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日本キリスト会川崎教会コミュの「困難な時に寄りそう」

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「困難な時に寄りそう」

*ヨハネによる福音書4:43ー54

 二日の後、彼はガリラヤに向けてそこを発った。イエス自身、預言者は自分の故郷では誉れをえないものだと証ししたからである。さて、ガリラヤに来ると、ガリラヤの人々が彼を迎え入れた。彼らも祭りに行ったので、神が祭りの間にエルサレムで行ったことをすべて見ていたからである。
  さて、彼はまたガリラヤのカナに来た。水を葡萄酒にしたところである。
 カファルナウムに王の家臣がいて、その息子が病んでいた。この人が、イエスがユダヤからガリラヤに来たと聞き、彼のところにやって来た。そして、下って来て自分の息子を癒してくれるように頼み始めた。今にも死にかけていたのである。ところが、イエスは彼に向かって言った、「あなたがたは徴と不思議を見ないかぎり、決して信じないのであろう」。王の家臣が彼に向かって言う、「主よ、私の幼子が死ぬ前に下って来てください」。イエスが彼に言う、「行きなさい。あなたの息子は生きている」。その人は、イエスが自分に言った言葉を信じて、行き始めた。彼がまだ下る途中で、彼の僕たちが、彼の少年は生きていると言いながら、彼を出迎えた。そこで、快方に向かった時刻を彼らに問いただすと、「昨日の第七刻(午後1時頃)に熱が去りました」と言った。父親は、イエスが自分に「あなたの息子は生きている」と言ったその時刻にだったことを知った。そして彼自身もその一族郎党も皆、信じた。
  こうしてイエスはユダヤからガリラヤに来て、またこの第二の徴を行なったのであった。
 新約聖書翻訳委員会訳

§「平和を私たちに」
 
  先日の讃美礼拝の時に、Dona Nobis Pacem(ドナ・ノービス・パーチェム:Give us peace.私たちに平和を下さい)を歌いました。私たちに平和を、という願いは、すべての人々に共通する願いです。しかし、世界の歴史は、争いの連続です。侵略者が現れたときには、平和のために武器を持って闘う、という、矛盾した必要性を持つこともあり、そこで武器を持った者たちが、武器の使用に対する抵抗力や自制を失い、まさに「剣をとる者は剣にほろびる」という言葉通りの結末を迎える、ということは、文学や映画の題材になり続けてきました。
   21世紀に入ってからでは、スティーヴン・スピルバーグによる、「ミュンヘン」(2005年)はまさにそうです。72年のミュンヘン・オリンピックの時に、パレスチナの過激組織、「黒い九月」がイスラエル選手団を襲撃して、二人を殺し、選手ら九人を人質に取る、という事件がありました。そして、当時の西ドイツの警察との銃撃戦のすえに、誰も生き残らない、という悲惨な事件がありました。
   これに対して、イスラエルの諜報組織、モサドが秘密裏に報復を行い、犯人たちをひとりひとり暗殺していくのですが、その時に、若くて理想に燃えていたはずの新人がだんだん特殊な組織のなかだけの常識の中に埋没していき、破滅に至る人生の道筋を描いた作品でした。80年代なら、ヒーローのように描かれたかもしれない主人公は、華々しさや見かけの勇ましさを越え、 徹底したリアリズム(現実主義、現実描写)によって、 破滅の道を歩む様子が描かれるので、映画であるにもかかわらず、娯楽という要素はそぎ落とされ、大変重く、暗い作品ですが、平和の道を歩むように訴える心が、ひしひしと伝わってきます。
  もう一つ、「すべての美し馬たち」(All the Pretty Horses)は、大変な暴力や理不尽の中に置かれた若者が、身を守り、生きていくために、武器を取り、応戦してしまったこと、剣を取る者になってしまったことに対する、赦しと心の平和を求めることがテーマでした。これも、娯楽とは程遠い、重い作品ですが、同じように救いを求めて、 このような作品を読んだり見たりする人たちが存在することの表れなのだと思います。
   讃美の礼拝の時に、Dona Nobis Pacemと同じ、ドナという言葉が入った、「ドナ・ドナ」は、どういう歌だったか、ということになり、私が一瞬凍ってしまったのですが、その理由は、「ドナドナ」について語りたい気持ちと、明らかに語るには準備が欠けている、という気持ちが交錯したためでした。
  この歌は、日本でも1960年代のはじめにジョーン・バエズが歌ったことで知られ、またNHKのみんなの歌でもお馴染みでした。安井かずみ訳の日本語版はこうでした。

・「ある晴れた 昼さがり/いちばへ 続く道/荷馬車(にばしゃ)が ゴトゴト/子牛を 乗せてゆく/かわいい子牛 売られて行くよ/悲しそうなひとみで見ているよ/ドナドナ..」
・「青い空 そよぐ風/つばめが 飛びかう/荷馬車が いちばへ/子牛を 乗せて行く/もしもつばさが あったならば/楽しい牧場(まきば)に 帰れるものを/ドナドナ」

  悲しい旋律と、印象的な言葉によって、心に残りますね。しかし、そのまま受け取ると、かわいそうな子牛の運命を哀しんだ歌としか、記憶されません。でも、どこか、心に引っかかって、あの歌は何だったんだろう、あのドナドナは、どういう意味なのだろう、と気になる歌でもあります。
  この歌は、もともと、アーロン・ツァイトリンという人によって東欧のユダヤ人の言葉、イディッシュ語で書かれたものだそうです。聖書の民ですね。ヨハネの黙示録や、ダニエル書のように、これは黙示文学なのです。権力者や社会に対する痛烈な批判を、もしその権力者なりなんなりに読まれても理解できないように、言いたいことを隠して、その本当のメッセージを読み取る秘訣を知っている人たちだけで共有できるようにするための文学形態なのです。これは、イソップ寓話の寓話とも、形としては似ています。例えば、有名な「アリとキリギリス」のお話では、「アリ」は賢く、将来を見極められる働き者を指し、「キリギリス」は、今の快楽を生活の中心に置き、将来の備えなど考えない人を指していますね。このように、アリとは、こういう人を指し、キリギリスとはこういう人を指す、という風に、置き換えて説明できるのです。
   では、この歌のイディッシュ語の詩の訳を読んでみましょう。

1.荷車のうえに子牛が一頭/縄に縛られて横たわっている
空高く一羽の鳥が舞っている/鳥は行ったり来たりして飛びまわっている
繰り返し: ライ麦畑で風が笑う/笑って笑って笑い続ける/
一日中、そして夜半まで/ドナ・ドナ・ドナ・ドナ
2.子牛がうめくと農夫が言う/いったい誰が子牛であれとお前に命じたのか
お前だって鳥であることができたろうに/燕であることができたろうに
3.ひとびとは哀れな子牛を縛りあげ/そして引きずっていって殺す
翼を持つものなら空高く舞い上がり/誰の奴隷にもなりはしない  ... 細見和之訳

  この訳者は、 荷台=ユダヤ人が置かれた運命、子牛=虐げられるユダヤ人、自由の鳥=自由な異教徒、農夫=傍観者的な異教徒、という風に置き換えて読める、と主張しています。すると、もはや、子牛について歌ったのものではなく、差別や、差別による暴力、ナチスによるユダヤ人の虐殺、そして、そのような恐ろしいことが起こっていても、それを自分の問題として実感することなく、傍観者でいる周りの人たち。そして、信じられないほどのことが起きている時にも、地球は回り続けるのだ、という事実。
  すると、この詩はこの現実を白日の下にさらし、批判し、人々に考えさせる力を持っていますね。そして、ジョーン・バエズが歌った、1960年代のアメリカならば、この歌はどのように捉えられるでしょうか。ベトナム戦争が泥沼化して、多くの若者が戦死して帰宅する中、反戦を叫ぶ学生たちが表れ、徴兵拒否をする人々が現れ、制度上も黒人と白人を差別していた南部諸州の法律を非合法とするための、公民権運動が進むという時代の中では、例えば、荷台=戦時下、徴兵制度のあるアメリカの若者の運命、子牛=ベトナム戦争に徴兵されていく若者たち、ツバメ=徴兵を拒否する人たち、反戦運動に立ち上がる人たち、農夫=若者を戦争に送り出す国家、社会、周りの人、また、風=まわりの世界でしょうか。ある人にとって、どんなに深刻なときでも、地球はまわり、世界は日々の営みを続ける、ということを表しているのでしょうか。
  すると、大変痛烈な社会批判、戦争へ突き進んだ国や政治家、軍人、それを止められないばかりか、煽り、戦争の流れに迎合した一般市民への批判だということがわかります。
  ドナドナは、家畜を追うときのかけ声、ドウドウ、のような意味だそうですが、Donay(ドナイ)は、Adonay(アドナイ、主よ)を入れ替えて、カモフラージュしているという説もあります。こういう遊びを、アナグラムといいます。すると、「主よ、主よ」、と呼びかける、悲痛な想いが伝わってきますね。
   困難な時に、神に助けを求め、隣人に助けを求める。また、現実を見据え、生き方を模索する、という、私たちの生き方を問うている、と受け取ることもできます。

§「困難な時によりそう」

  さて、今日の聖書箇所ですが、ここで、イエスは、重い病を負った子の親に寄り添い、祈ります。マルコによる福音書6章では、「預言者は、自分の故郷、自分の親族、そして自分の家以外のところでは、尊ばれないことはない」、と故郷では受け入れられない様子が描かれていますが、ヨハネによる福音書では、批判の矛先が、神によって選ばれた民だと自負し、謙虚さを失ったユダヤ人がイエスの福音を受け入れないことに向けられます。そして、彼らが見下している、同じユダヤ人ではあるけれど、やはり差別対象になるガリラヤ人、そして、サマリア人がむしろ、イエスの福音を受け入れ、救いを得ているということを主張しています。
  そして、救いを求めているお父さんは、王の家臣であるといいます。するとそれは、ヘロデ・アンティパスの家臣であることになります。洗礼者ヨハネを捕らえ、処刑した王の家臣が、イエスに助けを求め、そしてイエスが、それに応えている。まさに、敵のために祈り、純粋にただ、困難の中で求めている者に寄り添っているのです。そして、家臣の方も、純粋に求め、そして受け入れられているのです。

* カファルナウムに王の家臣がいて、その息子が病んでいた。この人が、イエスがユダヤからガリラヤに来たと聞き、彼のところにやって来た。そして、下って来て自分の息子を癒してくれるように頼み始めた。今にも死にかけていたのである。ところが、イエスは彼に向かって言った、「あなたがたは徴と不思議を見ないかぎり、決して信じないのであろう」。王の家臣が彼に向かって言う、「主よ、私の幼子が死ぬ前に下って来てください」。イエスが彼に言う、「行きなさい。あなたの息子は生きている」。その人は、イエスが自分に言った言葉を信じて、行き始めた。彼がまだ下る途中で、彼の僕たちが、彼の少年は生きていると言いながら、彼を出迎えた。そこで、快方に向かった時刻を彼らに問いただすと、「昨日の第七刻(午後1時頃)に熱が去りました」と言った。父親は、イエスが自分に「あなたの息子は生きている」と言ったその時刻にだったことを知った。そして彼自身もその一族郎党も皆、信じた。

  イエスは、先ほどの「ドナドナ」で歌われた、傍観者とは、まったく違う生き方を、私たちに示されました。「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」、決して人ごとではないのだよ、共にいて、寄り添いなさい。祈り、支え合いなさい。そして、人々が、そのような生き方をイエスから学び、同じように生きるようになることが、おおきな奇跡であり、徴なのです。

*マルコによる福音書 5:21〜、35〜
21 さて、イエスが舟に乗って再び向こう岸へ渡った時、多くの群衆が彼のもとに集まった。そして彼は海辺にいた。すると会堂長の一人でヤイロスという名の者がやって来る。そして彼を見て、その足もとにひれ伏し、必死に乞い願って言う、「私の小娘が死ぬところです。どうか、おいで下さり、娘に両手を置いてやって下さい。そうすれば娘は救われ、生きることができます」。そこでイエスは彼と共に行った。すると多くの群衆が彼に従い、彼に押し迫りはじめた。(中略)
35 彼がまだ話している時、会堂長の家から人が来て言う、「あなたの娘御は亡くなりました。もはや先生を煩わすにはおよばないのではないですか」。しかしイエスは、彼らが言ったことを聞き流して、会堂長に言う、「恐れるのを止めよ、いちずに信頼しているのだ」。そしてペトロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、誰も彼に従ってくることを許さなかった。そして彼らは会堂長の家に来る。そして彼は、激しく泣いたりわめいたりしている者たちのけたたましい騒ぎを目にする。そこで彼は中に入って彼らに言う、「なぜあなたたちは、うるさく泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではなく、眠っているだけだ」。そこで彼らは、彼をあざ笑い出した。しかしながら彼は、皆を外に追い出し、子供の父母と自分と共にいた者たちだけを連れ、子供がいるところに入っていく。そして子供の手を取って、彼女に言う、「タリタ・クム」。これは訳すれば、「少女よ、あなたに言う、起きなさい」。という意味である。するとすぐに少女は立ち上がり、歩きまわり始めた。十二才だったからである。そこで彼らはすぐに、正気を失うほど驚いた。すると彼は、誰にもこのことを知らせるなと彼らに厳しく命令し、彼女に食事をとらせるよう告げた。
 2012年 9月 9日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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