ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの「永遠の命を継ぐためには」(改訂版)Mk10:17−27

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「永遠の命を継ぐためには」

*マルコによる福音書10章17〜27節
  さて、彼が道に出ていくと、一人の男が走り寄って来て彼の前にひざまずき、彼にたずね出した、「善い先生、永遠の命を継ぐためには、私は何をすればよいのでしょう」。そこでイエスは彼に言った、「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。掟なら知っているだろう。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、だましとるな、お前の父と母とを敬え」。すると彼はイエスに言った、「先生、それらなら、自分の少年の頃からすべて守ってきました」。そこでイエスは彼を見つめながら、彼を慈しんだ。そして彼に言った、「あなたには一つ、欠けているものがある。行って、自分の持っているものを売り払って、これらの貧しい者たちに与えなさい。そうすればあなたは、天に宝を持とう。そうして私に従ってきなさい」。すると彼はこの言葉のために陰鬱になり、悲しみのうちに去っていった。なぜなら、たくさんの資産を持っていたからである。
  そこでイエスはあたりの弟子たちを見まわして、彼の弟子たちに言う、「資産を持つ者たちが神の王国に入るのは、なんと難しいことだろう」。ところが弟子たちは、彼のこの言葉に肝をつぶした。イエスはしかし、彼らに重ねて言う、「子らよ、神の王国に入るのはなんと難しいのだろう。金持ちが神の王国に入るよりは、らくだが針の穴を通り抜ける方がまだやさしい」。すると彼らはなおいっそう仰天してお互いに言った、「では。誰が救われるのだろうか」。イエスは彼らを見つめて言う、「人間にはできない、しかし神にはそうではない。神には何でもできるからだ」。
                                        新約聖書翻訳委員会訳

§「不思議な安堵感の蔓延」

   今年は大分早く梅雨が明けて、毎日大変暑い日が続いています。今年も、今日からしばらくの間、礼拝をエアコンのあるA教室で持つことに致しました。
   一昨日、久しぶりにマーク・カスレンさんが教会を訪問しました。被災地や、福島原発で起こっていることなども話し合いましたが、マークさんが被災地を訪れ、様々な人たちに今、福島で何が起こっていることを聞いてみても、「大したことはありませんよ」、「もう大丈夫だと思いますよ」、という答えが返ってくる、と言って驚いていました。妙な安堵感の蔓延と、批判精神の欠如。これは、社会を形作る上でも、自分たちの身を守るという力としても、大変大きな問題です。
  一般の人たちばかりでなく、経済産業省の大臣が、原発は安全だと、玄海原発の運転再開に奔走したり、自民党、民主党、公明党、たちあがれ日本などの政党の議員がこぞって、原発を守り促進する側について、懸命に発言しています。これは、どういうことなのでしょう。
 
・だいたい原子力発電所が事故を起こしますと、漏れる放射線量、放射線量といってもいっぱいあるのですが、不安定なやつが降灰するような場合、ベクレルという単位を使うんですが、だいたい億単位、数億ベクレルが普通の放射線が漏れたときの値であります。数億ベクレル漏れますと、社会にどのようなことが起こるのかというと、新聞には一面にでかでかとでて、国は大騒ぎをして
研究員を派遣したり、原子炉が止まったり、再開するのに三年かかったり、こういう風にするわけですね。これが数億ベクレルです。今回福島原発から出た量は、それの一億倍なんです。数京ベクレルから数十京ベクレルですね。とうことは、何十億倍なんですよ。通常国家が大騒ぎする量の、たとえば20億倍、それが今回福島からでたわけですね。普段数億ベクレル出たとに、原発は大変危険だといって、原発を数年止めて(検査を)やる、ということをやる政府が、それの一億倍出たら、安全だと言った。これを理解する、というのは、普通には到底できません。
  ですから、普通の心境としては、これはウソだと、いう風に思うのが当然であります。
福島県を中心とした方々、特にお母様方が非常に強い不安感を持っておられるということは、私は、政府発表といったものがつくり出した、非常に強い不信感であると思う。            
  たとえは難しいのですけども、一円でも節約しなくてはならないと言っていた人が、突然十億円を前にして、捨てなさい、と言っているようなもんです。                                      武田邦彦

   真実がしっかりと語られること、正確なデータがいつも公開されていること、 危険なときは人々を守り、子供たちを守る、という人間にとって基本的な姿勢が忘れられているのなら、これは大変大きな問題です。
  もっとも、小さな存在に寄り添う、という姿勢、神さまと共にいて、「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」とメッセージに生きるなら、決してできないことです。

* マルコによる福音書4章21〜23節
 また彼は彼らに言うのであった、「ともし火は、升の下や寝台の下に置かれるためにやって来るだろうか。燭台の上に置かれるためではないか。たしかに、隠されているもので、あらわにされずにすむものはなく、また秘められて生じたもので、あらわなものに至らずにすむものはない。もし誰かが聞くべき耳を持つならば、聞け」。

§「永遠の命を継ぐためには」

 さて、今日の聖書箇所は、「善い先生、永遠の命を継ぐためには、私は何をすればよいのでしょう」、と大変無邪気に尋ねた若者に対して、21節「あなたには一つ、欠けているものがある。行って、自分の持っているものを売り払って、これらの貧しい者たちに与えなさい。そうすればあなたは、天に宝を持とう。そうして私に従ってきなさい」と、主イエスがいう場面です。これも、先週学んだように、アポフテグマと呼ばれる、主イエスの言葉を伝えるために理想的な状況設定をして語っている場面です。
 では、最初の17〜19節をもう一度お読みしましょう。

*マルコによる福音書10章17〜19節 
 さて、彼が道に出ていくと、一人の男が走り寄って来て彼の前にひざまずき、彼にたずね出した、「善い先生、永遠の命を継ぐためには、私は何をすればよいのでしょう」。そこでイエスは彼に言った、「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。掟なら知っているだろう。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、だましとるな、お前の父と母とを敬え」。

  この箇所のルカとマタイの並行箇所と違い、マルコが描くこの人はいきいきとしています。一人の男が「走り寄って来て」「彼の前にひざまずき」イエスに呼びかけ、質問します。彼が「善い先生」と呼びかけたことに対して、イエスは「神お一人のほかに善い者なぞいない」、と反論します。これは、マルコ1章23節以下で、穢れた霊に憑かれた男が、「ナザレのイエスよ、お前は俺たちと何の関係があるのだ。お前は俺たちを滅ぼしに来たのか。俺はお前が何者か知っているぞ、神の聖者だ」、と言ったことに対して、叱りつけていたことを思いおこさせます。そして、「神お一人のほかに善い者なぞいない」、と応えます。
 「永遠の命を継ぐ」は、「神の国に入る」と同じことを指しています。彼は、「永遠の命を継ぐためには、私は何をすればよいのでしょう」、という素直な問いをします。これに対してのイエスは十誡の一部を挙げて応えます。「掟なら知っているだろう。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、だましとるな、お前の父と母とを敬え」。これを、出エジプト記の十誡に照らし合わせてみると、

1.殺すな        出エジプト20:13 第六の戒め
2.姦淫するな       出エジプト20:14 第七の戒め
3.盗むな      出エジプト20:15 第八の戒め
4.偽証するな      出エジプト20:16 第九の戒め
5.だましとるな      出エジプト20:17(要約して) 第十の戒め
6.お前の父と母とを敬え  出エジプト20:12 第五の戒め

 ということで、ここで引用されているのは禁止の戒めと、「最後の父と母とを敬え」だけで、第一から第四の戒めが引用されていません。これも意図的なのでしょうか。
 そうだと思います。主イエスがこの若者に言った6項目は、律法主義に染まっているまじめなユダヤ教徒が守っているという自信があるものばかりなのです。イエスが挙げなかった戒めのうち、4番目は安息日を守るように、という項目ですが、これは、主イエス自身が他の人に対して、「守りなさい」、と言う内容ではありませんね。また、3つめの「汝の神エホバの名をみだりに口にあぐべからず」も、実際の人々の生活の中で、義しく生きることの本質とは遠い気がします。
  大切なのは、最初の二つの戒めなのです。それらはすなわち、「汝、我が顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず」と、「汝、己のために、何の偶像をも彫むべからず」です。それは、律法主義に陥り、律法を守ることによって、また、その自分の努力と、律法を守ることを可能にしてくれる社会的に恵まれた地位によって、救いが得られると信じてしまっている人々に対して、あなたは、神と共にあって、今、目の前にいる困っている隣人を助けることを忘れていたら、あなたは神を愛することができていないではないか。そしてそれは同時に、律法や富を、神の代わり、すなわち偶像にしているではないか。すなわち、主イエスの導きの応えられないこの若者は、この二つの戒めを守れていないことになるのです。ですから、主イエスはあえて、この若者が自信を持って答えることができる項目のみを挙げているのです。
 これに対して、この人の応えは素直なものでした。

*マルコによる福音書10章20〜22節
 すると彼はイエスに言った、「先生、それらなら、自分の少年の頃からすべて守ってきました」。そこでイエスは彼を見つめながら、彼を慈しんだ。そして彼に言った、「あなたには一つ、欠けているものがある。行って、自分の持っているものを売り払って、これらの貧しい者たちに与えなさい。そうすればあなたは、天に宝を持とう。そうして私に従ってきなさい」。すると彼はこの言葉のために陰鬱になり、悲しみのうちに去っていった。なぜなら、たくさんの資産を持っていたからである。

 「慈しんだ」は、直訳すると「愛した(エイガペーセン)」。そして、もう一つだけ足りないこと、これをすれば良いんだ、ということを指し示します。ここで興味深いのは、貧しい人たちがただ一般の貧しい人たちではなく、「これらの貧しい者たち」で、すぐここにいる私たちのただなかにいる貧しい人たちを指していることです。ここでは、マルコの教会の様子が窺えます。後の、28節以下にも垣間見えるように、教会のメンバーが家族となり、共同生活をしている中で、その中にいる貧しい人たちを援助するという、差し迫った必要性があったということです。ちょうど、今なら、私たちの教会に、地震や津波によって被災し、困っている人が何割かいる、という感じです。すると、「私に従ってきなさい」も、マルコや、教会の時代では、イエスに従い、教会の共同体に加わって、信仰に生きることを表しているのでしょう。
「行って、自分の持っているものを売り払って、これらの貧しい者たちに与えなさい。そうすればあなたは、天に宝を持とう」。「天に宝を持」つことは、神の王国の福音を最も大切なものとして生きること、これは誰にも奪い取ることはできません。

*マタイ6:19−20
 地上にあなたたちの宝を積むな。そこでは衣魚(しみ:衣蛾の幼虫)と虫が宝を食い、泥棒が壁に穴を開けて盗んでしまう。むしろあなたたちの宝を天に積め。そこでは衣魚も虫も食わず、泥棒が壁に穴を開けて盗むようなこともない。実に、あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのである。

 残念ながら、この男性はイエスが示された道を選択することができません。名声や富が、自分のアイデンティティーだと錯覚してしまっているためです。それらを失うことは考えられないのです。生き方を変える、生活を変えるだけの決断をすることができないでいます。確かに、このような決断は難しいかも知れません。今日の日本で、独身で好きなように暮らしていた人たちが、長年付き合っている人がいながら結婚を決意し、生活を変えるのが難しかったりするのも、変化への不安や、今あるものを失うことへの恐れが大きいと思います。

*マルコによる福音書10章23〜27節
 そこでイエスはあたりの弟子たちを見まわして、彼の弟子たちに言う、「資産を持つ者たちが神の王国に入るのは、なんと難しいことだろう」。ところが弟子たちは、彼のこの言葉に肝をつぶした。イエスはしかし、彼らに重ねて言う、「子らよ、神の王国に入るのはなんと難しいのだろう。金持ちが神の王国に入るよりは、らくだが針の穴を通り抜ける方がまだやさしい」。
 すると彼らはなおいっそう仰天してお互いに言った、「では、誰が救われるのだろうか」。イエスは彼らを見つめて言う、「人間にはできない、しかし神にはそうではない。神には何でもできるからだ」。

 イエスの言葉に弟子たちが驚いた理由は、当時、「富は神の恩恵のしるし、善に対する報酬と考えられていた」(川島貞雄)ことによります。これは現在のアメリカでもあまり変わりなく、カーネギーやビル・ゲイツや映画俳優たちが多額の援助を慈善事業に寄付している理由も、この考えにつながっています。私が二十代の頃、モーターボート競争の笹川良一会長がアメリカの日系人の社会で絶大な尊敬を集めていることを知って、驚いたことを思い起こします。 こんなに金持ちの立派な人が神の王国に入れないなら、「では、誰が救われるのだろうか」ということになります。この世での成功が、神から愛されている証拠、と捉えるのです。

   イエスの答えは、驚くべきものでした。「金持ちが神の王国に入るよりは、らくだが針の穴を通り抜ける方がまだやさしい」は、不可能だ、ということを表す誇張表現です。らくだ(あるいは、ゾウ)が大きいものの譬えとして使われています。
しかし、続くイエスの言葉は、金持ちかどうかは関係ないような言葉です。「神の王国に入るのはなんと難しいのだろう」。そして、「人間にはできない、しかし神にはそうではない。神には何でもできるからだ」それは、人が自分の力や業(ここに傲りが生まれます)によって、神の王国に入ることができるのではなく、神の愛、救いによって、神の王国に迎えられるのだ、と言っています。


                                          2011年 7月10日  礼拝   高橋  誠
日本キリスト会川崎教会牧師 

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング