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日本キリスト会川崎教会コミュの「サマリアの女性との対話」(2)

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「サマリアの女性との対話」(2)


*ヨハネによる福音書4:16ー26

16 彼女に言う、「往ってご亭主を呼び、ここへ来なさい」。女が答えて、彼に言う、「私には夫がありません」。イエスが彼女に言う、「『私には夫がない』とあなたは言ったが、そのとおりだ。あなたには五人の夫があったが、今の人はあなたの夫ではないからだ。あなたはこの真実を言ったのだ」。女は彼に言う、「主よ、私は看(み)ます。あなたは預言者です。

20  私たち(サマリア人)の先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言われます」。
21  イエスは彼女に言う、「女よ、私の言うことを信じなさい。あなたがたがこの山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝するようになる時が来ようとしている。
(22 あなたがたはわからないものを礼拝し、われわれは自分にわかっているものを礼拝している。救いはユダヤ人たちから来るからである。)
23  しかし、本物の礼拝者たちが霊と真理のうちにあって父を礼拝するようになる時が来ようとしている。今がその時だ。事実、父は自分を礼拝する人々としてこのような人々を求めているのである。神は霊である。そして神を礼拝する人々は霊と真理のうちにあって礼拝しなければならない」。
25 女が彼に言う、「キリストと呼ばれるメシアが来ることが私たちにはわかっています。その方が来る時、一切のことを告げて下さるでしょう」。イエスが彼女に言う、「あなたに話している私がそれだ」。
 新約聖書翻訳委員会訳

§「社会にとって、危険なことはなにか」

  このところ、教育や報道について考えさせられる事件がたくさん起きています。人を育てる、ということはとても大切なことです。真実を知るには、物事を公平に、中立に、冷静に判断することが大切です。しかし、教育や報道が、人々の考えや行動を、ある特定の方向に誘導しようとするなら、それはもう教育や報道ではなく、プロパガンダでしかありません。プロパガンダは、主義や思想の宣伝活動、あるいは刷り込みです。
  ヨハネによる福音書8章の言葉で、図書館や学校に数多く掲げられている言葉があります。
 
*ヨハネによる福音書8:31b−32
あなたがたが私の言葉に留まるなら、あなたがたは本当に私の弟子である。そして真理を知るようになり、その真理があなたを自由にするであろう。

  私は、イエスの先入観や偏見にとらわれない、まっすぐな生き方、「神を愛し、あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」や、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」、という姿勢は、現代の科学の礎になっていると思っています。たとえ、伝承や宗教がどのように規定していても、本当によいことは何か。あるいは、宗教的な戒律や決まりにある誤りも、正さなくてはいけない、という思い、そして行動は、批判的思考(=科学的思考)そのものだと思います。
  教育も、そして報道も、真実をしっかり見る目を養うものでなくてはならないと思います。
  先日、ある高校生が、「イギリスの国営放送、BBCは、日本のNHKのようなものでしょう?」というので、ちょっと回答につまりました。イギリスのBBCは、国営放送ですが、報道の中立を貫くように法律でも規定されています。政府が行うことでもなんでも、公平に報道し、問題点もまっすぐ指摘し、さらに大きな問題があると、しっかりと掘り下げて報道を続けます。政治家が圧力をかけて、番組やドキュメンタリーの内容を変えさせたりするようなこともありません。これは是非日本でも実現させたいと願ってやみません。その高校生は私の説明に対し、「エッ?政府が民意の誘導や宣伝に使えないなら、国営放送の意味がないじゃないですか?」と言ったので、かなり驚きました。
  このような反応は、報道や教育がプロパガンダでしかなく、教育や学習は、社会的地位を得るための手段でしかない、という考えの大人たちに囲まれた環境の中に若者が身を置き続ける弊害を表しているようです。
  英語学園でひとり一人の学生を観ていると、特に競争を煽る予備校やつめこみ教育一辺倒の高校に通う子たちには、英語で書かれた文章の文法的な構造や、訳に興味を持っても、書かれている内容にはまったく興味を示さない子たちが見受けられて、とても心配になります。
  もし、教育や学習が、 社会的地位を得るための手段でしかないなら、その内容はどうでもいいのです。身につけさえすれば、高い点数を取れて、希望の大学に入れたり、希望の職に就けることだけが目標なら、学習内容は彼らにとって意味を持たないことになってしまいます。
  教育も、また報道も、人々を束縛するものではなく、解放するもの、自由を与えるもの、自立をうながすものでなければならないと思います。
  前回から、イエスとサマリアの女性との対話を読んで学んでいますが、イエスとの対話によって、このサマリアの女性が力を得、喜びを得、生きる力を得いている様子が伝わってきます。教育も、イエスの生き方に触れるように、人々が喜びや生きる力、問題をしっかり見据え、解決していく力を与えるものであると思います。
  報道も、例えば、米国陸軍の思惑に沿った形での報道とか、シリア政府の意向に沿った報道とか、日本の国民感情に則した報道、といったものではなく、そこにある問題は何かを問いかけ、犠牲になる弱い人々が生まれることを防ぎ、よりよい世界を作る力となるものであるべきだと思います。
  この一週間、シリアで銃撃されて亡くなったジャーナリストの山本美香さんのニュースで心を痛めていた方も多いと思います。夫の佐藤和孝さんと共に、アフガニスタンやイラクからも報道を続けていた山本さんは、シリアの内戦で政府軍によってジェット戦闘機から爆弾が落とされ、政府軍と自由シリア軍の間で銃撃戦が続く中にも普通の人々が生活し、子供たちや女性たちも日々危険にさらされていること、非人道的な戦闘はやめるべきこと、当事者たちが憎しみや思惑を超え、解決に向けての努力をする必要があること、そして一歩踏み出せば、そこに平和があることを伝えようとした人でした。

*マタイによる福音書5章3〜12節
幸いだ、乞食の心を持つ者たち(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むも
のが一切ない者の意)、天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみをうけるであろう。
幸いだ、心の清いものたち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は彼らのものである。
幸いだ、あなたたちは。人々が私のゆえにあなたたちを罵り、迫害し、あなたたち
に敵対して、あらゆる悪しきことを言うときは。
喜んでおれ、そして小踊りせよ、あなたたちの報いは天において多いからである。
実際、彼らは、あなたたち以前の預言者たちをも、そのように迫害したのである。


§「サマリアの女性との対話2」

  さて、今日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書の8章の続きです。 イエスは、ヤコブが子ヨセフに与えた地所の近くで、ヤコブの井戸があったシュカルという名のサマリアの町に来て、水を汲みにきた女性に、「水を飲ませて」、と頼みます。このような、何気なく、普通に男女の差も、民族の差もなく語りかけるところに、イエスの偏見や差別感のなさがあらわれている、と言うことを田川建三が指摘していました。
  そして、この会話にきっかけが、「水を飲ませて」、というお願いだったことも興味深いと思います。この女性が、朝早くや夕刻、街中の女性たちが水を汲みに集まってくる時間ではなく、ちょうど猛暑の日本の昨日の午後2時のような炎天下の昼間にわざわざ一人で水を汲みに来ていることを指摘し、サマリアのコミュニティーの中でも避けられている存在、夫を失うという悲劇が続く中で、希望を失い、まるで家族や社会の中の厄介者のような存在であったのではないか、と言う人もいます。
  しかし、イエスはそのような人とも、他の人とは違ってまったく気にすることなく、話しかけ、そして水をもらうことを通して、与えたり受けたりする喜び、役に立ったり、喜んでもらえたりすることの喜びを分かち合ってしまう、生きる喜び、生きる力を分かち合ってしまう、そのような影響力を持っていたのだと思います。
   次の箇所、16節以下は、ずっとさっぱり分からない箇所でした。

*16 彼女に言う、「往ってご亭主を呼び、ここへ来なさい」。女が答えて、彼に言う、「私には夫がありません」。イエスが彼女に言う、「『私には夫がない』とあなたは言ったが、そのとおりだ。あなたには五人の夫があったが、今の人はあなたの夫ではないからだ。あなたはこの真実を言ったのだ」。女は彼に言う、「主よ、私は看(み)ます。あなたは預言者です。

 当時は、長男が亡くなった場合、次男が長男の嫁を娶ることになっていたと言われています。これは、男中心の家族という経済単位で成り立っている社会の中で、夫に先立たれた妻の救済のための習慣であったろうと思われます。ですからこの人は、夫に先立たれることが続き、六人目のこの人には養ってもらってはいるが、妻と夫という人間関係はできていない、という意味かもしれません。イエスは、このような複雑な生い立ちを知っても、一向に気にしない雰囲気です。だからって、それがなんなの?という感じでしょうか。あなたは、あなたでしょう。それでいいんだよ。あなたままで、生き方を変え、希望を持ち、愛を分かち合いながら生きていくことができる、ということを示しているのだと思います。
  さて、先ほど、教育も報道も、公平に、中立に、ということが大切だと申しました。聖書の学びも同様です。
  ヨハネによる福音書は、パレスチナの地において、いなかで、差別の対象にされていたガリラヤの人々の信仰を評価し、またこのサマリアの女性のように、ユダヤの社会で差別されていたサマリアの人々の信仰を評価し、「選ばれた民」だと自負しているユダヤ人の信仰に批判的な傾向があります。
 8章48節では、ユダヤ人たちが、イエスに向かって、「お前はサマリア人で悪霊に憑かれている」、といい放つところもあります。これは、彼らがイエスやサマリア人を蔑み、また自分たちをそれとは違うものとして、高めていることを示しています。これは、彼らの高慢を指摘していることと同じです。

*20  私たち(サマリア人)の先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言われます」。
21  イエスは彼女に言う、「女よ、私の言うことを信じなさい。あなたがたがこの山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝するようになる時が来ようとしている。

   これも、イエスのメッセージは、神は人、まして権力者が作ったエルサレムの神殿などには住んでいないこと、祈りを通じて、誰もが愛に満ちた父である神と結びついていることを表しています。では、特別な聖地など、いらないのです。もちろん、ナショナリズムなど、何の意味も持ちません。むしろ、差別する心を呼び覚ましたり、差別を正当化するのなら、それは間違っているのです。
 しかし、それを打ち消すように、イエスの価値観、生き方と全く逆の言葉が今日読んだ箇所にはあることに気がつきましたか? 
  それは、22節です。わかりやすいように()をつけておきました。

(22 あなたがたはわからないものを礼拝し、われわれは自分にわかっているものを礼拝している。救いはユダヤ人たちから来るからである。)

  これは、1世紀〜2世紀のクリスチャンたちが、ユダヤ教や、ユダヤ人のナショナリズムの波にさらされて、教義ができあがっていき、保守化していくなかで、加筆、挿入してしまったものだと考えられます。

*ガラテア人への手紙5:1
キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない。

 2012年 8月26日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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