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日本キリスト会川崎教会コミュの「荒野で呼ばわる者の声」

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「荒野で呼ばわる者の声」

*ヨハネによる福音書1:19−28

 さて、ヨハネの証しは次の通りである。
 ユダヤ人たちがエルサレムから祭司たち、レビ人たちを彼のもとに遣わして、「お前は誰だ」とたずねさせた時、彼は公言して否まず、「私はキリストではない」と公言した。そこで、「それではどういうことだ。お前はエリヤか」とたずねたところ、彼は言う、「私は違う」。「お前はあの預言者か」。すると、「いや」と答えた。
 そこで彼に言った、「お前は誰だ。われわれを派遣した人たちに答えを持って行かせてくれ。お前は、お前自身について何と言うのか」。彼は言った、「私は預言者イザヤが言ったように、『お前たち、主の道をまっすぐにせよ』と、荒野で呼ばわる者の声である」。
 さて、彼らはファリサイ派の人々から遣わされていた。彼にたずねて、彼らは彼に言った、「それでは、お前がキリストでもエリヤでもあの預言者でもないのなら、なぜ洗礼(バプテスマ)を授けているのか」。
 ヨハネは次のように言って彼らに答えた、「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの真ん中にあなたがたのわからない方が立っておられる。その人は私の後から来ようとしている方で、この私はその方の片方の皮ぞうりの紐を解く資格もない」。これらのことは、ヨルダン河の向こう、ベタニアで起こった。ヨハネはそこで洗礼を授けていたのである。
新約聖書翻訳委員会訳

§「洗礼者ヨハネ」

  今年も、もう6月になりました。毎年、5月の終わり頃になると、この辺りに昔から住んでいる70代以上の人たちが、1945年5月29日の横浜・川崎大空襲の経験を話してくれます。米国軍の爆撃機がたくさん押し寄せて、町中に焼夷弾を落として焼き尽くしていったのですから、壮絶な経験であったに違いありません。
  その後、まもなく、広島長崎への原爆投下を経験して、日本は敗戦します。普通の感覚では、勝つことはよく、負けることはよくないのは当たり前ですが、よく考えてみるとそうではない場合も多くあります。日本にとっての敗戦は、新しい国作りに一歩を踏み出す、大きな変化の機会になりました。日本国憲法によって、人々の人権や平等、そして自由が保障されたことは、その中でも特によかったことです。
  アメリカも、勝ってよかったかといえば、そうではなく、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争と、戦争を続け、戦争をすることへの反省をする機会を失ってしまいました。それが、今の社会の混乱、麻薬や暴力などの蔓延の大きな原因となっています。
  人々が生きる道を、しっかりと自信を持って決められること、判断できることは、本当に大切なことです。
  そして、その能力を培(つちか)うには、聖書を読み、主イエスの歩んだ道をたどることが大変大きな助けになります。
  さて、主イエスが公(おおやけ)の活動を始める前に、洗礼者ヨハネの働きがありました。ヨハネは、エルサレムの近くで生まれたようです。

・イエスの先触れは、洗礼者ヨハネ、そして祭司ザカリアとその妻エリザベトの息子として知られている。マリアがザカリアとエリザベトの家庭を訪問したとき、「山岳地帯、ユダのとある町へ赴いた」(ルカ1:39)。そしてヨハネが生まれ、命名された出来事が「ユダヤの山岳地帯のどこでも」(ルカ1:65)なされていた会話の主題である。(中略)テオドシウス(530年)は、エルサレムからヨハネの母エリザベトの住むところまでは8キロであると述べている。これは、エルサレムから西のアイン・カレム(ぶどう畑の泉)村までの距離(7.5キロ)と一致する。この村の名は、エルサレム・カレンダー(638年以前)でエリザベトを記念して8月28日に祝われる祭りの場所として以下のように記されている。「エンカリムの村で、正しい人エリザベトの教会で、彼女の記念」...ジャック・フィネガン

   イスラエルの民の、「私たちは神に選ばれた、選民だ」という、選民思想は、おおきな堕落を生みました。自分たちの行いを省みることなく、傲りを生んでしまったのです。現代でも、同じ問題がたくさんありますね。今、各国で台頭している国粋主義や、民族主義は、その成り立ちから大きな問題そのものなのです。
  そして、ヨハネは支配階層や、特権階級を生み出す、エルサレムの神殿中心のユダヤ教を批判し、荒野で、預言者イザヤのように、獣の毛皮をまとい、野蜜(野に生える木の果物、特にナツメヤシなどを指すのだと思います。)を食べて暮らし、人々に回心を促しました。
  荒野で祈り、神の前に、ありのままの姿であなたは立てるか、という問いでもあります。

*マタイによる福音書 3:8−10
 ならば回心にふさわしい実を結べ。そして、『俺たちの父祖はアブラハムだ』などと心の中でうそぶこうとするな。なぜなら、私はお前たちに言う、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのだ。すでに斧が木々の根元に置かれている。だから、良い実を結ばぬ木はことごとく切り倒され、火の中に投げ込まれるのだ。

  「火の洗礼」という言葉がありますが、これは神による審判、最後の審判を表す言葉でした。ヨハネは、神による審判は、ずっと後に来るのではなく、今、私の生き方、やっていることにたいして、神の想いを知るなら、もうすでに、その審判の結果は明らかだ、というのです。「すでに斧が木々の
根元に置かれている」、というのは、大変辛辣(しんらつ)ですね。
   そして、貧しい人々に対しても、指示がとても具体的です。

*ルカによる福音書3:11b
 下着を二枚持っている者は、持っていない者に分け与えよ。また、食物を持っている者も、同じようにせよ。

  皆が、思いやり、愛を持って、隣人をあなた自身として愛するなら、こうするだろう、と考えると、ヨハネの語ったことは、主イエスと共通していますね。
  しかし、ヨハネの身に、大変な事件が起きます。

*マルコによる福音書1:14−15
 さて、ヨハネが獄に引き渡された後、イエスはガリラヤにやって来た。そして、神の福音を宣べ伝えながら言い続けた、「この時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。

このヨハネが、ヘロデ・アンティパスによって拘留されてしまうのです。歴史的には、おそらく、主イエスは、洗礼者ヨハネと共に行動していたものと思われます。そして、このヨハネが獄に入れられてしまったという事件を期に、イエスは公の活動を開始したのです。
   ヨハネは、荒野で、罪の悔い改めと、洗礼を受けることを説いていました。「主の道を備えよ。彼の小径を直くせよ」。
  この場所を、ヨハネによる福音書では、ヨハネは「ヨルダン河の向こう、ベタニア」であったと伝えています。マルコによる福音書なのでは、もっとガリラヤ湖の近くを連想させます。
  しかし、「荒野でよばわる」とは、どういうことなのでしょうか。荒野は、人が住むのに適さない場所をいいます。ヨルダン河の河畔は、その代表的な場所です。川辺には水があるので住みやすそうに思えますが、雨期には、雨が降る度に鉄砲水がでるなど、大変危険な場所に豹変するのです。そこには、当然人々もあまりいません。そんな場所で大切なことを懸命に語っていたのです。
  普通の考えでは、人々の集まるところ、国や地方の中心に行き、そこで声を上げますが、ヨハネはその正反対の行動をしていたのです。
  人間社会の中心となるところ、宗教的な聖地とされるところ、神殿、そしてそこにいる祭司たち、政治や経済の中心となるところ、人々、これらの人々の考え方や価値観に疑問を投げかけるには、正反対の環境、人間の存在の小ささがよく感じ取れ、謙虚になりやすい環境だと思ったのだと思います。
  これは、現代の私たちの社会に問題を置き換えても、同じことが言えると思います。原発事故の問題、電力料金の問題、原発再稼働の問題、...こういうことに全く別の選択肢(Alternative)が必要と感じますよね。
 神の前で、本当に謙虚な生き方をし、自らの行動を含めて、いつも吟味し、省み、修正しながら生きるという生き方、自浄作用がなければ、この世の流れ、仕組みは、どんどん腐敗へと進んでいきます。イスラエルの神は、エルサレムの神殿にいて、民衆はそこで燔祭を捧げることになっていました。燔祭を捧げるためには、燔祭の動物を買います。裕福な人は大きな家畜を、貧しい人は鳩などの鳥を捧げることになっていたそうです。しかし、この燔祭を捧げる行為は、あまりにもグロテスクなために、反対をしていた人たちもいたようです。既に、紀元前8世紀のアモス書に、このように書かれています。これは、神の言葉として書かれている部分です。

*アモス書5:21ー24
 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。(略)肥えた動物の献げ物も顧みない。(略)正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。

 ヨハネやイエスは、神殿中心の宗教が、人間社会の階級のピラミッドをそのまま反映していることにも異を唱えていました。荒野に出て、そこに人々を集め、人間による建造物など一切ない、厳しい自然の中で、神と向き合うことを説きます。
 そして、ヨハネは、ヘロデ大王の息子のひとりで、ガリラヤとペレアの領主、ヘロデ・アンティパスを激しく非難し続けたため、捕らえられ、ついには処刑されてしまいます。ヘロデ・アンティパスは政略結婚で結婚したナバテア国の王の娘である自分の奥さんを追い出し、腹違いの弟ヘロデ・フィリポの妻、ヘロディアを奪って結婚したのです。
 主イエスは、このような出来事の最中に、人間の、権力者のエゴででたらめなこの社会を批判し、神の国を、ここに実現させようとするのです。神さまによる直接統治の、愛に満ちた社会を実現しようとされたのです。「この時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で(神を)信ぜよ」。
 弟子たちにとっては、この出会いは、自分たちの一生を献げる決心をさせるほどの、出会いであったのでしょう。

§「荒野で呼ばわる者の声」

   今日の箇所、ヨハネによる福音書1章19節からは、権力の側の人たちが、人を送って、ヨハネとは、誰なのかを見つけ出そうとする場面です。果たして、ヨハネは預言者なのか、預言者エリヤの生まれ替わりなのか、それとも、人々が待ちわびている救い主(キリスト)なのか。
  この問いに対してのヨハネの答えは、「私は預言者イザヤが言ったように、『お前たち、主の道をまっすぐにせよ』と、荒野で呼ばわる者の声である」、と答えます。「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの真ん中にあなたがたのわからない方が立っておられる。その人は私の後から来ようとしている方で、この私はその方の片方の皮ぞうりの紐を解く資格もない」、と。
  そして、これに対しての解説としては、この「後から来る方」は、主イエスのことを表しているのだと締めくくるのが普通だと思います。ヨハネより、イエスの方が権威があるのだと。
  しかし、果たして、そんな解説が今の私たちにどんな意味を持つのでしょうか。
  当時のユダヤ人たちは、救い主(メシア、キリスト)を求めていました。今の時代でも、魔法のように社会的な問題を解決してくれる強いリーダーを求めています。しかし、主イエスは、そのようなリーダーにはなりませんでした。そうではなく、私たちひとり一人に、生きることを、そして愛することを教えられました。その教えに触れた私たちは、主イエスと出会ったのです。私たちは、この出会いによって、新たなる力を得、それぞれが立ち上がり、今、それぞれができることを懸命に取り組みながら生きるのです。そして、その私たちの中に主イエスが生きておられるのです。
  生きなさい、行動しなさい、主イエスが共におられる。
            2012年 6月 3日  
高橋   誠
  日本キリスト会川崎教会牧師

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