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日本キリスト会川崎教会コミュの「いちじくの木」マルコ11:12−26

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「いちじくの木」

①マルコによる福音書11章12〜26節
12 さて翌日、彼らがベタニアから出て来た時、イエスは空腹をおぼえた。そして一本のいちじくの木が葉をつけているのを遠くから見て、そこに何か見つかるかも知れないと思い、そこへ行った。しかし木のところに来ても、彼は葉のほかには何も見いだせなかった。いちじくの時節ではなかったからである。そこで彼は語り始めて木に言った、「今から永遠に、誰一人お前から実を食べる者のないように」。そして彼の弟子たちはこれを聞いていた。 
15 こうして彼らはエルサレムにやって来る。そしてイエスは神殿境内に入ると、神殿境内の中で売り買いする者たちを追い出し始め、両替人たちの台と鳩を売る者たちの椅子とをひっくり返した。また誰にも神殿境内を通って道具を運ぶことを許さなかった。そこで教え始め、彼らに言った、「聖書には次のように書かれているではないか、私の家は、あらゆる民族の祈りの家と呼ばれるであろう。それなのにお前たちは、それを強盗どもの巣にしてしまった」。そこで祭司長たちと律法学者たちはこれを聞き、どのようにして彼を亡き者にしようかと考えた。なぜなら彼らは群衆を恐れたからである。というのも、すべての群衆が彼の教えに仰天していたからである。
 そして、夕方になった時、彼らは都から出て行くのであった。
20 そして彼らは、朝早く通りがかりに、例のいちじくの木が根元から枯れてしまっているのを見た。そこでペトロは思い出して彼に言う、「ラビ、ご覧なさい、あなたが呪ったいちじくの木が枯れてしまいました」。
 するとイエスは答えて言う、「神への信仰を持て。アーメン、私はあなたたちに言う、この山に『引き抜かれて、海に投げ込まれてしまえ』と言い、その心の中で疑わず、ただ自分の語ることは必ず生じると信じる者には、そのようになるだろう。このために、私はあなたたちに言う、あなたたちが祈り、かつ求める一切のことは、もう受け取ったものと信じよ。そうすれば、あなたたちにそのようになるだろう。また、祈るために立つときに、誰かに対して恨みごとがあるならばそれを赦せ。そうすれば、天にいるあなたたちの父も、あなたたちのもろもろの過ちを赦して下さるだろう」。
                              新約聖書翻訳委員会訳                 

§「神殿を清めるためだったのか、神殿を否定する行動だったのか」

  今年は、9月半ばになっても、空気が湿っていて暑い日々が続きます。先週は中秋の名月で、とてもきれいな月がでていましたが、熱帯夜でしたね。長い夏の後に続く暑さのために、疲れやすかったり、体調を崩しやすかったりするかと思います。ゆっくり、無理しないで、しっかり水分を補給して、という言葉が飛び交う毎日です。
  この夏には、お二人の告別式がありました。それぞれのご家族や親戚の人々のために、告別式でのお話しを冊子にしました。こうした活動ひとつひとつを通じて、また新たな交流がはじまったり、新たに神さまの福音に触れるかたが出て来たら嬉しいと思います。
  さて、先週は、この同じ箇所の15節から19節までを学び、「神殿を否定する行動」と題してお話ししました。でも、ご存じの通り、この箇所はよく、「宮清め」と紹介されます。「聖書には次のように書かれているではないか、私の家は、あらゆる民族の祈りの家と呼ばれるであろう。それなのにお前たちは、それを強盗どもの巣にしてしまった」、の「私の家」を神殿と置き換えるなら、意味合いは、「神の家である神殿で、なんということをしているのか、おまえたちは!」、という怒りから、両替商や、供え物の動物を売る人たちを追い出し、神殿を、本来あるべき神聖な場所に戻したのだ、と読み取る人も多いと思います。
  しかし、この「私の家」は、人の手で、しかも権力者の豊富な資金によって作られた神殿なのではなく、神さまが住むところ、すなわち、私たちひとりひとりの心、そしてそれを反映する共同体や社会なのです。神さまが心に住む人、あるいは人々とは、共に祈り、共に新しい道を切り拓いていくことができます。
  その反対は、神さまを囲いに入れ、民衆から遠ざけ、自分たちの欲するままに神さまを利用しようとすることです。ですから、大きく豪華絢爛な神殿など、いらないのです。
  主イエスがいわれたとされる言葉、『俺は手で造られたこの神殿を壊し、三日の後に手で造られない別の神殿を建てて見せる』(マルコ14:55〜)の真意は、ここにあるのです。神殿など壊しても、福音を人々に伝えるなら、その福音が人々の心で芽を出して、そこに神さまは住まわれるのです。
  イエスは、人間の手によって造られた権力の象徴としての神殿、民衆から神との直接のつながりを奪おうとするものは、はっきり否定してしまいました。では、神はどこに?

・すでに天上の祝宴として始まっている「神の国」が間もなく最終的に(マルコ9:1「力を持って」!)地上に実現する時、その時には目の前の「手で造られた神殿」が除去され、「手で造られたのではない別の神殿」すなわち、「神の国」によって取って代わられる。これがイエスを支えた動機である。(大貫隆「イエスという経験」より)

  
§「いちじくの木」

  しかし、ここでとても不思議なのは、この神殿に対する抗議行動、あるいは神殿を否定する行動のエピソードが、不可思議ないちじくのエピソードで挟まれていることです。マルコは、関連ある物語の真ん中に、さらに印象的なエピソードを挟む、という文学手法をよく使います。ということは、マルコにとっては、このいちじくのエピソードと、神殿での過激な行動とに間に、共通点があるはずなのです。
  いちじくは、りんごと並んで、とても良い食べ物、良い木として出てくることが多く、ルカによる福音書6章では、良い木、良い実の象徴として描かれています。

*ルカによる福音書 6:43−45
 実に、良い木が腐った実を結ぶことはないし、また腐った木が良い実を結ぶこともない。というのも、おのおのの木はそれ自身の実から知られるからである。実際、茨からいちじくを集めることはないし、藪から葡萄の房を採ることもない。
 善い人は、心の善い倉庫から善いものを持ち出す。また悪しき人は悪しき倉庫から悪しきものを持ち出す。なぜなら、心があふれることによって人の口は語るからだ。
  
  ところが、今日の箇所は、様子が違います。何か、いちじくはおいしいだけに、必要としているときに、そのおいしいはずの物を得られなかった落胆の大きさがでているような感じです。

*マルコによる福音書11章12〜14節
12 さて翌日、彼らがベタニアから出て来た時、イエスは空腹をおぼえた。そして一本のいちじくの木が葉をつけているのを遠くから見て、そこに何か見つかるかも知れないと思い、そこへ行った。しかし木のところに来ても、彼は葉のほかには何も見いだせなかった。いちじくの時節ではなかったからである。そこで彼は語り始めて木に言った、「今から永遠に、誰一人お前から実を食べる者のないように」。そして彼の弟子たちはこれを聞いていた。   

   何度読んでも、よくわかりませんね。まず、主イエスが呪いの言葉でなにかを滅ぼす、などというエピソードは、四つの福音書の中でもこれが唯一です。しかも、実をみつけることができなくて怒っているけれども、「いちじくの季節ではなかった」のなら、見つからない方が当然です。それなのに、枯れろ、とは!
  ルカによる福音書に、「いちじくの譬え」があり、それとの共通点を見ることもできます。しかし、これは譬えであり、主イエスの行動ではありません。しかも、呪詛もでてきません。

*ルカによる福音書13:6−9
  また彼は、次の譬えを語った、「ある人が、自分の葡萄園にいちじくの木を植えさせておいた。そして彼は、そこに実を探しに来たが、何も見つからなかった。そこで彼は園丁に言った、『見よ、私はこれでもう三年もこのいちじくの木に実を探しに来ているが、何も見つからない。そこでこいつを切り倒せ、なんのために土地まで遊ばせておくのか』。すると園丁は答えて彼に言う、『主よ、今年だけこの木をこのままにしておいて下さい。その間に私がこの木のまわりを掘って肥やしをやりましょう。もしそれによって来年本当に実を結ぶとしたら、結構でしょう。もしそうでないならば、この木を切り倒して下さい』」。

  この譬えには、葡萄園に植えられているいちじくが実をつけないけれど、切り倒すかわりに、大切に世話をして、もうしばらく様子を見てあげよう、来年は実を結ぶかも知れないではありませんか、という、広い心を感じますね。
  旧約聖書の小預言書の中に、いちじくが何カ所かでてきます。そのうちの一箇所をお読みしましょう。

*ミカ書7:1−2
ああ、私は悲しい。
私は夏の果物を集め、葡萄の収穫の残りのみをつんでいるようだ。
食べることのできる葡萄の房もないし、自分が切に求める初なりのいちじくもない。
神に忠実な者はこの国から消え失せた。正しい人は誰もいない。
彼らは皆、金を奪おうと待ち伏せし、人はそれぞれ互いに網で捕らえようとする。

  これは、「神を敬う正しい者が絶えてしまったイスラエルが、神の好む初なりの実をつけていないいちじくの木にたとえられ、そのイスラエルに対する神の裁きが告げ知らされている」(川島貞夫)表現で、今日のテキスト、いちじくの木を呪うエピソードは、これらの預言者たちの言葉から、脚色され、ここに添えられたものであると思われます。
  実をつけていないいちじくの木は、主イエスの伝える、神の国の福音を受け入れない、受け入れようともしない、あるいは受け入れる準備ができていないイスラエルの民の不信仰を象徴していると考えると、すっきりします。

*ルカによる福音書13:34−35
 エルサレムよ、エルサレムよ。預言者たちを殺し、自分のもとに遣わされた者たちを石打ちにする者よ。私は雌鳥が自らの雛の群を翼の下に集めるように、何度お前のこらを集めようとしたか。しかしお前たちはそれを望まなかった。見よ、お前たちの家は見棄てられる。そこで私はお前たちに言う、お前たちは、二度と私を見ることはないだろう、お前たちが、主の名によりて来たる者に祝福あれ、という時が来るまでは」。

  神の民、神に選ばれた民を自認しながら、そしてまた開かれるべき目を与えられ、聞くべき耳が与えられ、数々の預言者をも与えられていながら、それでも自分たちの習慣や律法主義から立ち帰って、純粋に神と共に歩むことができない、イスラエルの民への想い。特に、主イエスの十字架を経験し、数々の苦難を経験してきた初期のクリスチャンたちにとっては、このような無念さ、歯がゆさが、色濃く表れているのだと思います。
   では、「神殿を否定する行動」に続く部分を読みます。

*マルコによる福音書 11:20−26
20 そして彼らは、朝早く通りがかりに、例のいちじくの木が根元から枯れてしまっているのを見た。そこでペトロは思い出して彼に言う、「ラビ、ご覧なさい、あなたが呪ったいちじくの木が枯れてしまいました」。
 するとイエスは答えて言う、「神への信仰を持て。アーメン、私はあなたたちに言う、この山に『引き抜かれて、海に投げ込まれてしまえ』と言い、その心の中で疑わず、ただ自分の語ることは必ず生じると信じる者には、そのようになるだろう。このために、私はあなたたちに言う、あなたたちが祈り、かつ求める一切のことは、もう受け取ったものと信じよ。そうすれば、あなたたちにそのようになるだろう。また、祈るために立つときに、誰かに対して恨みごとがあるならばそれを赦せ。そうすれば、天にいるあなたたちの父も、あなたたちのもろもろの過ちを赦して下さるだろう」。

  この最後の部分は、大変誇張した表現ですが、しっかりと信仰の展望(ヴィジョン)を持って信じること、そして祈ること、そして礼拝で共に祈り、お互いの間に許し合うことが大切であることが、強調されています。

*ルカによる福音書17:20ー21
「神の王国は、観察しうるようなさまで到来することはない。人々が『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』などということもない。なぜならば、見よ、神の王国はあなたたちの只中にあるのだ」

   2011年 9月18日  礼拝   高橋  誠/日本キリスト会川崎教会牧師

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