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日本キリスト会川崎教会コミュの「裁くためではなく、救うために」

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「裁くためではなく、救うために」

*ヨハネによる福音書 3:11−21

 アーメン、アーメン、あなたに言う。われわれはわかっていることを語り、見てきたことを証ししている。しかしあなたがたは、われわれの証しを受け入れようとしない。私が地上のことを話したのに、あなたがたが信じないとすれば、将来天上のことを話しても、果たして信じるようになるだろうか。
  天から降った者、すなわち人の子のほかには、天にのぼっているものは誰もいない。モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子も挙げられなければならない。信じる人が一人残らず、彼のうちにあって永遠の命を持つためである」。
  つまり神はひとり子を与えるほど世を愛したのである。彼を信じる人が滅びることなく、一人残らず永遠の命を持つためである。つまり神が子を世に遣わしたのは、世をさばくためではなく、世が彼を通して救われるためなのである。彼を信じる人はさばかれない。だが、信じない人はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、自らの業が邪悪だったため、人々が光よりも暗闇を愛したこと、これがさばきである。悪いことをしている人は皆、光を憎み、自分の業が暴かれないよう、光のところに来ようとしないからである。だが、真理を行なっている人は、自分の業が神のうちにあってなされてきたのだということがあらわになるため、光のところに来る。
                              新約聖書翻訳委員会訳

§「イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である」

7月も第四週になりました。このあたりの公立の小学校や中学校も夏休みに入りました。先週前半の大変な暑さから打って変わって、後半は涼しい日々でした。相変わらず、大雨が降っているところがあって、とても心配でもあります。   
  3週間前に、国際聖書フォーラム2012が開かれましたが、その時の講演者、田川建三の1980年に出版された「イエスという男」の改訂版が、作品社から出されています。その帯の言葉を見て、ドキッとしました。「イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である」。まさにそのとおりです。この言葉は、この本の書き出しの力強い一行です。


・ イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。歴史の中には常に何人かの先駆者が存在する。イエスはその一人だった。おそらく、最も徹底した先駆者の一人だった。そして歴史の先駆者はその時代の、またそれに続く歴史によってまず抹殺されようとする。これは当然のことである。先駆者はその時代を拒否する。歴史の進むべきかなたを、自覚的にか直感的にか、先取りするということは、当然歴史の現状を拒否することである。現状に対する厳しい拒否の精神が未来を変化させる。従って、歴史の先駆者は、その同時代の、またそれに続く歴史によって、まず抹殺されようとする。(中略)しかしまた、抹殺されずに思い出が残った者もある。その者の先駆者としての性格が非常に強い場合には。そしてまた、何らかの偶然がその者の記憶を後世に残すように働いた場合には。
  けれどもこのように歴史が先駆者の思い出を抹殺しきれずに残してしまった場合には、今度は逆に、かかえこもうとする。キリスト教がイエスを教祖にしたのは、そういうことなのだ。
                                                                                      ... 田川建三「イエスと言う男」より

   このように説明されると、ルカによる福音書とマタイによる福音書にある、「幸いなるかな」の箇所の最後の、非常に耳に心地よくない言葉の意味もよく理解できます。

*ルカによる福音書6:20〜23
 そして彼は、その弟子たちに向かって目を上げ、語り始めた。「幸いだ、乞食たち、神の王国はあなたたちのものだ。
幸いだ、いま飢えている者たち、あなたたちは満腹するだろう。
幸いだ、いま泣いている者たち、あなたたちは大笑いするだろう。
 幸いだ、あなたたちは。人々があなたたちを憎む時、そして人の子ゆえにあなたたちを排斥し、侮辱し、あなたたちの名を悪しき者として唾棄する時は。その日には喜べ、そして跳ね回れ。見よ、あなたたちの報いは天において多いからだ。実際、彼らの父祖たちは、預言者たちにも同じようにしていたのだ。

  実際、ヨーロッパやアメリカで培われれてきて、日本にも伝わったキリスト教が、イエスの生き方、イエスの言葉とは大分違う世界観を持っていることを感じる人は多いと思います。実際に、人々をおとなしく、時の権力者や社会システムに対して従順でいるようにする道具として使われていたことも多く、また戦争や人種差別のお墨付きを与えて、一般の人々に浸透させるためにも利用されてきました。
  そして、マルティン・ルターをはじめ、これらの問題を感じ取った人たちが、現状を批判し、改革をすることが、近代、現代の歴史の中でくり返されてきたのです。
  そして、いつも、変化は、そして最も根源的な改革の種は、イエスの言葉、そして生き方にあるのです。すなわち、 「あなたの神を愛しなさい。あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」。そして、その隣人は、どの宗教の人、どの民族の人でも、あなたの隣人となりうるのですよ。「あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」。 神は、徹底的に平等な方なので、「父は、悪人たちの上にも善人たちの上にも彼の太陽を昇らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さる」(マタイ5:45)のですよ。あなたが病気になったとしても、障害を持っていたとしても、なんらかの苦しみや悲しみを背負っていたとしても、あなたが何か悪いことをしたからとか、そういうことは全くないのですよ。だから、安心して病と向き合い、病と、そしてあなたの苦しみと共に生きなさい。大丈夫ですよ、私が、そして神が一緒にいますから」。
  ということは、人を分けたり、ある特定の人、例えば洗礼を受けた人だけを清い者としたり、反対に、だれかを排除したりという考えがまったくないのです。
  もう一つ、徹底していたイエスのメッセージは、「偶像を作るな」、ということなのですが、これはバールの神の像を造るなとか、そういう問題ではないのです。神のかわりに大切にして、あなたや、人々に大切なことを忘れさせてしまうようなものはいらない、あなたの目を眩ませてしまうものはいらない、ということなのです。戦争を肯定して、家族や子供たちを戦場に送って殺戮に加わることを後押しをするような宗教なら、それは偶像です。律法もそうでした。神よりも、人よりも、律法を護ることが大切だと思って、困っている人をないがしろにするなら、律法も偶像になってしまったのです。洗礼だって、聖餐式だって、もしそれが大切だからと言って、「ああそこのあなた、あなたは洗礼を受けていませんから、聖餐は受けられませんよ、あっちに言って待ってて下さい」、などと平気で言うなら、神と人とを愛し、分け隔てをしないはずの心が曇らされているのです。だから、これも偶像なのです。
  そして、聖書の中には、先駆者であるイエスの、まっすぐなメッセージと共に、時代が保守化する中でイエスのメッセージを薄め、時に骨抜きにするような言葉が足されていることもあるにもかかわらず、「聖書には一切誤りがない、神から直接与えられた聖なるもの」だと言って、聖書の言葉を自分の都合のいいように引用して、保守的なメッセージを押しつけようとするなら、このような価値観も偶像なのです。
  もうひとつ問題を挙げると、イエスも、そしてキリスト教も、すべて骨抜きにして、ただの「イメージ」あるいは、イメージ・キャラクターにもできてしまうのです。ちょうど、くまのプーさんや、ミッキー・マウスや、スヌーピーと同じように。
  くまのプーさんを、ミルンの作品を通して知り、そして愛している人もいれば、ただディズニー・ストアで売ってるぬいぐるみがかわいいと思っているだけの人もいるのです。シュルツの描いたマンガ、ピーナッツに出てくるとても複雑な思いを持って生きているおかしな犬スヌーピーや、人間の不平等や不公平、そして悲しさやおかしさを表したこのマンガを知らなくても、絵だけ見てかわいいと思い、その先は考えることをやめてしまうのです。
  ゴスペルの歌でも同じことです。たとえば、God is surely amazing(神は本当に素晴らしい)という一行だけをくり返す、私が大好きな歌があるのですが、これだって、ヘタしたら、神さまのコマーシャル・ソングになってしまい、では、神のどこが素晴らしいのか、という問いをやめてしまい、気がついたら、美しく見える神のイメージを、何か別の目的に使われても気がつかない、というようなことになりかねないのです。
  そして、田川建三の2012年になっても変わらぬ批判は、保守的なキリスト教の姿を護ろうとするあまり、イエスの生き方と離れてしまっている人たちに向けられます。「キリスト教は、イエスの抹殺を継続するかかえこみであって、決して先駆者イエスの先駆性を後に成就した、というものではない。イエスは相変わらず成就されずに、先駆者として残り続けている」。
  これは、痛烈な批判ですね。

§「裁くためではなく、救うために」

  さて、今日最初に読んだ、ヨハネによる福音書の3章を読んでいきます。

* モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子も挙げられなければならない。信じる人が一人残らず、彼のうちにあって永遠の命を持つためである。

   ここで、イエスが他の人が救われるために天に挙げられるのは、避けられない、という考えが表明されています。しかし、救いにあずかる者は、「信じる人」限られています。ヨハネは、光と闇、信じる人と信じない人、のように世界を二つに分ける傾向にあります。これは二元論といって、アメリカ人にも、このような傾向が引き継がれています。

*  つまり神はひとり子を与えるほど世を愛したのである。彼を信じる人が滅びることなく、一人残らず永遠の命を持つためである。つまり神が子を世に遣わしたのは、世をさばくためではなく、世が彼を通して救われるためなのである。

  これもとても有名で、きれいな言葉ですね。神の愛の大きさを語っています。「神が子を世に遣わしたのは、世をさばくためではなく、世が彼を通して救われるため」、というのもいいですね。

*彼を信じる人はさばかれない。だが、信じない人はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、自らの業が邪悪だったため、人々が光よりも暗闇を愛したこと、これがさばきである。悪いことをしている人は皆、光を憎み、自分の業が暴かれないよう、光のところに来ようとしないからである。だが、真理を行なっている人は、自分の業が神のうちにあってなされてきたのだということがあらわになるため、光のところに来る。

   これは、さばき(最後の審判が神によって下されるとき)が、未来、死後のことを言っているのか、それとももうすでに現在の現実の話しなのか、という問題につながります。洗礼者ヨハネの言葉、「ならば回心にふさわしい実を結べ。そして、『俺たちの父祖はアブラハムだ』などと心の中でうそぶこうとするな。なぜなら、私はお前たちに言う、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのだ。すでに斧が木々の根元に置かれている。だから、良い実を結ばぬ木はことごとく切り倒され、火の中に投げ込まれるのだ」、を思わせますね。
  イエスが言われる「さばくな」も、これと通じています。裁くのは神、神にゆだねる、ということ。
神にゆだねることができるということは、もちろん、神を持ち、信頼して繋がり、私たち自らが神にかわろうとすることがない、ということです。
  マタイによる福音書では、「さばくな」ということだけが強調されています。しかし、これは、ルカによる福音書のように、「裁くな」、「赦せ」とがセットで、平和の道となります。これは、先ほどのローマに対する護教のための平和などではなく、真の平和への道です。

*ルカによる福音書6:37−38
 そしてさばくな、そうすればあなたたちはさばかれることがないだろう。また、罪に定めるな、そうすればあなたたちは罪に定められることもないだろう。
 赦せ、そうすればあなたたちも赦してもらえるだろう。
 与え続けよ、そうすればあなたたちも与えられるだろう。
 人々は、押し込み、揺すり、あふれ出るほどに升の中身を良くしてあなたたちの懐に与えるだろう。
 なぜならば、『あなたたちが量るその秤であなたたちに量り返されるだろう』からだ」。

  そして、マタイの福音書では、この続きに次の言葉が続くのです。

*マタイによる福音書7:7
 求めよ、そうすればあなたたちに与えられるであろう。探せ、そうすれば あなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。
            2012年 7月22日 高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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