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日本キリスト会川崎教会コミュの「正しいことを判断する」ルカ12:54−59

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「正しいことを判断する」

*ルカによる福音書 12:54−59節
 また、彼は群衆にも言うのであった、「あなたたちは、雲が西に出るのを見ると、すぐさま、『にわか雨が来るぞ』と言い、まさにそのようになる。そして南風が吹くと、あなたたちは、『熱風になるぞ』と言い、まさにそうなる。偽善者たちよ、あなたたちは、地と空との模様は吟味するすべを知っていて、どうして今のこの時は吟味するすべを知らないのか。
 また、あなたがたはなぜ、正しいことを自分自身で判断しないのか。たとえば、あなたがあなたを訴える者と共に役人のもとに行く時、その途上にあるうちに、その訴える者から解放されるように努力せよ。そうしなければ、彼はあなたを裁判官のところへ力ずくで引っ張って行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄へ投げ入れてしまうだろう。私はあなたに言う、あなたは決してそこから出て来ることはないだろう、最後の一レプトンをも払い切るまでは」。
新約聖書翻訳委員会訳

§「大きな災害」

  11日の大地震と津波の後、私たちの周りの世界は、がらっと変わってしまったような感じです。多くの人が住むところや、街や、また生命さえも失いました。今、悲しんでいる人、弱い気持ちになっている人、たくさんおられることを思います。
  このあたりでも、当たり前に使っていた電気も、電車も、不安定なものとなり、食料品を調達するのも苦労するほどとなってしまいました。実際に行われるのかどうかも定かではない「計画停電」に振り回され、店を閉めるところもたくさんあります。実際夜に停電したときには、本当に真っ暗になり、電気のない夜の室内の暗さや、街灯のない街の暗さを実感しました。星が大変きれいに見えましたし、今までの街での電気の無駄や使いすぎをも感じますね。高田英語学園は、ほとんどの生徒が休む中、停電でも来た生徒たちとはロウソクで勉強しました。とても和やかで、その時に来た生徒たちは大変楽しんでよく勉強して帰りましたが、信号のつかない暗い道を帰るのは、大変心細かったことと思います。
  このような時に、助け合い、声をかけ合い、手を差し伸べあい、また語りあい、祈りあい、励まし合うことが、どんなに私たちにとって心強いことであるかを思います。
  80年代のゴスペルの映画の傑作、「カラー・パープル」に、Maybe God is trying to tell you something.(もしかしたら、神さまはあなたに何かを語ろうとしているのかもしれませんよ)という挿入歌がありました。このようなときに人々が手を差し出し、励まし合う姿に接し、また自分もその喜びを感じ、希望を手にするとき、ああ、神さまが私たちに希望を与えて下さっているのだ、という、明るい希望のメッセージを得ることができますね。
  昨年大阪で知り合った小南さんという写真家は、「つながろう、みんな手を取り合おう。こんな時だから」、というメッセージと共に、子供たちが手を取り合う作品をウェブを通して分かち合ってくれました。台湾の林さんからも、また、30年近く前にサマー・ステューデントとして日本に来て川崎教会に滞在したシャロン・ミラーさんからも、安否の確認と励ましのメールが届きました。また、去年知り合ったシカゴのモア・ライク・クライスト・クリスチャン・フェローシップ・ミニストリーという教会のミッティー・コリア牧師からも、「あなたの教会の人たちが無事だったことを大変嬉しく思います。日本の人々に心の平和と希望が与えられますよう、お祈りしています」、というメッセージをいただきました。オバマ大統領が送り出した米国軍の救援部隊の作戦名は、「オペレーション・トモダチ」だそうです。
  「神、我らと共に」(インマヌエル)、ということをお互いに実感することができる第一歩は、お互いの思いやり、助け合い、そしてつながりですね。そしてたとえ一人であっても、神が共にいてくださる、という想いが私たちに希望を与えてくれます。

*ローマ人への手紙5:1−5
 かくして私たちは、信仰によって義とされたので、私たちの主イエス・キリストをとおして、神に対して平和な思いにひたされている。そのイエス・キリストをとおして私たちは信仰によって恵みへと至る路を獲得しているのであり、今や私たちはその恵みの中に立ち、神の栄光に与る希望を誇っている。のみならず、私たちは患難の中にあっても誇っている。それは、私たちが次のことを知っているからである。すなわち、患難は忍耐を生じさせ、忍耐は確証を、確証は希望を生じさせるということを。希望は私たちを欺くことはない。なぜならば、私たちに与えられた聖霊をとおして、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。

  先日、ある老齢の哲学者が、心の中で日々対話する相手が、実際はもうこの世を去った人たちがほとんどになった、ということを語っているのを新聞で読みました。確かに、私たちは、生きている親しい人でも、また、もう天に召された人とでも、その性格、生き方をよく理解している相手との対話を、心の中ですることができます。哲学は、ひとつひとつの事象について、例えばソクラテスなら、どのように考えるか、イマニュエル・カントならどうか、ということを飲み込んで、それらの人々との対話を再現して、その内容を吟味して、問題点を浮かび上がらせ、自分なりの考えや解決を提示しようとする、という科学的(批判的)思考の基礎ですが、私たちが聖書を読むときも、このような姿勢、手法はとても大切です。主イエスなら、これに対してどう応えるであろうか、と言うことを、いつも考えながら聖書を読むことは、本当の意味で、何が正しいのかを判断する大きな力になります。

§「正しいことを判断すること」

  さて、今日の聖書箇所の前半をまず、もう一度お読みします。

*ルカによる福音書 12:54−56節
 また、彼は群衆にも言うのであった、「あなたたちは、雲が西に出るのを見ると、すぐさま、『にわか雨が来るぞ』と言い、まさにそのようになる。そして南風が吹くと、あなたたちは、『熱風になるぞ』と言い、まさにそうなる。偽善者たちよ、あなたたちは、地と空との模様は吟味するすべを知っていて、どうして今のこの時は吟味するすべを知らないのか。

  生活の知恵として、人々が持っている天気についての知識。勘。これらは、経験や、先達からの知識の伝達によって得られるものです。熱風はハムシーンと呼ばれる、大変暑くて乾燥した熱風が吹き荒れる嵐で、それに巻き込まれないよう、人々は気をつけています。災害や干ばつなどは、旧約聖書でも、神の裁きを表すときによく使われます。そして、これら、自然界で起こることは、神の意志と捉えられていました。神の意志で起こる自然の事象をあなたたちは、予測することができるのに、もっとも大切な、神の意志である、「今のこの時」、すなわち、「神の意志によって来るべきイエスの時」を、なぜ知り得ないのか、感じ取れているはずではないか、という主張です。マタイによる福音書にも、よく似た表現があります。

*マタイによる福音書16章2−3節
 そこで彼は答えて彼らに言った、「夕方になると、あなたたちは、『明日は晴れだ、空が赤く燃えているから』、という。そして明け方には、『今日は嵐だ。空がどんよりと赤く燃えているから』、と言う。あなたたちは、空模様の見分け方は知っているのに、時の徴は見分けることができないのか。
 
  ルカの主張は、今、この時に生きる生き方を、主イエスの福音と共に生きよ、その選択をせよ、ということです。しかし、このような箇所は、例えば今のような災害や災難に遭ったときに、因果応報として、「さあ、大災害がありました。それは、あなたが、あなたたちが罪を犯しているからです」、というような、新興宗教的な脅しの勧誘に使われてきました。先ほどの、Maybe God is trying to tell you something.という表現も、そのような意味合いで使われることがあります。同様に、今度の災害を、「天罰だ」と言った政治家がいましたが、そういう主張は、主イエスにはありません。

*マタイによる福音書 5:43−45節
『あなたは、あなたの隣人を愛するであろう、そしてあなたの敵を憎むであろう』と言われたことは、あなたたちも聞いたことである。しかし、この私はあなたたちに言う、あなたたちの敵を愛せ、そしてあなたたちを迫害する者らのために祈れ。そうすればあなたたちは、天におられるあなたたちの父の子らとなるであろう。なぜならば父は、悪しき者たちの上にも、善き者たちの上にも彼の太陽を上らせ、義なる者たちの上にも不義なる者たちの上にも雨を降らせて下さるからである。

  天災も、また自然の恵みも、義しい人にも間違っている人にも、同じように起こるのです。何かうまくいかなくても、何かが穢れているとか、そういうこともないのです。
  それでもなお、神と共に生きる選択を、神の国の福音の素晴らしさに接するなら、その生き方以外は考えられないであろうに、という気持ちなのです。
  では、次のような譬え話は、どのようにとらえるべきなのでしょうか。

*ルカによる福音書6章47−49節
 私のもとに来て、私の言葉を聞き、それらを行う者はすべて、何と同じか、あなたたちに示そう。彼は、地を掘り、深くし、岩の上に土台を据えて家を建てる人と同じだ。そこで大水が氾濫し、その家に襲来した。しかし、その家が堅固に建てられていたので、それを動じさせることはできなかった。だが、私の言葉を聞いても、それらを行わない者は、土台なしに地面の上に家を建てた人と同じだ。その家に大水が襲来した。するとすぐにその家は崩れ落ちた。そしてその家の崩壊は、はなはだしいものとなった」。

  これは、譬え話で、実際に大水に遭った人たちがどうだ、と言っているのではありません。その生き方の礎として、神の国の福音、神の愛の実践があることの大切さを語っているのです。この譬え話の力点は、もちろん、後半にあるのではなく、前半にあるのです。
  続きを読みましょう。

*ルカによる福音書 12:57−59節
 また、あなたがたはなぜ、正しいことを自分自身で判断しないのか。たとえば、あなたがあなたを訴える者と共に役人のもとに行く時、その途上にあるうちに、その訴える者から解放されるように努力せよ。そうしなければ、彼はあなたを裁判官のところへ力ずくで引っ張って行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄へ投げ入れてしまうだろう。私はあなたに言う、あなたは決してそこから出て来ることはないだろう、最後の一レプトンをも払い切るまでは」。

   ルカの編集者は、当時の教会に集う人たちに対し、悔い改めて、正しく生きる選択をするよう、迫る理由があったのであろうと思います。神の裁きへの警告としての、「獄に引き渡される」というイメージは、民族が持つバビロン捕囚の記憶から来ています。そこから出してもらえない、という記述は、神の裁きによって、断罪されることの恐怖を表しています。訴える者との和解は、神の意志にそう生き方の選択、神さまとの和解を迫っているのです。滅びの道ではなく、救いの道を。
  主イエスも、そして、その教えを伝え、継承していこうとするルカも、同じ救いの道を指し示しているのですが、主イエスご自身は、その選択の大切さを恐怖ではなく、喜びに置くに違いないと思うのです。

*マルコによる福音書12章28〜34節
 すると律法学者たちの一人が近寄ってきて、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものは何でしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれだ、「聞け、イスラエルよ。われらの神なる主は、一なる主である。そこでお前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くし、お前の想いを尽くし、お前の力を尽くして愛するであろう。第二のものはこれだ、お前は、お前の隣人をお前自身として愛するであろう。これらより大いなる他の掟は存在しない」。
 そこでその律法学者は彼に言った、「みごとです、先生。主は一つであり、主を除いて他の神はありえない、と言われたのはほんとうのことです。また、心を尽くし、理解を尽くし、力を尽くして主を愛すること、そして隣人を自分自身として愛することは、すべての燔祭や犠牲よりも優れています」。そこでイエスは、彼が賢く答えたのを見て、彼に言った、「あなたは神の王国から遠くない」。
 これ以上は、誰も彼にあえてたずねようとはしなかった。

2011年 3月 20日  礼拝   高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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