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日本キリスト会川崎教会コミュの「十二人の選びと十二部族の裁き」

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「十二人の選びと十二部族の裁き」

?ルカによる福音書6章12−16節
さてその頃、彼は祈るために出て山へ行くということが生じた。そして神への祈りの中で夜を徹していた。そして朝になった時、彼の弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、その彼らを使徒とも名付けた。彼らは、彼がペトロと名付けたシモン、またその兄弟アンドレアス、そしてヤコブ、そしてヨハネ、そしてフィリッポス、そしてバルトロマイオス、そしてマタイ、そしてトマス、そしてアルファイオスの子ヤコブ、そして熱心党員と呼ばれていたシモン、そしてヤコブの子ユダ、そしてイスカリオトのユダである。このユダは、売り渡す者になった。

?ルカによる福音書22章28−30節
また、あなたたちは、私のもろもろの試みの時に私と共に留まり抜いてくれた人たちだ。そこでこの私も、私の父が私に王国を委ねられたように、あなたたちに王国を委ねる。そうすればあなたたちは、私の王国において、私の食卓で食べたり飲んだりすることができるようになるだろう。そしてあなたたちは、位に座して、イスラエルの十二部族をさばくだろう。
                                                                                                     新約聖書翻訳委員会訳

§「日々、新しく」

  春が近づいて来ました。昨日、子供たちと公園行くと、梅がしっかり咲き始めていました。毎年より、かなり遅れていますが、春を感じることができるのはやはり嬉しいものです。春になり、日差しが暖かくなると、散歩の足を伸ばしたり、ハイキングに行ったり、景色の良いところに訪れたりしたい気持ちが膨らんで来ます。
  広い海や、いつまでも続く水平線を眺めるのは楽しいものです。皆さんは、遠くの海を眺めて、水平線が弧を描いているのを見たことはありますか?私も少年時代、「いやあ、こうして水平線を見ると、地球が丸いっていうのがわかるね〜」、といろいろな人たちが言うのを聞いて、そうだなあ、と思っていましたら、高校の地学の授業で、先生が、「果たしてそうなのだろうか?本当に私たちは水平線の丸みに、地球の丸さを見ているのだろうか」、と疑問をなげかけられました。そんなことに疑問を持ったことはありませんでしたので、かなりのショックでしたが、その後の先生の一言でなるほど、と思いました。「もし、私たちが見ている水平線の丸みが、地球の丸さだとしたら、地球は実際よりも、ずっと小さいということになりはしないか?」。本当ですね、科学的な思考は、私たちの持っている感覚や理解の範囲をはるかに超えたところにあるものに思いを馳せることでもありますね。
  私たちが聖書を読み、主イエスの言葉や生き方に触れるときも、この姿勢が大変役に立ちます。私たちが簡単に分かる範囲でイエスの言葉や生き方を捉えていたら、実際よりずっと小さいイエス像を造ってしまうことにはならないか、神の愛を、ずっと小さいものに捉えてしまいはしないか。自分たちのもともと持っている主張に権威付けするためにイエスの福音やキリスト教を利用しようとする人たちは、大変に右翼的や保守的な人々を含めてたくさんいますが、それでは神の愛の大きさを生きて示した主イエスの神の国の福音も、また神の愛についても、その大きさに思いを馳せることはできなくなってしまいます。
   人々が持つ素朴な疑問に中に、十二人の使徒の中に、イスカリオテのユダも入っているというのは、どういうこと?」ということがありますね。これに対して、このように大きな過ちを犯したユダをも、神は、救いから排除しないのだ、と積極的に解釈する意見があります。
  神の愛の大きさを、私たちの考えが及ぶ範囲を遙かに想像を超えるものとして捉える努力は素晴らしいと思います。
イエスと出会ったことによって、先入観や偏見を捨て、まっすぐに神と向き合って生きるようになることが、新しく生まれることであり、また新しく創造される、ということなのです。

*ガラテヤ人への手紙6:15
 まさに、割礼も無割礼も重要ではなく、むしろ新しく創造されることこそが重要なのである。

*ヨハネによる福音書3:3
  アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から(新しく)生まれなければ、神の王国を見ることはできない。

§「十二人の選びと十二部族の裁き」

   さて、今日の箇所の前半は、十二人の弟子を選ぶ場面です。弟子たちのことを「遣わされた者」あるいは、使徒と呼びますが、この十二人に限って、使徒と呼ぶのは、ルカ(ルカによる福音書と使徒行伝)の特徴です。
主イエスの時代や、パウロの時代には、弟子たちのことを、使徒と呼んでいました。その中には、女性も含まれていました。パウロによる手紙は福音書より古く、50年代〜60年頃にかけて書かれたと考えられています。そして、真正なパウロの信仰と言葉は力強く、主イエスと近いラディカル(根源的)な傾向にあります。

*ガラテヤ人への手紙3:27−28
 「実際、キリストへと洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト・イエスにおいて一人なのだからである」

  徹底した、神の前での平等の精神です。ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人、男性と女性というのはそれぞれ、現代に住む私たちの想像以上に大きな隔たりがあったはずですが、そうしたものをまったく感じません。
  主イエスのまわりにも、女性が数多く行動を共にしていました。そして、十字架を見まもったのも女性たちでした。マルコによる福音書によると「マグダラの女マリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、そしてサロメもいた。」復活の朝にも、油を塗りにお墓へ行ったのもこの3人でした。
 そして、パウロの手紙においても、共に働く働き人に女性の名前が多くでてくるだけでなく、ローマ人への手紙16章では、女性をも使徒として紹介しています。

*ローマ人への手紙16:7
 私の同胞であり囚人仲間であるアンドロニコス(男性)とユニア(女性)とによろしく、と挨拶するように。彼らは使徒たちのなかで秀でており、私よりも先にキリストにある者となった人たちである。

  さて、マルコによる福音書にもどりますが、マルコによる福音書には、使徒に相当する言葉は、ここと6章30節との二回しか出て来ません。そして、この箇所は、ルカによる福音書6章13節と酷似しています。

*ルカによる福音書6章13節
 そして朝になった時、彼の弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、その彼らを使徒とも名付けた。

  これは、ルカによる福音書が書かれた後に、内容が重なるマルコによる福音書のこの箇所に、ルカの6章13節を後世に入れてしまった可能性が高いことを表しています。特に「使徒とも名付けた」という、変わった表現まで似ていることが、それを物語っているようです。そこで、6章13節と重なるところを括弧に入れて読んでみると、しっかり意味が通じますね。マルコによる福音書で選ばれているのは、「これと思う者たち」です。

* マルコによる福音書 3章13−19節
また彼は山にのぼり、自分でこれぞと思う者たちを呼び寄せる。すると彼らは彼のもとにやって来た。(そして彼は十二人を立て、その彼らを遣わされた者(注:ルカにならえば「使徒」)とも名付けた。)それは彼らが彼と共にいるためであり、また彼らを派遣するためであった。彼らが派遣されるのは、宣教し、悪霊どもを追い出す権能を持つためであった。そして彼はかの十二人を立てた。そして彼は、シモンに「ペトロ」という名を付け、またゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネを立て、彼らには「ボアネルゲス」、すなわち「雷の子ら」という名を付けた。またアンドレアス、そしてフィリッポス、そしてバルトロマイオス、そしてマタイ、そしてトマス、そしてアルファイオスの子ヤコブ、そしてダダイオス、そして熱心党のシモン、そしてイスカリオトのユダを立てた。このユダはまた、イエスを引き渡したのでもある

   山へ行くという時に、マルコによる福音書は、どの山かは、語っていません。マルコによる福音書で、山は、神さまに近づくために行くところ、祈りに行くところです。9章7節では、「すると雲が起こって彼らの上を覆うようになった。そしてその雲から声がした、「この者は私の愛する子、お前たちは彼に聞け」。と、神がイエスがどのような存在かを、弟子たちに示したのも、山でした。ペテロとヨハネとアンドレアスが、主イエスに、「私たちに教えて下さい、それらのことにはいつ起こるのですか」と、尋ねたのも山の上でした。
  さて、12人の名前はあげられますが、 この12人の中に入っていない人たちの話題も、たくさん出て来ます。特にマグダラのマリヤをはじめとする女性たちは印象的ですね。また、 ここに出てくるだけで、その働きが報告されていない人たちもいます。5番目のフィリッポス以下、バルトロマイオス、マタイ、トマス、アルファイオスの子ヤコブ、ダダイオス(ルカではアルファイオスの子ヤコブ)、熱心党のシモンの7人は、マルコによる福音書ではここ以外には出て来ません。ということは、マルコ以前の伝承をマルコが採用したことを物語っています。
   パウロの手紙の中にも、12人が出て来ます。これは、パウロも受け継いだ言葉として、紹介していますので、パウロより前の伝統に基づく記述です。
   
*コリント人への第一の手紙15章1−9節
 さて、兄弟たちよ、私は、私があなたがたに宣べ伝えた福音を、ふたたびあなたがたに告げる。すなわち、あなたがたが受け容れ、そのうちに立っている福音である。もしもあなたがたが、私がどんな言葉によってあなたがたに福音を告げ知らせたかを堅く保持し、空しく信じたのではないなら、その福音によってあなたがたは、救われるのである。なぜならば、私はあなたがたに、まず第一に、私も受け継いだことを伝えたからである。すなわち、キリストは、聖書に従って、私たちのために死んだこと、そしてそして埋葬されたこと、そして聖書に従って、三日目に死者たちの中から起こされていること、そしてケファに現れ、次に十二人に現れたことである。次いで彼は、五百人以上の兄弟たちに一度に現れた。そのうちの大部分は今に至るまで生き残っているが、しかしある者たちは眠りについた。次いで彼はヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れた。しかし彼は、すべての者の最後に、ちょうど「未熟児」のごとき私にも現れたのである。

   ここでは、復活の主イエスは、ケファ、すなわち、ペテロに現れた後、12人に現れた、とあります。すると、ペテロの他に12人がいるようですよね。これは、12人という、数字そのものが大切なためです。12は、イスラエルの12部族を指します。この12部族自体は、かなり前に滅ぼされてしまっていますが、今ここに、キリストに従う者たちが、新しいイスラエル、真のイスラエル、神に選ばれたものとして、描かれているのです。
   ルカによる福音書22章の「あなたたちは、位に座して、イスラエルの十二部族をさばくだろう」という記述は、キリストに従う者たちが新しいイスラエルとしてあることと共に、ルカの時代の教会の人たちに対する迫害や差別に対して、ユダヤ教の伝統の中にある社会の人々への想いが表れているのだと思います。(ルカはローマに対してはあまり厳しく言わない傾向にあり、その分イスラエルに対して厳しく言う傾向にあることは、覚えておく必要があると思います。)

*ローマ人への手紙13章9節
 〜その他のどんな誡め(いましめ)も、あなたの隣人をあなた自身として愛するであろう(cf.マタイ22:39)というこの言葉に要約されるからである。愛は隣人に対して悪を働くことはない。それゆえに愛は律法の満たされたものなのである。

 

2012年 2月26日 礼拝 高橋   誠   日本キリスト会川崎教会牧師

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