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日本キリスト会川崎教会コミュの「天から降りてきた命のパン」

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「天から降りてきた命のパン」

*ヨハネによる福音書 6章47−58節
   アーメン、アーメン、あなたがたに言う、信じる人は永遠の命を持っている。私は命のパンである。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べた。そして死んだ。 (cf.民数記14:26〜35) これは、天から降った、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に生きることとなる。
 私が将来与えることになるパンは、世の命のための私の肉である」。
 するとユダヤ人たちは互いに激しく議論し始めた、「この男はいったいどうやって自分の肉をわれわれに食べさせることが出来るのか」と言って。
 そこでイエスは彼らに言った、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。人の子の肉を食べ、その血を飲まないなら、あなたがたは自分のうちに命を持っていない。私の肉を食らい、私の血を飲んでいる人は永遠の命を持っており、私は彼を終わりの日に甦らせることになっている。私の肉は真実の食べ物であり、私の血は、真実の飲み物だからである。私の肉を食らい、私の血を飲んでいる人は、私のうちに留まり、私も彼のうちに留まっている。生きている父が私を遣わし、私が父のゆえに生きているように、私を食らっている人も私のゆえに生きることとなる。これは天から降ったパンである。父祖たちが食べて死んだようにではなく、このパンを食らっている人は永遠に生きることとなる」。                                                                                   新約聖書翻訳委員会訳

§「吟味する精神を持つことの大切さ」

   この一週間でようやく少し暖かい日が出て来ましたね。春の気配が感じられるようになり、教会の庭の梅の花のつぼみも、また沈丁花のつぼみも大分膨らんで来ました。冬の間隠れていた金魚も大分水面近くにいることが増えました。
  こうした季節の変化のひとつひとつを感じることにも喜びがありますね。そして自然の大きさの中に、素晴らしい神さまの働きを感じます。
  先日、小学生2年生の男の子が「すみわたる大空に」(讃美歌第二篇144番)をかわいらしく楽しそうに歌っていました。「神さまは(本当は「数しれぬ」)海の魚/神さまはみなかぞえ、ひとつずつ目をとめて/まもられる、いつも」。同じ箇所を何度も歌う内に、最後の部分を変えて、「数しれぬ海の魚/神さまはみなかぞえ、ひとつずつ目をとめて/適当に まもる」、と歌って無邪気にケラケラ笑っています。「適当に、なの?」、ときくと、「そうだよ、自然の中では時々鹿がが虎に食べられたりするじゃない。だから(神さまは)ちゃんと守っていなくて、適当に守ってるんだよ」。
   驚きましたね。これは冗談の会話ですが、その中でも自然界で起こっているできごとと、神さまが私たちをどう守っているのか、ということ、神さまとはどのような存在なのかを、自分なりに考えている、ということですよね。
   絶対的な権威を持つと人々が思っていることに対しても、吟味し、批判することができる精神を持つことはとても大切なことです。そして、その吟味も批判も、他者への攻撃ではなくて、社会や自分たちをよりよくするための謙虚なものでなくてはなりません。
   主イエスが私たちに伝えた神の国の福音は、世の中の常識が人々に求めることなどから、人々を解放するもの、自由にするものでした。本質を見て、神の愛にてらしてどうか、と、私たち一人ひとりが判断する、自立した存在となることなのです。
   「私は命のパンである。(中略)天から降った、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に生きる」、というのは、神と共に主体的に生きる、ということ、「よきサマリア人」の譬え話の、あのサマリア人のように生きることなのです。「あなたの隣人を、あなた自身として愛しなさい」、という生き方なのです。信じた道を、しっかり歩きますから、とても自由で、誇りに満ちています。そして、主イエスと同様に、他の人を蔑んだり、差別したりは決してしないのです。
   これは、特定の宗教やグループのルールや常識を守って、それらを無批判に身につけ、そのグループに帰属する、というのとは全然違うのです。このような受動的な生き方、自分の人生の歩みを既存の社会の常識や体制に預けてしまうなら、あなたはもう生きてはいないんだ、本質的には死んでいるんだ。だから、あなたは、そのような選択をしないで、さあ、自分の足で立って、生きなさい、というのが、主イエスのメッセージなのです。
 去年聞いた 「コクリコ坂から歌集」というCDの中の「エスケープ」という歌に、 「ルールや常識、おとなにだまされないで、大きな夢だけ抱えて、さあ、でかけよう」(「エスケープ」コクリコ坂から歌集より)、という歌詞がありましたが、これはとても大切なことだと思います。

§「天から降りてきた命のパン」

  そして、これは、モーセの出エジプトのお話とも、本質的な部分でしっかり結びついています。出エジプトのお話を知らない人は、出エジプト記を読んだり(しっかり注や歴史的解説がついている岩波書店版で読むことをお勧めします)、映画「十戒」や、アニメの「プリンス・オブ・エジプト」を観るといいと思います。
  今日の聖書箇所にでてきたマナ(マンナ、マーナ)の名前がついた森永のビスケットがありますね。森永のホームページに「1930年の発売から、81周年を迎えました。(中略)旧約聖書にある『神が荒野をさまよえる民に与え給うた愛の食べ物』MANNAにちなんで、創業者の森永太一郎が名付けました」、とありました。
  民数記には、このような説明があります。

* 民数記11:7〜9
 マーン(七十人訳ではマンナ)とはコエンドロの種のようなもので、その色はブドラク香の色のようであった。民は歩き回ってはそれを集め、石臼で磨り潰したり、たたいたりして粉にし、鍋で煮て、ケーキを作るのであった。その味といえば、油をたっぷり含んだクリームのような味がした。夜の間に宿営に露が降りる際に、マーンもそれと一緒に降るのであった。

  奴隷としてくらしていたエジプトから、モーセが神さまの力を借りて、イスラエルの民を解放し、砂漠を経て約束の地へと行くのですが、奴隷の時には、自由はありませんが、衣食住はまかなわれていました。仕事も、自分で判断してするのではなく、奴隷ですから、言われたことをしていたのです。そこで、解放されたあと、モーセと共に砂漠をさまよい歩くうちに、不満がたくさん出てくるのです。砂漠で空腹で自由でいるより、エジプトで食料をもらいながら奴隷でいた方がいい、と想う人たちがでてくるのです。エジプトに帰ろう、と、奴隷にもどろう、と人々を煽動する人まで出てくるのです。
   それが、神さまから愛の贈り物として、彼らは砂漠で食べ物としてマンナをいただいてそれを食べたけれど、心は奴隷のまま、死んでしまった、ということなのです。
  もうひとつ、深いつながりがある箇所があります。主イエスが荒野でサタンに試みられる場面です。

*荒野の試み:マタイによる福音書4章1〜11節
 そのあと、イエスは霊によって荒野に導き上げられた。悪魔の試みを受けるためである。そして彼は四十日四十夜断食し、その後飢えた。すると試みる者がやって来て、彼に言った、「もしおまえが神の子なら、これらの石にパンになるように命じてみろ」。しかし彼は答えて言った、「こう書かれている、人はパンだけで生きるものではない。むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きるであろう」。
 そのあと、悪魔は彼を聖なる都に連れてくる。そして、彼を神殿の屋根の端に据えた。そして彼に言う、「もしお前が神の子なら、下へ身を投げて見ろ。なぜなら、こう書かれているからだ、彼はお前のために、御使いたちに指示を与えるであろう、すると彼らは、お前を手で受けとめるであろう、お前がその足を石に打ちつけることのないように」。
 イエスは彼に言った、「再びこう書かれている、お前は、お前の神、主を試みることはないであろう」。
 悪魔は再び彼をきわめて高い山へ連れて行き、彼にこの世のすべての王国とその栄華を見せる。そして悪魔は彼に言った、「もしお前がひれ伏して俺を拝むなら、これらすべてをお前に与えよう」。そのとき、イエスは彼に言う、「サタンよ、失せろ。実にこう書かれている、お前は、お前の神、主をこそ伏し拝み、彼にのみ仕えるであろう」。
 そのあと、悪魔はイエスを離れる。そして見よ、御使いたちがやって来て、彼に仕えていた。

  ここでは、サタンとのやりとりがいきいきと描かれています。断食の後に、サタンはイエスに「もしおまえが神の子なら、これらの石にパンになるように命じてみろ」、と言います。イエスは申命記8章3節を引用して、「人はパンだけで生きるものではない。むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きるであろう」、と応えます。
 この申命記8章では、出エジプト後、荒野をさまよい続けるイスラエル人たちに、神がこう語る箇所です。「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。(中略)あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(新共同訳)
 エジプトで、奴隷として働いたイスラエル人たち。彼らが後にしたエジプトでは、彼らに自由はなかったが、主人の言うとおりにして暮らしていれば、最低限の生活、衣食住は保証されていました。しかし、神は、彼らを荒野に導き出して四十年、苦難と試練を通して、こうした衣食住の安定供給以上に大切なことがあることを、人々に学び取らせようとしました。
  荒野での修行にでられたイエスも、心を売ってパンを得るように誘うサタンの甘言をこの申命記8章の言葉で断られたのでした。「人はパンだけで生きるものではない。むしろ、神の口から出て来る一つ一つの言葉で生きる」。
  そして、今日の箇所では、主イエス自身が、天から降ってきた活けるパンであると言われています。
 
*ヨハネによる福音書 6章47−51節
   アーメン、アーメン、あなたがたに言う、信じる人は永遠の命を持っている。私は命のパンである。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べた。そして死んだ。 (cf.民数記14:26〜35) これは、天から降った、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に生きることとなる。
 私が将来与えることになるパンは、世の命のための私の肉である」。

  この「永遠に生きる」も、肉体的に死ななくなるという意味ではなく、神と共に生きる、という意味です。これは、主イエスの遺された言葉を繋いで表現した、主イエスについての、ヨハネの教会の信仰告白であったと思います。
  人々が自信を失い、気持ちが弱くなると、強いリーダーを求めるようになると言われます。そして、そのリーダーに依存し、そしていずれ幻滅し、また新しいリーダーを求めていくうちに、ドイツのヒットラーのような人をリーダーにしてしまうという、大変な間違いをしてしまいました。また、あらゆる新興宗教や占い師などは、人々を彼らに依存させようとします。彼らは、人々を解放するのではなく、奴隷の軛にはめるのです。主体的に生きるには、かなりの努力がいるために、自分の人生を他の誰かに肩代わりしてもらおうとしてしまう人たちが多いのです。エーリッヒ・フロムは、これを「自由からの逃走」と呼びました。
    「私が将来与えることになるパンは、世の命のための私の肉である」は、主イエスが十字架につけられて息を引き取ったあとに与えられることになる、聖霊パラクレイトス(弁護者・同伴者)を指しています。そして、52節以下は、聖餐の形となった、パンと葡萄酒の意味を伝えています。しかし、この主イエスの肉を食べ、血を飲むという象徴的は表現によって、躓く人たちが多く出たことが描かれています。実際、ローマで、初期のクリスチャンたちが受けた迫害の理由は、クリスチャンが人の肉を食べ、血を飲むという噂であったそうです。
   もちろん、これが意味することは、主イエスの教えをいつも思い出し、神の国の福音に生きよう、ということでした。

「キリストはこの自由へと私たちを解き放って下さったのだ。それゆえに、あなたがたは堅く立って、再び奴隷状態の軛にはまってはならない。」ガラテヤ5:1

2012年 2月26日 礼拝 高橋   誠   日本キリスト会川崎教会牧師

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