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日本キリスト会川崎教会コミュの「神と共に歩む人生」

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「神と共に歩む人生」

召天者記念礼拝

「私は世の光である。私についてくる者は闇のうちを歩むことはなく、生命の光を持つ」
ヨハネ8:12

◎記念する方々(敬称略): 
高田敏子、尾島真治、森豊吉、滝口卓治、滝口幹、大場ちよ、
橋爪正芳、今井チヨ子、 古市友邦、 古市美諸、
園田俊吉、園田ミツ、富田喜一郎、 宝田一蔵、宝田あい、宝田恵一、
高橋秀良、吉濱千枝、鈴木みち子

*マタイによる福音書5:14−16節
 あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。人々はともし火をともした後、それを枡の下に置きはしない。むしろ燭台の上に置く。そうすればそれは、家の中にいるすべての者を照らすのである。このように、あなたたちの光が人々の前で輝くようにせよ。そうすれば彼らは、あなたたちの良い行ないを見て、天におられるあなたたちの父を賞め讃えるであろう。
                                                                                                     新約聖書翻訳委員会訳
§「神と共に歩む」

   昨年の召天者記念礼拝は、東日本大震災のほんの二週間後でした。今、一年が経って、振り返ると、この震災は実に大きな傷を多くの人たちにもたらしたものだと思います。そこで、人々に大切なことは、絆であると、多くの人たちが言います。暖かい社会、人と人とがきちんと結びついている社会、ひとり一人が自分の居場所、そしてコミュニティーを持っている、ということがいかに大切か、ということを思います。
  そして、教会は、人々の集うコミュニティーとして、神さまと共に生きる人々が、手をさしのべ合い、支え合って共に生きる人々の集まりとしての役割を持つことを望んでいます。
  さて、今日、召天者記念礼拝でひとり一人を思って記念する人々は、私たちの人生の先輩として、神さまに出会い、人生を全うした人々です。この人たちは、戦争を経験し、終戦後を経験し、とても苦しい時代を乗り越えてきた人たちでした。 戦後まもなく、この地に川崎教会が与えられてから67年あまり、その間に、多くの人々がこの教会を通して神さまと出会い、結びつき、世代から世代へと、愛と信仰の継承が続いています。
   その間に、既に神に召された方々は19名いらっしゃいます。高田英語学園とともに、川崎教会の設立に尽力された高田敏子先生、初代牧師の尾島真治牧師、二代牧師、森豊吉牧師。長老として教会を支えた滝口卓治さん、教会の中で、お母さんのような存在だった大場ちよさんと滝口幹さん。橋爪さんのご主人の橋爪正芳さん、私の学生時代からの友人、古市友彦さんのお母様で、20年以上この教会で共に信仰の道を歩んだ古市美諸さんとお父様の古市友邦さん、長年この教会に連なり、私の幼い頃から励まし続けて下さり、今も子供達を励まして下さっている今井八郎さんの奥様の今井チヨ子さん。私たちの眼科のお医者さんで、晩年にご夫妻で教会に通われた、園田俊吉さんと園田ミツさん。長年長老として、また会計の担当として教会を支えた富田喜一郎さん。山本れい子さんのご両親、寶田一蔵さん、寶田あいさんと、お兄様で80年代によく礼拝に通われ、一昨年天に召された宝田恵一さん、そして60年以上にわたってこの教会と共に歩んだ高橋秀良牧師。昨年天に召された、吉濱千枝さんは、長年英語学園に通っておられる吉濱公人さんのお母様です。戦中戦後、大変な時代に子育てをし、愛する人たちを必死に守った、行動で愛情を示した人でした。そして、昨年はもうお一人、私たちの教会に30年近く通った、鈴木みち子さんも天に召されました。ご自分の大変な病気があるにもかかわらず、好きな手芸や小物作りを通じて、人々と触れ合うことでほほえみを分かち合う人生でした。
   さて、聖書の中では現代の私たちとは違う死生観があります。しかし、具体的に私たちがこれらの人々とのつながりを思い起こすとき、とてもよく理解できます。私たちの心の中で、大切な存在だった人たちは生き、そして生き続けているのです。
   ヨハネによる福音書(11:25ー27 )には、「私は甦りであり、生命である。私を信じている人は、たとえ死んでも生きる」、とあります。イエスの死生観では、死んでいるというのは、ただ生物として生きているだけ、この世の価値観にとらわれて、流されている人々の状態を言っています。そして、生きるのは、神の国の福音に生きる人々です。
   そして、聖書にはもう一つ、興味深い特徴があるのです。それは、イエスの弟子たちや、旧約聖書に出てくる登場人物ひとりひとりに言えることなのですが、完璧な人、欠点がなかったり、過ちのない人の姿は描かれていないのです。これは、聖書のリアリズムですね。ありのままに、 いいことは認め、間違っていることは、しっかり正す。これは、現代に通じる、批判的思考、科学的思考の萌芽であると思っています。
   英語の表現に、put someone on the pedestal というものがあります。「人を、(銅像などの)台座に乗せる」、というのですが、その人を大切に祭り上げることで、自分たちと切り離してしまう、というような意味合いで使われることがあります。
  今、共に生きる人たちと共に生きていくのと同じように、私たちは、もう天に召された人々とも、共に生きています。その人たちから受けた愛。分かち合った喜び、希望。共に乗り越えた壁。時には、お互いに葛藤もあったことでしょう。 思い出で美化するのではなく、素晴らしいことは覚え、
正すべきことについても語り合う、そして、私も、完璧な人間ではありません。しかし、神が共にいて、私たちを謙虚にし、変わる勇気を得ます。そして、同時に、欠点があり、躓きがあり、失敗があり、それでも神さまから愛されているという実感の中に生きることができるのは、大きな喜びです。
  私たちは、神さまから自由が与えられ、私たちのひとつひとつの経験から、新たな一歩を踏み出すことができます。

§「あなたたちは、この世の光」

  さて、先ほどお読みしたマタイによる福音書5章に、「あなたたちはこの世の光である。山の上にある町は隠れることができない。(5:14)」とあります。山の上にある町、ナザレの村から、ほんの6キロの地点に、セフォリスという山の上の都市がありました。「海の道」という、交易に使われた幹線道路沿いにあり、ヘロデ大王の王宮もあったそうです。その町の光は、隠れることができません。主イエスが、幼少の頃からいつも見ていた景色の一部に、このセフォリスがあったのでしょう。
  ナザレからは、ヘロデ大王が死んだ後(前4年)に起きた、ヒゼキアの子ユダの反乱でセフォリスの王宮が焼かれたときも、またその反乱の鎮圧のためにローマのシリア総督による武力鎮圧が行われたときにも、その光は見えていたでしょうし、その後の復興でも、その光は見え続けたことでしょう。
 
*マルコによる福音書 4章21節
  また彼は彼らに言っていた、「ともし火は、枡の下や寝台の下に置かれるためにやって来るだろうか。燭台の上に置かれるためではないか。

  このともし火は、火そのものともとらえられますが、主イエスが伝えようとした、神の国の福音としてもとらえられますね。また、その福音を受けて、平和と愛とがいかに大切かを学び取り、神の愛に生きる生き方と言ってもいいでしょう。そのような素晴らしいこと、生き方を隠しておくことはないではないか。

*ルカによる福音書11章33節
 ともし火をともしてから、それを穴蔵の中(や枡の下)に置く者はいない。むしろ燭台の上に置く。そうすれば、家の中に入る者たちがその光を目にすることができる。
 
  とても納得できる表現ですね。そして光の反対は、闇です。主イエスの福音を知らないで不安と恐怖に流されて生きる生き方が、闇として表現されます。
  不安と恐怖は、私たちが普段思う以上に、多くの行動の動機付けになっています。軍備の増強や核兵器の開発から、受験産業、また、健康のための補助食品ビジネスにいたるまで、不安と恐怖は人を動かす原動力です。
  しかし、健康的な動機付けは、やはり不安や恐怖より、希望と喜びです。しっかりとした生き方の指針を持っていること、光を持っていることが、明るい生き方の基本です。
  エジプトのナグハマディーで20世紀に見つかったトマス福音書にこのような表現があります。

*トマス福音書 24
  彼が彼らに言った、「耳ある者は聞くがよい。光の人の只中に光がある。そして、それ(光)は全世界を照らしている。それ(光)が照らされないならば、それ(世界)は闇だ」。

私たちも、ひとりひとり、神さまから光をいただいています。そして、私たちの次の世代の子供たちひとりひとりにも光が与えられ、心の中で輝いていることを感じます。それぞれの持つ光を大切に、光がのびのびと輝けるようにしたいですね。
 川崎リトルライト・シンガーズのグループの元になった歌、This Little Light of Mineは、「私のこの小さな光、私は輝かせます」、という歌です。輝くことを妨げないように、どこでも輝けるように、というのは教育のありかたの基本ですね。
  34−36節は、マタイとルカが共通して持っていたイエス語録(Q資料)です。

*ルカによる福音書11章34−36節
 身体のともし火はあなたの目だ。あなたの目が純真なとき、あなたの全身も輝いている。しかしあなたの目がよこしまなときは、あなたの身も暗闇だ。
  したがって、あなたの中の光が闇ではないように留意せよ。そこでもし、あなたの全身が輝いており、暗闇の部分がどこにもないならば、ちょうどともし火がその煌(きら)めきであなたを輝き照らすときのように、全体が輝いているだろう」。

  この、「あなたの中の光が闇ではないように留意せよ」って、すごい警告ですよね。あなたが光だと思っていることが、実は闇だっていうことがないようにしなさいというのは!エルサレムの聖墳墓教会に行ったときに、これを強烈に感じました。様々な宗派が宗教的な儀式を厳かに行いながら、勢力争い、示威行為をお互いに繰り返しているのです。彼らとしては、宗教的儀式を自分たちの組織のために懸命に行っているのでしょうが、そこに主イエスが伝えた、隣人愛や平和はどこにあるのでしょうか。これはあらゆる人々の今を問う、自らを省み、吟味することを求める言葉ですね。
  澄んだ目は、ユダヤ文学では、純真な心を指すのだそうです。心に秘めた違うよこしまな心、二心を持たない、まっすぐに澄んだ心。 それは神とマモンとの両方を見ている目ではないこと、 一つなる神を見ることができる目を指します。
  
*マタイによる福音書6:24
 いかなる者も、二人の主(あるじ)に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するだろうから。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するだろうから。あなたたちは、神とマモンとに兼ね仕えることはできない。

  そして、その澄んだ目は、幼子が親を見るようなまっすぐな目です。子供のまっすぐで純真な愛情や信頼。それを大人は見過ごしたり、気がつかなかったりしがちです。親になったり、大人になって子供たちと交流することで、このような心を再発見したときの感動は大きいですね。

*マルコによる福音書10章13−16節
 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスがこれを見て激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはない」。そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。   


   2012年 3月25日 礼拝   高橋   誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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