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日本キリスト会川崎教会コミュの「失われた羊のたとえ」Lk15:1-7

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「失われた羊のたとえ」

*ルカによる福音書15章1−7節

   さて、すべての徴税人と罪人とが、彼の言葉を聞くために、彼に近づいて来た。するとファリサイ人たちと律法学者たちとは、つぶやき出して言った、「こいつは罪人どもを受け入れ、彼らと一緒に食事をしている」。
 するとイエスは彼らに対して次の譬えを語り、言った、「あなたたちのうちの誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ってしまったとしたら、九十九匹を荒野に打ち棄てて、失われてしまったその一匹が見つかるまで、それを求めて歩いていかないだろうか。そして見つけたら、喜びのあまりそれを自分の肩の上にかつぎ、家の中に入るや、友人たちと近隣の者たちを呼び集め、彼らに言う、『私と一緒に喜んでくれ。失われてしまっていた私の羊を、私は見つけたのだから』。私はあなたたちに言う、改心する必要のない九十九人の義人たちよりも、改心する一人の罪人のゆえに、天においてはこのように喜びがあるだろう。
                                                                        新約聖書翻訳委員会訳
   並行箇所:マタイ18:10−14
   参考:(外典)トマスによる福音書107

§「決断」

  今日は母の日です。私たちが生まれてから、一番最初に100パーセント信頼して、命を預ける相手はお母さんですね。お父さんもがんばりますが、子供たちにとって、存在感としてもお母さんには比較になりません。私たちの話す言葉も、母語(mother tongue)といいます。まさに、母からもらった言葉です。とても大切な存在です。
  母の日は、しかし、ただカーネーションをあげる日、というわけではありません。母の日の誕生には、南北戦争の時代から、女性の参政権を得るための活動に至る、三人の女性がかかわっています。一人は、アン・ジャーヴィスという人で、この人は南北戦争の時に、Mothers’ Day Work Club(お母さんたちの昼間の仕事クラブ)という運動を始め、負傷した兵士、南軍北軍問わず、中立な立場で治療し、食べ物を食べさせ、服を着せるという運動をはじめた人です。 そして、この運動に感銘を受けた、ジュリア・ウォード・ハウという人が、1870年に夫や子供を戦場に送ることを拒否しようという運動をはじめ、Mother’s Day Proclamation(母の日宣言)を出しました。これは、国家が戦争をすることに決めて、国民を兵士として徴収することに真っ向から反対する運動ですから、大変勇気のある行動ですね。この人は、Battle Hymn of Republic(リパブリック賛歌)の詩を書いた人でもあります。女性の参政権を求める運動をした人としても知られています。
  そして、もう一人は、アン・ジャーヴィスの娘、アナ・ジャーヴィスです。母が亡くなった2日後、43才のアナは、お母さんを記念して母が好きだった白いカーネーションを献げました。そして、翌年、1908年の五月の第2日曜日に、それぞれの母を記念する日を持つことが大切だと共感した人々が教会に集い、最初の母の日を祝ったのだそうです。アナは出席した人たちに白いカーネーションをプレゼントしました。
   男性中心社会の持つ大きな問題への解決の一つが女性の、そして母親の視点であることは大切なことだと思います。これは、主イエスの福音にまっすぐにつながっています。

*マタイによる福音書5章3〜12節
幸いだ、乞食の心を持つ者たち(霊に於いて乞食である者たち/自分に誇り頼むも
のが一切ない者の意)、天の王国はその彼らのものである。
幸いだ、悲嘆にくれる者たち、その彼らこそ、慰められるであろう。
幸いだ、柔和な者たち、その彼らこそ、大地を継ぐであろう。
幸いだ、義に飢え渇く者たち、その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう。
幸いだ、憐れみ深い者たち、その彼らこそ、憐れみをうけるであろう。
幸いだ、心の清いものたち、その彼らこそ、神を見るであろう。
幸いだ、平和を造り出す者たち、その彼らこそ、神の子らと呼ばれるであろう。
幸いだ、義のゆえに迫害されてきた者たち、天の王国は彼らのものである。
幸いだ、あなたたちは。人々が私のゆえにあなたたちを罵り、迫害し、あなたたち
に敵対して、あらゆる悪しきことを言うときは。
喜んでおれ、そして小踊りせよ、あなたたちの報いは天において多いからである。
実際、彼らは、あなたたち以前の預言者たちをも、そのように迫害したのである。

   東日本大震災の起きた3月11日以降、この辺りに住んでいても、皆それぞれ様々な経験を積んでいます。 知らない人同士も、以前より、もっとお互いに声を掛け合うようになりましたね。多くの人たちが困っている人たちに手をさしのべたいと思っていることも実感しています。 社会の問題を語り合おうとする人も、行動しなくては、という人も、 もっときちんと怒るべきことは怒ろうって言う人もたくさん出て来ました。
   これは、大きな希望だと思いますね。 私たちが変わるきっかけは、それぞれの覚醒、目覚め(awakening)です。
   一昨日、管総理大臣ははじめて、勇気のある決断をしましたね。その危険性が危惧され、多くの人たちが運転を止めるように求めていた、浜岡原発を止める勧告を中部電力に出しました。   
   私たち一人一人も、今日一日生きる上で、何をするかという決断を限りなく積み重ねて、私たちの人生は成り立っています。

・「あなたは、あなたが下す日々の決断の結果に生きる」...ジェシー・ジャクスン
You will live in that consequence of that decision. Jesse Jackson

   神さまと共に人生を歩み、どのように生きるかという決断も、とても大切です。「リパブリック賛歌」に以下のような箇所があります。

・ 美しい百合の花に囲まれ、救い主は海の向こうでお生まれになりました
   あなたや私を神に似せた美しい姿に変えて下さる恵みを胸に。
   主が人々を清めるために犠牲となって死なれたのですから
   私たちも人々を自由にするために死のうではありませんか
   神が共に進撃して下さるあいだに (from the Battle Hymn of Republic)

§「失われた羊のたとえ」
  さて、ルカによる福音書は、15章に、三つの譬え話を続けて紹介しています。「失われた羊の譬」、「失われたドラクマ銀貨の譬」、そして「失われた放蕩息子の譬」です。いずれも、なくなったものを懸命に探し、見つけて喜びに満たされるおはなしですが、私たちはこれらから何を読みとることができるでしょうか。
  今日は、この失われた羊の譬を、マタイによる福音書の並行箇所などと比較しながら、読んでいきたいと思います。では、まず冒頭の部分、ここは、ルカによる福音書の編集者(以下、「ルカ」とする)が、これらの譬の意味を、ルカによる福音書が意図するように読めるよう、話した状況を設定している場面です。
*ルカによる福音書15章1−2節
 さて、すべての徴税人と罪人とが、彼の言葉を聞くために、彼に近づいて来た。するとファリサイ人たちと律法学者たちとは、つぶやきだして言った、「こいつは罪人どもを受け入れ、彼らと一緒に食事をしている」。

 ルカはこれらの譬を語った状況設定として、5章29−31節を利用しました。この譬えは、「徴税人や罪人たち」とも分け隔てなく食事を共にするイエスに対して、意義を唱えた、ファリサイ人たちと律法学者に向けられて語られたもの、という設定です。

*ルカによる福音書5章29−32節
 さて、彼のためにレビは自分の家で大きな饗宴を催した。さらに、徴税人たちやほかの者たちが大群衆となっていた。その彼らは、彼ら(イエスとレビ)と共に食事の座に横になっていたのである。するとファリサイ人たちと彼らの律法学者たちは、彼の弟子たちに対してつぶやいて言うのであった、「なにゆえお前たちは、徴税人どもや罪人らと共に食べたり飲んだりするのか」。そこでイエスは答えて彼らに対して言った、「健やかな者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちだ。私は義人たちを呼ぶためではなく、罪人たちを呼んで改心させるために(or 罪人たちを改心に向けて呼ぶために)来ているのだ」。

 この32節「私は義人たちを呼ぶためではなく、罪人たちを呼んで改心させるために来ているのだ」は、皮肉を込めた言い方です。「義人」は、文字通りの「ただしい人」を意味するのではなく、「悔い改める必要などないと思っている人、律法を守って生活する自分は正しく、ほかの者とは違う、と思っている人」を指しています。そしてもう一箇所、並行箇所のマルコによる福音書2章17節と比較すると、マルコによる福音書との違いがはっきりと表れます。

*マルコによる福音書2章17節
 「丈夫な者らに医者はいらない、いるのは患っている者たちだ。私は『義人』どもを呼ぶためではなく、『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」。

 マルコによる福音書での罪人は、主に、「地の民」(アムハアーレツ)を指していました。病人や、仕事の種類のためにユダヤ教の戒律が守れず、ユダヤ教指導者層から認められない人たち、被差別者を指していました。しかし、ルカによる福音書は、「『罪人』たちを呼ぶために来たのだ」を、「罪人たちを呼んで改心させるために来ているのだ」と変更しています。ルカによる福音書は、悔い改め(改心)の福音書といわれているように、これから語る譬を、「神が失われた人ー罪人を見つけだして救うのに、どれほど深く配慮するか、そして見つければ、どれほど大きな喜びとするかというたとえ」(三好迪)として用いています。

*ルカによる福音書15章3ー6節
 するとイエスは彼らに対して次の譬を語り、言った、「あなたたちのうちの誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ってしまったとしたら、九十九匹を荒野に打ち棄てて、失われてしまったその一匹が見つかるまで、それを求めて歩いて行かないだろうか。そして見つけたら、喜びのあまりそれを自分の肩の上にかつぎ、家の中に入るや、友人たちと近隣の者たちを呼び集め、彼らに言う、『私と一緒に喜んでくれ、失われてしまっていた私の羊を、私は見つけたのだから』。

 この譬にも、イエスの譬の特徴が良く表れています。それは、非常に身近なできごとを取り上げているにもかかわらず、驚くような展開をしている、というところです。そして、その新しい世界に聞く者を引き込んで、譬でしか言い表せないメッセージを投影するのです。「あなたたちのうちの誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ってしまったとしたら、九十九匹を荒野に打ち棄てて、失われてしまったその一匹が見つかるまで、それを求めて歩いて行かないだろうか」荒野にいて、九十九匹の羊を残していくことは、大変無謀なことです。猛獣に狙われる危険に、この九十九匹をさらすことになります。ですから、普通は、一匹が迷い出ても、九十九匹の羊を荒野に残していくことはしないのですが、イエスが語るこの羊飼いは、敢えてその危険を冒して、この失った一匹の羊を懸命に探しに行きます。そして、見つけて、大きな喜びに満たされます。
 「家の中に入る」という言葉がでてきますが、ルカによる福音書は「家」つまり、「家の教会」の教会員が読むことを意識して書かれています。

・ここで「羊飼い」は自ら「見失った」一人の「罪人」を悔い改めさせ、「家」つまり「家の教会」に連れ戻す「悔い改めの宣教者」なのである。(荒井献)

 では、7節のルカによるまとめの編集句を読んでいきましょう。

*ルカによる福音書15章7節
 私はあなたたちに言う、改心する必要のない九十九人の義人たちよりも、改心する一人の罪人のゆえに、天においてはこのような喜びがあるだろう。

 7節では、九十九匹の羊を、「改心する必要のない九十九人の義人たち」とはっきり言っています。とすると、迷い出た一匹は、見つけられた一匹の羊ということになりますが、「見つけられた」、ということは、「悔い改めた(改心する)」のとは全く違います。

・(ルカによる福音書15:7は)これは二次的な解釈であろうと推測される。なぜなら、羊も硬貨も自ら立ち戻っては(引用者注:悔い改めは)いないからである。(E.シュヴァイツァー)

 ということで、もともとの、史的イエスにまで遡るこの譬の原型の意味は、このルカによる福音書の意味合いとは大分違ったものであったと考えられます。
 では、マタイによる福音書はどうでしょうか。

*マタイ18:12−14
 あなたたちはどう思うか。もしある人に百匹の羊がいて、そのうちの一匹がさ迷い出たら、彼は九十九匹を山に放っておき、出かけていって、さ迷い出た一匹を探さないであろうか。そして、もしそれを見いだしたとなれば、アーメン、私はあなたたちに言う、さ迷い出てしまわなかった九十九匹よりも、むしろその一匹のゆえに、彼は喜ぶ。このように、これらの小さい者たちのうちの一人でも滅ぶことは、天におられるあなたたちの父の意思(おもい)ではない。

 マタイによる福音書では、「迷い出た羊」「これらの小さい者の一人(10節)」は「罪の誘惑に陥りやすい、信仰の薄い信徒」として描かれています。そして、九十九匹は、「信仰や行いのしっかりした信徒」です。そして、ルカによる福音書では九十九匹は残されていたのは荒野でしたが、マタイによる福音書では「山」になっています。マタイにとって、山は聖域で、教会を示します。ルカによる福音書の記事には「平地の説教」がありますが、マタイによる福音書5章以下の並行記事では、「山の上の説教」となっているのも、これと関係があります。ということは、九十九匹が放っておかれる場所は、安全な聖域である「山」なので、彼らを心配する必要はなくなります。
 そして、「これらの小さい者たちのうちの一人でも滅ぶことは、天におられるあなたたちの父の意思(おもい)ではない」と続きます。しかし、今日は読みませんが、このすぐ後の箇所、18章15ー18節は、この迷い出た羊である、兄弟があなたに罪を犯した場合の対処が語られていて、この譬とは大分違う、厳しい内容となっています。(その後、21ー22節では、包容力のなる言葉にもどっています。)

 ではここで、同じ伝承を扱った、グノーシス派のトマスによる福音書の箇所に触れたいと思います。トマスは、この譬も、神の国の譬として紹介しています。

*トマスによる福音書107
 イエスが言った、「御国は百匹の羊を持つ羊飼のようなものである。それらの中の一匹、最大の羊が迷い出た。その人は九十九匹を残しても、それを見つけるまで、一匹を捜した。彼は苦しみの果てに羊に言った、『私は九十九匹以上にお前を愛する』と」                                   荒井献訳

 グノーシス派の文書は、一つ一つの言葉が様々な意味を持ち、何かのメタファーであったりするので、理解しながら読んでいくのはなかなか難しいのですが、ここに非常に明解な解説があります。
・この福音書において、「迷い出た」「一匹」の「最大の羊」とは、まさにこの世や人間のからだによって疎外された人間の本質的部分、つまり人間の霊魂のメタファ(隠喩)なのである。この意味で、「トマス福音書」で(「真理の福音」の場合も同様)イエスは、「魂の救済者」なのである。(荒井献)

 これは現代に於ける深刻な問題とも、しっかり通じていて考えさせられます。
 そして、史的イエスまで遡る伝承は、このマタイによる福音書やルカによる福音書とは違い、「枠組み、舞台設定はついていなかった、と想定されている」(川島重成)のですが、そう考えると、この譬は、イエスの話しを聞いていた人々には、どのように響いたことでしょう。この譬の骨組みだけを再構成してみると、以下のように考えられます。

*あなたたちのうちの誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ってしまったとしたら、九十九匹を荒野に打ち棄てて、失われてしまったその一匹が見つかるまで、それを求めて歩いて行かないだろうか。(ここまでルカ15:4)そして、もしそれを見いだしたとなれば、むしろその一匹のゆえに、彼は喜ぶ。(マタイ18:13より)

 私には、この譬もマルコによる福音書4章の、種を蒔く人の譬のように、神の国の譬のひとつであったように思えてなりません。種を蒔く人が、一つずつ丁寧に蒔くのではなく、豪快に無駄になることも惜しまずに蒔いている姿に、誰にでも大きな恵みを与えようと手をさしのべる神の姿を見ることができるのと同じように、「九十九匹を荒野に打ち棄てて、失われてしまったその一匹が見つかるまで、それを求めて歩いて行」くほどに、深い愛情で羊を守る羊飼いである神、あるいは主イエスと、その羊が見いだされたときの、彼の底抜けの喜び。
  これほどまでにまっすぐな愛をもって私たちを(そのうちのどの一人をも)思ってくださる神を身近に感じる幸せに、これを聞いた人々は満たされたに違いない、そのように感じます。
  神の愛を受け、雷に打たれたように、ショックを受け、変わる、という経験は、人生の中で大変大きな目覚め、覚醒という経験なのです。それが、復活の主イエスとの出会いであり、自分自身も神の愛に生きるという決意なのです。

*ヨハネによる福音書15章5a節
 私が葡萄の木であり、あなたがたは枝である。人が私のうちに留まっていて、私も彼のうちに留まっているなら、この人は多くの実を結ぶ。



2011年 5月 8日  母の日礼拝   高橋  誠 日本キリスト会川崎教会牧師

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