ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本キリスト会川崎教会コミュの「神の王国と外の闇」ルカ13:22−−24

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「神の王国と外の闇」

①ルカによる福音書13:22−24
 そしてイエスは、町から町へ、村から村へとめぐり行きながら、教え続け、エルサレムに向かって歩を進めていた。
 するとある者が彼に言った、「主よ、救われる者は数少ないのですか」。すると彼は彼らに対して言った、狭い戸口を通って入るよう、必死に努めよ。なぜならば、私はあなたたちに言う、多くの人が中に入ることを求めるが、それができないからだ。

②ルカによる福音書13:25−27
  家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまった後では、あなたたちが外に立ち、『主よ、私たちに開けて下さい』と言いながら戸を叩き始めても、彼は答えてあなたたちに言うだろう、『私はお前らがどこから来たか、知らぬ』。
  その時、あなたたちは言い始めるだろう、『私たちは、あなた様の面前で食べて飲みましたし、またあなた様は私たちの大通りでお教えになりました』。すると彼は、あなたたちに語りながら言うだろう、『私はお前らがどこから来たのか、知らぬ。私から離れよ、お前たちどれもこれも不義を働く者どもよ」。

③ ルカによる福音書 13:28−33
  そこでは嘆きと歯ぎしりとがあるだろう。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてすべての預言者たちが神の王国にいるのに対し、お前たち自身は、外に投げ出されるのをお前たちが見る時は。そして人々が東から、西から、北から、南からやって来て、神の王国で食事の席に横たわるだろう。
 そして見よ、最初のものになる最後の者たちがいるだろう。そして最後の者になる最初の者たちがいるだろう」。
  まさにその時、幾人かのファリサイ人が近寄ってきて、彼に言った、「出て、ここから去ってお行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っているからです」。すると彼は彼らに言った、「行って、あの狐に言うがよい、『見よ、私は今日も明日も、悪霊どもを追い出し、癒しを行い続ける。そして三日目には、私は全うされるだろう』、と。いずれにせよ、私は今日も明日も次の日も、進まなければならない。預言者がエルサレム以外で滅びることは、あり得ないからだ。
新約聖書翻訳委員会訳

§「しっかりとした硬い岩の上に」

  イースターがあと二週間と迫りました。今年はいつもより春が来るのが遅い感じですが、桜もほぼ満開になりました。3月11日の東日本大震災から、世界がすっかり変わってしまったような感じがしますね。しかし、それでも地球は回り、時間は経ち、自然の営みも、また人々の生活も続いていきます。
  地震や津波もさることながら、福島第一原子力発電所の事故は、大変大きな問題です。原子力発電を日本で推進してきたのは、電力会社ばかりではありません。国会議員の中には、核融合エネルギー利用促進議員連盟というグループもあり、政治の主導で原子力政策は進められてきました。その中で、反対派を封じ込め、人々に原子力発電は安全だというプロパガンダを続けてきました。原発の資料館はどれも、不安を打ち消して、安全だということと、効率の良さをアピールしています。鶴見区にも電気の資料館という施設がありますが、そこの原子力のコーナーには、大きな原子力発電所をイメージした模型があり、そこでクイズが出されています。「この原子力発電所で働いている人は何人でしょう?」巨大な施設の模型に置かれている作業員の人形を見つけて数えると、3人しか働いていないのです。
  歴史を遡ってみると、「原発の安全神話」によく似ていることが歴史の中にかなりあります。第二次世界大戦では、「神風神話」という、日本不敗神話がありましたね。今から約七百年前、鎌倉時代に当時のモンゴル軍、元の軍隊が日本に攻めてきた元寇の時に、元の軍隊を日本海に吹き荒れる嵐が打ち負かした記憶から生まれた神話です。日本が負けないという根拠は何もないのですが、多くの人たちが信じました。また、第二次世界大戦で使われたゼロ式戦闘機という戦闘機にも、世界最強神話がありました。それはかなり根強く、戦後約二十年を経た私が中学生の頃にも、いかに零戦の性能が良くて強いかを力説していた友人が何人かいました。確かに軽くて性能の高い飛行機であったようですが、安全の為に必要な設備や鉄板の厚さなど、ほぼ全てを犠牲にして作り上げた為、弾が当たるとすぐに燃え上がり、ゼロ式ライターというあだ名まであったと言われています。
  1982年に、イギリスの絵本作家、レイモンド・ブリッグズがWhen The Wind Blows(風が吹くとき)という作品を発表しました。世界情勢が悪化して、戦争がはじまり、原子爆弾が使われるかも知れないという危機にある時代を生きる、 イギリスの田舎に住む老夫婦が主人公でした。実際に原子爆弾が落とされて、被爆の危険にさらされたときに、自分たちの直感や、政府から配られたパンフレットの内容を、現代の科学の粋だと信じて行動して被爆していく姿が描かれていました。悲しいまでの愚かさ、無力感に、私も少なからず衝撃を受けましたが、様々な人々の警告や告発、そして危険を指摘する声に背を向けた結果が、今度の事故を呼んだということは、しっかり反省せいしなければならないことだと思います。
  このような...神話というようなものは、盲信ですね。そして、それは大変脆いものです。家を岩の上に建てた人と、砂の上に建てた人の譬えを思い起こします。

*マタイによる福音書 7章24−28節
 だから、これらの私の言葉を聞いてそれらを行うすべての者は、自分の家を岩の上に建てた賢い人と同じであると言えよう。雨が降り、大洪水が押し寄せ、暴風が吹いてその家に襲いかかった。しかし家は崩れなかった。岩の上に礎(もとい)を据えていたからである。しかし、これらの私の言葉を聞いてもそれらを行わないすべての者は、自分の家を砂の上に建てた愚かな人と同じであると言えよう。雨が降り、大洪水が押し寄せ、暴風が吹いてその家を襲った。すると家は崩れた。そしてその崩れは、はなはだしかった」。

ダイアー・ストレイツというイギリスのロック・バンドに、Solid Rock(しっかりした硬い岩)という歌がありました。
 ・さあ、見てくれよ、オレは砂でお城を造ったんだ、
     こんなことができるまで成長したんだぜ、なんて言ってね
   わかってなかったんだな、 
     もし、このお城が壊れないで残る可能性がほとんどないってわかっていたのだとしたら、
        波が流れ込んできたとき、どうしてあんなに驚いたりしたんだろう
    オレはしっかりした硬い岩の上で暮らしたい...

このような思い込み、根拠のない主観的な信念を、ソクラテスはドクサ(臆見)と呼びました。主イエスが、私たちに教えたことは、このドクサにとらわれずに、純粋な目で神の愛、そして隣人への愛を実行することでした。当時のユダヤ教社会の人々が持っていた偏見や差別感を指摘して、それから自由に生きることを求めました。ここで大切なことは、当時のユダヤ教社会だけでなく、あらゆる人間社会の局面で、ドクサは存在するのです。
  そして、しっかりした硬い岩の上で生きる、という表現は、神と共に生きる、イエスと共に生きることを表す表現です。そして、そのように生きることが、私たちが自分をも、そして隣人をも大切に生きることにつながるのです。

*コリント人への第一の手紙6:19
  (あるいは、)あなたがたのからだは、あなたがたのうちにある聖霊の宮であること、またそれは、神から受けるもので、あなたがた自身のものではないということを、あなたがたは知らないのか。

  私自身も、神さまから受けた、大切な贈り物であること、そしてあなたも、同じように神さまから受けた大切な贈り物であること、そして神はあらゆる人々に恵みを与え、愛を注いでおられること、そして私たちにもそのように生きるように、主イエスは教えられました。

*マタイによる福音書 5:43−47節
『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。なぜならば父は、悪しき者たちの上にも、善き者たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである。
 
§「神の王国と、外の闇」

   マタイによる福音書7章14節では、「狭い門を通って入れ。なぜならば、滅びへと導く門は広く、その道は広大である。そして、そこを通って入って行く者は多い。しかし、命へと導く門はなんと狭く、その道はなんと細いことか。そしてそれを見いだす者はわずかである」、と書かれていますが、ルカでは、「狭い戸口を通って入るよう、必死に努めよ。なぜならば、私はあなたたちに言う、多くの人が中に入ることを求めるが、それができないからだ」と変化し、「家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまった」というエピソードにつながります。
 マタイによる福音書が、ユダヤ人のクリスチャン、あるいは求道者に向けて編集されているのに対し、ルカによる福音書は、異邦人社会に暮らすクリスチャンたち、異邦人のクリスチャンたちに向けて編集されています。神の民、選民であると自分たちで信じていたユダヤ教の人たちは、自分たちが選民だと思い込むだけで、神の前に立って、神に喜ばれるような生き方をしていない。神に祝宴に招かれていたのに、それを断った者たちとして描き、ルカのイエスは彼らに、「私はお前らがどこから来たのか、知らぬ。私から離れよ、お前たちどれもこれも不義を働く者どもよ」、という言葉を投げかけます。これは、詩篇6章9節、「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」という、守りたい人に悪を働く人たちを追い払う表現です。

*ルカによる福音書 13:28−30
  そこでは嘆きと歯ぎしりとがあるだろう。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてすべての預言者たちが神の王国にいるのに対し、お前たち自身は、外に投げ出されるのをお前たちが見る時は。そして人々が東から、西から、北から、南からやって来て、神の王国で食事の席に横たわるだろう。
 そして見よ、最初のものになる最後の者たちがいるだろう。そして最後の者になる最初の者たちがいるだろう」。

  ルカでは、最初に神に招かれていたユダヤの民が、その恵みを大切にせず、活かすことができない一方、主イエスの教えをまっすぐ受け容れて神と共に生きることを喜ぶ、世界中の人々が、神の王国に迎え入れられるのです。

*ルカによる福音書13:31−32
  まさにその時、幾人かのファリサイ人が近寄ってきて、彼に言った、「出て、ここから去ってお行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っているからです」。すると彼は彼らに言った、「行って、あの狐に言うがよい、『見よ、私は今日も明日も、悪霊どもを追い出し、癒しを行い続ける。そして三日目には、私は全うされるだろう』、と。いずれにせよ、私は今日も明日も次の日も、進まなければならない。預言者がエルサレム以外で滅びることは、あり得ないからだ。

  この箇所には、バプテスマのヨハネを投獄した後殺害した、ヘロデ・アンティパスと、主イエスとの歴史上の対立関係が表れているところです。ヘロデはイエスを殺そうとし、イエスはヘロデを、「あのキツネ」と表現していますが、これはずるい者、偽の預言者などを指す表現です。また、この続きは、主イエスの伝道と癒しの道が続いていくこと、そしてそれがエルサレムまで続くこと、そしてそこでの苦難と十字架の最後があり、しかもそれが神の計画であることを表しています。「いずれにせよ、私は今日も明日も次の日も、進まなければならない」、というのには、使命感が感じられますね。私たちも、いろいろなことを経験しつつも、「いずれにせよ、私は今日も明日も次の日も、進まなければならない」、しかし、その進んでいく道に、喜びが与えられ、希望が与えられることを感じます。

2011年 4月10日  礼拝   高橋  誠
  日本キリスト会川崎教会牧師

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本キリスト会川崎教会 更新情報

日本キリスト会川崎教会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング