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日本キリスト会川崎教会コミュの「からし種ほどの信仰があるなら」

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「からし種ほどの信仰があるなら」

① マタイによる福音書17章19−20節
 その後、弟子たちはイエスのところに来て、人のいない時に彼に言った、「どうして私たちには、あの霊を追い出すことができなかったのでしょう」。すると彼は彼らに言う、「あなたたちの信頼が薄いためである。アーメン、事実あなたたちに言う、もしもあなたたちが芥子種ほどの信頼でも持っているなら、この山に、『ここからあそこへ移れ』と言えば、それは移るであろう。そしてあなたたちにできないことはないであろう」。
② マタイによる福音書17章14−18節
 そして彼らが群衆のところにやって来ると、一人の人が彼に近寄ってきて、彼にひざまずき、そして言った、「主よ、私の息子に憐れみを。てんかんを患い、ひどく苦しんでいるからです。息子は何度も火の中に落ち、何度も水の中に落ちました。そこで私は、息子をあなたのお弟子がたのもとへ連れてまいりました。しかし、お弟子がたは、息子を治すことがおできになりませんでした」。そこでイエスは答えて言った、「ああ、信頼のない、曲がった世代よ、いったいいつまであなたたちを我慢しようか。その子をここに、私のところに連れて来なさい」。そこでイエスが彼を叱りつけると、悪霊は彼から出て行った。そして、その子供はその時より治された。
③ マルコによる福音書4章30〜32節
 また彼は言うのであった、「私たちは、神の王国を何と同じであると言おうか、あるいはそれを、どのような譬によって表そうか。それは次のような一粒の芥子種のようなものだ。すなわち、大地に蒔かれる時は大地の上のあらゆる種の中でも最も小さいが、しかしいったん蒔かれると、発育し、あらゆる野菜よりも大きくなり、巨大な枝を張る。そのため、その陰で、天の小鳥たちが巣を作りうるほどになる。                                                                                新約聖書翻訳委員会訳

§「からし種」

  昨日、私たちの娘が11才の誕生日を迎えました。神さまと共に、歩みをすすめながら成長していくのを見守ることができ、大変幸せです。また、親も共に成長することが必要ですから、責任の重さも感じます。
  私が生まれた年は西暦1960年で、娘がちょうど西暦2000年ですので、覚え易く、またいろいりな出来事を思い出すときに良い目安になります。この十年、十一年を見ても激動の時代だなあと感じます。紛争や戦争、そして今回のような大きな災害、そして原子力発電所の事故...。
  今回の事故を受けて、原子力についてたくさんの本を読んで勉強を続けています。すると、今まで知らなかったことにたくさん出会います。原子爆弾の開発から、原子力の平和利用が打ち出された経緯、また原爆で被爆をした人たちの健康被害の歴史、またエネルギーの問題。
  大きく、多額のお金が動くプロジェクトには様々な人々がそれぞれの思惑を持って参加する問題があり、またそのお金の利権を狙って集まってくる人たちがいて、問題を大きくしていることがわかってきます。誠実に、人々のことを思い、科学的な事実にまっすぐ謙虚に向き合うことが大切ですが、大きなお金が動く問題ほど、嘘やごまかしにまみれていることを知り、大変悲しく思います。
  そして、私たち、普通の人々に対する世論調査で、半数以上の人々が、原子力発電は必要で存続するべきだと答え、それと同時に自分たちが住んでいる地域のそばには作らないで欲しいと答えています。こういう感覚には問題がありますよね。とても利己的です。
  かつてマザー・テレサが、I don’t believe in the big way of doing things.「私は、何かをするときに、大きなやり方はよくないと信じています」、と発言していたのを思い出します。どんなに小さな力でも、私たちが神さまと共に歩む一歩一歩に、希望があり、それが活かされることを思います。
  主イエスの芥子種の譬えにも、こうした価値観がよくあらわれています。小さな者たち、謙虚で優しい人たちこそ、とても大切な存在であり、また、大切な働きをするのです。

*マルコによる福音書4章30〜32節
 また彼は言うのであった、「私たちは、神の王国を何と同じであると言おうか、あるいはそれを、どのような譬によって表そうか。それは次のような一粒の芥子種のようなものだ。すなわち、大地に蒔かれる時は大地の上のあらゆる種の中でも最も小さいが、しかしいったん蒔かれると、発育し、あらゆる野菜よりも大きくなり、巨大な枝を張る。そのため、その陰で、天の小鳥たちが巣を作りうるほどになる。

 ルカによる福音書のほうでは、より短く、また芥子種が成長して「一本の木になった」と書かれています。

*ルカによる福音書13章18ー19節
 そこで彼は言うのであった、「神の王国は、何と同じであろう。また、私はそれが何と同じであると言おうか。それは次のような一個の芥子種と同じである。一人の人がそれをとって、自分の園に投げ入れた。するとそれは成長し、一本の木になった。そのため、天の小鳥たちがその大枝の中に巣を作った」。

 芥子の種、カラシナの種hは1ミリほど。Mustard Seed。黒い種と白い種と2種類あるのだそうです。マスタードに入っている時もありますね。菜の花に似て、黄色いかわいらしい花が咲きます。小さいものの比喩として使われていました。これが成長して大きくなると1〜3メートルにも成長します。そして、一度蒔くと、成長したときにその小さい種をたくさん飛ばすので、畑に植えてしまうと、他の作物を植えるときに、困るほどなのだそうです。オイルを取ったり、薬として使われてきました。
 これについて、一世紀のローマの著述家大プリニウス(79年に科学的好奇心から噴火中のベスビウス火山に近づきすぎて56才で死亡)は以下のように書いています。

・大プリニウス「自然誌」(JDクロッサンの引用による)
 ...そして、その刺激性の風味と火のような作用によって健康にたいへんよいカラシナである。カラシナは手入れをしなくても育つが、移植すると質がよくなる。しかし他方、一度植えると、その場所から絶やすことはほとんど不可能となる。種がこぼれると直ちに発芽するからである。

  神の王国が、この役に立つけれども、手に負えない野生の作物の種と同じだなんて、どういうことなのでしょうね。エドワルド・シュヴァイツァーは、イエスの譬えの特徴を、次のように記しています。「イエスの譬えは、予期しない、驚くべき事柄について語る。(中略)どこのからし種が、大木まで成長するというのだろうか?とても大きな植物となって、それを『木』と呼べるくらいにはなるかもしれないが、いずれにせよ。極端な誇張ということになろう。(中略)決定的に重要なのは、聴く者に奇異な感じを抱かせ、注意を向けさせるように持っていく、非日常なるものなのである」。イエスの譬え話を聞いた者は、驚き、その意味を繰り返し考え、神の国の姿を、素晴らしいもの、自分たちの想像を超えるものとして記憶します。しかも、非常に身近な、種蒔きや、芥子種の話しで。
  ここでは、小さいものが、大きいものとなるという対比がなされています。イエスと、そして漁師であった弟子たちからはじまった小さな活動が、大きく実を結んで神の国の到来をもたらすことを示唆しています。

 では、はびこりやすく、絶やしにくい性質については、どのような解釈ができるでしょうか。

・要するに、からし菜には野生種と栽培種とがあるが、たとえ医療用や料理用に後者を注意深く育てたとしても、畑が荒らされる危険が常につきまとう。からし菜は、庭で栽培する場合でさえ危険であり、穀物畑にはびこった場合は壊滅的な被害をもたらす。一方、われわれが可愛らしいと感じる、巣を作る鳥たちは、古代の農夫にとっては種と穀物を狙う不断に危険な存在であった。(中略)その要点は、からし菜はそれが望まれていない場所を乗っ取るおそれがあること、始末におえなくなること、そして耕作地に招かれざる鳥たちを引きつけやすいこと、これらにある。そしてこれこそ、イエスが言おうとした神の国の姿なのである。(JDクロッサン)

  当時のユダヤ教の枠内で求められていたメシア像と、主イエスとの違い、当時の人々が求めていたイスラエル国の復興とイエスの説いた神の国の到来との違い、またユダヤ人社会に限定した救いと、民族や人種や性別の壁を越えてしまった救いの姿との違い...数え上げていくと、社会がまだ求めていない、根源的な変革をもたらしてしまった主イエスの福音の性質が、この譬の中に込められているのでしょう。すべての人が、神の前で等しく大切であること、この福音(ゴスペル/いいニュース)は、特定の誰かが独占するようなものではないこと。
  その大きな愛のメッセージと生き方に触れたなら、良さを知ったなら、その様に生きざるを得ないことが伝わってきますね。愛や希望は、どんなに分かち合っても減ることはなく、喜びは広がっていくはずのものなのです。

*マタイによる福音書 13章33節
 彼は彼らにほかの譬を語った、「天の王国は、(次のような)パン種と同じである。一人の女がそれをとって、三サトン(40リットル!)の粉の中に埋めた。すると全体が発酵した」。
 
§「からし種ほどの信仰があるなら」

  さて、今日のテキストにもこの芥子種がでてきます。

*マタイによる福音書17章19−20節
 その後、弟子たちはイエスのところに来て、人のいない時に彼に言った、「どうして私たちには、あの霊を追い出すことができなかったのでしょう」。すると彼は彼らに言う、「あなたたちの信頼が薄いためである。アーメン、事実あなたたちに言う、もしもあなたたちが芥子種ほどの信頼でも持っているなら、この山に、『ここからあそこへ移れ』と言えば、それは移るであろう。そしてあなたたちにできないことはないであろう」。

 ここで「信頼」と訳されているのは、多くの場合、信仰と訳されてきました。神さまへの信頼を指しています。赤ちゃんがお母さんに対して持っているような、純粋でまっすぐな信頼です。この信仰は、自分が何らかの修行や業績をあげることで得られるようなものではありません。もっと、まっすぐで根源的な信頼です。
 しかし、芥子種ほどの、小さな信仰があったなら、大きな、山をも動かすことができるとは、なんとダイナミックな表現でしょう。このような驚くような、そして、逆説的で、どういうことだろうと、心にひっかかって考え続けなければいられないような言葉は、きっと主イエスご自身が歴史的に言われたことに違いないのです。やさしく、愛に満ちた人々の、愛の力、行動力の大きさなのです。愛はあらゆることを克服するのです。
  この箇所は、てんかんの子を癒すことができなかった弟子たちに変わって、主イエスがその子を癒す場面の後に出て来ます。しかし、実際はてんかんの人を癒すのはそして、弟子たちから、なぜ自分たちには癒せなかったのか、という問いの応えとして、語られるのです。

* マタイによる福音書17章14−18節
 そして彼らが群衆のところにやって来ると、一人の人が彼に近寄ってきて、彼にひざまずき、そして言った、「主よ、私の息子に憐れみを。てんかんを患い、ひどく苦しんでいるからです。息子は何度も火の中に落ち、何度も水の中に落ちました。そこで私は、息子をあなたのお弟子がたのもとへ連れてまいりました。しかし、お弟子がたは、息子を治すことがおできになりませんでした」。そこでイエスは答えて言った、「ああ、信頼のない、曲がった世代よ、いったいいつまであなたたちを我慢しようか。その子をここに、私のところに連れて来なさい」。そこでイエスが彼を叱りつけると、悪霊は彼から出て行った。そして、その子供はその時より治された。

 ここでの、 「ああ、信頼のない、曲がった世代よ」という言葉の背景には、モーセが申命記(32:5)でイスラエルの民が神さまから離れていることに対して発する言葉があります。利己的で、謙虚でなく、自立して、生きることより、養われて奴隷として生きることを望む人たちに対する失望、絶望でもあります。今なら、パレスチナの人たちを差別し、蹂躙し続けることに問題を感じなくなってしまっている一部のイスラエルの人たち、何があっても原発の利権を守ることが大切なので、人々に原発は必要だと信じ込ませようとする人たち、また、他の人たち、田舎の人たちや海や土地が犠牲になっても、原発の生み出す電気で今と変わらぬ贅沢な生活を続けたいということになんの疑問も持たない人たち、自分たちだけ救われているといい、他の人たちを見下しても疑問に思わない、そういう人にも向けられているのだと思います。
                                           2011年 6月12日  礼拝   高橋  誠日本キリスト会川崎教会牧師

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