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日本キリスト会川崎教会コミュの「ゼベダイの子らの願い」

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「ゼベダイの子らの願い」

①マルコによる福音書10章35〜41節
 すると、ゼベダイの子らのヤコブとヨハネとが彼に近寄ってきて、彼に言う、「先生、私たちがお願いすることをかなえていただきたいのですが」。そこで彼らに言った、「私に何をして欲しいのか」。そこで彼らは彼に言った、「あなたの栄光の中で、私たちの一人があなたの右に、一人があなたの左に座ることを私たちに許して下さい」。しかし、イエスは彼らに言った、「あなたたちは何を願っているのかわかっていない。あなたたちは私の飲む杯を飲むことができるのか、あるいは私のこうむる洗礼をこうむることができるのか」。すると彼らは彼に言った、「私たちにはできます」。しかしイエスは彼らに言った、「なるほど、私が飲む杯をあなたたちも飲み、私がこうむる洗礼をあなたたちもこうむることになるだろう。しかし、私の右、ないし左に座ることは、私が許してやれることではなく、備えられている者にのみ与えられるのだ」。すると十人はこれを聞き、ヤコブとヨハネに対して激しく怒り出した。

② マルコによる福音書10章42〜45節
 そこでイエスは、彼らを呼び寄せ、彼らに言う、「あなたたちが知っている通り、異邦人たちの支配者と思われている者どもは、彼らを暴圧で支配し、異邦人たちの尊大な者どもは、彼らに圧政を加えている。しかし、あなたたちの間ではそうではない。むしろ、あなたたちの間で大いなる者になりたいと思う者は、あなたたちに仕える者となるだろう。また、あなたたちの間で筆頭でありたいと思う者は、皆の奴隷になるだろう。
 なぜならば、人の子も仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ。そしてまた、自分のいのちを多くの人のための身代金として与えるために来たのだ」。             新約聖書翻訳委員会訳

§「鈴木みち子さん」

   先日の水曜日、7月20日の朝、 鈴木みち子さんが静かに天に召されました。 息子の敏彦さん、妹の愛子さん、そして教会の真柄さんご夫妻と共に、川崎協同病院の病室で、天に召されたばかりの鈴木さんの眠るようなお姿のお会いし、祈りを捧げました。とても安らかな表情をされていました。
  永年にわたる闘病生活、毎日、長時間にわたる人工透析の日々の中でも、明るい笑顔と、こまやかな愛情を分かち合ってくれていました。心不全と言うことですが、実際には、鈴木みち子さんの体、そして心臓には、闘病と、透析とで大変大きな負担がかかっていたとのことでした。
   教会には1989年ごろから 20年以上にわたって通われて、親しい交わりを深めました。今も鈴木さんの元気な声が聞こえるようです。 今年の1月から2月にかけて入院して、退院したすぐ後に、満面の笑みをたたえて、教会を訪問され、「スカイ・トゥリーを見てきたのよ!」、と、楽しそうに言われて、その前の病状を伺っていた私たちは、ただただ驚き、鈴木さんの心の元気さと、明るくて前向きな生きる力に、圧倒されながらも、鈴木さんらしさにほほえまずにいられない気持ちだったのを、懐かしく思い出します。今日、午後告別式をエヴァ・ホールで行います。心を込めて、神さまの元へのお見送りをしたいと思います。

§「ゼベダイの子らの願い」

   そして、第三回受難復活予告に続いては、9章の第二回受難復活予告の後と同様に、弟子たちが相変わらず自分たちの中の序列を気にして、ゼベダイの子ヨハネとヤコブとが「あなたの栄光の中で、私たちの一人があなたの右に、一人があなたの左に座ることを私たちに許して下さい」(37節)
  この、「あなたの栄光の中で」はマルコによる福音書の中で何回か出てくる表現です。では、それは何を指すのでしょう。

*マルコ8:38
 たしかに、この不貞で罪深い世代において私と私の言葉とを恥じる者を、人の子も、その父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来る時、恥じるだろう。

*マルコ13:26
 そしてそのとき、人々は人の子が多くの力と栄光を伴い、雲に囲まれて到来するのを見るだろう。

 「あなたの栄光の中で」は、「人の子イエスが神的栄光に輝いて再臨し、審判の座に着くとき」(川島貞雄)を思い描いているのでしょう。
 さて、第一回の受難復活予告の後でマルコによる福音書の描くイエスは、「自分の十字架を担って私に従って来るがよい」と言われました。9章では、「もし人が筆頭の者になりたいと思うならば、彼は万人のしんがりに、万人の奉仕者になるだろう」(35節)と応えておられました。そしてまた、「すべての者は火によって塩づけられるであろう。塩は良いものだ。しかし塩気のないものになったなら、あなたたちは何によってそれを味つけるだろうか。だからあなたたちは、自分の中に塩を持ち、お互いに平和をなすがよい」(49節)とも。
   しっかり、自分の信念をもち、十字架を担ってイエスに従い、お互いに平和をなせ、という言葉でした。では、今回はどうでしょうか。
 
*38節
「あなたたちは何を願っているのかわかっていない。あなたたちは私の飲む杯を飲むことができるのか、あるいは私のこうむる洗礼をこうむることができるのか」

 ゼベダイの子らは、ここでは「栄光」の面だけを見ていて、イエスと共にいることが、受難と死を示すものでもあることに気づいていません。次の「私の飲む杯を飲む」と、「私のこうむる洗礼をこうむる」は、「私と同じように殉教の死を遂げる」ということを指しています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ペテロとイエスの弟のヤコブと共に、イエスの死後、エルサレム教会の「柱」と呼ばれる中心人物となります。

*ガラテヤ書2:9
 そしてさらに私に与えられた恵みを知るに及んで、ヤコブとケファ(ペテロ)とヨハネ、すなわち柱として重んじられている人たちは、私(パウロ)とバルナバとに交わりの右手を差し延べたのである。

 そして、42〜44年に、ヘロデ・アグリッパ1世が、エルサレム教会を迫害します。そして、ヤコブは殉教します。

*使徒行伝12:1ー3
 その頃、ヘロデ王(ヘロデ・アグリッパ1世)は教会員のある者たちの迫害に着手し、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人たちの気に入ったのを見て、さらにペトロをも捉えようとした。

 この迫害の理由は何だったのでしょうか。

「迫害した理由は必ずしも明らかではないが、エルサレム原始教会が異邦人にまで門戸を開いたという報知(使徒行伝10)や、当教会から出て行ったアンティオキア教会が過度なまでに開放的な宣教をしている様が知れ渡り、ナショナリスティックな敵意がエルサレム教会に向けられていたらかもしれない。そうであれば、この教会への迫害が民衆を『喜ばした』というのも理解できよう」(佐藤研「聖書時代史・新約編」より)

  しかし、その「過度なまでに開放的な宣教」「異邦人にも門戸を開く」は、イエスの教え、生き方そのものです。イエスの教えの通りに生き、そのとおりに実行した人々が大変な迫害にさらされていたのです。
 マルコによる福音書の記者は、この事件を知っていて、物語のなかに盛り込みます。

*39−41
 すると彼らは彼に言った、「私たちにはできます」。しかしイエスは彼らに言った、「なるほど、私が飲む杯をあなたたちも飲み、私がこうむる洗礼をあなたたちもこうむることになるだろう。しかし、私の右、ないし左に座ることは、私が許してやれることではなく、備えられている者にのみ与えられるのだ」。すると十人はこれを聞き、ヤコブとヨハネに対して激しく怒り出した。

 伝説では、ゼベダイの子ヨハネも殉教したというものが5世紀に出てきますが、48年頃のエルサレム使徒会議(ガラテヤ2,使徒行伝15参照)に出た後の足跡はわかっていません。
 マルコによる福音書のイエスは、この名誉の座が欲しいという二人の願いを退けます。そして、残りの十人の弟子たちも、「ヤコブとヨハネに対して激しく怒り出した」。これは、彼らもまた地位に対する想いや嫉妬から解放されていず、「互いに平和をなし」、「もし人が筆頭の者になりたいと思うならば、彼は万人のしんがりに、万人の奉仕者になるだろう」ということが理解できていません。
 マタイによる福音書では、このゼベダイの子らが求めたものを、イエスが約束している場面があります。

*マタイによる福音書19:28
 そこでイエスは彼らに言った、「アーメン、私はあなたたちに言う、人の子が彼の栄光の位に座する再生の時には、私に従って来たあなたたちもまた、十二の位に座して、イスラエルの十二の部族をさばくであろう。

 マルコによる福音書では、弟子たちは、無理解の象徴のように描かれています。それに対して、マタイによる福音書では、弟子たちの地位は上がり、尊敬の対象に変わってきています。そして神にお任せして安心していてよかったはずの報酬もこの世の王座に似た描写になってきます。

 マルコによる福音書のイエスは、ここでもくり返し、弟子たち、そして私たちの価値観を破壊し、謙虚で、平和を造り出す者のあり方を示します。

*マルコによる福音書10章42〜44節
 そこでイエスは、彼らを呼び寄せ、彼らに言う、「あなたたちが知っている通り、異邦人たちの支配者と思われている者どもは、彼らを暴圧で支配し、異邦人たちの尊大な者どもは、彼らに圧政を加えている。しかし、あなたたちの間ではそうではない。むしろ、あなたたちの間で大いなる者になりたいと思う者は、あなたたちに仕える者となるだろう。また、あなたたちの間で筆頭でありたいと思う者は、皆の奴隷になるだろう。

 「異邦人たちの支配者と思われている者ども」は、「いわゆる支配者」、この世の中で支配者の顔をしているけれども、その実は、権力欲とマモンとに操られている者たち。この者たちと同じような価値観で生きるのではしょうがない。神は「小さな者たち」(9:42)をこそ愛しておられる。

*マルコによる福音書10章45節
 なぜならば、人の子も仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ。そしてまた、自分のいのちを多くの人のための身代金として与えるために来たのだ」。
 
 この「身代金」(リュトロン)という言葉は、奴隷や捕虜を解放するために支払われる身代金(新共同訳聖書注解・新約編)。マルコによる福音書は、イエスが私たちに「神の王国の到来を伝え、新しい価値観を与えること、救いを与えることに生を捧げ、そしてその生の完成としてイエスご自身が私たちの罪を贖う「身代金」として自らを差し出されたという、受難、十字架の死の意味づけをしているのです。

・イエスは私たちの罪のゆえに、あるいは私たちの罪が原因で死んだのだが、それを私たちの罪のために(引用者注:代償として)死んだのだと誤解してはならないのである。イエスの犠牲の死はイエスが私たちの身代わりとなったので救いをもたらすのではなく、私たちがイエスと同じ生き方をするから救いをもたらすのである。  ...J.D.クロッサン
                                     
2011年 7月24日  礼拝   高橋  誠/日本キリスト会川崎教会牧師 

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