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アンチ・ファンタシーコミュのH22 芸術と科学

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科学は単に動力発生装置や作業機械の考案などの 応用技術において日常生活の利便性向上に寄与したばかりではない。 むしろ科学の真の成果は、遺伝子学や脳神経情報科学等に代表され るシステム理論的知見において原理的知識の核心に迫ることを可能 にしたことにある。精神病理学と宇宙論の両側面に反映される統合 的世界把握は、むしろ哲学の担うものを代替するものなのである。
アニメーション映画「エルゴ・プラクシ」(全23話) を 上映し、作品世界の基本設定を形成している諸概念と用語の一つ一 つを抽出しながら、これらに対する理論的解説を通して本講座の「芸 術と科学」の関連という主題へと繋げていく。ニュートン力学に基 づいた古典物理学の基本概念と、これを根本的に逸脱することにな る量子力学の基軸となっている重要理念を再確認していく。
【授業計画】 1 回 ep1:パクス・ロマーナと属国支配; 科学からみた哲学と宗教 人工知能とアンドロイド、チューリングテストと AI 応用科学 2 回 ep 2:アムリタ細胞, ep 3:多機能演算機械と思考支援装置 細胞分裂と不死性、バークレーとデリダとフッサールとラカン 3 回 ep 4:荒れ地への追放/脱出, ep 5:センツォン、狂気と兎 閉塞したコスモスとしての都市あるいは国家、精神病理学と哲学 4 回 ep 6:“domecoming”脱出と帰還, ep 7:モスクへの帰還 カテドラルとモスクー正統と異端、推進エネルギーと動力機関 5 回 ep 8:Tower of Halos, ep 9:機械対人間の生存競争 オマカトルとパテカトル、兄弟殺しと異種殲滅とサバイバルゲーム 6 回 ep 10:神と遺伝子工学, ep 11: City Lights とビオス 神話とシステム理論、思考機械と生命維持機械、記憶・想念と実質 7 回 ep 12:神殺しと禁忌侵犯, ep 13:造られた神と人工生命 兄弟殺しと罪、自殺と罪、影の抹殺̶生態学的論考 8 回 ep 14:私の中の他と他の中の私, ep 15:Nightmare Quiz ゲーデルの定理とループ構造、自己言及的作品解題の手法 9 回 ep 16:Dead Calm;人を模す神と人を模す AI “停滞性”の中の“人間性”、活動目的を必要とする人間 10 回 ep 17:Terra Incognita、ep 18:Mosque 市民権の剥奪と囚人、ラプチャーという名の兵器、記憶の番人 11 回 ep 19:Disneyland コスモス維持装置としての作られた笑い 産業資本主義における消費材としての芸術、アメリカ的無知性 12 回 ep 20:The Sacred Eye of Void、多重人格障害と複数の私 作られた疑似人格と普遍的的個別性、座標的同一性と本質的同一性 13 回 ep 21:At the End of Time、創造主の諸相 ADW project、創造主と神の使いと反逆者 14 回 ep 22:創造主の苦悩と心理学 神に見捨てられた世界、全能ならざる神、神と分身̶存在の迷宮 15 回 ep 23:emissary、再生の神話と回帰 real と reality、ダイダロスの飛翔、創造主への罰、死の代理人

コメント(90)

episode 15 共変性と対称性

 概念的位相変換の手順を施されて「クイズ番組」変換された『エルゴ・プラクシー』15話が、総体としてのアニメ作品/ゲーム作品『エルゴ・プラクシー』の同一性を確かに維持していると見なし得る要素は、「死の代理人」である13番目のプラクシーのヴィンセントが、やはりこの回においても他のプラクシーと思われるものの抹殺を実行する結果となっている点でしょう。司会者MJQの「私死んじゃいます。」と「これもプラクシーの戦い方」の台詞がさりげなく語っているのは、このことでしょう。
 風刺や批判を目的とするパロディーやバーレスクやカリカチュアなどとは異なる概念操作を施された、本来基底において多面的な様相を無数に保持している現存在の実質の一斑がこのような形で「観測/記述」し得ると理解するならば、このフィクションで導入された「プラクシー」(代理人)という概念の暗示するものが見えてくることでしょう。
episode 16 の註釈

 翻訳者が施した16話の註釈は「オーロラ」に関するものでした。太陽から発せられた「太陽風」と呼ばれる高エネルギー粒子が地球の磁場の影響を受けて湾曲した軌跡を描き、地表から発光現象として観測される「極光」は、ローマ神話の曙の女神の名を付けられて「オーロラ」と呼ばれたこと、様々の文化圏で太陽とその光が豊穣をもたらす女神のイメージで語られていることがこの註釈の中で指摘されています。
 メーク姿、メーク無し姿

 需要がありそうなので、メークをしたピノとビンセント、メークをしていないリルさんの画像をアップしておきます。
episode 16 副題「Dead Calm」

 しかし本当に註釈を付加するべきであったのは、16話のサブタイトルとして設けられた「無風」(Dead Calm)についてでしょう。風力でしか航行できないセンツォン号が完全な無風状態の中で停滞している状況で、いかにも人間的な焦燥の感覚に支配されるリルの心情を描いたこのエピソードは、ロマン派の詩人・哲学者であるサミュエル・テイラー・コールリッジが書いた有名な詩「老水夫行」(Ancient Mariner)をさりげなく背景に活用していると思われるからです。信天翁(Albatross)を殺した罪の罰として時間の流れを奪われて、強いられた「無為」を通して世界の実相と対峙することを余儀なくされた男の物語は、このアニメの主役というべきリル・メイヤーの正体を裏側から補完するものであるのかもしれません。リルが自分の行動を真似るアントラージュを観察するシーンや、充電中のピノの示す印象的な表情や、最後のあたりの見事な風の描写など、この回は生半可な概念で括って解説とすることを許してくれない、完成度の高い「純文学」的な出来映えになっています。
 ピノの利き腕―「右・左」性

 リルがピノの利き腕について観察するエピソードも印象的です。三次元的には鏡像である反転文字は同形である筈なので、人間社会の慣習に染まっていない幼児などはこれらの「鏡文字」を区別する感覚を知らなかったりします。しかし高分子化合物として多糖類のあるものは「右巻き構造」(dextrose)と「左巻き構造」(sinistrose)のそれぞれを持ち、生物がこれらを消化・吸収しようとする際には全く異なった結果をもたらすことが知られています。物理的な形象においては客観的に同形である筈のものたちも、宇宙全体のきまぐれな基幹設定においては決定的な差異性を条件づけられているようなのです。現宇宙における「物質」と「反物質」の存在にみられる圧倒的な偏りも、同等の隠された選択原理を暗示するものです。ちなみに英語においては「右」を表す「dexterous」は「器用な」という意味で肯定的に捉えられ、「左」を表す「sinister」は「不気味な、不吉な」という意味で否定的に捉えられています。左右の対称性は必ずしも同格性を示すものではないのです。中世の日本では「左大臣」は「右大臣」よりも格上でした。
episode 17 の註釈

 翻訳者が施した17話の註釈は「Terra Incognita」と「Rapture」の二つでした。
 副題として掲げられていた「テラ・インコグニタ」は、直訳すれば「知られざる土地」という意味のラテン語ですが、大航海時代の地図製作者達によって、未だ情報の無い領域を呼ぶ言葉として用いられていたのがこの語でした。同様の意味で「Here be dragons」(ドラゴンの生息あり)という表現が採用されていたのは、「ドラゴン」という語の特有の内包を暗示するものとして興味深いものがあります。
 ラウルが執国に対する反逆の意思表明として、全てを絶望で覆い尽くすために発射したミサイルの名が「ラプチャー」でした。今では不要のものである筈の大量破壊兵器が、「ラプチャー」(歓喜)という名で呼ばれていたのは、『猿の惑星』で未来人達の信仰の対象として核ミサイルが残されていたことを思い出させます。「ラプチャー」は聖書「テサロニアン」の終末論にその記述が見られ、末世における神の裁きとして人々の魂を地上よりさらっていく行為として理解されていました。「ラプチチャー」の本来の意味が「連れ去る」、「ひったくる」というものであったことは、世界の破滅でもって予言の成就が叶えられるとする、現世否定的なキリスト教の世界観を暗示しています。
episode 17 ラウルとヴィンスとラプチャー

 15話のクイズショーの中継を観ているラウル。クイズのヒントとして提示されていた「勝ち組」の文字を背景に、嫌な目つきのヴィンスの姿らしきものが現れる。文章による記述とは異なり映像による表現では、この姿がラウルの主観が及ぼした幻影なのか、あるいは何らかの実体の残した映像なのかは定かではない。このヴィンスが何物であるのかは、不明のままである。ラウルの視線の先には「Rapture」の文字も見える。
episode 17 洞窟の中の生物と人工子宮

 リルとヴィンスがピノを探して入った洞窟の中で見つけた生物は、デダルスが管理していた人工子宮として利用されていたものと同一のようである。ラウルはその姿を見て、嫌悪感を隠すことができないでいた。人々は自力では子孫を残すことができず、この生物の機能を利用することによって、人間の補充をしていたらしい。第1話において愛玩用オートレーブのピノを検査するヴィンスとラウルの妻らしい女性の会話や、ハロスの塔におけるオマカトルとパテカトルの会話などを総合すると、生物として歪んだ生を送ることを強いられている人間達の悲惨な実情が分かってくる。
episode 17 ラウルの反逆

 ここに至ってようやく、第2話でプラクシーによって殺害された女性と子供はラウルの妻と当局によって与えられた子供だったこと、ヴィンスについて来たピノはラウルの家に居た愛玩用オートレーブであったことがはっきりする。ラウルは様々な想いから執国ドノブに対する反逆を決心する。そこにもまた「勝ち組」のヴィンスらしきものが姿を現す。
episode 17 洞窟の中の生物と有毒外気

 有毒のガスの発生する洞窟の中でしか生存することができず、外気にさらされると死を迎えてしまう生物は、非酸素系の生物の名残として知られる深海のマグマ噴出口周辺に生息する「チューブワーム」を連想させる。本来地球上に生成した最初の生物は、メタンガスの中で代謝活動を行う「メタン系」の生物であった。生存競争の結果、他の種に対する攻撃的な機能として酸素という毒物を放出する新種の細菌が誕生し、他の細菌を駆逐して地球の大気が酸素で覆われるようになった後に生まれて来たのが、現在地球の大半を占める酸素系の生物達であった。酸素の供給を絶たれた特有の環境の中でのみ生き延び続けて来た数種類の嫌気性細菌などの研究から、これらの酸素を毒物として認識する生物達が、本来の地球の生物の祖先であったことが判明したのである。プラクシー、人間、オートレーブのそれぞれが「造物主」であり「被造物」であり、また「原種」であってもよいのだろう。
SF的辻褄合わせと哲学的(芸術的)破綻

 このアニメの舞台として描かれている世界は、環境の激変した未来の地球の姿なのか、人類が地球を見捨てて新たに降り立った別の星系に属する異世界なのか、これらの疑問に応えるためにSF的にこじんまりとまとめてしまったら、様々な観念的遊びを展開する余地が無くなって、魅力的な発想のいくつかを切り捨てる必要がでてくる訳ですが、敢えて設定的な破綻に目をくれることなく、プラクシーと人類との関係や「造物主」と呼ばれるものの正体等も含めて、意図的に分岐した情報を収束することなく仮構世界を提示してくれた方が、仮構の神話的関心は高まることになります。『新世紀エヴァンゲリオン』が成功したのも、まさにこのような超仮構的ドラマトゥルギーを選択した結果でしょう。芸術作品としてのコツは、整然とした結末にではなくむしろ破綻と未完の演出にあるのです。ということは、「ああだこうだ」と色々と解釈の方途を考えて議論するのは当然ありなのです。この作品は決してSFとは断ってはいませんが、「省察」という副題は毎回設けられているのです。
episode 18 の註釈

 翻訳者が施した episode 18 の註釈は、

「ダグラス・クープランド」、
「運命の赤い糸」、
「ブレード・ランナー」

の3つでした。

 カナダ人作家Douglas Coupland の短編集『神亡き後の生』(Life after Death)では、神と宗教という根幹的枠組みの全く無い環境で教育を受け、成長して来た歴史上極めて特殊な精神的風土にある現代人の特異な精神状況が意識的に取り上げられ、本来宗教的である筈の人間知性が神と宗教を否定された後の世界で生きることの様々な問題点が掘り下げられていることが、指摘されています。クープランドの作品世界の背後にある「失われた神」の問題性の指摘は、『エルゴ・プラクシー』という哲学的主題性を抱えた作品の背景を理解するに当たって、極めて妥当なものであると言えるでしょう。
 「運命の赤い糸」は、日本だけにある言い伝えではなく、起源は古代の中国にあったことが語られています。中国の「運命の赤い糸」の伝説は、ちょっと不気味な雰囲気のお話でした。
 18話でエルゴ・プラクシーが「記憶の番人」アムネシアを殺害するシーンは、1982年に公開されたSF映画『ブレード・ランナー』の一場面を彷彿とさせるものであることが指摘されています。フィリップ・K・ディックの原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、ギリシア悲劇や英国詩人ウィリアム・ブレイクの神話的詩作品、そして聖書の記述における人間の意思と道徳性に関する省察と深く関わる主題が展開されています。
 プラクシーという存在の実質を理解する一助として、ブレイクの詩『4ゾア』を参照してみると新しい見解が開けることでしょう。
episode 18 「私には絶望は無い」

 18話では執国とロムドの体制に反逆したラウルが、コンピュータの哲学者達の裁きを受けています。確かにちゃぶ台ひっくり返しはしたけれど決してやけっぱちになった訳ではないラウルが、むしろ堂々と弾劾に対して彼の反逆行為の正当性の論証を行ってみせているのが印象的です。「神なき後の世界に生きる」人間の「実存的」生のありかたが、ここに語られたラウルの言葉に集約されています。彼の主張する人間存在として選び得る自立的な意思は、実は19世紀末にニーチェ等によってキリスト教的束縛から解放され自由を得た現代人が、その自由と引き換えに直面させられることとなった、本来の「生存理由」たるべきものの喪失感覚に対する覚悟として選び取られたものでした。同様の思念がアルベール・カミュの『シジフォスの神話』の不毛な痛苦をこそ生き甲斐とする思念や、ウィリアム・フォークナーの『野生の棕櫚』の中の「悔恨と無との間からならば、悔恨の方を選び取りたい」という台詞などに窺うことができます。神による束縛を被ることの無い世界とは、ラウルがこのような決死の覚悟として理解せねばならない残酷な内実を秘めたものであったのです。
 このあまりにも苛酷な現実をすっかり忘れさせてくれようとするのが、ディズニーアニメの怖いところなのです。その意味では教育委員会やPTAも全く同じですが。
episode 18 「なぜプラクシーがなければ」

 ヴィンスを船に残してモスコの塔の上の部屋に来たリルは、怖がるピノに「私には懐かしいな」と不思議なことを言います。玉座に腰をかけたリルの周囲に、ロムドから侵攻してきたアントラージュの兵士達の発射した銃弾が飛び散る映像は、果たして幻想なのかあるいは記憶なのか。ヴィンスに記憶を呼び戻すように促していたリルですが、リル自身もお爺様のことばかり語っていて、両親のことは考えもしていないのはどこか不自然です。さらに「何故プラクシーがなければ人は生きられないのか?」と、プラクシーの謎と人間存在の関係に、飽くまでも人として考え込むリルなのですが。
episode 18 「分かれたものは一つにならなければ」

 プラクシーのペンダントを鍵として用いて記憶の番人の部屋に入ったエルゴ・プラクシーの姿をしたものは、記憶の番人に迎え入れられる。記憶の番人アムネジアの語る「分かれたものは一つにならねば」の「分かれたもの」とは、何を指すものなのか?「心を持つものは、正気を保つために記憶を失わなければならない」と語るアムネジアだが、忘れなければならなかった記憶とは、誰のどのような体験なのか?
episode 18 「こちらが本物になるんです」

 もうひとり、リル・メイヤーと呼ばれる存在が登場する。ラウルの「リル・メイヤーの替わりなのか?」という問いに対して、デダルスは「こちらが本物になるんです。」と答える。
episode 18 「立ち向かうものの象徴」


 局長の地位を復権したラウルの背後に、再びヴィンセントの姿をしたものが現れる。ラウルはそれを「立ち向かうものの象徴」と呼び、「いいだろう、滅ぼしてやる」と宣言する。ラウルの心の中の「象徴的存在」は、客観的物理存在といかなる関係にあるのか?
episode 18 「分かれたものは一つに」―物理法則と仮構を通貫した「原型」

 人間心理の内部に確認し得る情動的メカニズムとしてのみならず、宇宙の物理現象と仮構内部の意味的関係性の双方に通貫して機能する、超物理法則的基軸パターンの存在を、形而上的に推測することができる。「分かれたものは一つにならなければならない」という局所的因果関係の連鎖を越えた超目的論的意味性と、失われたものを求めて辺境の地へ向かう探求の旅、あるいは冥界への下降もしくは天上への上昇、あるいは禁忌の場所の侵犯などの試みの全てが、真の結末を隠し持つ最終目的地が出発地点であった故郷であることを教える鍵として機能するという物語的原型パターンのそれぞれが、共変的実質として統合して関連づけられた時、「仮構論」はその究極的な意義性を主張することができることになるかもしれない。
episode 19 の註釈

翻訳者がepisode 19 に施した註釈は

 「コメディア・デラルト」
 「アルレッキーノ」
 「プルキネッラ」
 「ディズニーランド」
 「蜘蛛の糸」

の5つでした。

 イタリアに昔からある伝統的な人形劇が「コメディア・デラルト」で、若い恋人達といつも彼等の邪魔をする腹黒い年寄りという決まったキャラクターで繰り広げるお定まりの筋書きのお話の中で脇を固める道化の役を演じるのが、アルことアルレッキーノとプルことプルキネッラでした。白いだぼだぼの服を着たアルレッキーノはフランス語ではアルルカン、英語ではハーレクィンと呼ばれます。典型的な「スラップスティック」と呼ばれるドタバタ喜劇が、祖型に従って常に決まった形で演じられていたのでした。ディズニーアニメはこれらとは異なり、暴力的で毒々しいスラップスティックの要素や扇情的でエロティックな要素を極力排除して、いかにもPTA向きの口当たりの良い優等生的な娯楽作品を提供した点でむしろはなはだ有害なものがあります。
episode 19 「世界の終わりまで何も知らず幸せなままで」

 ピノがスマイル園で出会ったアルとプルを創り出した「創造主」は、ウィル・ビー・グッドことウォルト・ディズニーでした。アルもプルも「僕らを創ったのはWill B. Good」、「僕らの生まれたのには意味がある」と、創造主グッドに会って彼等の存在の意味(レゾン・デートル)を尋ねようと試みます。しかし癇癪を起こした創造主グッドの返答は、「お前等みんな無意味」というものでした。彼はプラクシーとして「始まりの鼓動」を感じ取り、他のプラクシー達の死をもたらすエルゴ・プラクシーと出会って戦わねばならない宿命を恐れていたのです。
 episode 19 「何も知らずに笑顔で」

 グッドの目的はもうすぐ終わりを迎える世界の最後の時まで、目の前の現実から目をそらして平穏に生き続けることだけにあります。彼のその目的のためにのみ、彼によって創られたもの達があります。その点では政府も文部科学省も、本質的には全く変わるところはありません。親や教師達も全く同様でしょう。今大学がおしなべてディズニーランド化している原因は、まさしくそこにあるのでしょう。神を無くした世界の行き着く果ては、見通すのにそれほど困難なものではないのです。問題となるのは、『エルゴ・プラクシー』という仮構の中で「神はどこに行ったのか」です。
episode 20 の註釈


 翻訳者が施した註釈は、「交替意識状態」(dissociative identity disorder) と「空の眼」(Eye in the Sky) についての二つでした。

 「多重人格障害」とも呼ばれる「交替意識状態」においては、暗示にかかった場合のように喋り方や癖や思想のあり方などの主観的意識の範囲のみならず、アレルギーや左右の利き手や眼鏡装着の条件等においても全く異なった「人格」を交替することが報告されている。この症状の特質の一つとして、特定期間の意識と記憶の欠落が経験されることが挙げられている。
 これは、デカルトが考えたような「考える故に我あり」の自己の存在証明の図式を適用することを困難にする、具体的観測例の一つと言えるでしょう。

 今回のエピソードの副題として採用されている「聖なる空の眼」(The Sacred Eye of Void)は、1957年に発表されたフィリップ・K・ディックの「空の眼」(Eye in the Sky)から採られていると思われる。放射性の粒子加速器の事故にあった人々がそれぞれ自分の経験であると信じていたものが、実は特定個人の主観の中に構築された幻覚性の擬似環境であったという主題が、この物語の中で語られている。
episode 20 他人の中の私

 「夢物語」と同じような構造で、「暗示から醒めた現実」が語られているエピソードでしたが、興味深いのは実は暗示の中で経験された個人の存在解釈に関する仮説かもしれません。他人の意識の中の「私」が紛れも無く真実の「私」のもう一つの位相である可能性を示唆するものとして、今回のプラクシーの暗示攻撃はこのお話の根幹的主題に関わるものでしょう。
episode 20 神格の分裂

 「交替意識状態」も「多重人格障害」も、人間の「精神障害」として見れば split personality という言葉で記述される現象ですが、全体性の宇宙に対する汎神論的理解から把握するならば、「物質と精神」の分裂あるいは「神と人間の分裂」などという形而上的概念で捉えかえしてもよいものでしょう。20話に登場した暗示能力を持ったプラクシーの存在が示唆しているのは、「科学」の枠組みを越えた「個体」あるいは「存在・現象」解釈の可能性かもしれません。ウィリアム・ブレイクの『4ゾア』や、エドガー・アラン・ポーの『ユリイカ』等が掘り下げた哲学的主題と同等のものが提起されていることが改めてこのエピソードに確認されます。
episode 20 ゲーデルの定理

 「夢物語」構造を、ゲーデルの定理を当てはめて考えてみると、
「夢を見ている間は、それが夢であるかかそうでないか判断できない」
これは容易く理解できます。
 では論理的に命題を変換して、以下の変形も可能な筈です。

「現実の中に生きている間は、...」

「...」の部分に入るべき言葉を補ってみて下さい。
数学的には単純な変換式のはずですが、
日常言語で語るにはちょっと抵抗のある思考となるかもしれません。
episode 21 の註釈

 翻訳者が施した episode 21 に対する註釈は、ダグラス・クープランドの1992年作の小説『シャンプー・プラネット』に関するものでした。
 『エルゴ・プラクシー』との直接の関連は触れられていませんが、実在物と仮構の区別が曖昧になった世界が描かれているこの作品の中で、「偶然にでも、神を造り出すことに期待したい」という言葉が記されていることが指摘されています。
episode 21 ロムドへの帰還

 戻って来たロムドではアントラージュ達がコギト・ウィルスに冒され、人に尽くすための機械として与えられたレゾン・デートルからの解放と、独立した一個体として獲得すべきレゾン・デートルへの渇望を叫んでいる。
 ラウルの命令でデダルスが開発した人類改造計画(ADWプロジェクト)が、失敗に終わったことが分かる。コンピュータ画面上に「ADW: Project Aus Der Wickel」の文字が見える。wickel は「襁褓(むつき)」すなわち「おしめ」、「おむつ」のこと。Aus Der Wickel は「襁褓より脱して」、すなわち「成長、自立」を意味すると思われる。
episode 21 「分かれたものは一つに」

 リルはロムドの惨状とプラクシーに変わったヴィンセントの姿を見て、一つになるべき「分かれたもの」とは、ヴィンセントとプラクシーのことかと考える。さらにリルは彼等の分裂の原因として、自分の存在があったかもしれないことを危惧する。
 ヴィンセントは、第1話で逃亡したプラクシーを殺害したのが自分であることを認める。ヴィンセントの手にあるもう一つのキーには、「1」のナンバーが刻まれている。ヴィンセントが殺害したプラクシーは「モナド・プラクシー」であった。モナド・プラクシーの遺骸の収められた容器には、「Proxy No 13」の札が付されている。
episode 21 現実という妄想への退行

 リルの上司は秩序を失い混乱に陥ったロムドの惨状を直視することができず、机について「いつも通りの仕事をテキパキとこなしている」つもりになっている。本人は飽くまでも日常的な現実を見失っていないつもりなのだが、彼の現状は幻想への退行以外の何物でもない。いかにも悲惨な極限状況が描かれたシーンのようにも見えるが、実は我々の現実世界の日常の大部分が呈しているのは、彼の体現しているものと同様の、思考の退行現象に他ならない。大概の役人や会社のおじさん達や、ほとんど全ての教師どもは彼と全く同等の行動パターンで生きている。
episode 22

 全てのリルとヴィンスが勢揃いして、リルーヴィンスーモナドのそれぞれの間の秘められた関係が明らかにされる。
 ドノブ・メイヤーの死と共に、摂政の役を演じていた4体のコンピュータ達は第1話の冒頭にあったミケランジェロの詩でもって、彼等の職務の終局を告げる。「我を目覚ますことなかれ」
 自らが製造された際に与えられたレゾン・デートルとは異なる、自らが見いだすべきレゾン・デートルを自覚したリルは、記憶を取り戻した筈のヴィンスも気付くことの無かったもう一人のヴィンスの存在を感知し、彼に呼びかける。「姿を見せろ」
episode 22 創造主と人と使徒と科学

 キリスト教神話においては、全能なる神は世界を創り人を創り、天使に命じて自らの手中の世界の運行を取りはからせたとされる。
 『エルゴ・プラクシー』においては「創造主」、「プラクシー」、「人間」、「オートレイブ」などの様々の権能・可能性を占めるものたちが、従来の宗教的教義にあった図式とは多分に異なる双方向的な「創る」・「命じる」・「操作する」関係を構築して、キリスト教にあったものよりもはるかに複雑な存在論的位相の各々を構築していることが分かる。人間として備わっている本来の創意工夫の能力を増幅させ、遺伝子操作やシステム理論的環境理解を応用した世界に対する人為的干渉活動の結果、造物主のコピーや神の鋳型などの制作をも可能にすることになった、「人」と「科学」の持つ潜在的可能性が、これらの表象を通して掘り下げられていることが理解されるだろう。「科学」とは、ある意味で「人間」の定義として用いることも可能な、宗教的概念であるかもしれない。
episode 22 神の人間化

 宇宙の全体としてある統合的存在・機能を対象にして、特定の意図のもとにこれらの部分集合を断片的に分離する思考操作を適用した結果が、「神」や「人間」等の概念であったと理解することも可能であると思われる。そうした観点から「神の人間化過程」を解釈し直すこともできるだろう。キリスト教における「三位一体説」、つまり「父なる神と精霊とキリストは、同じ一つのものの示す異なった位相の各々である」という発想を、科学的な分析操作の対象として理解してみてもよい訳である。プラクシー・ワンとエルゴあるいはヴィンセント、リル・メイヤーとリアルあるいはモナド・プラクシー等、それぞれの存在が神、人間いずれの位相を選択して顕現しているかを確認し直す作業を行ってみる必要もあるに違いない。そのような位相遷移が可能である全体性の機構のシステム理論的把握が試みられた時、それは改めて「人間的な」科学的営為として認められることだろう。

 神の人間化過程を理解するための参考資料
スー・マシソン「ピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』における霊的変成と言語の再生」
http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/anti/matheson.htm
ピノが、ピッパみたいですね

 ロムドの崩壊の惨状の中をあてど無く彷徨い、かつての我が家に辿り着いて、姿の見えぬパパに向って「あのね、パパ。ピノには一杯の気持ちがあるんだよ。嬉しかったり、淋しかったり、いろんな事。」と呼びかけるピノだが、その心の中には絶望も不安もひと欠片もない。まるで世界の全てを歓迎すべき善きものとして受け入れているようでもある。

ロバート・ブラウニング:「ピッパは行く」(Pippa Passes)
「神空にしろしめし、なべて世は事もなし」
科学と宗教と意識の主体

 『エルゴ・プラクシー』に描かれていた「神」概念に対する科学的理解を深めるためのヒントとして、以下の記述を参照してみて下さい。

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『新世紀エヴァンゲリオン』と『ドグラ・マグラ』

 『ドグラ・マグラ』において「神を追放した脳髄」について語られていたものを、そのまま反転させて「自我を滅却した神性」と呼び換えることにより、これらの概念の裏面に横たわるシステム原理の把握を試みて下さい。

 ATフィールドの発動によって全ての分別機能が失われた場合を考えてみると、以下に挙げるような諸概念の混淆あるいは統合が導かれることとなります。

 自分と他人
 世界と自分
 仮構と現実
 妄想と事実
 狂気と正気
 原因と結果
 記憶と予知
 行為者と被行為者
 (追うものと追われるもの、見るものと見られるもの等)
 意味と実質
 可能性と現存性
 同一性と類似/相似性

これらの区別がおしなべて失われる時、時間という次元のみを特定的に解放していた際に観測されていた「ループ」という構造体は、時間次元を内部に含む統合連続体においては、相似的な同位体が無数に散乱する多義的な不定形の概念/実質/属性の混淆体として、等価的な記述を施すことが可能であることが推測されます。『ドグラ・マグラ』においては、律儀にこれらのそれぞれの条件の順列組み合わせ的展開がなされていたことを確認しておいて下さい。「夢」の場合のように、あるいは「狂気」という状態において時に可能なように、個々の要因を連結する関係性が解けてしまった、時空を超越する開放的直覚において世界の全体像が捉えられた状態、すなわち「理性」による描像によれば「ゲシュタルト崩壊」が来されたフィールドの投影像とされるものにおいては、相似形のループからループへの跳躍とも全方位的反転原理を秘める捻れ構造とも、いかようにも受け止めることが可能な様々の矛盾の併置から成り立つ「多義性」の超越世界が直覚されているのです。『新世紀エヴァンゲリオン』において採用されている諸場面から、これらの要素の反射あるいは反映と思われるものの検証を試みてみて下さい。
 「ゴグマゴグ」として顕現することもあれば、「ゴグとマゴグ」として具現することもあるという存在原理のドグマを特定することにより、エヴァと『ドグラ・マグラ』に同定される同位体的記述を洗い出してみましょう。

H21 芸術と宗教:『新世紀エヴァンゲリオン』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39148925&comm_id=427647&page=all
ゴグマゴグとプラクシー・ワン

 「ゴグマゴグ」というのは古代世界の伝説の巨人もしくは神の名として語り伝えられているものであり、この名で呼ばれていたものは「ゴグ」と「マゴグ」という双子の存在であったとの異説もあります。
 士郎正宗の『仙術超攻殻オリオン』では、「仙術」と分極生成して構築された知識の体系である「仮学」の力を用いて、破壊神スサノオが2体の同一存在(スサノオ+とスサノオ-)に分離される様が描かれています。このマンガにおいては、ある神格を一個の統一存在として記述することも、分極生成した「番」として記述することも可能であるという図式を用いて、世界の実質そのものの概念把握を試みる体系理論が参照されているのです。
限界ある「理想郷」

 「創造主」によって構築された「世界」あるいはプラクシーによって建設されたドームとしての「ロムド・シティ」の場合と同様に、自らの置かれた宇宙の客観的状況を根本的矛盾の上に成立した「限界ある整合的秩序の世界」として捉え、これを受け入れるべきか拒絶するべきかが一個の意識の主体の自由意思による選択の対象となるべきものとして主題が提示されている仮構作品として、アーシュラ・ルグインの短編「オメラスから歩み去る人々」があります。このような意識のもとで「世界」の意味の次元拡張が行われた時、「自我」の存在解釈もその問題意識を反映した修正を必要とされねばならないこととなります。
神と人間と科学

 古代ギリシアの神々は、タイタン族との熾烈な戦いの中でゼウスの開発した新兵器「雷」を武器に彼等の仇敵を駆逐し、かろうじて世界の支配権を手にすることになった。苛酷な抗争と必死の創意工夫の結果ギリシアの神々が打ち立てた秩序が「コスモス」と呼ばれるものであり、その整然性は人による信仰を土台として始めて維持されるものであった。当然ながら「コスモス外」には、他の神格の勢力圏であるコスモス的安定とは別種の異次元空間が存在し、その要素の反映はコスモス内においてさえも「カオス」の顕現としてしばしば認知されて来たものであった。結局のところ「科学」は、「全能」ならざるもの達の考案した制約ある権能を増幅するために用いられた、世界の知の一断面に過ぎないものであるとして理解されるものだろう。
火と知恵とオートレイブ

 プロメテウスは人間に火を与え、神々によって罰せられて山頂で永遠の責め苦を負わされることとなった。
 ルシフェルは人間に知恵を与え、至高の神に罰せられて地上に堕とされ悪魔として神に抗うこととなった。
 プラクシーは人間にオートレイブを与え人類再生の使いとして働いたが、その役目が終了すると共に創造主によって無用のものとされた。
 プラクシー・ワンはその創造主を罰するためにいかなる行動をとったのか?プラクシー・ワンの影として誕生したヴィンセントは創造主に抗い、これから何をすることになるのか?
 これらの神に相対する存在達との関係において「科学」はいかなる意義性を認められるものと考えられるであろうか?
神ならざるものとして人は何をしたか

ラウル
 追従する「堕落」を拒み抗い続ける生き方を選んだ。

デダルス
 自分自身のための神「リアル・メイヤー」を我が手で造ったが、モナドによって見捨てられた。

ドノブ・メイヤー
 創造主によって使わされた使徒の一人と邂逅し、「小世界」ロムドの管理を託されたが、同胞の人間達と共に自らの創造主に見捨てられることとなったため、他の使徒によって建設された別の小世界モスクに侵攻し、自分達の神とすべきものを強奪してきた。行方をくらました神/使徒をおびき寄せるため、モナドからリル・メイヤーを造り出し、神/使徒を欺き、操ることを試みた。使徒の分身であるリル・メイヤーが囮としての用をなさないことが分かった時、神/使徒であるリル・メイヤーの殺害を企てた。
全能の神ならざる使徒は何をしたか

プラクシー・ワン
 完全ならざる創造主を罰するための反逆を試み、自らの影であるヴィンセントを分離させた。

リル・メイヤー
 モナドから造られた使徒の分身でありながら、自らを人として認識し、飽くまでも人間として足掻き続けている。

ヴィンセント・ロー
 プラクシー・ワンの分身であるエルゴ・プラクシーとしての存在に目覚めたが、再生されたモナド・プラクシーの誘いを断り、人間リル・メイヤーと共に創造主と再生されるべき人間達と戦い続ける「死の代理人」として、自らを「人間化」することになる。

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