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日本キリスト会川崎教会コミュの「本当にこの人は神の子であった」

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「本当にこの人は神の子であった」

*マルコによる福音書 15章33〜41節

33 さて、第六刻(正午頃)になると闇が全地を覆い、第九刻(午後三時頃)におよんだ。そして第九刻に、イエスは大声で叫んだ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。
 これは訳せば、「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」、という意味である。すると、かたわらに立っていた者のうち何人かがこれを聞いて言い出した、「見ろ、エリヤを呼んでいるぞ」。そこである者が走って行き、そして海綿を酢で充たした後、葦の先につけ、彼に飲まそうとして言った、「さあ、エリヤがこいつを降ろしにやって来るかどうか、見てやろうではないか」。しかし、イエスは、大声を放って息絶えた。
38 すると神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた。
39 また、彼に向かい合って立っていた百人隊長は、彼がこのようにして息絶えたのを見て言った、「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」。
40 さて、女たちも遠くから見ていた。その中には、マグダラの女マリヤと、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、そしてサロメもいた。これらの女たちは、彼がガリラヤにいた時、彼に従い、彼に仕えていた者たちである。そして、彼と共にエルサレムに上ってきた多くの女たちも、そこにいた。
                新約聖書翻訳委員会訳

§「喜びを分かち合う」

  先週は、礼拝の後に川崎リトルライト・シンガーズのコンサートがありました。とても和やかで楽しいコンサートでした。このように、教会の活動が教会の通っている人たち以外、リトルライトの家族や友人たち、高田英語学園に通う人たちにも広がって、愛と希望とを分かち合うことができると言うことは素晴らしいことだと思います。
  さらに、共に人々が集い、平和と喜びを分かち合う機会を、持てると良いと思います。

§「本当にこの人は神の子であった」

さて、私たちは福音書を読み進み、受難物語まで読んでまいりました。マルコによる福音書の編集者は、手に、前マルコ受難物語と呼ばれる、受難物語を持っていて、それを基にこの受難物語を書いています。そして、この受難物語の15章には、さらに古い伝承の段階を示すカギがあります。それは、詩篇で歌われている「苦難の義人」像が、十字架で死を遂げるイエス像に反映されている部分です。

*マルコによる福音書の記述と、詩篇の「苦難の義人」像
 A:マルコ15:24a そして彼らは、彼を十字架に付ける
  詩篇22:17 さいなむ者が....獅子のように私の手足を砕く
B:マルコ15:24b そして、誰が何を取るか、籤をひきながら、彼の衣服を分ける
   詩篇22:19 彼らは...私の着物を分け、衣を取ろうとして籤をひく。
C:マルコ15:29 すると、通りすがりの者たちは、頭を振りながら彼を冒とくして言い続けた。
  詩篇22:8 私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突きだし、頭を振る。
D:マルコ15:34 わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか。
  詩篇22:2の直接引用
E:マルコ15:36 そこである者が走っていき、そして海綿を酢で一杯にした後、葦の先につけ、
彼に飲まそうとした」
  詩篇69:22 人は...渇く私に酢を飲ませようとする。
                         (佐藤研著「悲劇と福音より」)

 「マルコ15章の背後には、受難死を遂げるイエスの姿を、悲劇的「苦難の義人」の肉化(引用者注:人間化)したものと解するいっそう古い伝承が潜んでいる可能性」(佐藤研)がある、ということは、イエスに実際に起こった十字架による死を身近に経験した人々が、詩篇でうたわれている「苦難の義人」像にイエスの経験を重ね合わせたのでしょう。

*マルコによる福音書15:33−34
33 さて、第六刻(正午頃)になると闇が全地を覆い、第九刻(午後三時頃)におよんだ。そして第九刻に、イエスは大声で叫んだ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。
 これは訳せば、「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」、という意味である。

 「闇が全地を覆い」は、神の子であるイエスが死ぬ、ということを全地が悲しんでいるために起こる奇跡としての描写です。また、旧約聖書の十二小預言書のうちの一つ、アモス書には、世の終わり、最後の審判の象徴として、このように書かれています。

*アモス書8:9
 その日には、わたしは真昼に太陽を沈め、白昼に大地を暗くする。

 そして、第九刻(午後三時)に、イエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫びます。これはアラム語で、「わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか」という意味で、詩篇22編の最初の部分の引用です。マタイによる福音書(27:46)では、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」となっていますが、エリはヘブライ語で、レマ、サバクタニはアラム語です。確かにこの方が、「神よ(エリ)」を「エリヤ」と聞き間違い易いですね。
 この言葉の出典、詩篇の22篇で苦難の義人が、苦難の中にあってもなお、希望を見つけて神の救いの確信を歌っているので、この一行によって、22篇全体をメッセージとしてイエスが言っているのだ、という説にも魅力がありますが、やはりマルコの文脈から解釈すると、弟子たちにも見棄てられ、誰一人理解する者もなく、孤独で死を迎えるイエスの絶望的な叫びとして捉えるのがふさわしいと思います。
 ちなみに、14章50節とマタイ26章56節の、「すると全員が彼を見棄てて逃げていった」という弟子がすべて逃げていったという記事は、ルカによる福音書とヨハネによる福音書ではカットされています。そして、ルカによる福音書では、マルコのような、悲劇の極みのような状況は大分薄められ、最後の言葉も、普通のユダヤ人の夕方の祈りであった、「父よ、あなたの両手に、私の霊を委ねます」(詩篇31:6)という穏やかで、信頼に満ちた言葉に替わっています。

*マルコによる福音書15:35−38
 すると、かたわらに立っていた者のうち何人かがこれを聞いて言い出した、「見ろ、エリヤを呼んでいるぞ」。そこである者が走って行き、そして海綿を酢で充たした後、葦の先につけ、彼に飲まそうとして言った、「さあ、エリヤがこいつを降ろしにやって来るかどうか、見てやろうではないか」。しかし、イエスは、大声を放って息絶えた。
38 すると神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた。

 エリヤは、列王記下(2:12)で、天から降りてきた火の戦車に乗って天に上っていった、と伝えられています。また旧約聖書続編のマラキ書には、

*マラキ書3章23節
見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

 という記述があり、「当時、苦しむ義人には、エリヤが天から助けに来る、という民間信仰があった」(佐藤研)ので、人々は、エリヤが来るかどうか、見物しよう、ということになります。ここで人々がイエスに与えようとする酢、あるいは酸い葡萄酒と書かれてる飲み物は、オクソスといい、水と酢(バルサミコ)と卵を混ぜたもので、「ふつう、ローマ兵が元気を回復するために飲んでいた」(川島貞雄)もので、気付け薬。ここでイエスに与えようとしたのは、イエスの最期を長引かせようとしています。
 しかし、イエスは、十字架刑としては異例のはやさで「大声を放って」息を引き取ります。
 「すると神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けた」というのは、神殿の否定、神殿勢力への裁き、神は、神殿の聖所に(そこだけに)いるのではなく、人々と共にあるのだ、ということを象徴的に表現しています。神は、権力者の利用する道具などではない。神は、人々と共に!
  まさに絶望的な最後ですが、それにもかかわらず、人々はイエスにより神を取り戻し、神が共にいる、ということを知ることができたのだ、という希望としてこのできごとを捉えます。そして、死刑執行者のローマの百人隊長は思いがけない一言を発します。

*マルコによる福音書15:39−41
39 また、彼に向かい合って立っていた百人隊長は、彼がこのようにして息絶えたのを見て言った、「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」。
40 さて、女たちも遠くから見ていた。その中には、マグダラの女マリヤと、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、そしてサロメもいた。これらの女たちは、彼がガリラヤにいた時、彼に従い、彼に仕えていた者たちである。そして、彼と共にエルサレムに上ってきた多くの女たちも、そこにいた。

 「イエスの公生活は彼を『神の子』として宣言する天の声ではじまり、彼を『神の子』とする百人隊長の告白で終わる」(川島貞雄)のですが、これがなぜか。この大切な告白を、なぜよりによってローマの百人隊長にさせたのか、という課題が残ります。「偉大な生涯の物語」という映画では、西部劇のヒーローであった、ジョン・ウェインがこの百人隊長を演じていました。
  ここでは、この百人隊長と、女たちが並べて挙げられています。そして、詩篇37篇には、わが友、わが隣人、そしてわが親族が並べて挙げられ、それぞれ、「敵対して立ち」「遠くから」という言葉が一緒に使われています。

*マルコ15:39ー40 
   また、彼に向かい合って立っていた百人隊長は、彼がこのようにして息絶えたのを見て言った、「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」。さて、女たちも遠くから見ていた。

*詩篇37:12(七十人訳聖書、ヘブライ語本文では38:11) 
   わが友、わが隣人は私に(敵)対して近づき立ち、わが親族も遠く離れて立っていた。

 しかし、これらの人々の位置づけは大きく違います。「詩篇では元来義人に近く立つ者が敵対者として描かれている」(佐藤研)のに対し、マルコによる福音書では、ユダヤ人社会に於いて全くの敵対者である、百人隊長と、差別の対象である、女性たちが、イエスに近い者としてここに描かれています。「良きサマリヤ人」のたとえを思い起こしますね。
これも、自分たちを社会の、あるいは宗教の「主流」だと思っている人たちに反省を促すメッセージなのです。ユダヤ教社会の中心であった、祭司たちや、男性で構成される「清い」とされる人たち、またイエスの弟子たちの中核の男性たちではなく、女性たちがイエスの最期を見守り、そして異邦人の、しかもイエスを十字架につけたローマ軍の百人隊長が「ほんとうに、この人間こそ、神の子だった」、と告白するのです。

*マタイによる福音書7章13・14節
 あなたたちは狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通っていく者は多い。しかし、生命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかである。

   2012年 4月29日 礼拝   高橋   誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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