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日本キリスト会川崎教会コミュの「サマリアの女性との対話」(1)

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「サマリアの女性との対話」(1)


*ヨハネによる福音書 4:1−15

 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼を授けているということをファリサイ派の人々が耳にした。イエスは、これを知った時、ー もっとも、イエスが自分で洗礼を授けていたのではなく、彼の弟子たちが授けていたのではあったが ー、彼はユダヤを離れ、またガリラヤへと去って行った。
 だが、サマリアを通り抜けなければならなかった。そこで、シュカルという名のサマリアの町に来る。それはヤコブがその子ヨセフに与えた地所の近くであった。が、そこにはヤコブの泉(井戸)があった。さて、イエスは旅に疲れ果ててそのまま泉のところに座り込んでいた。時は大六刻(正午)頃であった。
7 サマリアの出の女が水を汲みに来る。イエスが彼女に言う、「飲ませてもらえないだろうか」。つまり彼の弟子たちは食物を買いに町へ行ってしまっていたのである。すると、サマリアの女が彼に言う、「あなたはユダヤ人であり、私はサマリアの女であるのに、どうしてその私から飲ませるように願われるのですか」。つまりユダヤ人たちはサマリア人たちとはつき合わないのである。

10 イエスが答えて、彼女に言った、「あなたに神のこの賜物(たまもの)が、そして私に飲ませてくれとあなたに言っているのが誰だかわかっていたなら、あなたは自分の方から彼に汲ませてくれと願い、彼はあなたに活ける水を与えたであろうに」。女が彼に言う、「旅の方、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。あなたはどこからその湧き出す水を持って来るのですか。あなたは私たちサマリア人の父ヤコブよりも偉いのですか。彼は私たちに井戸を与え、彼自身もその子らも、またその家畜もこの井戸から飲みました」。

13 イエスが答えて、彼女に言った、「この水を飲む人は皆、再び渇くであろう。だが私が与えることになる水を飲むなら、その人は永遠に渇くことがなく、私が与えることになる水は、彼のうちで永遠の生命にほとばしり出る水の泉となることだろう」。女が彼に向かって言う、「旅の方、その水を私に下さい。渇くことのないよう、またここへ汲みにこなくてもいいように」。
 新約聖書翻訳委員会訳

§「自分の優位、また民族や宗教の優位を思うときに陥る落とし穴」

  ロンドン・オリンピックがはじまって一週間が経ちました。数々の種目と、それらに打ち込む人たちの姿を見るのは、なかなか楽しいものですね。毎回少し残念に思うのは、特に柔道の日本の選手を見ていて思うのは、勝たなければいけない、という重圧で悲壮な様相の選手が多いことです。競技そのものに精一杯取り組むことに集中したり楽しんだりすることが大切なら、勝ちという結果だけを思うことは、雑念そのものだろうと思うのですが。
 ヨーロッパの迷信でも、例えば、金メダルを取る、だとか、私は才能に恵まれているとか、とっても幸せだとか、いいことを口に出すと、木に触りなさい(touch wood)とか、木を叩きなさい(knock on wood)というおまじないがあります。これは、ギリシア神話に、ネメシスとう人間の思い上がりに対して憤り、罰する女神がいて、自慢したり、いいことを口に出すと、ネメシスの怒りをかって、その反対のよくないことが起こるのを、木を触ることによって、その怒りから逃れようとするものです。子供の鬼ごっこの、たか鬼とかで、高いところに登ると鬼にタッチされない、というのと似ているかも知れませんね。
  幸運を祈る(Good luck)という言葉も、いい言葉のなので、それを言わないように、I’ll cross my fingers for you.(キミのために、指で十字架作ってあげるからね)、なんていう人もいますし、舞台に出たり、演技をしたりする人たちは、幸運を祈る、という代わりに、逆のことを言います。Break a leg!(脚を一本折っておいで!)。おもしろいですね。
  強い意志は大切かも知れませんが、他の人たちも同じように真剣なら、結果は最後までわかりません。だから、過信しないようにとか、雑念にとらわれないように、とか、不注意にならないように、といういましめが、このような迷信やおまじないになっているのだろうと思います。
  その反対に、他の選手、他の国の選手からよい言葉や励ましを受け、自分もそのようにしようと言う選手がいたり、協力してくれている人たちや仲間たち、また応援してくれる人々に感謝の気持ちをいう選手もとても増えました。一人では、ここまで来られなかった、という感謝の思いを言い表させる、というのはいいことですね。
  さて、オリンピックでは、それぞれの国や地域がチームになっていて、お互いに競うのですが、実際人々は、様々な国や地域の人たち、様々な宗教や習慣を持っている人たちと交流することがあり、共に社会を構成しています。
  イエスの時代のパレスチナも同様でした。エジプトと、イドマヤ(アラブ)、ギリシャやローマ、小アジア、そしてガリラヤとユダヤに挟まれたサマリアなど、それぞれが皆、交易ルートとなっている幹線道路で結ばれていました。そして、交易では、実際に様々な民族や国民がつながっていました。
  以前にイスラエルに行ったとき、エルサレムのウォーキング・ツアーを行っていた人々が、パレスチナ人とユダヤ人でも、隣り合わせて住んでいたら、お互いに挨拶を交わし、助け合って生きている、そういう姿を見て欲しい、と語っていました。そして、68年にエルサレムが分断され、ヨルダン領とイスラエル領に壁で分けられたときにも、パンが足りなかったら、その壁を越えてパンを投げて融通し合っていたと言っていました。
  20世紀以降になっても、このような民衆の当たり前の隣人関係を壊そうとする人たちが世界各地で現れましたが、その人たちが煽るのは、民族同士の対立、あるいは宗教同士の対立です。どちらも、間違った民族意識、選民思想、自国の民の優位性を主張するあまり、他の人たちを差別していることに無頓着になっていきます。大変大きな落とし穴です。
  21世紀の日本でも、本屋さんに行くと、日本人論のコーナーが結構人気で、「日本人は...」に続く、甘くて感動的な言葉を読みたい人が数多くいます。...は日本人だけ、という言い方もよくはやります。以前、肩こりまで、日本人だけだ、とNHKとかでよく言ってる人がいた時期があって、あきれました。
  イエスの奇跡は、本当のところは超自然的ないわゆる「奇跡」を行ったことにあるのではありません。人間の社会で成しえないように思われること、民族、宗教、性別、これらの違いをなんでもないことのように乗り越えて、その誰もが大切なのだ、だからあなたの隣人をあなた自身として愛しなさい、と語り、その通りに生きたことにあります。
  その価値観を端的に示しているのが、ルカによる福音書10章の「よきサマリア人の譬え」です。

*ルカによる福音書10章30〜37節
 イエスは〔この問いを〕取り上げて言った、「ある人がエルサレムからエリコにくだって行く途中、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ取り、彼をめった打ちにした後、半殺しにしたままそこを立ち去った。すると偶然にも、その道をある祭司がくだって来た。しかしその人を見ると、道の向こう側を通って行った、また同じように一人のレビ人も現れ、そのところへやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。
 さて、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て断腸の思いに駆られた。そこで近寄って来て、オリーブ油と葡萄酒を彼の傷に注いで、その傷に包帯を施してやり、また彼を自分の家畜に乗せて宿屋へ連れて行って、その介抱をした。
そして翌日、二デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え、言った、『この人を介抱してやって下さい。この額以上に出費がかさんだら、私が戻ってくる時、あなたにお支払いします』。この三人のうち、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」。
 すると彼は言った、「彼に憐れみの業を行った者です」。するとイエスは彼に言った、「行って、あなたもまた同じようにしなさい」。

  「行って、あなたもまた同じようにしなさい」、という言葉に、大変な重みがありますね。
  今日の聖書箇所にも出て来たサマリア人は、ヨルダン川西岸地域のナブルス周辺に住み、今でも数百人が暮らしていて、ゲリジム山で礼拝をしています。
  ユダヤ人との歴史的な軋轢の原因は、バビロン補囚から帰ってエルサレムに神殿を再建しようとするユダヤ人たちに、サマリア人たちは協力を申し出でますが、過去に異教の神を崇拝したことなどを理由にユダヤ人は拒否します。   
  それは、サマリア人は、エルサレムのかわりに、ゲリジム山に神殿を築いて礼拝していたことと、サマリア人が、セレウコス朝シリア王アンティオコス・エピファネスに屈して、異教神をゲリジム山に奉ったことで、怒ったハスモン王朝のヨアンネス・ヒュルカノスがゲリジム山神殿を攻撃して破壊したことから、サマリア人とユダヤ人の関係は断絶してしまったのです。そして、サマリア人はユダヤ人からは差別の対象になっていました。
  にもかかわらず、この譬え話で、イエスはここでサマリア人を登場させます。そして、その人こそがこの盗賊に襲われた人の隣人として、愛の行いをした人であり、あなたもまた同じようにしなさい、と言っているのです。

§「サマリアの女性との対話」

  そして、今日の箇所です。イエスは旅の途中で、サマリアを通ります。サマリアを通ること自体、他の福音書では触れられていません。しかし、ガリラヤからエルサレムへ向かう場合、ヨルダン河沿いに降るなら、サマリアを必ず通るはずです。
  わざわざ遠回りするかもしれない、と言われればそうなのですが、サマリア人に何の偏見も持っていないイエスとしては、わざわざ遠回りする必要はありません。そして、海沿いに遠回りした場合、カイザリアのようなギリシャ・ローマ風大都市があります。当時の近代的大都市には、王族や貴族、祭司、大地主や小作人をたくさん使う土地所有者などが住んでいたので、イエスが神の国の福音を伝えたい、貧しい人たちや、神さまを必要としている人たちが住んでいて日々の生活を営んでいる村とは違いますから、イエスが積極的に通っていきたいと思った場所ではないと思います。
  イエスは、ヤコブが子ヨセフに与えた地所の近くで、ヤコブの井戸があったシュカルという名のサマリアの町に来て、水を汲みにきた女性に、「水を飲ませて」、と頼みます。このような、何気なく、普通に男女の差も、民族の差もなく語りかけるところに、イエスの偏見や差別感のなさがあらわれている、と言うことを田川建三が指摘していましたが、まさにその通りだと思います。
  次の会話は、わかりにくいのですが、イエスは、あなたがもし私が本当はどんな人かわかっていたなら、喜んで水をあげて、そのお返しに「活ける水」をもらえたでしょうに、と言っています。

・「この水を飲む人は皆、再び渇くであろう。だが私が与えることになる水を飲むなら、その人は永遠に渇くことがなく、私が与えることになる水は、彼のうちで永遠の生命にほとばしり出る水の泉となることだろう」。

 「活ける水」は、本来、流れる水、湧き出す水を表す言葉だそうです。ヨハネによる福音書のイエスは、この「活ける水」という表現で、神の国の福音を求める生き方を語っているのだと思いますが、この女性は、この言葉の意味通りの「湧き出す水、泉、井戸」をあげる、と言ってくれたのだと理解します。エッ、私に井戸を下さるの?それは助かります。是非下さい!

・「旅の方、その水を私に下さい。渇くことのないよう、またここへ汲みにこなくてもいいように」。

  この気持ちはよくわかりますね。水道の栓をひねったらきれいな水が出るのと、思い瓶(かめ)を持って、共同の水場まで水を日に何度も取りに行かなければならないのとでは、生活の質は大違いです。
  しかし、イエスが言っている内容は、生き方のことを言っているのです。そして、その生き方が変わることは、水場の問題が解決するのと同じか、それよりもさらに素晴らしいことであるということがここで語られているのだと思います。
   そうですよね。私たちが差別されるたり、疎外されたりするのが嫌なのと同じように、他の誰だって差別されたり、疎外されたりしたくないはずです。みんなひとり一人、大切にし、民族や宗教の壁を取り払って、神の愛を受け、その受けた愛を他に人たちに向けて、あらゆる対立を解決するたら、なんとよい社会ができあがることか!

_マルコによる福音書4章30〜32節
 また彼は言うのであった、「私たちは、神の王国を何と同じであると言おうか、あるいはそれを、どのような譬によって表そうか。それは次のような一粒の芥子種のようなものだ。すなわち、大地に蒔かれる時は大地の上のあらゆる種の中でも最も小さいが、しかしいったん蒔かれると、発育し、あらゆる野菜よりも大きくなり、巨大な枝を張る。そのため、その陰で、天の小鳥たちが巣を作りうるほどになる。
 2012年 8月 5日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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