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日本キリスト会川崎教会コミュの「ベトザタの池での癒し」

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「ベトザタの池での癒し」

*ヨハネによる福音書5:1ー9

 この後、ユダヤ人たちの祭りがあって、イエスはエルサレムにのぼった。さて、エルサレムには羊門の近くにヘブライ語でベトザタと呼ばれる、五つの回廊のある貯水池がある。それらの回廊には、病んでいる人々、目の見えない人々、足の不自由な人々、痩せ衰えた人々などが大勢臥せっていた。そこに一人の人がいたが、彼は三十と八年間病のうちにあった。イエスは、この人が臥せっているのを見、またすでに長い間のことだと知って彼に言う、「健やかになりたいか」。病んでいる人は彼に答えた、「だんな、俺には水がかき乱される時、池に入れてくれる人がいないんでね。俺が行こうとすると、その間にほかのやつが俺より先に降りて行ってしまう」。イエスが彼に言う、「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい、そして歩くのだ」。その人はただちに健やかになり、自分の寝床を担いだ。そして歩き出したのである。
 新約聖書翻訳委員会訳

§「暴力、そして憎しみの連鎖」
 
  もう9月も半分過ぎましたが、まだまだ暑い日が続きますね。そろそろいつもなら二階の礼拝堂でまた礼拝できるようになる時期ですが、今年は、あと二週間ぐらいかかりそうですね。
  先週で、2001年9月11日のテロから11年目が経ちました。しかし、リビアなどでテロがあり、アメリカの大使らが殺害されたり、イスラム教の国々では、誰が作ったのかもよくわからないイスラムの指導者たちを冒涜した映画に抗議して、反米デモが暴徒化する、という事件が起きています。また、中国では日本の尖閣諸島国有化に抗議するデモが暴徒化しています。そして、焼き討ちや破壊、そして人々の襲撃も報告されています。
  いったい、人々はいつになったら、このような暴力の連鎖から自由になれるのだろうか、と思います。そして、ほんの些細なことや、情報操作や、煽動によって、簡単に人々が暴走をはじめる、ということも恐ろしいことだと思います。
  ナチスのドイツがそうであったように、国内、あるいは自分たちの中での深刻な問題から目をそらさせるために、外に敵を作ったり、差別心を煽ったりして、自分たちの本当に直面しなければならない問題から目をそらさせようとすることもあります。そして、民衆が日頃抱いている不満が、ふとしたことから爆発してしまうこともあります。
  人間の歴史を学ぶ意義の一つは、過去に人々がおかした過ちをくり返すのではなく、新たな解決を模索する希望を得ることだと思います。人々に、このような教育がなされることを望みます。
  60年代にたくさん歌われたフォークソングに、ピート・シーガーのWhere have all the flowers gone?(花はみなどこへ行ってしまったの?)があります。

Where have all the flowers gone? /Long time passing
Where have all the flowers gone?/ Long time ago
Where have all the flowers gone? /Young girls picked them every one
When will they ever learn? ? When will they ever learn?

花はみんな、どこへ行ってしまったの?若い女の子たちがみんな摘んでしまった。そして、二番で、若い女の子たちは、皆、夫を持ち、三番で、若い男の人たちは兵隊に行ってしまい、四番で、兵士たちは、墓に行ってしまい、そして、ついに、墓は皆、花に覆われてしまうのです。そして、繰り返しで私たちの心に残るのは、When will they ever learn?(いつになったら、彼らはまなぶのだろう?)という問いです。ピート・シーガーは、このtheyを最後にweに変え、 いつになったら、私たちはまなぶのだろう?と歌っていました。あいつら、いったいいつになったら、わかるんだ?と言っている自分が、わかっていないこともあるではないか、という反省や自戒があるのだと思います。
  マルコによる福音書に、興味深い言葉があります。

* マルコ9:49−50
すべての者は火によって塩づけられるであろう。しかし塩気のないものになったなら、あなたたちは何によってそれを味つけるだろうか。塩は良いものだ。あなたたちは、自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい。

  塩は、味付けに、そして保存にとても大切ですね。そして、自分に塩を持ち、お互いに平和をなしなさい、というのは、なかなかいい勧めですね。塩は、少量でも、全体の味を決める重要な役割をします。それぞれが、そのような役割を担い、お互いに平和をなす、というのは素晴らしいですね。

§「イエスの癒し」

 さて、今日の箇所は、イエスの癒しについてです。癒しのために、病気の人々のために共に祈ることについては、ヤコブの手紙に以下のような記述があります。

*ヤコブの手紙5章14〜15節
 あなたがたの中で病気の人がいれば、教会の長老たちを呼びなさい。長老たちは主の名において彼に油を塗り、彼のために祈りなさい。信仰のうちになされる祈りは弱り果てた人を救い、主が彼を起こして下さるであろう。彼が以前に罪を犯していたとしても、その罪は赦されるであろう。それゆえ、互いに自分の罪を告白し合いなさい。そして癒されるため、互いのために祈り合いなさい。

 これが、多くの教会で行われる癒し行為や、カトリックなどで広く行われている告白の根拠となるところです。パウロはこうした癒しの能力を、(神から与えられた)癒しの賜物(カリスマ、cf.�鵯コリント12:28など)と呼びました。
  「彼が以前に罪を犯していたとしても、その罪は赦されるであろう。」とあるのは、
当時の考え方として、病や身体の障害などは、モーセの律法を犯した罪に対する罰だと考えられていたことを反映しています。以下のヨハネによる福音書での弟子たちの言動もこれを反映しています。

*ヨハネによる福音書9章1〜2節
 そして通りがかりに、生まれながら盲目の人を見た。彼にその弟子たちがたずねた、「ラビ、盲目で生まれたからには、誰が罪を犯したのですか。この人ですか。それともその両親ですか」。

 これに対してヨハネによる福音書で描かれるイエスはこう答えています。

*ヨハネによる福音書9章3節
 イエスが答えた、「この人が罪を犯したのでも、その両親でもなく、この人において神の業が顕れるためである」。

  ヨハネによる福音書のイエスは、この障害は罪に対する罰だということをしっかり否定しています。
  イエスは病気や障害の原因と考えられていた罪が赦されることを宣言します。これには大変大きな意味があります。歴史的に実際に存在したイエスは、最古の福音書であるマルコによる福音書に多く反映されているように、一人の人間でした。そのイエスが行ったことは、「本来神だけに保留されているはずの『罪の赦し』を一人の人間が行ってしまうというタブー違反にほかならなかった」(大貫隆)ことになります。これが先ほどの律法学者の「なぜ、こいつはこのようなことを語るのか。こいつは神を冒涜している。神お一人のほかにいったい誰が罪を赦すことができようか」という反応の理由です。
  イエスは、このように言うのです。病気は、因果応報ではないんだよ。あなたは、罪人として、社会の中で烙印を押され、病に苦しむことを運命づけられた人なんかじゃないんだ。差別される運命にある人でもないんだ。また、そんな人はいないんだ。そして、宗教が清いか穢れているかを定義し、穢れていることを罪とし、その人々を差別するなら、その宗教の方が間違っている、というのです。誰もが、神の子で、大切な存在なのです。

§「ベトザタの池での癒し」

  さて、今日の箇所の舞台はエルサレムです。ヨハネによる福音書では、イエスは頻繁にエルサレムとガリラヤを往復しています。マルコによる福音書では、エルサレムに行くのは一回だけです。 

* さて、エルサレムには羊門の近くにヘブライ語でベトザタと呼ばれる、五つの回廊のある貯水池がある。それらの回廊には、病んでいる人々、目の見えない人々、足の不自由な人々、痩せ衰えた人々などが大勢臥せっていた。

  この池は、エルサレムの神殿の北100メートルぐらいのところ、聖アンナ教会という、マリアのお母さんを記念して建てられた教会の敷地から、1932年までの発掘によって発見されました。これは、自然の池ではなく、人工の貯水池で、100メートル×70メートルほどの大きさの長方形で、ちょうど漢字の「日」の形をしていました。この字の線の部分が回廊になっていますから、その本数を数えると、五本になりますね。これが、五つの回廊です。
  今はライオン門、あるいはステパノ門と呼ばれている羊門のすぐ近くにあります。羊門とは、燔祭(はんさい)として献げられる、羊を運び込んだ門だと言われています。
  そして、このベトザタの池、あるいはベテスダの池は、恵みの家という意味で、神殿に巡礼に来た人たちが沐浴をし、この回廊に集まっている病人たちに、施しをした場所だといわれています。

* そこに一人の人がいたが、彼は三十と八年間病のうちにあった。イエスは、この人が臥せっているのを見、またすでに長い間のことだと知って彼に言う、「健やかになりたいか」。病んでいる人は彼に答えた、「だんな、俺には水がかき乱される時、池に入れてくれる人がいないんでね。俺が行こうとすると、その間にほかのやつが俺より先に降りて行ってしまう」。イエスが彼に言う、「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい、そして歩くのだ」。その人はただちに健やかになり、自分の寝床を担いだ。そして歩き出したのである。

  当時の言い伝えで、天使が水をかき乱したとき、最初に池に入った人が癒される、ということがあったようです。
  そして、この人は、38年という長い間、ここで待っていました。共にいて、介助してくれる人もいません。きっと、次第にあきらめの気持ちに満たされるようになったことでしょう。しかし、ただ待つことと、あきらめることとは、人間にとって、安易な選択でもあります。そして、あきらめて、自分から行動することをやめることを選択するのは、辛いし、道は拓けはしないけれど、ある意味で楽なのかもしれません。人間関係の修復も、同じようなところがありますね。お互いに仲良くしたいのに、意地を張ってしまったり、こちらから歩み寄った時の、相手のショッキングな対応を思って、一歩が踏み出せなかったり。しかし、一歩踏み出せば、すべてが解決することもあります。
   「ホーム・アローン」というコメディー映画がありましたが、ドタバタ喜劇の中に、家族から疎まれ、取り残された子と、息子との喧嘩の後、関係を修復できないで孤独にさいなまれる近所の老人とが、共に一歩を踏み出して、幸福を得るというテーマがありました。
  イエスは、この人にたずねます。「健やかになりたいか」。これは、希望を聞いているのと同時に、健康を取り戻すための、強い意志があるかを確かめているように聞こえますね。でも、この人の答えは、歯切れのいいものではありませんでした。「そんなこと言ったってさ」っていう感じです。
  それにもかかわらず、イエスの言葉は、「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい、そして歩くのだ」。あなたの人生を、生きなさい。決してあきらめてはいけない。さあ、起きなさい。歩きなさい!
*ルカによる福音書11章20節
 しかし、もし私が神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の王国はお前たちの上にまさに到来したのだ。

 2012年 9月16日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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