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日本キリスト会川崎教会コミュの「子供たちへの祝福」10:13−16

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「子供たちへの祝福」

*マルコによる福音書10章13〜16節
 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスはこれを見て、激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはできない」。そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。                                         新約聖書翻訳委員会訳

§「変わる勇気、捨てる勇気」

   6月の終わりから、急に暑い日が増えました。急激に温度が上がったので、体が適応していくにも、なかなか大変ですね。そして、7月になりました。今年も一年の半分が過ぎましたが、3月11日の東日本大震災のあと、懸命にもがいているうちに、あっという間に時が過ぎたような気がしてなりません。
  それでも、この道のりで、教会に来た人たちや、英語学園の子供たち、川崎リトルライト・シンガーズのコンサートに来た人たちなどと、数多くの温かい交流を持つことができました。
  社会に目を向けると、社会で起きている問題を、自分たちの問題と捉えて行動する人たちの割合が増えたように思います。懸命に生き、今何が起こっているのかをしっかりと捉え、するべきことをする。
  それとは対照的に、日本の政治家たちの多くは、これほどまでの被害を出した原発と原発政策の存続のための発言を繰り返しています。安全をアピールし、玄海原発の再開のために、経済産業省の大臣が「安全は国が責任を持つ」とまで言い、これを受けて佐賀県知事が、「安全性の問題はクリアできた」、と言っていましたが、玄海原発は、設計時から津波をほんの2メートルしか想定していません。しかも、これはほとんどの新聞もテレビのニュースも取り上げていませんが、玄海原発の3号機は、福島第1原発の3号機と同様に、ウランに加えて、プルトニウムを混ぜて使う、プルサーマル運転をしている、大変危険な原発なのです。

・原発がコスト的にもリスク的にも全く合理性を欠いた物だということは、現在、原子力村の中にいる上層部でさえわかっています。しかし、ではなぜ止められないのかというと、今さら止められないからなんですね。いまさらやめられない。これはね、総力戦研究所がアメリカと戦争すれば必ず負けるというシミュレーションを出して、陸軍参謀本部、海軍軍令部に上奏していたのに戦争に突入した。同じですね。今さらやめられないっていう、この理屈ですね。...宮台真司

  日本にも、ドイツの緑の党のように、人間や環境を第一に考え、大きな企業や産業の意向に左右されずに、しっかり活動する党が必要だと、最近つくづく思います。
  賢いはずの責任ある立場の人たち、あるいは専門家、そういう人たちが、子供たちや、一般の純粋にまっすぐに物事を見る人々よりも、わかっていなかったり、現実を見ることすらできていないのには、理由があります。

*ルカによる福音書11章34−36節
 身体のともし火はあなたの目だ。あなたの目が純真なとき、あなたの全身も輝いている。しかしあなたの目がよこしまなときは、あなたの身も暗闇だ。
  したがって、あなたの中の光が闇ではないように留意せよ。そこでもし、あなたの全身が輝いており、暗闇の部分がどこにもないならば、ちょうどともし火がその煌(きら)めきであなたを輝き照らすときのように、全体が輝いているだろう」。

  この、「あなたの中の光が闇ではないように留意せよ」って、すごい警告ですよね。あなたが光だと思っていることが、実は闇だっていうことがないようにしなさいというのは!エルサレムの聖墳墓教会に行ったときに、これを強烈に感じました。様々な宗派が宗教的な儀式を厳かに行いながら、勢力争い、示威行為をお互いに繰り返しているのです。彼らとしては、宗教的儀式を自分たちの組織のために懸命に行っているのでしょうが、そこに主イエスが伝えた、隣人愛や平和はどこにあるのでしょうか。これは、あらゆる人々の今を問う、自らを省み、吟味することを求める言葉です。
   これは、現代社会、現代の日本の社会にもあてはめられる問題ですね。
  澄んだ目は、ユダヤ文学では、純真な心を指すのだそうです。心に秘めた違うよこしまな心、二心を持たない、まっすぐに澄んだ心。 それは神とマモンとの両方を見ている目ではないこと、 一つなる神を見ることができる目を指します。
  
*マタイによる福音書6:24
 いかなる者も、二人の主(あるじ)に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するだろうから。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するだろうから。あなたたちは、神とマモンとに兼ね仕えることはできない。

  そして、その澄んだ目は、幼子が親を見るようなまっすぐな目です。子供のまっすぐで純真な愛情や信頼。それを大人は見過ごしたり、気がつかなかったりしがちです。親になったり、大人になって子供たちと交流することで、このような心を再発見したときの感動は大きいと思います。
  徴兵制度があった60年代のアメリカで、徴兵を拒否してボクシング、ヘビー級チャンピオンの座を剥奪されたモハメド・アリの伝記映画で使われていた歌、The Greatest Love Of All 以下のような言葉で始まります。

・I believe that children are our future
Teach them well, and let them lead the way
Show them all the beauty they possess inside
Give them a sense of pride to make it easier
Let the children’s laughter remind us how we used to be
 私は、子供たちが私たちの未来だと信じています/子供たちを上手に教えて、道を切り拓かせてあげなさい/子供たちが、心のなかに持っている様々な美しさを、見せてあげなさい/誇りを持つ、という感覚を与え、人生を生きやすくしてあげなさい/子供たちの笑い声を聞いて、私たちの子供時代を思い出しなさい。

§「子供達への祝福」

 そして、今日の箇所は、子供たちを祝福するエピソードです。人は、子供から大人になって成長したと思いがちですが、その時に置いてきてしまう大切なこともたくさんあります。主イエスは、子供たちの純粋な心、まっすぐな視線に、神さまと共に歩む人たちに必要な資質を見ているのです。

*マルコによる福音書10章13〜16節
 さて、人々は、彼のところに子供たちを連れて来ようとした。彼に触ってもらうためである。しかし弟子たちは、彼らを叱りつけた。だがイエスはこれを見て、激しく怒り、彼らに言った、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはできない」。そして彼は、子供たちを両腕に抱きかかえたあと、彼らに両手を置いて深く祝福する。 

    「アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその(=神の国の)中に入ることはない」、という主イエスの言葉には、愛と希望の非常に大きな迫力を感じます。また、「いかなる者も、二人の主(あるじ)に兼ね仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するだろうから。あるいは一方の世話はするが、他方はこれを軽蔑するだろうから。あなたたちは、神とマモンとに兼ね仕えることはできない」 (マタイによる福音書6:24 )にも説得力があります。

  このような形式の文章の様式をアポフテグマと呼びます。アポフテグマという言葉自体は、警句、格言といった意味ですが、聖書学では、以下のような意味で使われています。
 
*アポフテグマ:イエスの言葉が簡潔な状況描写とともに伝承されているが、全体の重点は場面でなく言葉自体にある。場面は言葉を伝えるために技巧的に作り出された「理想的場面」にすぎない。アポフテグマは論争(例えばマルコ3:1-6/10:2-12)、学習的対話(例えばマルコ10:17-31)、伝記的アポフテグマ(例えばマルコ6:1-6)に分けられる。(川島貞雄)

 ということは、「子供たちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。なぜならば、神の王国とは、このような者たちのものだからだ。アーメン、あなたたちに言う、神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は、決してその中に入ることはできない」、という言葉の意味を伝えるために理想的な場面設定がなされている、と考えられます。
 ここでは、弟子たちの子供たちの扱いは、子供たちが、大人の輪に近づくべきではない存在のようです。随分、邪魔にされているような感じですね。
  当時の地中海沿岸社会での子供はどのように小さい存在だったかについて、JDクロッサンは紀元前1年にエジプトのヒラリオンという出稼ぎ労働者が妻に宛てた手紙を紹介しています。

*オクシリンコスパピルス744
 ヒラリオンからその妹(注:妻のこと)アリスに、心から挨拶を送ります。(中略)アポロナリオン(長男の名)にも。われわれが今なおアレクサンドリアにいることを知ってください。(中略)どうかお願いだから、子供のことに気を配ってください。私が近々賃金を受け取ったなら、君のもとに送ります。もし君に子供が生まれて、それが男の子であったらそのままにし、女の子であったなら捨ててしまいなさい。君はアフロディアスに「私を忘れないで」と伝言したけれど、どうして私が君を忘れるだろうか。だからお願いだから心配しないでおくれ。

 妻に対する思いやりに満ちた表現とは裏腹に、生まれてくる子供が女の子だったら、「捨ててしまいなさい」とはどういうことでしょうか。クロッサンの言葉を引用すると、「幼児は、その父親がどぶやごみ捨て場に遺棄することなく、家族の一員として受け入れるのでない限り、文字通り何者でもない」。クロッサンは、「神の王国を子供が受け取るように受け取」る、ということを、神の国を全く無に等しい者として受け取る、ということだと捉えています。すると、この続きの17節以下の、「富める男」のエピソードにも意味が明確につながっていきます。

*マルコによる福音書10章17〜22節
 さて、彼が道に出ていくと、一人の男が走り寄って来て彼の前にひざまずき、彼にたずね出した、「善い先生、永遠の命を継ぐためには、私は何をすればよいのでしょう」。そこでイエスは彼に言った、「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。掟なら知っているだろう。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、だましとるな、お前の父と母とを敬え」。すると彼はイエスに言った、「先生、それらなら、自分の少年の頃からすべて守ってきました」。そこでイエスは彼を見つめながら、彼を慈しんだ。そして彼に言った、「あなたには一つ、欠けているものがある。行って、自分の持っているものを売り払って、これらの貧しい者たちに与えなさい。そうすればあなたは、天に宝を持とう。そうして私に従ってきなさい」。すると彼はこの言葉のために陰鬱になり、悲しみのうちに去っていった。なぜなら、たくさんの資産を持っていたからである。

   この男は、何も持たない者として、あるいは、何も誇るもののない小さな子供のように、神の王国を受け取ることができたなら!「幸いだ、乞食たち、神の王国はそのあなたたちのものだ」ルカ6:20  この、貧しき者たち、乞食たちも、自分たち自身に誇るものが一切ない者たち、それゆえに神さまをまっすぐ受け容れられる人々を指しているのです。
 
 そして、マルコが描写したイエスの子供に対する行動、すなわち、「両腕に抱きかかえ」、「両手を置いて」、「深く祝福する」は、「父親が新生児を死ではなく、生に定めたこと、つまり、(中略)家族の中への受け入れを定めたことを示す公式の身体的行為である」(クロッサン)と捉えます。
 イエスによらなければ、まったく何でもない者たち、ここでもイエスが招いておられるのは、社会の中の力を確立した人たちでも、成功者でもない、全くの社会的弱者、無力な者、もっとも小さい者を招いておられます。現実の社会や社会の流れに絶望する現実主義者が、イエスの神の国の福音を得て、喜びのうちに人生を送ることができる理由が、ここにあります。

マルコ9:7 すると雲が起こって彼らの上を覆った。そしてその雲から声がした、
       「この者は私の愛する子、お前たちは彼に聞け」。
                                          2011年 7月 3日  礼拝   高橋  誠日本キリスト会川崎教会牧師 

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