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日本キリスト会川崎教会コミュの「カナでの婚礼にて」

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「カナでの婚礼にて」

*ヨハネによる福音書 2:1−11

 さて、その三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があった。また、イエスの母がそこにいた。そして、イエスとその弟子たちもその婚礼に招かれた。
 ところで、葡萄酒が切れてしまったときに、イエスの母が彼に言う、「あの方たちに葡萄酒がありません」。するとイエスが彼女に言う、「女よ、それが私とあなたにとってどうしたというのです。私の時はまだ来ていません」。彼の母は給仕の人たちに言う、「彼があなたがたにどんなことを言っても、してやって下さい」。
 さて、そこにはユダヤ人たちが身を清める儀式のための石の水瓶が六つ置いてあった。それぞれ二ないし三メトレテス(一メトレテスは約39リットル)の容量であった。「イエスが彼らに言う、「瓶を水で一杯にしなさい」。そこで、彼らは口まで一杯にした。すると彼らに言う、「いま、それを汲んで世話役のところへ持って行きなさい」。それで彼らは持って行った。で、世話役は、葡萄酒になっているその水を味見した時、ー彼にはそれがどこから届けられたのかわからなかったが、その水を汲んできた給仕たちはわかっていた ー、世話役は花婿を呼びつけて彼に言う、「人は皆良い酒を先に出すものだ。質の落ちるやつは酔った頃に出すんだ。お前ときたら、良い酒を今まで取っておいた」。
 これをイエスは数多くの徴のはじめとしてガリラヤのカナで行ない、自分の栄光を顕した。そして弟子たちは彼を信じた。
                                    新約聖書翻訳委員会訳

§「」

  昨日で6月も終わり、2012年もちょうど半分まで来ました。ニュースでは、大飯原発の再稼働の決定や、東京電力などの電力会社の株主総会で、株主による脱原発の提案がことごとく否決されていくことが伝える中で、22日、29日と、大飯原発再稼働反対、そして脱原発を求めるデモに、多くの人々が参加したことが、伝わってきました。普通の人たちが、もう無関心ではいられない、と立ち上がるのはとても頼もしいことです。これを生かして、変化を起こす風にしたいですね。
  NHKのニュースを見ていると、このデモについてほとんど報道されていません。数十年にわたって原発を危険性を指摘し続けている広瀬隆さんが「金を取って何も(N)放送しない(H)公共放送(K)」と揶揄していましたが、これではいけないと思います。イギリスの国営放送、BBC放送のように、常に社会の問題をありのままに報道する、というまっすぐな放送局でないと、公共放送の価値はありません。
  原発の危険については、私たちのように普通の人たちにも、また小さい子供たちにもよく理解できます。何か起きたとき、取り返しがきかないほどの被害をもたらすことは、もはや予想でも、危惧(きぐ)でもなく、実際に経験してしまったことであるにもかかわらず、電力会社も、政府も、これを理解できないとは、どういうことなのか、と思います。
  サイモンとガーファンクルの歌、サウンド・オヴ・サイレンス(静けさという音)の中に、People talking without speaking/People hearing without listening(人々は、語ることなくしゃべり、耳を傾けることなく聞いている)という印象的な箇所がありました。しっかりと心から沸き出でる大切な内容のあることを話すことなしに、おしゃべりをし、きちんと大切なことに耳を傾けることをせずに、ただ耳に入ってくることを聞いている。それでは、空(むな)しいではないか。本当にその通りだと思います。
   実際、私たちは、思い込みや先入観の囲まれて生きています。それを、あれ、私は間違っていたんじゃない?勘違いしているんじゃない?本当はどうなの?と、いつも柔らかく反省できることは、とても大切なことですね。
  先入観や、思い込みが普通に私たちのあることを、どのように説明したらわかりやすいかを考えていましたら、先週、このようなことがありました。
  先日、英語学園で勉強しているお母さんに、どんな時に、名詞にanがつくかについて話していました。a book/ a cat/ a desk ...普通は、「一つの」はaだけれど、名詞が母音、a,e,i,o,uの音で始まるときは、anになることを説明していました。英語では、ア・アップルとか、ア・エッグのように音がつまるとすっきりいかないので、 aではなく、anにして、アナ〜プル、アネッグのように、なめらかに発音できるようにしているのですよ、と。すると、とても不思議そうな表情をしていました。今までのことを思い返し、an appleをアナップルと、an eggをアネッグと、くっつけて発音した経験がないこと、また、そのような音で聞いた覚えも習った覚えもないのです。
  無理もありませんね、an appleは、アン・アップルと、an eggはアン・エッグと教わるのがほとんどですから。アナ〜プル、アネッグ、と、音がくっついてつながることを、フランス語でリエゾン(liaison)といい、フランス語を勉強するときには、たいがいテキストの最初の方にこの説明がでてきますが、英語では、意識して練習する人はまだ多くないですね。
  で、何を言いたいかというと、英語で、アナ〜プルと聞いても、アン・アップルと頭で変換して、あるいは修正して聞いているのです。無意識に変換しているので、本当の発音にも気がつかなかったりするのです。
  日本語でも、こういう例はたくさんあります。しばらく前の総理大臣に、日本を「ニオン」と発音する人がいました。しかし、日本の総理大臣が、日本のことを話しているので、日本「ニホン」と行っているはずだ、と、聞いている人たちの脳が、やはり無意識に修正して聞いているのです。
  私たちには、思い込みや先入観が必ずあるのですが、意識しているとそれに気づくことができるようになります。これは心を鍛え、理解力を増し、生きる力を培うことにつながります。
   open mindとかopen-mindedという英語の表現があります。開かれた心、とらわれない心、偏見のない心、新しい考えや提言を受け入れられる開かれた心。これを持つことはとても大切なことだと思います。主イエスが教えてくれたことは、実はまさにこれなのです。
  主イエスは、まっすぐ神さまを見、神の心にかなうことは何か、それだけを考え、慣習や社会の仕組み、その時代の常識をまったく考えずに、純粋に神と、そして人とを愛しました。

*マルコによる福音書12章28〜31節
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、『聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこであなたは、あなたの神なる主を、あなたの心を尽くし、あなたのいのちを尽くし、あなたの想いを尽くし、あなたの力を尽くして愛するであろう』。第二のものはこれだ、『あなたは、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう』。これらより大いなる他の掟は存在しない」。

  パウロは、主イエスから受け継いだ生き方を、「自由」と表現しました。

* ヨハネ8:31b-32
あなたがたが私の言葉に留まるなら、あなたがたは本当に私の弟子である。そして真理を知るようになり、その真理があなたを自由にするであろう。

  「自由」は、お金や権力がある人たちが、好きなように世の中を動かしていい、という意味では決してないのです。(「新自由主義」や、アメリカの保守派の言う自由は、これなのです。)
  民主党も、自民党も、官僚も、電力会社の人たちも、また原発を作る会社の人たちも、今こそ自由になって、私たちが何をすることが必要なのかを、まっすぐ考えて欲しいと思います。

§「カナでの婚礼にて」

  聖書を読むときにも、私たちは、しっかり神さまの方を向いて、今までの常識や習慣にとらわれず、自由に読むことが大切です。
  ヨーロッパや米国の歴史や文学に触れた人なら、いかにキリスト教が人々に、権力者におとなしく従うようにするために利用されてきたかを知っています。
   聖書には、こうしたことに利用されてきた箇所がたくさんあります。一例を挙げましょう。

*ローマ人への手紙13章1−3a
 すべての人間は上位にある権威に服従しなさい。神によらない権威はないからであり、存在している権威は神によって定められてしまっているからである。したがって、その権威に逆らう者は、神の定めに反抗することになり、それら反抗する者たちは、自分自身にさばきを招くであろう。支配者たちは、善き業をなす者にとっては恐れではなく、むしろ悪しき業をなす者にとってそうなのである。

  この箇所は、イギリスのジェームズ1世やフランスのルイ14世に仕えたフランスの司教ボシュエらが唱えた帝王神権説(王権神授説)や、神権国家論の根拠とされてきた箇所です。フランス革命や、宗教改革を担った人たちは、これと闘ったのです。
  「カナでの婚礼での奇蹟の物語」は、実際に起こったことの記録ではありません。これは、イエスのしるしが、どのような意味を持つのかということを語る物語なのです。

*さて、その三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があった。また、イエスの母がそこにいた。そして、イエスとその弟子たちもその婚礼に招かれた。

  聖書では、 神と人、 神とイスラエルとの関係を夫婦関係になぞらえてかたることがよくあります。神の国がこの地上に実現する、という喜びが、結婚祝いのパーティーという形で語られています。さて、当時の人たちには、神の国がこの地上に到来するのは、最後の審判があって、この世の終わり(終末)が来た後だと考えられていました。

*ところで、葡萄酒が切れてしまったときに、イエスの母が彼に言う、「あの方たちに葡萄酒がありません」。するとイエスが彼女に言う、「女よ、それが私とあなたにとってどうしたというのです。私の時はまだ来ていません」。彼の母は給仕の人たちに言う、「彼があなたがたにどんなことを言っても、してやって下さい」。
 
 このお話の主張は、神国の到来には、イエスの働きが、決定的な役割を演じたのだ、ということを表現しているのです。
   
*さて、そこにはユダヤ人たちが身を清める儀式のための石の水瓶が六つ置いてあった。それぞれ二ないし三メトレテス(一メトレテスは約39リットル)の容量であった。「イエスが彼らに言う、「瓶を水で一杯にしなさい」。そこで、彼らは口まで一杯にした。すると彼らに言う、「いま、それを汲んで世話役のところへ持って行きなさい」。それで彼らは持って行った。で、世話役は、葡萄酒になっているその水を味見した時、ー彼にはそれがどこから届けられたのかわからなかったが、その水を汲んできた給仕たちはわかっていた ー、世話役は花婿を呼びつけて彼に言う、「人は皆良い酒を先に出すものだ。質の落ちるやつは酔った頃に出すんだ。お前ときたら、良い酒を今まで取っておいた」。

   最初の葡萄酒、また、水瓶に入れられた水は、それまでのユダヤ教で、それでは、神の国の到来を祝うには、足りないのです。また、完成されていないのです。ですから、イエスによって別な物、「良い酒」に変えられて、この神の国の到来を祝う祝宴は完結するのです。
   ヨハネによる福音書の2章の最初、イエスの働きの一番最初にこの物語があるのは、主イエスが生きて、意義ある行動をして、大きな変化を私たちにもたらしてくれた、ということの表明なのだと思います。

*ローマ人への手紙5:1−5
 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストをとおして私たちは信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。のみならず、私たちは患難の中にあっても誇っている。それは、私たちが次のことを知っているからである。すなわち、患難は忍耐を生じさせ、忍耐は確証を、確証は希望を生じさせるということを。希望は私たちを欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。
            2012年 7月 1日
  高橋   誠
  日本キリスト会川崎教会牧師

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