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日本キリスト会川崎教会コミュの「キリストはダビデの子?」

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「キリストはダビデの子?」

*マルコによる福音書12章35〜40節
 またイエスは、神殿境内で教えている時に語り始めて言った、「なぜ、律法学者たちは、キリストがダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊に動かされて言っている、主はわが主に言われた、『私の右に座せ、私がお前の敵どもをお前の足下に据えるまで』。
 ダビデ自身が彼を『主』と言っている、それなら彼はどういうわけでダビデの子なのか」。
 こうして、多くの群衆は彼の言うことを喜んで聞いていた。
                                *並行箇所:マタイ22:41−46,ルカ20:41−44
38 そしてその教えの中で、イエスは言った、「律法学者たちに警戒せよ。彼らの望むのは長衣を着て歩きまわることと市場で挨拶されること、それに会堂での最上席と食事においての特等席だ。彼らは寡婦たちの家々をむさぼり、見せかけだけのながながとした祈りをする者どもだ。この彼らこそ、いっそう厳しいさばきを受けるだろう」。
                                *並行箇所:マタイ23:5−7,ルカ20:45−47
  新約聖書翻訳委員会訳

§「自然の力と、人間の恐れ」

  今年は自然災害が多く、自然の力の大きさを実感することが多いですね。3月11日の震災の頃には、ニュージーランドの地震が連日報じられていました。そして、この震災では、地震と恐ろしく大きな津波。明治以降、あるいは戦後、細かい気象の観測データが得られるようになってからの記録を遙かに上回る規模の津波でしたが、歴史的な文書や言い伝えでは、過去の大きな津波の規模が語られていました。タイでは洪水の被害が、今も拡大しています。アメリカの東海岸では、熱帯低気圧が北に押し上げた湿った空気を北から降りてくる寒気が巻き込んで大雪が降るという珍しいことが起き、ロッキー山脈の東の平原では、記録的な干ばつと1930年以来の巨大な砂嵐が起こっています。
  このようなできごとひとつひとつから、私たち人間の手の施しようがない大きな力や、理解しがたいことがたくさんあることを思います。人間は理解できないことを恐れる、ということがありますが、恐れているばかりでなく、なぜ、このようなことが起こるのか、ということを調べる、研究する、という積み重ねが自然科学の歩みです。そして、宇宙や地球の歴史を見る時、人類が生まれてから今まで時間、それが160万年としても、その歴史の中からはほんの短い時間であることを思います。また、その人類の歴史の中で、文明が生まれ、歴史が記されるようになって、数千年、日本では、千数百年でしかありません。そして、現代のように、気象の観測データがしっかり取られている時代となると、ほんの最近でしかなく、「記録的」とか、「史上最高」といっても、その時間の長さは、地球の歴史と比べたら、本当に短いものですね。
   古代の人々や、今でも多くの人たちが、理解しがたいことを恐れ、それを説明するために「神」を用います。それは、人間が傲ってはならないこと、すべてを自分たちでコントロールできると思ってはならないこと、謙虚でいる必要なあることを教えてくれているのだと思います。
  ですから、今回の原子力発電所の事故のように、核分裂という非常に危険な現象を利用した、大量殺人兵器の技術を、お湯を沸かして発電するために使おうという、原子力発電などというものをもし使うとするなら、大変に大きな責任、謙虚さ、慎重さが必要だと思うのですが、そこにあるのは、「すべてを自分たちでコントロールできると錯覚する」という、大変愚かな姿勢しか見られません。
   あまり大きく報道されていませんが、菅直人前首相は、昨年10月にベトナムに原子力発電所を売り込み、二基を受注しました。国際原子力開発株式会社という、電力会社各社や三菱重工、東芝、日立や経済産業省の外郭団体が出資する会社を設立して窓口になり、実際の開発はこれらの会社や、日本原子力発電が行うことになっているのですが、管前首相が、今回の原発事故を受けて、脱原発に転向したため、ベトナムの原子力発電所建設計画は止まっていました。
  しかし、日本の首相が交代すると、ベトナムのズン首相はこの10月に来日し、計画が再び具体的に動き始めました。ベトナムは南部と北部に人口が集中していて、中央部には人口密度が低く、少数民族が住んでいる地域があるのですが、そこで少数民族のチャム族に少ない立ち退き料を渡して、強制的に移住させているのです。(伊藤正子「ベトナム原発輸出」参照)
   ボブ・ディランの歌に、How many deaths will it take till he knows that too many people have died?(いったい何人の死が必要だって言うんだ、もうあまりにも多くの人々が死んだというのに。)という歌詞がありますが、実感として、そう思いますね。
  
*マタイによる福音書11章28−30節
 私のもとに来なさい。労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこの私が、あなたたちに安らぎを与えよう。私の軛をとって自分に負い、私から学びなさい。なぜなら私は柔和で心が低く、あなたたちは自分の心に安らぎを見いだすであろうから。私の軛は担いやすく、私の荷は軽いからである。

§「キリストはダビデの子?」

  さて、新約聖書にも、ダビデの名前はよく出て来ます。ダビデについては、旧約聖書のサムエル記上16章から、サムエル記下8章までに描かれています。ベツレヘムの羊か、エッサイの子で、少年時代に、初代イスラエル王、サウル(サウロ)が、ゴリアテという巨人戦士を擁するペリシテ人との戦いに苦戦している時に志願し、石投げ器ひとつでゴリアテを倒したことで注目されます。サウルの死後、イスラエルの第二代の王となり王国を統一したことで、民族の英雄として見なされるようになります。
  実際には、かなり乱暴なことや間違ったことも行ったために、神さははダビデに神殿を造ることを赦されず、エルサレムの丘に神殿の幕屋を建てるのは、ダビデの息子のソロモンです。彼の罪深い行いは、人間社会で力を持つにつれて、神を忘れ、自分が神の替わりかのように勘違いをしたことにあります。これは、現代の権力者や、大きな会社で大きなお金を動かす人たちの傲りと通じるものがありますね。
  その後、ダビデ王朝は滅びてしまい、イスラエルはバビロニアに占領されて、ユダヤの人々が奴隷としてバビロニアに連れて行かれるという事件、バビロン捕囚(597BCE-538BCE)などを通じて、神がまた再び、ダビデのように力強く民を導いて王国を統一してくれる政治的、軍事的な救済者を送ってくれることを人々が願うようになります。これが、メシア(救済者/キリスト)待望論で、ダビデの子として、ダビデの子孫から、そしてダビデの生まれ故郷、ベツレヘムから生まれると信じられるようになったのです。

*ミカ書5章1節
 エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。

*イザヤ書11:1−5
 エッサイの根株より一つの若芽が生え、彼の根から一つの若枝が出て実を結ぶ。
その上にヤハウェの霊が留まる。
これは知恵と認識の霊、思慮と勇気の霊、ヤハウェを知って畏れる霊である。
彼はヤハウェを畏れることを喜び、己が目の見るところによって裁かず、
己が聞くところによって裁決せず、正義をもって弱い者たちを裁き、
公正をもって地の貧しい者たちの裁決をする。
その口の杖をもって地を打ち、その唇の息をもって悪者を殺す。
正義はその腰の帯に、真実はその腰部の帯になろう。

  エッサイはダビデのお父さんですから、これはダビデの家系からメシアがでることを言っています。イザヤは、人間の権力者の常である傲りという過ちをよく知っていて、それに陥ることがない、神を畏れ、神の目で考え、決定を下す存在であるべきことを懸命に主張しています。
  人々は、主イエスを、メシアではないのか、という考えます。パウロは、このように書いています。

*ローマ人への手紙1章1〜4節
 キリスト・イエスの僕であり、召された使徒であり、神の福音のために聖別されたものであるパウロがこの手紙を書き送る。その福音とは、神が自らの預言者たちをとおして聖書の中で前もって約束されたものであり、神の子、すなわち肉によればダビデの子孫から生まれ、聖さの霊によれば、死者たちの甦りによって、力のうちに神の子として定められた方、私たちの主イエス・キリストについてのものである。

  またマタイによる福音書とルカによる福音書も、このダビデの子である、今まで待たれていたメシヤこそ、イエスなのだと主張しています。

*ルカによる福音書2章8ー14節
 さて、その地方には、羊飼いたちが野宿をしながら、自分たちの羊の群を夜もすがら見張っていた。すると、主の御使いが一人、彼らの上に立ち現れ、主の栄光が彼らを取り巻いて輝いた。そこで彼らは、ただ恐れに恐れた。すると御使いは彼らに言った、「そのように恐れることはない。なぜならば、見よ、私はお前たちに大いなる喜びの福音を告げ知らせる。この喜びは、民全体のものとなるであろう。すなわち、今日、お前たちのために、一人の救い主つまり主キリストがダビデの町に生まれた。そして、以下のことがお前たちにとっての徴となる、すなわちお前たちは、産着にくるまり、飼い葉桶に寝かされている嬰児を見いだすであろう」。すると突如として、その御使いと一緒に天の大軍勢が現れ、神を賞め讃えて言うのであった、
 「栄光はいと高きところにて神に、そして地には平安、意にかなった人々の間に」。

  魂の救済者として、そしてまた、私たちに生きる術を教え、何よりも神を愛し、隣人を愛することを教えてくれた主イエスの今に至る栄光を表すときに、こうした表現は素晴らしいと思います。
  しかし、マルコによる福音書は、この人々が期待するダビデの子としてメシア像に疑問を投げかけているのです。政治的、軍事的な力強いメシア像、果たして、おまえたちが求めている救い主でいいのか、いや、これから受難を迎え、十字架による死という、恐ろしいことを経験して、人間社会の常識で言えば、まったくの敗北者であるこの人こそ、神と共にある、本当の意味での救い主である、という主張をしているのです。

*マルコによる福音書12章35〜44節
 またイエスは、神殿境内で教えている時に語り始めて言った、「なぜ、律法学者たちは、キリストがダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊に動かされて言っている、主はわが主に言われた、『私の右に座せ、私がお前の敵どもをお前の足下に据えるまで』。
 ダビデ自身が彼を『主』と言っている、それなら彼はどういうわけでダビデの子なのか」。
 こうして、多くの群衆は彼の言うことを喜んで聞いていた。
          
*マタイによる福音書5章3〜12節
幸いだ、乞食の心を持つ者たち(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むも
のが一切ない者の意)、天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみをうけるであろう。
幸いだ、心の清いものたち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は彼らのものである。
幸いだ、あなたたちは。人々が私のゆえにあなたたちを罵り、迫害し、あなたたち
に敵対して、あらゆる悪しきことを言うときは。
喜んでおれ、そして小踊りせよ、あなたたちの報いは天において多いからである。
実際、彼らは、あなたたち以前の預言者たちをも、そのように迫害したのである。
並行箇所:ルカによる福音書6章20〜23節

                                            2011年 11月 6日  礼拝 
高橋  誠
 日本キリスト会川崎教会牧師

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