛するがごとく、隣人を愛せよ」

・神・主は私を愛して下さる。
・私はその主を、主が私を愛して下さるように、愛するのを欲する。
・主が私を愛して下さるように、また、私が主を愛するように、私は私を愛さなければならない。
・そのように私が私を愛するように、隣人を愛しなさい。

  *  *  *

イエスはキリスト教徒ではなかった。信者、というなら、全くユダヤ教徒だったのですよね。(おそらく)それが歴史です。
この「隣人を愛せよ」の場合は、教義としてのキリスト教というものがあって、そのイエス像から離れていません。

ただ、この神樣という観念をキリスト教という宗教(社会制度、組織、観念)から解き放ってみたらどうなるでしょう?
そんなことを考えました。

一人の人の子、イエスが隣人をどう見ていたか? これは難問ですね(^ ^)
ユダヤ教徒でありながら、ユダヤ教から飛び、離れた思想を展開したのはなぜなのか。。。その驚くべき柔軟な発想は、どうやって培われたのか、非常に興味深いです。

嫉む神は、隣人を殺してでも自らの民を助けることがありました。イエスはそれを飛び越える発想を取ったのですね。
しかし、組織宗教になったキリスト教は、他宗教を隣人とはしない思想を多分に含むものとなりました。

ブッシュさんが自らを「敬虔」なクリスチャンと自負し、それを認めるキリスト教系保守派と呼ばれる人々。恐ろしい現実です。

イエスの考えた愛(概念)は、おそらく神や存在(概念)と並べて語られ得るほどの抽象度と、自らの、何らかの原経験の統合だったのかもしれません。
彼はそこまで行っていたような気がします。

ですから、凡人はそこまで行くことがなかなか難しく、イエスには苛立ちもあったかもしれません。
もしキリストとしてのイエスを信仰するなら、一つの方法は倣うこと、まねぶことから始まるでしょう。
師─弟子の関係です。
しかし、こうした宗教での師と弟子の関係は、師を飛び越えてはいけない、という前提があります。
芸術ならば、師を飛び越えることが、時には師の喜びにもなるのでしょうけど。。。(-_-;)

しかし、芸術でなくても、思想の領域でも、実は弟子は師を飛び越えても構わない筈のものです。
ただ、思想の場合、その思想の本質をはみ出して飛び越えたとき、その師の思想を名乗るべきではありません。
そして、きっと宗教も名乗るべきではないのでしょう。。。
しかし、体系化とは、実は本質の追求という形を取りながら、本質をずらすことも可能ですし、人間の思考とはそうした要素を含んでいます。

論理が完全な形で守られるのは、論理の世界だけでしょう。それも、閉じられた論理(公理系)の中で守られるものであって、この公理が明確に定義され、いつでも参照可能でなければ、完全な論理とその論理の真偽は、確定できませんよね。(^ ^)

体系化された宗教は、残念ながらなのか、そうでないのか分かりませんが、こうした論理体型を持つことは不可能です。
また、我々の社会全般でも、人工言語以外におそらく不可能です。

あれ? 何を書いてるんでしょう??

すみませんm(_ _;)m

いつも、僕はしり切れトンボになるんです〜。(^^;
たまには、きちんとした文章をかかないと。。。m(_ _;)m

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