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日本キリスト会川崎教会コミュの「救い主への期待」

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「救い主への期待」


*ヨハネによる福音書 7:25−36

 さて、エルサレムの住民のうちの幾人かが言っていた、「この男は、指導者たちが殺そうと狙っている人物ではないのか。それなのに、どうだ、公然と語っており、あの人たちは彼に何も言わない。ひょっとすると指導者たちはこの男がキリストだと本当に知ったのだろうか。しかし、われわれにはこの男がどこからの人かがわかっている。キリストが来る時には、どこからの人かを誰も知らないはずだ」。
 そこで、イエスは神殿で教えているときに、叫んだ。次のように言って、「あなたがたには私がわかっており、どこからの人であるかもわかっている。しかし私は私自身から来たのではない。私を派遣した方、あなたがたにわかっていないその方は本物である。私にはその方がわかっている。私はその方から来た者であり、その方が私を遣わしたのだからである」。
 そこで、人々は彼を逮捕しようと狙った。しかし彼に手をかける者は誰もいなかった。彼の時がまだ来ていなかったからである。群衆の中からは多くの人々が彼を信じた。そして「キリストが来る時には、この人が行なったよりも多くの徴を行なうのだろうか」と言っていた。
32 ファリサイ派の人々は、群衆が彼についてこれらのことをささやいているのを聞いた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は、彼を逮捕するために下役たちを遣わした。
 さて、イエスは言った、「私はまだしばらくの間はあなたがたと共にいる。そして自分を派遣した方のもとに往く。あなたがたは私を求めるだろうが私を見つけることができなくなる。私のいるところにあなたがたは来ることができない」。
 ユダヤ人たちは互いに言い合った、「この男はどこへ行こうとしているのだろう。われわれが彼を見つけることができなくなるとは。まさかギリシア人の(間に分散している)ディアスポラへ行って、ギリシア人を教えようとしているのではあるまい。彼が言ったこのことばはどういうことだ、『あなたがたは私を求めるだろうが私を見つけることができなくなる。私のいるところにあなたがたは来ることができない』とは」。
新約聖書翻訳委員会訳


§「希望の兆し」

昨夜の嵐のような一日の後、今日はとても美しい朝を迎えました。紅葉も大分進みましたね。先日、飼っているセキセイインコの雛が久しぶりに生まれました。最初に生まれたのは、2009年のお正月でした。高橋秀良牧師が天に召されてすぐのことで、雛の鳴き声と生命の誕生に励まされたことを思い出します。
  今週は、衆議院の解散と年内に選挙があるというニュースがありました。どのように人々を助けたいのか、どのような社会を築きたいのか、という議論はほとんど聞かれることなく、党派の駆け引きと足の引っ張り合いだけが目立つ日本の政治にうんざりします。彼らに悔い改め、改心の時が来るようにと祈ります。また、保守政党や、ポピュリズムの政治家ばかりでなく、人々の健康や福祉、そして環境を大切にすることを掲げる、草の根の革新政党が生まれ、そして育って欲しいと切に願います。
  イスラエルでは、イスラエルと、パレスチナの政権を担う過激な政党であるハマスとの間の衝突が激しくなり、イスラエルがハマスのリーダーたちを暗殺し、一般市民がたくさん住むガザ地区への空爆が続いています。イスラエルは一貫して、平和のために軍備が必要で、軍事行動が必要だと言い続けていますが、これは間違っています。暴力や差別的な政策や法律で弱い立場の人たち、パレスチナの人たちを踏みにじるのでは、平和は訪れません。イスラエル人が大切なら、パレスチナ人も同じように大切なのだ、という愛と平等の精神が平和をもたらします。軍事力の公使や暴力は、憎しみの連鎖を引き起こします。

・「みんなテロをやめさせるにはどうすればいいかと考えている。でも、実際はテロを止める簡単な方法があるんだ。テロに荷担しなければいいのさ」ノーム・チョムスキー  Everyone’s worried about stopping terrorism. Well, there’s really an easy way: Stop participating in it. Norm Chomsky.

  これは、言語学者で平和運動でも活躍するノーム・チョムスキーの言葉です。(Power And Terrorという小冊子に掲載)テロを止めるには、侵略や抑圧(大国、あるいは侵略者によるテロ)をやめるのが第一歩です。軍事力や恐怖心で人々を押さえ込むことはできません。
  「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」という言葉の通りに、愛を実践していくことで平和が訪れるのです。これを命をかけて人々に教えたのがイエスでした。


§「救い主への期待」
 
  今日の聖書箇所に、「この男は、指導者たちが殺そうと狙っている人物ではないのか。それなのに、どうだ、公然と語っており、あの人たちは彼に何も言わない。ひょっとすると指導者たちはこの男がキリストだと本当に知ったのだろうか」(ヨハネ 7:25〜)という表現があります。
  これは、実際のイエスの性格の特徴の一端をよく捕らえていると思いますね。語るべきことをもつのなら、それを語りなさい、恐れるな、と言われているような感じがします。
  ルカによる福音書でも、イエスが、洗礼者ヨハネを投獄して殺してしまったガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスを恐れる様子なく、アンティパスをずるいことを指す、「狐」と呼んだ箇所があります。

*「行って、あの狐に言うがよい、『見よ、私は今日も明日も、悪霊どもを追い出し、癒しを行い続ける。そして三日目には、私は全うされるだろう』、と。いずれにせよ、私は今日も明日も次の日も、進まなければならない」ルカ13章より

  どんな邪魔をされても、脅されても、私にはやらなければならないことがある。『見よ、私は今日も明日も、悪霊どもを追い出し、癒しを行い続ける。(中略) いずれにせよ、私は今日も明日も次の日も、進まなければならない」、というのは力強いですね。大変勇気づけられます。
  イエスの生き方は、私たちの大切なお手本です。MLキング牧師は、このことにしっかり気づいていました。

・「私たちが作り出した抵抗運動を、物理的(肉体的)な暴力に貶(おとし)めてはならないのです。(We must not allow our creative protest to degenerate into physical violence.)」、「くりかえし、くりかえし、私たちは魂の力によって、物理的(肉体的)な暴力に立ち向かうという、威厳ある高みへと、私たちは昇っていかなければならないのです。(Again and again, we must rise to majestic heights of meeting physical force with soul force.)」...M.L.キングJr.

  この世界での、改革者も主イエスを同じ困難を経験します。

・イエスは私たちの罪のゆえに、あるいは私たちの罪が原因で死んだのだが、それを私たちの罪のために(引用者注:代償として)死んだのだと誤解してはならないのである。イエスの犠牲の死はイエスが私たちの身代わりとなったので救いをもたらすのではなく、私たちがイエスと同じ生き方をするから救いをもたらすのである。 
 神の根源的なあり方は、イエスにあって受肉し、文明の常識(私たちの罪あるいはこの世の罪)がイエスを処刑した。人類の進化の中で不正が生まれ、(それが)暴力によって保たれてきた。正義は暴力によって抑圧され、踏みにじられてきた。この真理に直面せよというのがイエスの処刑が与える警告なのである。その警告に耳を傾けるならば、それが救いとなるのである。  
                                                                                                            ...J.D.クロッサン

  救い主は、決して、私たちの身代わりとなって苦労を取り去ってくれたので、私たちはもう何も考えないで、ただ救われた、と言っていればいい、というようなことではないのです。
   当時のユダヤ人の多くが待ちわびていたのは、ローマの支配からユダヤ人を解放してくれる強い政治的・王的メシアでした。それは、イエスの姿とは大きく違います。民は、その強いメシアに問題をすべて解決してもらいたいので、その力を示し、メシアとしての力を見せてもらいたいのです。そこで人々はメシアの奇蹟を求めていたのですが、彼らが期待していた政治的・王的メシア(=神の子)に求められていた奇蹟の種類は、石をパンに変えたり、エルサレム神殿の尖塔の上から飛び降りても天使によって守られて無傷ですむ(cf.マタイ4章、ルカによる福音書4章)というような、超自然的で、人目を惹く、「救いの時の接近を告げる『しるし』の奇跡が求められた」(大貫隆)のに対し、イエスが行った奇跡、あるいは奇蹟物語は、病気の癒しや、嵐を鎮めて、舟の同乗者たちを助けたり、嵐のために舟を漕ぐのに苦労している人々に、恐れるな、と語るという種類のものでした。
   これらの大きな違いは、人々が、その到来によってすべての問題が解決される、スーパーマンを求めていたのに、イエスはそのような存在ではなく、私たちと共にいて方向を指し示し、励まし、恐れるなと言ってくれる存在なのです。
  政治的・王的メシアを求める人たちは、イエスの奇跡を、自分たちが求める奇跡(しるし)だとは思っていなかったらしく、奇跡物語がたくさん続いた後の8章11節以下で、「天からの徴を彼に要求」します。それに対し、イエスは「この世代はなぜ徴を要求するのか。アーメン、私はお前たちに言う、この世代には徴は絶対に与えられないだろう」(12節)と応えます。
 
 次の箇所も、イエスがご自分が政治的・王的メシアではないこと、またそういう者を熱望することすら間違っているということを語りかけています。

*マルコ13:21〜23
 そしてそのとき、誰かがあなたたちに、「見よ、ここにキリストがいるぞ」とか、「見よ、あそこだ」とか言っても、信じるな。なぜならば。偽キリストらや偽預言者どもが起こり、できるならば選ばれた者たちを惑わせようと、徴と奇蹟とを行なうだろう。あなたたちはしかし、警戒せよ。私はあなたたちに一切をあらかじめ告げたのだ。

 神の国がもう手に届くところに実はあるんだ、もっとも小さな者こそが救われるんだ、ということを説きながら、病気の癒しを行っておられたであろうイエスの価値観は、政治的・王的メシアを望んでいた人々とはまったく違っていました。このことは、戦争での勝利を望む人々とも、まったく価値観が違うのです。
  心の平和。クリスマス物語で、マタイによる福音書の1章に、「『見よ、乙女が身重になって男の子を産むであろう、そして人々はその名をインマヌエルと呼ぶであろう』。この名は訳すれば、『神、我らと共に』という意味である」とあるとおり、神さまが共にいて、どのような社会の状態にあっても、私たちの心は神の国に住み、神愛に生きることができる、そして、心の平和を得ることができるというメッセージなのです。
  そして、その心の平和は、私たち自身が共に手を携えて困難を乗り切り、私たちの人生を生きて道を切り拓いていくことで得られるのです。そして、神が私たちと共におられる、ということが何よりの支えとなるのです。

・「見よ、乙女が身重になって男の子を産むであろう、そして人々はその名を『インマヌエル』と呼ぶであろう」。この名は訳すれば、「神、我らと共に」という意味である」(マタイ1章)






     2012年 11月18日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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