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ゾルゲ/ケア〜霊性コミュの8月、という月について

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人は忘却ということを身に付けた。それは生存上、必要不可欠の能力だったに違いない。
人に限らず、生物は忘却を進化のどこかで身に付け、そして生存を可能にしている、そういう存在者である。

しかし“忘却してはいけない”と、人が考えることもある。例えば、戦争の記憶である。
8月という月は、戦争について考えさせられる機会を持つことが多い。それは、第二次大戦で日本が終戦へと向かった月であり、その時その出来事を体験した者にとっては、到底忘れ得ぬ体験が立て続けに起きた月でもあるからだ。

もちろん、それは61年前の8月に限ったことではない、と言う方が適切なのかもしれない。戦争という大きな、しかし歴史上絶えることなく起きてきた出来事は、61年前の8月だけのものではなく、その時、その場で“全ての”“当事者”にとって、忘れられる出来事であるはずはなく、歴史上の何かが“特別”であり他はそうでない、とは簡単に言えないからだ。

ただ、一つの“区切りめ”や“形”はある。
それは“忘却”を“記憶”にするための一種の儀式のようなものでもあるかもしれない。が、その記憶を個人の記憶から、集まり、つながった記憶としていくこと、そしてもう一度、個人の記憶としていくことの、一つのプロセスとして必要なことだと思う。人は“忘却を覚えた”生物だから。

忘却は、生存には不可欠の機能、能力であり、日常を生きるには、その能力を使わなければならない。
その日常に、非=日常を入れ込む行為として、何らかの形を使うということは、古くから行なわれてきた。

日常と非=日常は、理想と現実が、また自己と非=自己がそうであるように、地続きであり、必ずしも背反するものではない。
時として、それらは入れ替わりもするし、どちらが主でどちらが従か分らなくなることもある。分裂性や関係性を本質的に意識に含んだ存在としての我々は、もともと主と従の区別なんてないところから来ているのかもしれないのだ。

“大人の社会”として語られる社会は、実は、日常と非=日常をそれぞれ各人が基準を決めて語っているに過ぎないかもしれないのだ。実際に、“常識”という言葉の意味を捉えることすら、多くの人にとっては困難なはずである。
社会を明確な定義で語ることなど不可能であるのに、可能だとしておかなければ、社会的生活そのものが困難となるのだから、仕方ない部分もあろうけれど、時に日常と非=日常の連続性や交替性、交換性を意識しなければ、ある一つの社会システムの基準が“主”として働きかねない。

太宰治が、「社会とは個人ではないのか」と書いたことは、どこかしらそういう部分があったとしても、100%が道化でも演技でもなかったと思う。恐らく、真剣で深刻なテーゼだ。

忘却、忘れることは、思考停止、考えないことと結びつく。それを体験や記憶がまた元の場に連れ戻す。その揺れ、揺さぶりは生や意識を作ってきたし、今も作っている。キルケゴールが、精神とは自己自身に関係すること、またその関係に関係すること、と言ったとき、無限とも言えるその関係性は、ひょっとして、非常な恐怖であり、不安だったのではないか。

記憶、またその体験を忘却しないための、人々の、とりわけ日本人の知恵としての意味も、8月には、あるように思える。

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