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日本キリスト会川崎教会コミュの「あなたに罪を犯した人を諭し、赦す... 七の七十倍までとは!」

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「あなたに罪を犯した人を諭し、赦す...
                                         七の七十倍までとは!」

①マタイによる福音書18章15,21−22節
15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したならば、行って、あなたと彼だけの間で、彼を諭せ。もし彼があなたのいうことを聞くならば、あなたは自分の兄弟をかちえたのである。
21-22 その時、ペトロが近寄って来て彼に言った、「主よ、私の兄弟が私に対して罪を犯した場合、私は何度まで彼を赦すべきなのでしょうか。七度までですか」。イエスは彼に言う、「私はあなたに、七度まででよいなどとは言わない。七の七十倍までである」。

② マタイによる福音書18章16−18節
  もし彼が聞かないならば、あなたと共にもう一人か二人を連れて行け。二人、ないしは三人の証人の口で、すべてのことがらが確立されるためである。もし彼が彼らに聞き従わないならば、教会に告げよ。そして彼が教会にも聞き従わないならば、彼はあなたにとって異邦人および徴税人のようになるように。
   アーメン、私はあなたたちに言う、あなたたちが地上で結ぶところのものは、天上でも結ばれたものとなるであろう。またあなたたちが地上で解くところのものは、天上でも解かれたものとなるであろう。

③ マタイによる福音書18章19−20節
 重ねてアーメン、私はあなたたちに言う、あなたたちのうちの二人が、自分たちの願い求めることについて地上で一致するなら、それが何であれ、天におられる私の父が実現させて下さるであろう。なぜなら、私の名のもとに二人あるいは三人が集っているところでは、彼らの只中に私がいるからである。                                                                                  新約聖書翻訳委員会訳

§「神共にいまして、行く道を守り、力を与えて下さい」

  今年もはや、6月になりました。先週は寒い日が続き、また急に暑くなったりしたので、体調を崩した人たちも多かったですね。また、ニュースでは、管総理に対する不信任案が自民党から出されて、大騒ぎでした。しかし、不信任案を出したり、またそれに同調したりする動きの中で、その先の具体的な政策や、方針などが一つも語られないことに、非常に大きな問題を感じています。  
  スイスやドイツが脱原発を宣言し、日本でも危険な状況にある浜岡原発が止められ、脱原発の流れが始まっている中で、原発を導入、推進してきた自民党を中心とした政権ができるかのような動きがあったり、自民党やたちあがれ日本による「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」が31日に発足したり、またさらに大阪では、「君が代起立条例」が通ったり、一体この国の政治はどこへ行こうとしているのかと大変心配になることが多い一週間でした。
  1999年の小渕内閣の時に、当時の官房長官の野中広務を中心に作られた「国旗国歌法」が、このような形で影響を広げているのは心配ですね。この法律を作るとき、野中広務ははっきり、「国旗国歌は強要するものでも何もない」と言っていました。確かにできた法律は、第一条、国旗は日章旗とする。第二条、国歌は君が代とする」というだけですが、だんだんに違う方向に進んでいるのが心配です。民主主義の精神が忘れ去られ、数で押し切る力の政治ばかりがはびこると、人間の傲慢と慢心とを呼び、今回の原発のような問題が数多くあらわれてしまうことでしょう。

 ・讃美歌405
神共にいまして 往く道を守り、天の御糧もて 力を与えませ
荒野を往くときも あらし吹くときにも 行く手を示して たえず導きませ

  この讃美歌で歌われているように、神が共にいて、守っていてくださり、また私たち自身も神が共にいてくださることを思って生きていくことに、人としての謙虚さや、大切なものを敬う心が培われるのです。
  これの正反対が傲りと傲慢、慢心です。先日小学5年の教科書で、娘が平家物語の一部を読んでいました。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
   沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
   驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
   猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」  ...平家物語

   簡単に解説しますと、インドでのお話、釈迦が修行していたお寺、祇園精舎で亡くなり、人々が悲しみのうちに精舎(お寺)の鐘をならすが、その鐘の音もいつかは消えていく。それは、この世にあるすべてのものはそのままではありえず、必ずいつかは消えていく運命にあるというのをあらわしているのでしょうね。沙羅双樹という木は、夏の朝に美しい白い花を咲かせるけれど、この美しい花もその日の終わる頃には枯れてしまう。
  ということは、どんなに栄えたもの、繁栄したものも必ずいつかは衰えていく、という法則を私たちに示してくれているようです。
  おごり高ぶる者も、長く続くことはなく、ただ春の夢のようにはかないもの。強い者もいつかは死んでいく、まさに、風に吹かれるチリのようなものだ、ということですが、これは大変優れた人間の考察ですね。西暦1300年前後の作品ですが、現代にもしっかり繋がる知恵を感じます。
  戦後しばらくして、アメリカを離れ、日本にやってきた詩人がいます。リンドレー・ウィリアム・ハブルという人で、よほど当時のアメリカの状況に怒りを覚えていたのでしょう。特に彼は、アメリカが軍備と大きな経済的な力と共に傲った態度で強引に核実験や原子力発電の推進をしていくことに怒っていました。52才で日本に渡り、日本国籍を取り、 林秋石という日本名も得て、同志社大学などでシェイクスピアと詩とを教え、93才で天に召されるまで京都に住みました。
  1953年に船で横浜港に着いたときに、In Yokohama Harborという詩を残しています。53年は、当時の副大統領だったニクソンが来日して、「憲法九条はアメリカ合衆国にとっては間違いだった」という演説をして、自衛隊を立ち上げさせた年でもありました。


In Yokohama Harbor                                                     横浜港にて
          Lindley William Hubbell                                          リンドレー・ウィリアム・ハブル

What am I doing here,          いったい私はここで何をしているのだろう
where my people unleashed          私の民が、恐怖の時代を
the age of horror                 解き放ったこの地で

sowing the plague            私たちすべてを殺してしまう
that will kill us all?          恐ろしい病の種をまき散らすことによって?
Can I be loved?            私が愛されるとうことはあり得るだろうか?

Is it possible               可能だろうか、
this earth will not scorch            この地が、
the soles of my feet?            私の足の裏を焦がさないということは?

Lord Buddha, and Lord Christ        主なる仏陀よ、主なるキリストよ、
help me to walk               この土の上を軽やかに歩けるように
lightly on this soil.               私を助けて下さい

   この中で、my people unleashed the age of horrorとは、「私の民」すなわち、アメリカが「恐怖の時代を押さえていた鎖を切ってしまった」これもすなわち、Nuclear Age核の時代。原子爆弾を使用し、そして原子力発電でその技術を使っていこう、その際に反対勢力は力で押さえつけて黙らそうという時代をしめしています。そのような国から来た者として、ここで愛されるであろうか、というのは、大変彼にとっては切実な問いですね。


§「あなたに罪を犯した者を諭し赦す...七の七十倍までとは」

   今日の聖書箇所は、その赦しがテーマです。もちろん、先ほどのリンドレー・ハブルさん自身は、何も私たちに悪い行いはしていないのですが、それでも歴史的に、そして人間として、やってはいけないことをした同胞、国の力を思って、それはいけないことなのだ、と訴えているのです。
   さて、今日の聖書箇所を、聖書に書かれた順番ではなく、ばらばらにお読みしたのには理由があります。

①マタイによる福音書18章15,21−22節
15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したならば、行って、あなたと彼だけの間で、彼を諭せ。もし彼があなたのいうことを聞くならば、あなたは自分の兄弟をかちえたのである。
21-22 その時、ペトロが近寄って来て彼に言った、「主よ、私の兄弟が私に対して罪を犯した場合、私は何度まで彼を赦すべきなのでしょうか。七度までですか」。イエスは彼に言う、「私はあなたに、七度まででよいなどとは言わない。七の七十倍までである」。

   この部分は、大変完結で驚くべきメッセージですね。ユダヤ教では、神さまは同じ罪を三度まで赦してくれるといわれていましたが、それを七度までか、という質問をペテロがしています。七はユダヤの文化では完全数ですから、これだけでも何度でも赦すということになります。しかし、イエスはその七の七十倍までだとまでいうのです。
   しかも、赦しの条件に、改心も、謝罪も、贖罪も、何も条件を言っていないのです。このような、完結で驚くべきメッセージは、主イエスが実際に言われたことに違いありません。このメッセージの大きさに、そして極端さに、ただ、驚き、惹きつけられ、しかも生涯にわたってそれを心に留めてこの意味を考えながら生きることになるのです。
  この同じ題材を取り上げているルカによる福音書17章は、ちょっと違います。

*ルカによる福音書17章3b−4

 もしあなたの兄弟が罪を犯すならば、彼を叱るがよい。そしてもし彼が改心するなら、彼を赦してやれ。そしてもし一日に七度まであなたに対して罪を犯し、七度まで『改心します』と言いながらあなたのところへ立ち帰ってくるなら、彼を赦してやれ」。

  ここでも赦しにちゃんと「改心するなら」という条件がついています。私たちとしても、公平性とかを考えても、これは納得しやすいですよね。しかし、この方が常識的にはわかりやすいですが、インパクトには欠けます。「改心」は、ルカによる福音書のテーマですから、そのテーマに則したように編集されているのです。
  マタイによる福音書18章16−18節は、マタイの教会の問題解決のためのルールです。そのルールを、主イエスご自身が述べたものとして挿入することで、権威付けをしているのです。「もし彼が聞かないならば、あなたと共にもう一人か二人を連れて行け。二人、ないしは三人の証人の口で、すべてのことがらが確立されるためである」というのは、人間社会の知恵としては良い感じがしますね。しかし、その次の言葉、「彼が教会にも聞き従わないならば、彼はあなたにとって異邦人および徴税人のようになるように」、という呪いの言葉は、主イエスの愛、異邦人や取税人にも分け隔てしないで接した姿と相容れません。


*マタイによる福音書18章19−20節
 重ねてアーメン、私はあなたたちに言う、あなたたちのうちの二人が、自分たちの願い求めることについて地上で一致するなら、それが何であれ、天におられる私の父が実現させて下さるであろう。なぜなら、私の名のもとに二人あるいは三人が集っているところでは、彼らの只中に私がいるからである。     
  ユダヤ教では、礼拝の時に集まって共に祈る場合には、成人した男十人が必要とされていましたが、主イエスは、人数をとやかく言ったりされません。少ない人数であっても、そこに神の国の福音があるなら、私たちの只中にいてくださるのです
   最後に、もう一度21−22節をお読みして、もう一度、なぜ、主イエスは赦しの条件を課さないのかを考えたいと思います。
  
* 「主よ、私の兄弟が私に対して罪を犯した場合、私は何度まで彼を赦すべきなのでしょうか。七度までですか」。イエスは彼に言う、「私はあなたに、七度まででよいなどとは言わない。七の七十倍までである」。

  なぜだろう、と思うこと、そしてそれを課題として私たちが生涯を通じて持ち続けることに意義があるのだと思います。今、私に言えることは、もし条件をここにつけたなら、赦す側の人々は、自然にその条件に照らしてその人を赦すかどうかの判決を下す権限を持っていると思ってしまって疑わないかもしれないのです。その人が謙虚であり続けるため、また私たちが思いつく以上の神さまの愛の深さ、広さに私たちがさらに近づく希望が、私たちひとりひとりが神さまに召されるその時まで、生き続けるのです。

                                           2011年 6月 5日  礼拝   高橋  誠日本キリスト会川崎教会牧師

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