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日本キリスト会川崎教会コミュの「人々の揺れる心」

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「人々の揺れる心」


*ヨハネによる福音書 7:1−13

  この後、イエスはガリラヤをめぐっていた。つまりユダヤをめぐろうとはしなかったのである。ユダヤ人たちが彼を殺そうと狙っていたからである。
  さて、ユダヤ人たちの祭りである仮庵祭が近かった。
  そこで、彼の兄弟たちが、彼に向かって言った、「ここから移れ。そしてユダヤに往け。お前の行なっている業をお前の弟子たちに看ることができるように。ことをひそかに行ない、自分が公(おおやけ)のものであることを求めるような人は誰もいない。これらのことを行なっているのなら、お前自身を世に顕(あらわ)せ」。つまり彼の兄弟たちも彼を信じていなかったのである。
  そこで、イエスは彼らに言う、「私の時機(とき)はまだ来ていないが、あなたがたの時機はいつでも用意されている。世はあなたがたを憎むことはできないが、私を憎んでいる。私が世について、その業が邪悪であることを証ししているからである。あなたがたは祭りにのぼるがよい。私はこの祭りにはのぼらない。私の時機がまだ満たされていないからだ」。こう言って、自身はガリラヤに留まった。だが、兄弟たちが祭りにのぼった時、その時になってあらわにではなく、ひそかに彼もまたのぼった。
  さて、ユダヤ人たちは祭りの間、彼を求めていた。そして「あの男はどこにいるのだ」と言っていた。そして群衆の間で彼について大いにささやきあわれていた。一方で、ある人々が「善い人だ」と言い、他方、他の人々は、「いや違う、群衆をたぶらかしているのだ」と言っていた。もっともユダヤ人たちへの恐れのため、彼について公然と語る者は誰もいなかった。
新約聖書翻訳委員会訳

§「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」

  秋も大分深まって、紅葉も少しずつはじまってきましたね。ここのところ、ご家族やご本人がご病気、というお知らせが多く、おひとり一人を思いながら、ご快復をお祈りしています。
  私たちにとって、日々触れ合う人々は、皆、とても大切です。「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」、というイエスの言葉と共に、日々暮らしていくことができることは幸せなことだと思います。
  先頃、家族の会話の中で「おいしいハンバーガーのこわい話」(エリック・シュローサー)という本が話題になりました。ファスト・フード・チェーンやアメリカの巨大な食品会社による効率と利益追求優先の経営方法や家畜の育て方などについての問題について書かれた本で、その内容は大変ショッキングなものでした。この本と「ファストフードが世界を食いつくす」(エリック・シュローサー)の内容が、Food Inc.(フード・インク)というドキュメンタリー映画にもなっています。
  効率と、安さと、企業間競争に勝つことばかりを考える企業が、どんどん大きくなって行くに連れて、人間性や食の安全など、大切なことを失っていく様子は、私たちの想像をはるかに超えるものでした。マクドナルドが50年代にウェイターやウェイトレスの給料を節約するために、彼らを必要としない店を考えます。コックもだんだん熟練していくと給料が高くなってしまうし、熟練のコックを育てたり、見つけてくるのも大変なので、厨房の仕事も熟練のいらない、単純作業に変えたことで、新しいファスト・フードの形式ができます。次第に、フライド・ポテトも、お店で皮をむいて切り、油で揚げるということも、巨大工場でまとめてするようになり、その日の分をお店で作っていた挽肉も、屠殺から肉の分別から挽肉まで作る巨大な工場で一気に作るようになります。
  鶏も、豚も、牛も、昔の農場のように牧場を自由に歩き回っているような農業を続ける人たちもいますが、大部分は、巨大で不衛生な施設で、一生一箇所につながれ、カロリーの高い食べ物を与えられて急激に太らされるだけという実態を知り、大変ショックを受けました。
  働く人たちにとっても、その扱いの問題には同じ根を感じます。体力的にきついが、経験も適切な給与も社会保障も得られない仕事をさすマックジョブ(Mcjob)という表現まで辞書に載るほどです。
  今まで、ファスト・フードのチェーンを運営する人たちが大変保守的で、競争相手に対しては大変攻撃的な性格を持つのはなぜかを考えていましたが、大きな問題の一つは、彼らが、経営者の自己実現だけを考え、ただ言うことを聞いて決まったことだけをくり返して真面目に働くだけの労働者を求めていることだということに気づきました。会社の方針に反対したら、もう仕事はないのです。
  これは大変大きな問題です。 普通の会社ならば、実際に働く人たちが問題点や改善方法を見つけ、それを話し合い、皆で少しずつ変わっていくのです。それが働きがいになり、楽しみにもなります。 ですから、若者たちが職を得るときには、このような働き方は、アルバイトなどの経験としてはいいとしても、一生の仕事としては、どうか、ということを考えてもらう必要があると思います。
  しかし、このような経営者の傾向は、他の分野にも広がっています。学校でも、実際に子供たちやその家族と触れ合う先生たちが様々な問題にぶつかり、それを話し合い、新しい方向性を見つけていくのですが、例えば東京都などは、職員会議を「会議」という、双方向で意見交換がなされ、議決がなされる場ではない、文部科学省からの通達を伝え、教育委員会の方針を伝え、校長の方針を伝える、上意下達(じょういかたつ)の場である、としました。これでは、ファストフードのチェーンが持つ問題と同じですね。
  働く人々を大切にしない人々は、家畜をも、大切にしません。お客さんには表面的には笑顔で対し、大切にするように社員教育をしますが、習慣性があって、健康を害する恐れのある大量の油、塩、糖分ばかりの食べ物をたくさん摂取するように誘導するのですから、お客さんをも大切にしているとは言えません。
  学校でも同様です。成果主義で結果を求め、一律に詰め込み教育をしたときに、数%の学生の学力は伸びるかもしれませんが、多くの学生は、実力に合わないことをやらされたり、精神的に過重なストレスを与えられたりしているのです。
  自分の仕事や人生に意義を感じ、楽しみ、人生を送ることができることは大変大切なことだと思います。
  先ほども引用した、マルコによる福音書12章の、「あなたは、神なる主を、心を尽くし、いのちを尽くし、想いを尽くし、力を尽くして愛しなさい。第二のものはこれだ、あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい。これらより大いなる他の掟は存在しない」、ということは、とても大切ですね。

 
§「人々の揺れる心」
 
  さて、今日の聖書箇所は、イエスが、「善い人だ」と言う人たちと、「いや違う、群衆をたぶらかしているのだ」 という人たちがいたことが指摘されています。人々の揺れる心が、表れているところだと思います。そして、イエスの命が狙われていたり、大変緊迫した雰囲気がありますね。これは、ヨハネによる福音書では2章にある事件、イエスが神殿のありかたを否定し、捧げ物として燃やすための動物を売ったり、神殿に献金するための清い通貨に世俗の通貨を両替する両替商などを神殿から追い出したというイエスの行動のためです。振り返って、2章を読んでみましょう。

*ヨハネによる福音書 2:12−25
  この後、彼はその母と兄弟たち、および自分の弟子たちとともにカファルナウムに下り、数日間そこに留まった。
  ユダヤ人たちの過越祭が近かった。イエスはエルサレムにのぼった。神殿(境内)に、牛や羊や鳩を売っている人々、また両替商が座っているのを見つけた。そして縄で鞭を作り、羊も牛も皆神殿から追い出した。また、両替屋の金をまき散らし、台をひっくり返した。そして鳩を売っていた人々に言った、「これらのものをここから取り去れ。私の父の家を商売の家にするのはやめろ」。
 イエスが復活して後弟子たちはあなたの家に対する熱情が私を食いつくすだろう(詩篇69:10))と書かれているのを想い起こした。
 するとユダヤ人たちが答えて彼に言った、「このようなことをするからには、どんな徴を見せてもらえるのか」。イエスは答えて彼らに言った、「この神殿を壊して見ろ。三日のうちに起こして見せよう」。そこでユダヤ人たちは言った、「この神殿は四十六年かかって建てられたのだ。それをお前は三日で起こすと言うのか」。彼は自分の身体という神殿について話していたのであった。
  彼が死人の中から起こされた時、彼の弟子たちはこのことを言っていたのを想い起こした。そして聖書とイエスの話したことばを信じた。

  この記事と並行する箇所は、マルコによる福音書では11章です。マルコによる福音書では、ガリラヤからエルサレムにのぼった後に起きる、大変ショッキングな事件として取り上げられています。ヨハネによる福音書の編集者が、この事件を2章という、とても早い時期に持ってきたのは、この事件がそれだけ大きなインパクトを持った事件であり、この事件の中に、イエスのメッセージの大切なエッセンスがあるからだと思います。
  この事件は、多くの場合「宮清め」と呼ばれますが、神殿を清めるというよりは、神は、人の作った、そしてさらに、権力者の作った神殿などにはいないのだ、あなたが祈るなら、そこに神はおられるのだ、神殿などを介さなくても、あなたと神はいつもつながっているのだ、だから、神殿はいらないのだ、というメッセージです。「この神殿を壊して見ろ。三日のうちに起こして見せよう」、というのも、まさにこのことを表しています。誰が見ても驚くような荘厳な神殿など、必要ない、と言っているのです。
  ですから、当時の常識の中に住んでいる人なら、大いに悩んだことでしょうね。イエスの行動や言葉は、とても独創的で根源的(ラジカル)で、過激ですらありました。
  人々が揺れる心を持ったのは、イエスの考え、そして生き方が、ユダヤ教の教義からも外れて見えたからです。保守的な目からは、許し難いことであったに違いありません。
  しかし、このイエスの勇気は、そして指摘したことは、人間社会が、気づいて、改善しなくてはならないことでした。そして、それは今も変わりません。そして、このような気づきと、指摘は、あらゆる宗教、あらゆる文化でなされなければなりません。例えば、イスラム教やユダヤ教では、今も女性が男性と平等ではありません。カトリックでもそうです。また、自分たちの考えを実現させるための殺戮が行われたりします。それは間違っている、と言う指導者が生まれなくてはなりません。
  イエスの言葉と人生は、神を、貧しい人々や、実際に労働して暮らしている人々、病気の人々や、女性たち、一般の、神を必要としている人たちに神を取り戻す闘いだったのです。
  また、兄弟の言葉として書かれている、「ここから移れ。そしてユダヤに往け。お前の行なっている業をお前の弟子たちに看ることができるように。ことをひそかに行ない、自分が公(おおやけ)のものであることを求めるような人は誰もいない。これらのことを行なっているのなら、お前自身を世に顕(あらわ)せ」、というのも考えさせられます。兄弟たちは、隠れていないで、表立って語りなさい、というのです。身の危険など省(かえり)みず、突き進みなさい。
  それに対して、イエスは、このように答えます。「私の時機(とき)はまだ来ていないが、あなたがたの時機はいつでも用意されている。世はあなたがたを憎むことはできないが、私を憎んでいる。私が世について、その業が邪悪であることを証ししているからである。あなたがたは祭りにのぼるがよい。私はこの祭りにはのぼらない。私の時機がまだ満たされていないからだ」
  イエスが、ここで「時機はまだ来ていない」というのは、マルコによる福音書で、イエスが神の子であることは、イエスが十字架の死を経験し、復活して人々のもとに来るとき、神の子となることとしているのとよく似ています。
   しかし、この後、イエスの行動は大胆になっていきます。一つの目覚めを経験したかのようです。


*ヨハネによる福音書 7:37−52

祭りの盛大な最終日に、イエスは立ったまま叫んだ。次のように言って、「誰か渇いている人があれば、私のところに来ていつでも飲むがよい。私を信じる人は、聖書が言った通り、その人の内部から活ける水の川が(何本も)流れ出ることになる。

   2012年 11月4日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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