今年は自然災害が多く、自然の力の大きさを実感することが多いですね。3月11日の震災の頃には、ニュージーランドの地震が連日報じられていました。そして、この震災では、地震と恐ろしく大きな津波。明治以降、あるいは戦後、細かい気象の観測データが得られるようになってからの記録を遙かに上回る規模の津波でしたが、歴史的な文書や言い伝えでは、過去の大きな津波の規模が語られていました。タイでは洪水の被害が、今も拡大しています。アメリカの東海岸では、熱帯低気圧が北に押し上げた湿った空気を北から降りてくる寒気が巻き込んで大雪が降るという珍しいことが起き、ロッキー山脈の東の平原では、記録的な干ばつと1930年以来の巨大な砂嵐が起こっています。 このようなできごとひとつひとつから、私たち人間の手の施しようがない大きな力や、理解しがたいことがたくさんあることを思います。人間は理解できないことを恐れる、ということがありますが、恐れているばかりでなく、なぜ、このようなことが起こるのか、ということを調べる、研究する、という積み重ねが自然科学の歩みです。そして、宇宙や地球の歴史を見る時、人類が生まれてから今まで時間、それが160万年としても、その歴史の中からはほんの短い時間であることを思います。また、その人類の歴史の中で、文明が生まれ、歴史が記されるようになって、数千年、日本では、千数百年でしかありません。そして、現代のように、気象の観測データがしっかり取られている時代となると、ほんの最近でしかなく、「記録的」とか、「史上最高」といっても、その時間の長さは、地球の歴史と比べたら、本当に短いものですね。 古代の人々や、今でも多くの人たちが、理解しがたいことを恐れ、それを説明するために「神」を用います。それは、人間が傲ってはならないこと、すべてを自分たちでコントロールできると思ってはならないこと、謙虚でいる必要なあることを教えてくれているのだと思います。 ですから、今回の原子力発電所の事故のように、核分裂という非常に危険な現象を利用した、大量殺人兵器の技術を、お湯を沸かして発電するために使おうという、原子力発電などというものをもし使うとするなら、大変に大きな責任、謙虚さ、慎重さが必要だと思うのですが、そこにあるのは、「すべてを自分たちでコントロールできると錯覚する」という、大変愚かな姿勢しか見られません。 あまり大きく報道されていませんが、菅直人前首相は、昨年10月にベトナムに原子力発電所を売り込み、二基を受注しました。国際原子力開発株式会社という、電力会社各社や三菱重工、東芝、日立や経済産業省の外郭団体が出資する会社を設立して窓口になり、実際の開発はこれらの会社や、日本原子力発電が行うことになっているのですが、管前首相が、今回の原発事故を受けて、脱原発に転向したため、ベトナムの原子力発電所建設計画は止まっていました。 しかし、日本の首相が交代すると、ベトナムのズン首相はこの10月に来日し、計画が再び具体的に動き始めました。ベトナムは南部と北部に人口が集中していて、中央部には人口密度が低く、少数民族が住んでいる地域があるのですが、そこで少数民族のチャム族に少ない立ち退き料を渡して、強制的に移住させているのです。(伊藤正子「ベトナム原発輸出」参照) ボブ・ディランの歌に、How many deaths will it take till he knows that too many people have died?(いったい何人の死が必要だって言うんだ、もうあまりにも多くの人々が死んだというのに。)という歌詞がありますが、実感として、そう思いますね。