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日本キリスト会川崎教会コミュの「物事の本質を見る目」

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「物事の本質を見る目」

?ヨハネによる福音書 2:12−25
 この後、彼はその母と兄弟たち、および自分の弟子たちとともにカファルナウムに下り、数日間そこに留まった。
 ユダヤ人たちの過越祭が近かった。イエスはエルサレムにのぼった。神殿(境内)に、牛や羊や鳩を売っている人々、また両替商が座っているのを見つけた。そして縄で鞭を作り、羊も牛も皆神殿から追い出した。また、両替屋の金をまき散らし、台をひっくり返した。そして鳩を売っていた人々に言った、「これらのものをここから取り去れ。私の父の家を商売の家にするのはやめろ」。
 イエスが復活して後弟子たちはあなたの家に対する熱情が私を食いつくすだろう(詩篇69:10))と書かれているのを想い起こした。
 するとユダヤ人たちが答えて彼に言った、「このようなことをするからには、どんな徴を見せてもらえるのか」。イエスは答えて彼らに言った、「この神殿を壊して見ろ。三日のうちに起こして見せよう」。そこでユダヤ人たちは言った、「この神殿は四十六年かかって建てられたのだ。それをお前は三日で起こすと言うのか」。彼は自分の身体という神殿について話していたのであった。
 彼が死人の中から起こされた時、彼の弟子たちはこのことを言っていたのを想い起こした。そして聖書とイエスの話したことばを信じた。
さて、過越祭の期間、祭りの間中彼はエルサレムにいた。その間に多くの人々が、彼の行っていた徴を看て、彼の名を信じた。がイエス自身は自分を彼らに任せることはしなかった。彼はすべての人を知っていたからであり、人間について誰かに証ししてもらう必要がなかったからである。つまり彼は人間の中に何があるかを知っていたのである。

?マルコによる福音書 14章58節
「私どもはこいつが、『俺は手で造られたこの神殿を壊し、三日の後に手で造られない別の神殿を建てて見せる』と言うのを聞きました」。
 新約聖書翻訳委員会訳

§「弱さを絆に生きる」

   朝日新聞の7月はじめの夕刊の、「谷川俊太郎7月の詩」は、味わい深い詩でした。

こころから
                                                                                      子どもたちに
こころはいれもの/なんでもいれておける
だしいれはじゆうだけど/ださずにいるほうがいいもの/だしたほうがいいもの
それはじぶんできめなければ

こころからだしている/みえないぎらぎら/みえなほんわか
みえないねばねば/みえないさらさら
こころからでてしまう/みえないじぶん
  そうだなあ、よくない部分がでちゃうときも多いなあ、と反省し、いいところがたくさんでるように生きていたいなあ、と思いつつ、そのすぐ下を見ると、「『弱さを絆に』生きる」という表題が目に入ってきました。あれ、イエスの弟子たちや、パウロのような、イエスの生き方に触れた人の言葉だなあ、と思い読み進むと、「聖書学者・荒井献さんに聞く」とあります。岩波書店から出ている、新約聖書翻訳委員会訳の新約聖書の翻訳を編集者で、妻の大学、恵泉女学園大学の学長でもあった人です。
  結婚前に、ご自宅で開かれていた聖書研究会に二人で参加させていただいたこともありました。私はまだまだかなり尖っていた時期で、大変反省が多いのですが、奥様の荒井英子先生と共に、若くして病気で亡くなった最初の奥様について、また仕事と研究を第一にしていたことで子育てや家庭生活に時間を割かなかったこと、その経験を共有しなかったことについての反省や、英子先生との新たな出会い、そして新しく踏み出した生活で知ったことなど、これから結婚生活をはじめようとする私たちに特に語って下さったことを想い起こしました。
  そして、記事を読み進めますと、インタビューは次のような言葉で始まっていました。「『弱さを絆に』は一昨年、がんで亡くなった妻英子さんの遺著(教文館刊)の題名です」。これは大変なショックでした。私たちは57才という若さで荒井英子先生が天に召されたことを知りませんでした。東日本大震災で多くの人々が不意に生命を失ったのと同じように、私たちは、病に苦しんだり、生命を失うこともあります。こういう時に私たちは悲しみ、なぜ、という問いかけをします。荒井先生は、「人智を超えた死を、キリスト教では神の摂理と呼びますが、求められているのは不可避な死と向き合うこと。でもそれを人は恐れる。イエスでさえ十字架上で、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』と息を引き取った。これは人間の弱さの究極ではないか。そのイエスと、師を見捨てて逃亡した『弱い』弟子たち、マグダラのマリアら『弱者』とされた女性たちの弱さが絆となり、最初期のキリスト教が成立したと私は考えます」、と語っておられました。私たち、ひとりひとりが弱い存在であることを知ることは、弱さを持つ他の人たちを理解しようとする第一歩でもあり、お互いの大切さを知ることでもあります。『あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい』(マタイ12)という戒めの本質はそこにあるのだと思います。
   しかし、この弱さこそ、この価値観の転換こそが、逆に大きな力でもあるのです。私たちは、主イエスと同じ生き方をたどり、そのように生きることで、世界を変えることもできるのです。

§「神殿に対する批判」

 さて、今日の聖書箇所を読んでいく前に、当時のユダヤ人たち、ユダヤ教徒たちにとってのエルサレムの神殿はどのような存在だったかを考えます。
  エルサレムの神殿は、ユダヤ人の宗教、ユダヤ教の中心にありました。
  ユダヤ教の神殿を中心とした社会の中で、神さまは神殿の至聖所にいることになっていて、大祭司だけが、一年に一回しか入ることが許されない、ということは、神さまは権力者と共にあるのです。また、ユダヤ教では、浄(きよ)い者が救われるとされます。その浄いということは、ユダヤ教徒であり(ということは外国人ではなく)、男であり、健康であり、土曜日の安息日に働かなくてはならないような仕事に就く必要がない、裕福な人々です。そして、ユダヤ教は、民衆をおとなしく治めるために、ローマ帝国によって公認宗教とされ、利用されていました。ユダヤ教社会のピラミッドの頂点には、ローマ帝国があって、ローマ人、ローマ軍は侵略者で、かなりの横暴、暴力がまかり通っていたのです。
  しかし、イエスは、このすべてが間違っていることを人々に知らせました。神は、誰をもご自身の子として愛し、最も小さな人と共にあること。ユダヤ教徒も、その他の人たちも、女も男も、子供達も、障害を持っている人も、病気の人も、元気な人も、分け隔てなく大切なのです。すると、それは当時のローマの支配下にあるユダヤ教社会を否定し、反省と回心を求めることでした。ということは、権力の側からすれば、秩序を乱す者、もっと言えば反逆者ということになります。
  ですから、この今日の箇所の行動は、よく言われてきたように、「宮清め」ではありません。イエスは神殿を神の家だとは思っていないのです。

*マルコによる福音書 14章58節
「私どもはこいつが、『俺は手で造られたこの神殿を壊し、三日の後に手で造られない別の神殿を建てて見せる』と言うのを聞きました」。

  これは、豪華な神殿を、そのまま建て直せると言っているわけではありません。神殿など、いらないのです。イエスに耳を傾け、人々の意識革命が起きれば、神は私たちと共にいるのです。ヨハネによる福音書は、これはイエスが復活して、私たちを支えてくれることを指しているのだと解釈します。では、ユダヤ教がいけないのであれば、キリスト教ならいいのでしょうか。イエスの意識には、そのような感覚はありませんでした。誰もが同じように大切だ、といったら、本当に誰もが同じように大切なのです。

*イエスはエルサレムにのぼった。神殿(境内)に、牛や羊や鳩を売っている人々、また両替商が座っているのを見つけた。そして縄で鞭を作り、羊も牛も皆神殿から追い出した。また、両替屋の金をまき散らし、台をひっくり返した。そして鳩を売っていた人々に言った、「これらのものをここから取り去れ。私の父の家を商売の家にするのはやめろ」。

 ヨハネによる福音書には、このように 「私の父の家を商売の家にするのはやめろ」、とあります。この書き方では、「私の父の家」は、神殿を指しますね。マルコによる福音書にも、こうあります。

*マルコ11:17
「聖書には次のように書かれているではないか、『私の家は、あらゆる民族の祈りの家と呼ばれるであろう』。
それなのにお前たちは、それを強盗どもの巣にしてしまった」。

 これは、イザヤ書56章7節からの引用です。 「まことに、わが家は、総ての民の祈りの家と呼ばれる」。

  これを解釈すれば、「神さまが「私の家」というのが神殿を指すのであれば、そこはあらゆる民族の祈りの家となるはずだ。しかし、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。しかし、神さまが「私の家」とするのは、人々の心の中です。あるいは、私たちのただ中にあるのです。
  ヨハネによる福音書の4章に、このような箇所があります。

*ヨハネによる福音書 4:20−21
 私たち(サマリア人)の先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言われます」。
 イエスは彼女に言う、「女よ、私の言うことを信じなさい。あなたがたがこの山でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝するようになる時が来ようとしている。
 
  聖地はエルサレムの神殿だとか、いや、ゲリジム山だとか、宗教的な対立の中に答えはないのです。どちらにしても、自分の民族、自分たちと同じ宗教が主流で、それ以外は認めない、という姿勢に変わりないのです。そういう価値観に縛られないで、どこでも自由に神とつながるときが来る、そしてそれが今だ、というのです。
  これは、人の手で作られた神殿などいらないのだ、排他的な宗教もいらないのだ、人々から神を遠ざけ、権力者が神を利用することは間違っている。そこで、神さまをも、神殿の中から解放して、一般の人々と結びつけるために、エルサレムで、過激とも思える行動にでるのです。
 
*マルコによる福音書11:15
 こうして彼らはエルサレムにやって来る。そしてイエスは神殿境内に入ると、神殿境内の中で売り買いする者たちを追い出し始め、両替人たちの台と鳩を売る者たちの椅子とをひっくり返した。

  この神殿での抗議行動が、主イエスの逮捕の直接の原因になった事件です。マルコによる福音書では、イエスの活動の最期に、エルサレムに登り、この抗議行動をしましたが、ヨハネによる福音書では、このできごとの重大性を強調してか、彼の活動の最初に書かれています。
 マルコによる福音書では、 「神殿境内の中で売り買いする者たちを追い出し」とあるように、商人達だけでなく、参拝に来ている人をもイエスは追い出しています。
 実は、両替人たちの行っていたことは、神殿の外の世界で流通するギリシャやローマの貨幣を、神殿の中で献金に使われる清い貨幣、古ヘブライ貨幣か古代ティロス(ツロ)の貨幣に両替することでした。ということは、両替商が、神殿のなかに於ける実質的な経済の中心だということです。  また、鳩は捧げものとして売られていたものです。ということは、日本の神社の境内に並ぶテキヤのような人たちのイメージとは違い、イエスの攻撃は、神殿そのものに向けられていたことになります。この場面についてのJDクロッサンの解説を読んでみましょう。

・彼の行為はすなわち、神殿の存在そのものに対する攻撃であり、破壊である ー 正確には象徴的なものであるが、いずれにせよそれが危険な叛逆であるということには全く違いはない。(JDクロッサン)

  イエスは、人間の手によって造られた権力の象徴としての神殿、民衆から神との直接のつながりを奪おうとするものを、はっきり否定したのです。それが、たとえ民族的宗教であっても、宗教的、道徳的な価値観の中心にあるように思える物でも。この意味で、イエスは人々をあらゆる束縛から解放する解放者、革命家であったと言えると思います。
            2012年 7月 8日
  高橋   誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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