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日本キリスト会川崎教会コミュの「躓き、そして離散、人生の危機の彼方に」

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「躓き、そして離散、人生の危機の彼方に」


*マルコによる福音書14章26−31節

 そこで彼らは賛美歌を歌って、オリーブ山へと出て行った。するとイエスは彼らに言う、「あなたたちは、全員が躓くことになるだろう。なぜならば、次のように書いてあるからだ、
   私は羊飼いを打つであろう、
   そうすると羊の群は、ちりぢりにされてしまうであろう。
 しかし私は自分が起こされた後、あなたたちよりも先にガリラヤへ行くだろう」。
 しかしペトロが彼に言った、「皆の者がことごとく躓いたとしても、この私は躓きません」。そこでイエスは彼に言う、「アーメン、私はあなたに言う、あなたは今日、今夜、鶏が二度啼く前に、三度私を否むだろう」。彼はしかし、ひどく力んで言い立てた、「もし私があなたとご一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否んだり致しません」。他の者たちも皆、そのように言い張った。
                                                                                                     新約聖書翻訳委員会訳

§「パンドラの瓶(かめ)」

  今日は3月11日です。今日のことほど、人々が特別に想い、この日付を意識させられることは少ないですね。東日本大震災からちょうど1年目です。関東大震災を経験した人たちは、1923年9月1日をいつまでも覚え、より若い世代に語り続けました。同じように、第二次世界大戦を経験した人たちは、1945年の3月10日の東京大空襲、4月15日の川崎大空襲、5月29日の横浜大空襲を覚え、8月6日の広島の原爆、9日の長崎の原爆などを覚え、折に触れて思い出や苦労、そして恐怖について語ておられます。また、阪神淡路大震災を経験した人たちは、1995年1月17日を忘れることはできないでしょう。
  圧倒的な大きさの自然災害に加えて、福島第1原子力発電所の事故という、戦後の日本の国が持っていた基本的な過ちの数々が露呈する、大変大きく、取り返しがきかないほどの事故が追い打ちをかけました。
  このような経験を、私たちが生きている時代に持ったと言うことで、この重荷を私たちは負っていくのですが、そのような中にあっても、くよくよと悩み続けるのではなく、この経験の中から私たちが見いだす生きる力、喜び、愛をしっかり見つめて、明るく生きていくことがとても大切なのだと思います。
  自然界に生きる動物たちが経験する現実も、日々大変ですが、それに加えて人間社会の過ちについては、正しく怒り、正そうとすることも大切です。
   二千年以上も昔から伝えられているギリシャ神話に、「パンドラの瓶(かめ)」として知られる有名なエピソードがあります。天空神であるゼウスから火を盗んで人々に与えたプロメテウスの弟、エピメテウスは、ゼウスから贈り物として、女性パンドラを与えられます。このプレゼントはゼウスによる罠のようなもので、ゼウスは、火を得て、人間が神々よりも強くなることを恐れて、人間に災難が降り注ぐことを意図したプレゼントでした。
  古代ギリシャの人たちが、自然災害や病気など、人間が直面する大きな問題、悲しみを経験して、それらを乗り越えていく生き方を見いだしていくようすが、よく表れています。

・初めて(ゼウスによって)造られた(人間の)女はパンドラと名づけられました。パンドラは天上で造られ、彼女を完全にするためにすべての神々がみんな何かを与えました。アプロディテは美を、ヘルメスは勧誘を、アポロンは音楽を、といったように。こうしていろんな物がそろった上で、パンドラは地上に下されて、エピメテウスにあたえられました。エピメテウスはプロメテウスに、ゼウスとその贈物には注意しなければいけないと忠告されたけれども、それでも悦(よろこ)んでパンドラを受け取りました。エピメテウスの家には一つの瓶(かめ)がありました。その瓶の中にはある毒物が入っていました。パンドラはその瓶の中が何であるかを知りたくなりました。ある日パンドラが蓋(ふた)を取ってのぞいて見ると、たちまち瓶の中からおびただしい禍いが逃げ出しました。 ー 肉体的なものでは、通風とか、リュウマチスとか、疝痛とかいったようなもの、また精神的なものでは、嫉妬とか、怨恨とか、復讐とかいったようなものが。 ー そうしてこれらの禍いの群は世界の隅々まで広く散りました。パンドラは急いで蓋をしようとしましたが、もう間に合いませんでした。瓶の中の物はことごとく逃げ失せてしまいました。それでもただ一つ底の方に残ったものがありました。それは希望でありました。今日に至るまで、私たちがどんな災難にあってとほうに暮れている時でも、希望だけは決して私たちを見棄てない意味がこれでわかるでしょう。(ブルフィンチ「ギリシア・ローマ神話」)

    素晴らしいですね、最後に残っているのは希望。そして、数々の災厄があるなかで、私たちは、 明るい太陽の光のもと、 その希望と共に生きる自由が与えられているのです。「希望だけは決して私たちを見棄てない」、というのも、素晴らしいですね。
   パウロが書いたローマ人への手紙の5章5節を思い出します、「希望は私たちを欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである」。
   さらに踏み込んで、極限のような状態にあってもなお、私たちには、愛と希望とに生きる自由があって、それは誰にも取り去ることはできないととらえて、その想いを分かち合おうとしてくれたのは、V.E.フランクルでした。
  V.E.フランクルの「夜と霧(強制収容所における一心理学者の体験)」には、ナチス・ドイツの支配の中、ユダヤ系住民などが強制収容所に入れられて、死の恐怖や病気、そしていつ終わるとも知れない収容所生活の不安の中、そのような極限において、心を押しつぶされる人々がいるなかでも、人々には、「自分の運命に、自分の環境に自分なりの態度をとる人間としての自由がある」、おしつぶされない自由があること、愛と思いやりと尊厳を持ち続ける自由があり、その自由を持ち続けた人々がいたことが、厳しくも温かい言葉で伝えられていたことにあります。これは大きな希望です。

・強制収容所を経験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、あちらでは最後のパンの一片を与えて通っていく人の姿を知っているのである。(V.E.フランクル「夜と霧」)

  フランクルのいたブーヘンヴァルト収容所の囚人たちは、自分たちで作った歌の中で、「それでも人生にイエスと言おう」と歌っていたのだそうです。
  
・人間はあらゆることにもかかわらず ー 困窮と死にもかかわらず、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず、また強制収容所の運命の下にあったとしても ー 人生にイエスと言うことができるのです。(V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」)

  生きることから、そして苦難からも希望を見いだすことができます。ほほえみかけ、手をさしのべ、愛を持って共に生きることが必要なのです。そのまま、何事もなかったかのように生きるのではなく、きちんと行動することが大切なのです。それが、個人的な問題であっても、より大きな問題であっても。
  これは、主イエスが、十字架という、大変恐ろしい刑による死で人生を奪われ、弟子たちも福音を伝える生活を奪われてしまう時に、未熟な弟子たちは絶望し、皆、自分の命を守るために逃走してしまったにもかかわらず、主イエスの福音に目覚めたひとりひとりが次第に立ち上がって、主イエスの福音を、そして生き方を、約二千年後、遙か東に住む私たちにまで伝えられたという大きな力である希望に結びつきますね。

§「躓き、離散、人生の危機の彼方にある、神の愛、そして希望」

  今日の聖書箇所は、十字架への道が近づいているイエスがオリーブ山へ行き、弟子たちに、「あなたたちは、全員が躓くことになるだろう」という衝撃的な預言をする場面です。

*マルコによる福音書14:26−31
26 そこで彼らは賛美歌を歌って、オリーブ山へと出て行った。するとイエスは彼らに言う、「あなたたちは、全員が躓くことになるだろう。なぜならば、次のように書いてあるからだ、
  私は羊飼いを打つであろう、
  そうすると羊の群は、ちりぢりにされてしまうであろう。
 しかし私は自分が起こされた後、あなたたちよりも先にガリラヤへ行くだろう」。
 しかしペトロが彼に言った、「皆の者がことごとく躓いたとしても、この私は躓きません」。そこでイエスは彼に言う、「アーメン、私はあなたに言う、あなたは今日、今夜、鶏が二度啼く前に、三度私を否むだろう」。彼はしかし、ひどく力んで言い立てた、「もし私があなたとご一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否んだり致しません」。他の者たちも皆、そのように言い張った。 

  弟子たちが歌っていた讃美歌は、どのような歌だったのでしょうね。私たちが歌う讃美歌のほとんどは、17世紀以降に書かれたものですから、聞いてみたいですね。
  「私は羊飼いを打つであろう、そうすると羊の群は、ちりぢりにされてしまうであろう」、というのは、十二小預言書の中の、ゼカリヤ書13章7節からの引用です。
  そして、この言葉の通りに、後にイエスが捕縛される際、弟子たちが皆逃げていってしまう、という事態をむかえ(マルコによる福音書14:50「すると全員が彼を見棄てて逃げていった」)、ペテロは、イエスの預言通りにイエスを否んでしまいます。
   このような人間の弱さをそのまま記すところに、マルコによる福音書のリアリズムが見えます。教義があって、それに会う物語をキレイに並べるのではなく、どのように理解したらいいかわからくても、こういうことが起きてしまったのだ、さあ、あなたはこれをどう捉えるのか、そしてあなた自身はどのように生きるのか、と私たちに問いかけているのです。

*エゼキエル書 33:10ー11
 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 

  人々が生きる上で、数々の選択をしながら生きるときに、 多くの新興宗教などは、その選択の自由を奪います。思考も奪って、ただ従わせようとします。しかし、苦労しても、自分たちで生きていくこと、道を切り拓き、障害物を乗り越えようと、共に手と手をとって生きていく中で、希望が見いだされるのです。
   明日に、何が起こるかは、わからないのです。分からないけれども、あるいは、分からないからこそ、懸命に今できることを考えながら生きていくのです。神が共にいる喜び、共に歩む人々がいる喜びは、私たちの歩く道のりが、まだみぬ道を歩むからこそ、大きいのです。

* ルカ17:20〜21(新共同訳)
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見えるかたちでは来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」



   2012年 3月11日 礼拝
 高橋   誠
   日本キリスト会川崎教会牧師

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