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日本キリスト会川崎教会コミュの「目を覚ましていなさい」

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「目を覚ましていなさい」

① マルコによる福音書13章33−36節 
 警戒せよ、目を覚ましておれ。その定めの時がいつであるか、あなたたちは知らないからだ。それはちょうど、旅立つ一人の人が自分の家を去ろうとし、自分の僕たちのおのおのにその仕事を与えて権限を持たせる時、門番にも目覚めているようにと指示するようなものだ。だから目を覚ましておれ。家の主人がいつ来るか、夕方か、真夜中か、鶏の啼く頃か、早朝か、あなたたちは知らないからだ。彼が突然やって来て、あなたたちの眠っているところを見つけたりしないためだ。あなたたちに言うことは、すべての者に言うのだ。目を覚ましておれ」。

② ルカによる福音書12章35−40
 あなたたちの腰に帯を締めておれ。またともし火を燃やしておれ。またあなたたちは、自らの主人がいつ婚礼から帰るかと、彼を待っている人々と同じようになれ。彼がやって来て、戸口を叩く時、すぐさま彼のために開けることがためだ。幸いだ、主人がやって来た時に目を覚ましているのを見つけられる僕たちは。アーメン、私はあなたたちに言う、彼は腰に帯を締め、彼らを食事の席に横たわらせ、やって来て彼らに給仕するだろう。第二項頃(深夜頃)であれ、第三項頃(明け方近く)であれ、彼がやって来てそのように見つけるなら、幸いだ、かの者たちは。
 以下のことを知っておくがよい。つまり、家の主人は、何刻頃に泥棒がやって来るのかわかっていたら、自分の家に穴を開けられるのを許しはしなかっただろう。あなたたちもまた備えておれ。というのは、あなたたちがまさかと思う時刻に、人の子は来るからだ。   新約聖書翻訳委員会訳


§「立ち上がること、行動すること、経験から学ぶこと」

  この一週間の気候の変化は激しかったですね。真冬の寒さや雪、そして春の暖かさや突風があって、めまぐるしい気候の変化、そして季節の変化を感じます。また、ここ数週間のうちで最も大きく変わったことは、北アフリカから中東にかけての、独裁的な政権を持つイスラム諸国の民衆が雪崩のような勢いで立ち上がり始めたことです。ある人々は民主化を求め、ある人々はもっと自由を求め、ある人々は富裕層や支配層による富の独占に異を唱え、また少数の特権階級による支配に反対しています。まったく違う思惑の人々が既存の政権や腐敗の打倒に立ち上がるので、これからの舵取りが大変それぞれ難しくなるのは確実ですが、このような動きや経験は、自分たちにも変化を起こすことができるという、希望を生みます。
  これからそれぞれの国々がどのような道を進んでいくのか、まだわかりませんが、変われるということ、自分たちで変えられると知ることは、大きな希望につながります。

*マタイによる福音書7章7節
 求めよ、そうすれば与えられるであろう。探せ、そうすればあなたたちは見いだすであろう。叩け、そうすればあなたたちは開けてもらえるであろう。なぜなら、すべて求める者は手に入れ、また探す者は見いだし、また叩く者は開けてもらえるだろうからである。

  社会の中においても、コミュニティーの中においても、それぞれが役割を持ち、共に社会を作っているという実感があるなら、責任感や、人生の意義の重さ、そして喜びの質が変わってきます。主イエスの愛と希望の教えが私たちのもたらしてくれているのは、まさにこういうことなのだと思います。
  日光の東照宮に、「見ざる、 聞かざる 、言わざる」、という、三匹の猿の彫刻があります。処世術として、特に若い頃は、何か悪いことを見ても、見ないことにし、聞いても聞かなかったことにし、そういうことについて言わないようにしておけば、波風が立たない、あるいは、保身ができるという、大変後ろ向きな格言を表したものです。確かに、まだ理解できないこと、知らないために恥ずかしく思うこと、そのような失敗を防ぐ処世訓とも言えるかも知れませんが、やはり、教育者としては、「よく見なさい、よく聞きなさい、そしてしっかり語りなさい」、と伝えたいですね。(同じ徳川家ゆかりの秩父神社という神社には、「よく見て、よく聞いて、よく話す」という、お元気三猿というのがいるそうです。)
  神と共に生きると言うことは、神から受ける愛を、お互いに分かち合うことです。そして、神の正しさ、義を、追い求めることです。しかし、リビヤのカダフィー大佐のように、革命の志しは正しくとも、その自分の「正しさ」を守るために、粛正をしたり、また、多くの宗教や、政治政党がそうであるように、違う意見、違うものを排除しようとするなら、マジメで正しかったはずの自分が、神の道を踏み外してしまうのです。
   「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」、また、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」、というメッセージが、主イエスが言われたときに新しく、今も、未来にも常に新しいのは、ここに理由があります。聖書学者のJ.D.クロッサンは、次のように述べていました。

・正義は愛の体であり、愛は正義の精神である。正義と愛が分離されれば、人は倫理的に死ぬのである。愛のない正義は残虐さを生み、正義のない愛は陳腐な言葉でしかないのだ。

・パウロのような人物にとって、この二つの言葉(愛と正義)は、「キリストにあって神と共に歩む人生」という一つの現実を示している。それは私たちではなく、神が所有する世界を公平かつ公正に分かち合う人生である。

  日本では政治の低迷が続いています。人々が生きて行くには、しっかりした理想、どのような社会を作りたいかというヴィジョンをはっきり持った上で、様々な考え方を持つ人々、主義主張を持つ人々が共に協力し合うことが大切です。100パーセント同じ考え方でなければ共に行動できない、などと言っていたら、たとえ家族でも何も一緒にできなくなってしまうでしょう。日本の経済状況や、政府の財政状況などを見るなら、危機を乗り越えるためには、主義主張や仲が良い悪いというような問題を越えて、協力し合い、それぞれのよいところを最大限に活かして、立ち向かっていくことが大切なのです。


*マタイによる福音書10章16節
  見よ、この私が、狼どもの只中に羊らを遣わすようにあなたたちを遣わす。だから、蛇のように賢く、鳩のように無垢になれ。

  政治家も、きちんと聖書の言葉を学んでいたら、今日のような混乱は引き起こさないだろうに、と、残念でなりません。

§「目を覚ましていなさい」

さて、今日のテキストは、マルコの小黙示録と呼ばれる13章の最後の部分です。

*マルコによる福音書13章33節
 警戒せよ、目を覚ましておれ。その定めの時がいつであるか、あなたたちは知らないからだ。

 「警戒せよ」は、13章の5,9,23節についで、このマルコの小黙示録の締めくくりでも使われます。そして、「目を覚ましておれ」は、32節から37節までの短い箇所に4回も使って強調しています。後半に付け足される説明は、マルコによる福音書の編集の特徴(e.g. 3章29−30節)のひとつです。そして、34節からのたとえ話は、「警戒せよ、目を覚ましておれ」を補って説明を加えるための「教会の状況を示す寓喩(アレゴリー)」(川島貞雄)となっています。アレゴリーは、それぞれの登場人物やことがらが実際の人やことがらに当てはめることができるものを言います。
 
*マルコによる福音書13章34−35節
 それはちょうど、旅立つ(=天に昇る)一人の人(=イエス)が自分の家(=教会、弟子達との共同体)を去ろうとし、自分の僕たち(=弟子達、信徒)のおのおのにその仕事を与えて権限を持たせる時(=終末がせまっていても、与えられた仕事をしっかりせよ。福音を宣べ伝えよ。cf.マタイ25:14〜タラントのたとえ)、門番(=弟子達、信徒)にも目覚めているようにと指示するようなものだ。だから目を覚ましておれ(=再臨のイエスとの新たなる出会いに対する心の準備をして)。家の主人(=イエス)がいつ来るか(=いつ再臨するか、神の王国が到来するか)、夕方か、真夜中か、鶏の啼く頃か、早朝か、あなたたちは知らないからだ。(cf.ルカ12:35〜婚礼から帰る主人を待つ僕のたとえ)

 これは大変珍しいことで興味深いのですが、この箇所は、マタイによる福音書25章14節からの「タラントのたとえ」とルカによる福音書12章35節からの「婚礼から帰る主人を待つ僕のたとえ」をアレンジして書かれています。マルコによる福音書は、ルカやマタイより古く、ルカやマタイがマルコとQ資料(イエスの言葉集)を参考にして編纂しているので、普通は逆なのですが、この二つのたとえを、ルカやマタイが編集される前の伝承の形でマルコも知っていて、利用したのだと考えられます。
 そして、マルコ14〜15章の受難物語の前に、何度も強調して、「目を覚ましておれ」!先ほど、この部分の理解を「再臨のイエスとの新たなる出会いに対する心の準備をしていなさい」ということだと、いいましたが、私はもう一つ、その前の段階で、このイエスの受難と十字架による死、ということも読者にとっても大変ショックなできごとだ、ということを知って、マルコが強調しているのではないかと考えます。「目を覚ましておれ」心をしっかり開いて、この事実を受け止めよ。躓くな。「時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」(1章15節)

§ 「あなたたちがまさかと思う時刻に」

* ルカによる福音書12章40節
 以下のことを知っておくがよい。つまり、家の主人は、何刻頃に泥棒がやって来るのかわかっていたら、自分の家に穴を開けられるのを許しはしなかっただろう。あなたたちもまた備えておれ。というのは、あなたたちがまさかと思う時刻に、人の子は来るからだ。 

 それにしても、終末の到来、あるいは主の再臨を夜の泥棒に譬えるのはおもしろいですね。これについては、外典のトマスの福音書にも、「そこでわたしは言う。家の主人は盗人が来るのを知っていれば、来る前に目を覚まし、彼の支配する自分の家に押し入って財産を持ち出すようなことはさせない」(21)とあります。来るのがわかっていたら、しっかり備えるはずだ、と言う感じでしょうか。パウロも、テサロニケ人への第一の手紙では、「あなたがた自身、主の日は夜の盗人のようにしてやって来るのだということを、正確に知っている」(5:2)という表現を使っています。パウロも、この言葉を主イエスが語った言葉として、聞いていたのでしょう。パウロは「来るべき終末に備えよ」、ということについては、次のように述べています。

*ローマ人への手紙 13章11−13節
 以上のこと(「あなたの隣人をあなた自身として愛すること」など)を、あなたがたは時をわきまえつつ(なすように努めなさい)。すでにあなたがたが眠りから覚めるべき時節が来ているからである。今や、私たちの救いは、私たちが信仰に入ったときよりも、さらに近づいて来ている。夜はふけた。日が近づいてきている。それゆえに私たちは、闇の業を脱ぎ捨てようではないか。そして光の武具を身につけようではないか。日中におけるように、品位のある仕方で、私たちは歩もうではないか。

 パウロの文章からは、終末が今にも来る、という空気が伝わってきますね。そして、私たちが、争いや闘いの中に生きるのではなく、主よりたまわった愛に生きることを、勧めました。もし、現在の世界の人々が、そして国々の指導者たちが、この勧めに従ったなら、どんなに世界は変わるでしょう。
 *ヨハネによる福音書15:9
「父が私を愛したように、私もあなたがたを愛した。私の愛のうちに留まりなさい。」
  

2011年 2月20日  礼拝   高橋  誠  日本キリスト会川崎教会牧師

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